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平成9年に池田満寿夫さんが亡くなって、私が30年以上も関わってきた日本の現代版画のひとつの時代の終焉がひしひしと感じられるようになった。そこで還暦までに仕事の区切りをつけておこうと思って、郷里である富山県と新潟県の県境にある小さな町に移住して、累積した現代版画関係の資料や収集した作品の整理にあたった。東京とこの町を行ったり、来たりして、今のうちにどうしても編纂しておかなければ、うやむやになってしまうことをおそれていた世界的な銅版画の巨匠、長谷川潔のカタログ・レゾネ『長谷川潔の全版画』(玲風書房)を約2年がかりで、どうにか纏め上げることができた。また、私の為してきた仕事の概略をメモのように記録して本誌に連載した記事を『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎)という単行本として出版された。 着任した最初の1999年(平成11年)の美術展の年間計画は決まって、すでに準備が進行していた。「片岡鶴太郎展」、「竹久夢二展 U」、「現代美術の精鋭たち展」である。 |
竹久夢二展 U 片岡鶴太郎展は興行としては大成功であったが、私の仕事は主にグッツの販売の管理であった。というよりも主力は次の企画展である「竹久夢二展U」の展示構成と図録制作にとりかかっていた。 |
町の美術館の仕事を手伝うことになって,最初は補助的な協力であればお役に立つかもしれないと思っていたが,どうしても企画展の立案をしなければならない立場となってしまった。その第1号が没後20年「長谷川潔展」である。 |
この展覧会は一地方の町の小さな美術館の企画としてはすこし難解だったかもしれない。しかし私としてはぜひ実現しておきたかった重要な展覧会であった。私がこの町に居を移したのは私が活動した同時代の現代版画関係の資料を整理しておきたい目的があったからである。 |
阿部順三展 |
1978年(昭和53年)東京駅前に八重洲ブックセンター本店が開店した。4階に開店時から版画コーナーが開設され、そこの商品の供給と運営を私に任されたのである。その時に内田正泰さんの版画も取り扱うことになったが、なによりも圧倒的に人気があったのは絵はがきであった。そのうちに内田さんのアトリエを訪ねることになり、収蔵庫に厳重に保管されている「はり絵」の原作300点ほど見せていただいて驚愕した。すばらしい作品なのである。これらの作品はほとんど公開されていないという。その頃内田さんはある宗教団体の子会社であるS企画と独占契約を結んでいた。これらの原作から絵はがきや版画が制作され、市販されていたのである。絵はがきも版画もたいへん人気があって、よく売れたが、原作を見ると、その質感や発色がまるでちがっていた。この「はり絵」は和紙ではなく洋紙の色紙を使っているので、光線や時間の経過によって退色することを内田さんは極度に恐れていた。契約とこの退色の問題を抱えていたので、これまで公開できなかったのである。 |
24 年も前のことである。堀内康司さんから、一通のお手紙を頂いた。すごい絵を描く若い画家が個展をやっているので見てやってほしいという熱いメッセージがこめられていた。たしか、オープニングの日は日曜日で、思い切って、自宅から2時間もかかる埼玉県秩父市まで出かけて行った。会場は画廊というよりも食堂のようなところで、壁面には油絵の比較的小品が多く掛けられていた。これが木下晋さんの絵との最初の出合いであった。 |
この町の美術館で、町の人が誰ひとり知る人無く、県内でもほとんど知らなかったはり絵作家の内田正泰さんの展覧会を開催して、感動的な大成功を博したが、この内田さんを知ったのは,やはり八重洲ブックセンターのお店であり、私が美術館での最後の年に企画した「中島通善展」の中島通善さんもやはり、ブックセンターのお店で知りあったのである。 |
笹島喜平さんとの最初の出会いは私が26歳で笹島さんが還暦の時であった。還暦を記念して『一塵』という画文集を出版されたので、編集関係者を料理屋に招待して下さったのである。その時からしばしばアトリエにも伺うことになった。笹島さんは人生の節目々々にはきちんとご自分の仕事の歩みを確認するように、70歳では古希記念として『笹島喜平画文集』を刊行され、77歳の喜寿には全作品から77点を自選されて、東京日本橋の高島屋をはじめとして、長野や四国の松山を巡回する展覧会を開催されている。 その次は88歳の米寿で、こんどは88点の記念展を開催したいものだと、その準備にとりかかられていたが、残念ながら、それを実現する直前に他界された。 |
平成16年、町制施行50周年としての記念行事として美術館では「木下晋展」「梅津榮ありのまま展」を開催し、「梅津榮ありのまま展」の展示が終了して開会式が終えた9月18日の時点で、私はもうこれで役割を果たしたと思い、この仕事を退くことを伝えてあった。次年度の事業計画としての美術館の企画展案を具体化しなければならない時期にも来ていたのである。仕事の引継ぎのためには、後任者を就けるべきだと何度も申し上げてあったが、そのような対応は簡単にはとれないらしい。何の音沙汰もなく、翌年の1月中ごろになって、突然、町長から呼び出しを受け、もう一年、なんとか引き受けてくれないかと懇請されたのである。きちんとした展覧会企画を実現するには、所蔵家や他の美術館から重要な作品を借用しなければならない場合が多いので、二、三年前から構想を立て、すくなくとも、一年前には根回しと段通りをしっかり固めて、起案を提出する時にはすぐに具体化できる状態でなければならないのである。現場に立ちあったことのない役所の上層部にはそのようなことを理解することはできなかった。とはいっても、事態は切迫していたので、すぐに実現可能な展覧会企画をおもいめぐらし、私でないと絶対できないものを絞込み、手配を打って、ご要望にお応えすることにした。それで「中島通善展」「笹島喜平展」「殿村芳謙展」が開催されることになったのである。 |
町の美術館裏方体験記 私は予算についてはまったく触れたことがなかった。だいたい前年度の予算の範囲内で企画を構成していたのである。この仕事をお手伝いすることになって、そのことを町長に率直に申し上げてあった。私は現場の実務者であるので、管理者ではなく、一般職員として扱ってほしい。予算折衝に四苦八苦するのは私の役割ではないと念を押してあった。 それで次のような原則で企画を考えることにした。 1. 例年の予算内で可能なこと。 2. この木造の天井の低い小さな美術館の壁面に展示してもマッチする作品であること。 3. すでに評価の定まった著名な大画家の展覧会ではなく、ひとつの分野で最上級の仕事 であること。 4. 全作品から最良の作品を厳選して展示すること。 5. 企画者である私にしか絶対にできないオリジナルな展覧会であること。 6. 最低5年ぐらい継続して系統的な自分なりの世界をつくり上げること。 著名な大画家たちの展覧会は数ヶ年かけて準備しなければならない。この町の美術館のように事業計画や予算の決定が新年度直前までどうなるかわからないような不確定な行政の枠内では、他の美術館や所蔵者から広く作品を借用することは困難なのである。 |
私の美術館の仕事は掃除から始まる。開館する一時間前には出勤して、正面玄関や周りを掃除する。在職中7年間欠かさずそれを実行してきた。 私の美術館の仕事として、周りの掃除のことを書いたが、じつは郷里の町に移住して、自宅の周辺も毎朝5時前に起床して1〜2時間程欠かさず掃除することを日課としている。今でも続けているから9年ぐらいになる。したがって、自宅の周辺と美術館の周りの両方を掃除する。朝刊をゆっくり読む時間すらない。 |
企画展の開催時には開会式を行っている。招待者に案内して、通常、展覧会の初日の午前中におこなわれる。支障のないかぎり町長が出席して、テープカットがなされ、展覧会がはじまる。 |
この町の出身の彫刻家柚月芳さんが100歳で亡くなった。作品は、生前、毎年欠かさず日展に出品していたが、個展などはほとんど開催したことはなかった。1993年に町の美術館で回顧展が開催されたが、それがご縁となって、本人の遺志によって、遺作の原型55点が町に寄贈された。その寄贈作品を中心に追悼展を開催されることになったが、私がそれを担当することになったのである。 |
企画展の図録の編集はたいへん重要な仕事のひとつである。もちろん展覧会は実物の作品を展示するのであるから、実際にその作品を自分の目でみて、何かを感じることが一番大切である。芸術は感覚で感じるものであって、学問ではない。他の美術館の展覧会図録を拝見する機会も多いし、私の書庫にもうんざりするほどの展覧会図録が積み上げられている。ひと昔前からみると、年々ページ数が増えて分厚い立派なものになっている。装丁のデザインも洗練されたスマートなものになっているが、大部分は活字が小さく、専門用語を羅列した難解な文章で書かれていて読みづらいし、なかなか読む気も起こらない。実際に私が企画展を担当することになって、いちばん予算の割合を占めるのが、図録制作を含めた宣伝のための印刷物と借用する作品の輸送費である。果たして、これだけ立派な図録が必要かどうか、ある種の権威主義で、もっと簡素であってもよいのではないか。 |
私は若い頃から出版関係の仕事に関わっていたので、報道関係者の知り合いが多い。自分の画廊で、あるいは百貨店や他の施設などたくさんの展覧会を企画してきたので、それらの展覧会を成功させるのにマスコミ関係には特別の神経を使ってきた。中央では無数に催事があるので、マスコミの報道は大きな影響力をもつ。特に美術展の場合、大新聞(朝日、読売、毎日)の学芸欄にとりあげられれば、たくさんの来場者を得ることができる。とくに私の時代には朝日新聞の学芸欄がインテリ層には圧倒的な影響力を持っていた。当時の記者に聞いた話であるが、一週間の間に机の上に山ほどの展覧会の案内状が届き、その中から2〜3枚しか紹介できない。福岡や名古屋や地方都市から比べると東京は10倍以上の情報量だそうである。たいがいひとつの新聞が取り上げると他社は無視をする。しかも民間の画廊の個展などは最終日の直前ぐらいにやっと紹介するのが通例であった。こういう状況から比べると地方の公立美術館の展覧会はラジオ、テレビ、新聞は必ずといっていいほど紹介してくれる。しかし、やはり細心の注意をはらって対応しなければ、期待を裏切られることもある。 |
書家大平山濤さんは平成14年度に文化功労者として顕彰を受けられた。翌年、その記念展として「大平山濤書展」が開催されることになった。私がその担当者となった。 |
質の高い充実した美術館を運営するには学芸員の力量によって左右されると言っても過言ではない。もちろん、実力のある館長がすべてを取り仕切ることができれば最良であるけれども、残念ながら現在の公立美術館ではそのような例は多くない。どちらかというと大都市の著名な美術館は別として館長は行政側の人材を登用する。複雑な役所の人間関係の組織を動かすのにはやむをえないのかもしれない。
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町の美術館裏方体験記 朝日町立ふるさと美術館の仕事を手伝うことになってどのような事を為してきたかを私自身のための記録のメモのようなつもりで記述してきた。その7年間は今から振り返ってみると、思いがけない実りのある充実したものであった。とりわけ、年に一度は特別展や企画展において私個人ではとてもできなかった重要な展覧会を町の予算のお陰で実現させていただいた。若い頃から30年以上関わってきた日本の現代版画を世に紹介し、広めるという私の仕事の資料を整理しなければと広いスペースと時間を確保するために郷里に移住したが、その整理作業のほかにやり残していた仕事まで達成することが出来たばかりか、私の人生にとってひとつの時代をしめくくるには格好の機会となった。町のみなさんや町長さんには心から感謝しなければならない。 私の郷里の町は富山県と新潟県の境にある一握りの小さな町ではあるが、昔、関所があったり、温泉場があったり、親不知の難所のすぐ手前で、荒波が静まるまで逗留するという宿場町でもあった。そのため遊郭なども盛んとなり、文人墨客が多く出入りして培った文化的土壌から有名な文化人が輩出している。先に紹介した女優の左幸子、時枝姉妹もそうであるが、俳優梅津榮さんもそのひとりである。私は先に戦後まもなくこの町で演劇活動に情熱を燃やした阿部順三という人物の業績を発掘して展覧会を企画したが、青年の頃、その劇団の主役を演じていた梅津榮さんと阿部順三展を通じてご縁が出来た。 |