町の美術館裏方体験記

目次

私の企画した展覧会編 美術館の仕事編
朝日町ふるさと美術館 予算
鶴太郎展騒動 掃除
竹久夢二展 U 続・掃除
没後20年 長谷川潔展 開会式
現代版画の黄金時代展 作品の輸送
阿部順三展 図録(カタログ)制作について
内田正泰はり絵の世界展 マスコミ対策
下 晋展 展示
中島通善展 学芸員について
生誕100年 笹島喜平展 番外編
殿村芳謙展 左 時枝油絵展
梅津 榮ありのまま展



第1章 私の企画した展覧会


朝日町
立ふるさと美術館

平成9年に池田満寿夫さんが亡くなって、私が30年以上も関わってきた日本の現代版画のひとつの時代の終焉がひしひしと感じられるようになった。そこで還暦までに仕事の区切りをつけておこうと思って、郷里である富山県新潟県の県境にある小さな町に移住して、累積した現代版画関係の資料や収集した作品の整理にあたった。東京とこの町を行ったり、来たりして、今のうちにどうしても編纂しておかなければ、うやむやになってしまうことをおそれていた世界的な銅版画の巨匠、長谷川潔のカタログ・レゾネ『長谷川潔の全版画』(玲風書房)を約2年がかりで、どうにか纏め上げることができた。また、私の為してきた仕事の概略をメモのように記録して本誌に連載した記事を『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎)という単行本として出版された。
こうした整理作業の間に、この町に小さな美術館があることがわかり、その美術館の仕事を手伝うことになったのである。最初は私のこれまでの経験を生かして、補助的な仕事を2〜3年引き受けるつもりであったが、いろいろな事情が重なって、結局、7年間在職することになった。その在職中に主要な展覧会の企画をしなければならない立場となり、私にとっては重要ないくつかの展覧会を実現させて頂いた。その時の印象に残った体験や実感のいくつかを記録しておきたい。

 朝日町立ふるさと美術館は平成3年に開館した。元裁判所の建物と敷地が払い下げになって、それを改築、増築して生涯学習館と併設になっている。ちょうど竹下登首相がふるさと創生資金として1億円を全国の市町村にバラまいた資金が基になったそうである。
 どこの市町村でも道路や学校や図書館など一応公共施設が整って、国や県から補助金を引き出す公共事業として、次は美術館だと誰かが発想して、全国的に美術館建設に目が向っていった。そして、次々と公立美術館が開館された。この人口1万数千人の町にもその波が押し寄せてきたのである。
 いわゆる箱物の施設の建設はお金さえ出せば、建築業者はよろこんでどんな大きな美術館でも建ててくれるし、夢の設計を実現できる建築家も大歓迎である。著名な建築家に注文が殺到し、その結果、外観は立派ではあるが、実際の美術品の保管や展示の作業には不都合であり、機能がともなっていないという苦情が現場の学芸員たちからよく耳にする。さらに、美術館という建物が建ったけれども、どのような美術品を収集し、どのような特色のある美術館にするか、というソフト面では美術という奥深い価値を理解するには専門的な知識の乏しい行政のお役人では無理だろうし、良質な学芸員の確保すらむつかしい。私が手伝うことになった町の美術館は、今日、公立美術館が抱えている問題が凝縮して集約されているようなところでもあった。いや、むしろ美術館といっても名ばかりで、収蔵作品も少なく、調査や研究もお粗末なもので、文献資料なども皆無にひとしく、存立以前の町民の美術展示ギャラリーといったほうが適切かもしれない。それでも開館から関係者の努力もあって、約10年で一通りの地元の有力な画家たちの展覧会が開催されていた。
開館当初は町役場総力をあげて入館者を動員したが、その熱気も次第に薄れてなかなか人が来なくなるのが通例だろう。展覧会企画も種切れになってくる。ちょうどこのような状況の時に私が美術館の仕事を手伝うことになったのである。







鶴太郎展騒動

着任した最初の1999年(平成11年)の美術展の年間計画は決まって、すでに準備が進行していた。「片岡鶴太郎展」、「竹久夢二展 U」、「現代美術の精鋭たち展」である。
片岡鶴太郎展は詳しいいきさつは知らなかったが、町の上層部の指示で計画がすすめられたらしい。美術館の当時の女性担当学芸員は役場の主導で進められていることによほど不満であったらしく、「この展覧会は本当はやりたくないのだ」と新任早々の私に強く訴えていた。県内の美術関係者からもあちこちから「この種の展覧会は駅ビルのイベント会場かデパートの催事でやるべき展覧会だ」などと多くの批判的な声が聞こえていた。
絵の評価はあいまいでむつかしい。とくに絵を見ることの経験や知識の少ない一般の人たちに通り一遍の説明ですべての絵の良し悪しを理解させるのはきわめて困難なことなのである。美術品はできるだけ一流の良質なものをたくさん見て自分の眼力を高めてゆくしかない。自分が認めなくても、それなりの見方もあるので他の人に押し付けるわけにはゆかない。私も片岡鶴太郎展をこの公立美術館で開催することには内心は反対であった。私がこれまで関係してきた画家たちのほとんどは若い頃から絵を描くことを志し、専門教育を受け、生活と人生のすべてを賭けて苦闘している人たちである。支援してきたそういう画家たちの心情を察すれば、もし、私が人気タレントたちの余技に描いている絵の展覧会を安易に企画したとなれば、その画家たちからは背信の行為とみなされ、これまでの信用を失ってしまうだろう。年々入館者が減少してゆくことが気がかりとなっている町役場の上層部の人たちにとってはなんとしても起死回生の大ヒットの展覧会を望んでいたにちがいない。そういう気持ちもわからないではない。しかし、美術展は入館者が多ければよいというものでもない。何年か前に日本で空前の大盛況であったバーンズコレクション展はバーンズ氏がフィラデルフィアで最初にそのルノアールやセザンヌなどのコレクションを公開した時、あまりにも周囲の人たちが無理解であることに腹をたてて、それ以後、そのコレクションを非公開、非複製とし、事前に申し込んで、自分が認可した人だけにしか見せなかったという。こういう美術館の例もあるのである。入場料の収入に頼らずに運営ができるものであれば、ほんとうに見たい人だけに見せるというのがいちばん理想的な美術館ではないだろうか。教育委員会が働きかけて、学校の生徒を動員したり、観光会社に頼んで、観光客を観光バスで動員したりすれば、簡単に入館者の数を集めることができ、実績は記録される。果たして、それでよいのだろうか。

 すでに決定されて進行していた片岡鶴太郎展は主体的にはデパートの美術部とグッツ販売会社が動き、全国的に各地で開催されていて、県内では初公開であり、公立美術館では初めてであった。
結果は開館以来の記録的な大盛況で、開会式には本人も出席し、トークショウも行われ、県内各地から続々と来館者で賑わった。会期
24日間で10,000人を軽く突破した。通常であれば、1000人そこそこの入館者であるから、異例中の異例なのである。あまりにもトイレの使用者が殺到したために水洗のモーターが故障して一時使用不能となり、近くの病院まで搬送すべきではないかということまで心配しなければならなかった。グッツ売り場もてんやわんやで1000万円以上の売り上げがあったように記憶している。展覧会の内容の質を優先させるか、一般のニーズを優先させるべきか、これは、テレビ報道や週刊誌の記事内容なども抱えている難問のひとつで、関係者は頭を悩ます事柄なのであろう。






竹久夢二展 U

片岡鶴太郎展は興行としては大成功であったが、私の仕事は主にグッツの販売の管理であった。というよりも主力は次の企画展である「竹久夢二展U」の展示構成と図録制作にとりかかっていた。
聞くところによると竹久夢二作「四季の女」という屏風をこの町の美術館がかなり高額な金額で購入しており、これを披露することと、この他にもこれまで買い集めた作品を含めて公開するための展覧会だそうで、どのように構成してそれらを展示するかが課題であった。まず、収蔵庫に入って、竹久夢二のコレクションをすべて検品することから、作業を始めた。そして関連資料のすべてに目を通した。

問題の「四季の女」の六曲一隻屏風は夢二の絵にしてはきわめて濃密に描かれたなかなかの力作であった。しかも、夢二の象徴となっている夢二式美人のオンパレードである。おそらく夢ニの全作品のなかでも代表的な傑作のひとつであろう。

そのほかに「春の山」という掛け物があって、これはさらりと書かれた自画像であるが、「さだめなく……」の名句の讃が添えられており、これもなかなかの秀作であった。この自画像はまだ一般にはあまり知られていないが、紹介の仕方によっては、これも代表作のひとつとなるであろう。しかし、これらを含めても肉筆画では展示できるものは11点しかなかった。ところが、収蔵庫のなかにはまだ版画と装画本のコレクションがあって、これまた非常に充実したコレクションであったのである。

そこで、今回の展覧会ではとにかく傑作「四季の女」を大々的にクロ−ズアップしてこの展覧会の顔としてアピールし、会場の大部分は充実した版画と装画本をうまく配置して展示効果を上げることにした。結局、他所から借用したのは数点だけで、館蔵夢二コレクション約100点の展示を終えてみるとけっこう充実した展覧会となった。

 図録は基本的には展示目的に沿った意図で編集したが、「四季の女」の全体図と部分図には思い切って多くのカラ−図版で見せることにした。解説を美術評論家の瀬木慎一さんにご執筆をお願いして、開会式にご出席頂き、展示作品のひとつひとつの解説まで引き受けてもらったのである。瀬木さんとは古い知り合いで、私が郷里に移住する直前に私が八重洲ブックセンターの特設会場で開催した「小林ドンゲ展」の打ち上げをかねてドンゲさんと『版画芸術』の編集長の松山さんとで浅草の麦めし屋でお別れ会をしていただいたのである。
  とくにこの展覧会では図録の編集に力点を置き巻末には資料編として夢二が泊町の小川温泉に逗留していた時のたまきとの刀傷事件のことや富山での画会などに関する資料をできるだけ詳しく調査して集成しておいたので将来きっと参考になるにちがいない。会場での夢二関連のグッズも私の旧知の業者から多種のものを揃えてかなりの販売成績を上げることができた。この時制作した「四季の女」の絵はがきセットは魅力的なものとなった。販路と活用の仕方によっては威力を発揮するだろう。






没後20年 長谷川潔展

町の美術館の仕事を手伝うことになって,最初は補助的な協力であればお役に立つかもしれないと思っていたが,どうしても企画展の立案をしなければならない立場となってしまった。その第1号が没後20年「長谷川潔展」である。
  私はこれまでいくつかの長谷川潔展に関係してきたが今回の展覧会はわれながら会心なものになったと自己満足している。長谷川潔展ばかりでなく私が無数に開催してきた版画展のなかでもこれほど充実感を味わった展覧会はなかった。結局、長谷川潔の遺稿集『白昼に神を視る』、『長谷川潔の全版画』の編纂、そしてこの没後20年『長谷川潔展』の三つで私の長谷川潔の芸術の全容を紹介する仕事が完結したと言っていい。
 出品作品の選定は生前の長谷川潔本人から「私が今日までたくさんの作品を制作してきたが、ほんとうに完成したと納得できる作品は5〜60点ぐらいではないか」という話を聞いていたので、この展覧会はそれらの最良の作品を展示しようと思った。そのために自選の展覧会出品リストや自選画集の図版選定の資料など、書簡やあらゆる資料をチェックして代表作を選び出した。とくにマニエ−ル・ノワ−ルの作品は同じ作品の図柄であっても、刷りの良し悪しがたいへん重要なので、本人自身が確認して納入された京都国立近代美術館の所蔵作品か、横浜美術館の所蔵作品でなければならなかった。他の技法の作品も何度か修正されているため、その最終決定版の作品を見極める必要があった。幸運にも遺品を管理されていた甥の仁氏が病伏されたが、ご夫人がなくなられる前であったので、遺品の数々や新資料として原版4種も展示することができた。代表作の『時』(1969)の原版は錆びつかないようにグランドで覆われたまま保管されていたが、今回、フランスの版画研究所と連絡をとりあって、版を損なわないように取り去り、作家が彫版した生々しい版面をこの展覧会で初めて公開したのである。
  図録は市販の画集が多種あるので、通常より簡素な小冊子にした。テキストの「長谷川潔の生涯」「長谷川潔の芸術」の特色についてはできるだけ簡潔に要点だけを私が記述し、収録図版の作品すべてに短い解説文を載せた。開会式には京都国立近代美術館の島田康寛氏と横浜美術館の猿渡紀代子氏にご出席をしていただき、会場での作品の解説も二人にお願いした。両美術館は長谷川潔コレクションの二大拠点であり、日本の美術館の学芸員ではこの二人が現役では長谷川潔について第一級の優れた研究者なのである。
  NHK教育テレビ『新日曜美術館』のア−トシ−ンでこの展覧会が紹介され、また産経新聞の東京本社から渋谷和彦文化部記者が取材に来て、記名記事として紙面の半分をつかって、全国ネットで大きく報道された。もちろん県内の報道関係、新聞、テレビにも紹介され、兵庫県岩手県から、あるいは横浜から深夜バスで,東京からは飛行機で日帰りする来館者が現れた。このように全国から、県内の遠方から熱心な愛好者が訪れたが、地元の町内ではまだこの世界的版画家の存在を知る人少なく、関心度がもうひとつであったのが残念であった。また他の美術館の版画に関係する学芸員や専門家にはぜひ見てほしい展覧会でもあった。











現代版画の黄金時代展

  この展覧会は一地方の町の小さな美術館の企画としてはすこし難解だったかもしれない。しかし私としてはぜひ実現しておきたかった重要な展覧会であった。私がこの町に居を移したのは私が活動した同時代の現代版画関係の資料を整理しておきたい目的があったからである。
1960年代から1970年代にかけて日本の現代版画がめざましく興隆した熱き時代に私はジャ−ナリストとして、その第一線の現場の目撃者だったのである。したがって、機会があればこの時代の記録をぜひ義務として残しておかなければならないと思っていた。私はその私的なメモのような事実を羅列した回想を1998年から2000年にかけて本誌に連載した。それが幸運にも翌年の9月に『私がめぐりあった版画家たち』という単行本として市販された。実際にその時代に生みだされた名作や話題作はどのようなものであったか、その実作を展示して検証できる絶好の機会に恵まれたのである。私は町の美術館に『現代版画の黄金時代』という企画を提案した。じつはこの頃にはだいたいこの美術館の内情と実現可能な企画展の許容範囲がわかってきたので、この企画が拒否されれば、この仕事を辞する覚悟であった。それから、この展覧会をもし実現することができれば、この町に移住して現代版画の整理作業にあたっていた私の仕事の中核が展覧会図録として具体化されることになるのでまたとない絶好の機会であると思っていた。

出品作品の内容と構成は綿密に練り上げた。主要な作品は当時東京国際版画ビエンナーレ展を主催していた東京国立近代美術館に所蔵されており、それらの作品を前提として構成してあった。ところが、どうしたことかこの企画の許可がなかなか下りず、やっと決済が下りて、直ちに借用の交渉をしたが、不幸にしてその時にはすでに東京国立近代美術館は改修工事が始まっており、収蔵作品は貸出し不能となっていた。そのためにそれと同じ作品が所蔵されている全国の美術館や所蔵者を探し出さねばならず、かなり広域にわたって借りて回らねばならなくなってしまった。しかも乏しい予算内での輸送費の制約もあり、公式な借用許可の手続きを得て、出品を予定していた作品であるにもかかわらず、展示作品を縮小するようにと、上司の意向によって断念しなければならず、いくつかの美術館には無礼にも、途中でお断りし、準備作業としては難航し、つらい仕事となった。

 私は1970年に『現代版画のフロンティア』という展覧会を企画して札幌で開催したことが出発点となり、1971年に『プリントア−トの旗手10人展』、1974年に『現代版画の展望日本の28人展』、1976年に『現代版画の状況展』、1980年に『日本の現代版画パリ展』と版画展としてはかなり大きな展覧会を開催してきている。しかし、この郷里での『現代版画の黄金時代展』はこれまでの一連の日本の現代版画を紹介しきたものとしては、できるだけ客観的に当時を回顧して、それらの集大成としての展覧会となるように組み立てたものである。この展覧会の図録ではテキストとして「現代版画の黄金時代」を私が著述し、作品図版はすべて私が解説を付した。






阿部順三展

  私はふるさと美術館の企画として、これまで版画という特殊な自分の得意な専門分野でしかも国際的視野から日本の誇るべき美術として二つの展覧会を実現してきた。しかしこれらの展覧会は町の普通の人たちがこれまでほとんど知らない世界の紹介なので、県内外の専門家や有識者の人たちには好評であっても、かならずしも町の人たちに多くの関心を引くことがなかったようだ。町民の税金で賄われている美術展なので少しうしろめたい気持ちもあって、地元の人たちにもっとよろこんでもらえる企画がないものかと気にかけてたえず探してはいた。ところが郷里から離れて40年ちかく東京で暮らし、ほとんど帰郷しなかったこともあって、まったくこの町の芸術文化について詳しくはなかった。多少興味があってもすでに展覧会がなされていたりして、絵画として目につくものはほとんどアマチュアの域をでないものばかりであった。ある時、Mさんという郷里の先輩が東京から富山に移住してきたので、かねてから、演劇活動では伝説になっていた故阿部順三さんのお宅に同道したのがこの展覧会の企画を考える動機となった。
客室には阿部さんが生前に描いたという油絵が掛けてあって、その絵を見て、興味を持ち、その絵以外にも70点以上も描き遺していることがわかった。それらはすべて自宅周辺の空に浮かぶ雲の絵で、町の要職を退いて,晩年に集中的に描きつづけられていたのである。なぜ雲の風景画でなければならなかったのか、これらを全部展示して、その意味を提示することでおもしろい企画展が成り立つのではないかとひらめいたのである。そして、作品の所在の調査をすすめることになった。調査がすすんで意外な方向に展開することになった。雲の絵もさることながら、阿部さんの遺品のトランクの中から、戦後まもなく、この町で公演した貴重な演劇関係の資料が続々と発見されたのである。演劇は公演の終了と同時に消えてしまう。大切に仕舞ってあった台本やプログラムやチケット、そして写真アルバムの記録、日記や寄稿した原稿など、それらの資料を拝見するうちに、この貴重な文化遺産をまだ関係者が存命中の記憶にあるうちにぜひ記録しておかなければならないと強く感じたのである。そこでこの展覧会を『阿部順三展―油絵と演劇』とすることにした。
この展覧会の趣旨や詳しいいきさつについては図録のあとがきに『阿部順三さんの油絵と演劇』、また本誌(2002年 8月号)に『阿部順三さんの「雲」の絵』としてくわしく記述しておいたのでぜひそれらをお読みいただきたい。
この展覧会はこの町の、この人物にしてはじめて成り立ったユニークな展覧会であったと思う。また、たくさんの関係者から感謝の言葉が届き、実に気持ちの良い実りある展覧会でもあった。作品を出品していただいた所蔵者は40名以上にもなり、それぞれの方々から温かいご支援をいただいた。全国に散らばっていた当時の演劇に出演した人たちもこの展覧会のために帰郷し、阿部さんの功績をたたえ、偲んだ。ひとつの展覧会を企画して実現する過程で、その画家や芸術家たちの生きざまが関係者を通じて担当者にもろに伝わってくる。作品はやはり人柄、人間の心そのものであることを実感する展覧会でもあった。





内田正泰展

 1978年(昭和53年)東京駅前に八重洲ブックセンター本店が開店した。4階に開店時から版画コーナーが開設され、そこの商品の供給と運営を私に任されたのである。その時に内田正泰さんの版画も取り扱うことになったが、なによりも圧倒的に人気があったのは絵はがきであった。そのうちに内田さんのアトリエを訪ねることになり、収蔵庫に厳重に保管されている「はり絵」の原作300点ほど見せていただいて驚愕した。すばらしい作品なのである。これらの作品はほとんど公開されていないという。その頃内田さんはある宗教団体の子会社であるS企画と独占契約を結んでいた。これらの原作から絵はがきや版画が制作され、市販されていたのである。絵はがきも版画もたいへん人気があって、よく売れたが、原作を見ると、その質感や発色がまるでちがっていた。この「はり絵」は和紙ではなく洋紙の色紙を使っているので、光線や時間の経過によって退色することを内田さんは極度に恐れていた。契約とこの退色の問題を抱えていたので、これまで公開できなかったのである。
ある時、S企画の社長が、突然、脳梗塞か何かで倒れ、新規の商品開発や営業の遂行ができなくなった時に、双方から私が相談を受けることになった。詳しい契約内容や事業計画は私にはわからなかったが、私は内田さんの「はり絵」芸術は稀に見るすばらしいもので、これはぜひ多くの世の人々に知らせるべきだと考え、そこで、私は画集の刊行を内田さんにすすめた。ちょうどその頃知りあったクレオという出版社にその話を持ち込んだ。内田さんの第一画集『四季の詩』はこのような経過で実現した。そして、その出版記念展として八重洲ブックセンターの特設会場で「はり絵」の原作の代表作約
20点が版画の作品とともに公開されたのである。連日、内田ファンが続々とつめかけ、展覧会場で画集が10日間で500冊ぐらい、絵はがきが数千枚売れたのである。内田さんは毎日、横浜の自宅から会場に通って、終日、休む時間もとれないくらいサインを入れることに追われたのであった。
 私はこの時の、ものすごい熱狂的な内田ファンの反応を知っていたので、これはぜひ町の美術館で、内田さんの「はり絵」の展覧会を実現させるべきだと考えていた。幸いにして私の提案が採用された。すぐに内田さんに連絡して準備にとりかかった。500点に及ぶ全作品の中から自選の101点が選出された。そして、この展覧会にあわせて第二画集『日本の詩』も刊行されることになった。
 この展覧会の時も内田さんは美術館の近くに自費で旅館に泊こんで、一週間、美術館に通って、来館者に応対された。その時に、事前に小学校で使うような「色紙」と「やまとのり」と「白い無地のはがき」をたくさん用意しておくようにとの指示があった。内田さんは美術館の一角にある談話室に陣取って、「はり絵」の実演をはじめたのである。いつも周りに20〜30人集まって、目の前で指と爪とはさみだけで即興的に手品師のようにはがき大の作品を創り上げていった。みんな息をこらして、この制作ぶりをみつめ、完成した時には歓声をあげてよろこんだ。そればかりでなく、完成した小品を集まって見ている人たちでアミダクジをひいてあたり≠フ人にそれを無料であげてもよいということになった。このパフォーマンスがものすごい感動と反応を引き起こした。あたり≠ナ作品を受け取って、涙を流して、よろこんだお嬢さんもいた。これが口コミとなったこともあって、連日、ぞくぞくと来館者はつめかけた。内田さんがお帰りになってからも、美術館にあちこちから今度はいつ美術館に来られるかの問い合わせが殺到した。とうとう内田さんは最終の一週間も美術館の談話室でこの大サービスをして下さることになった。駅からタクシーで美術館に乗りつけた時、待ちかねていた数十人の来館者たちが拍手をもって、内田さんを迎い入れた。じつに感動的なシーンが展開されたのである。おそらく、このように作家と見る人が一体となって盛り上げた展覧会は全国の公立の大美術館では不可能であろう。そのほとんどは、権威を押し付け、少しの声も注意され、しらーと静まりかえったものがほとんどなのである。
結局、「内田正泰はり絵の世界展」は
50日の会期で4000数百人の入館者があり、図録は会期中に完売、画集は約400冊、絵はがきが6500枚、その他グリーテングカードもたくさん売れた。内田さんはこの美術館でもサービスの小品制作の実演と画集のサインに追われ、休む時間さえほとんどとることができなかった。
 この小さな町の美術館でしたが、内田さんが「はり絵」をはじめて40数年、80歳にして全国ではじめて実現できた自選の代表作を網羅した大回顧展だったのである。

この展覧会の図録には、「内田正泰さんのはり絵」 という一文をあとがきとして記述しておいたので併せてお読みいただきたい。






木下晋展

  24 年も前のことである。堀内康司さんから、一通のお手紙を頂いた。すごい絵を描く若い画家が個展をやっているので見てやってほしいという熱いメッセージがこめられていた。たしか、オープニングの日は日曜日で、思い切って、自宅から2時間もかかる埼玉県秩父市まで出かけて行った。会場は画廊というよりも食堂のようなところで、壁面には油絵の比較的小品が多く掛けられていた。これが木下晋さんの絵との最初の出合いであった。
堀内さんは元画家で、若い頃には靉嘔、池田満寿夫、真鍋博らと「実在者」という画家グループを結成して、盛んに活動していた。ある時、古本屋の壁に掛かっていた、まだまったくの無名であった池田満寿夫の絵を見て、その才能に驚き、熱心に誘って、グループに引き込んだというエピソードは有名である。

 私は町の美術館での仕事の守備範囲が次第に自分なりにはっきりわかってきたので、その潮時を考えていた。まもなく町村合併があるので、それが好期だとも思っていた。ところが合併は流れた。それどころか次年度は町制施行50周年になるという。美術館でもそれを記念する展覧会の企画をすすめてほしいという町の要望もひしひし感じとっていた。であればそれを達成して、一区切りつけようと覚悟を決めていた。進退は慎重にしなければならないと思い、熱心な美術愛好家で役所の人事に精通した富山市のH氏に相談をもちかけていたが、突然、話題が変わり、ところで木下晋展をあなたの美術館でどうか、あなたに話してみようかと思っていたと聞かされた。あまりにも唐突な話なので、その時は聞き流していたが、そのうちに、20年前の木下さんの個展の様子が蘇ってきて、私のなかで木下晋展の構想が急速にクローズアップされてきたのである。私は本人に打診し、作品の所在を調査し、展覧会の具体案を練り上げた。
 町の記念行事としての冠のついた展覧会は通常よりも予算を要求しやすいので、著名大家の展覧会になりやすい。小規模な美術館の状況をふまえて、私はあえて木下晋展を提案した。拒否されれば、直ちに職を辞するという条件をつけた。このようにして木下晋展は実現するようになったのである。
 私はそのことを長い間お会いしてない東京の堀内さんに知らせた。堀内さんは糖尿病を患って、もう何度も手術をしていて、治療中で、残念ながら、会期中に見に行けないかもしれないと聞かされた。
その体調の悪い、足の不自由な堀内さんが初日の開会式の会場で、来客用の椅子にちょこんとお座りになっていたのである。開会式の終了後、私が展示会場をご案内したところ、視力乏しい目で、それでも天眼鏡で一点一点たっぷり時間をかけて隅から隅まで熱心にご覧になっていたのでした。「池田
20世紀美術館での大きな展覧会も見たが、それよりも今回のものは充実しているね」とお褒めいただいた。
 そして、私と木下さんと堀内さんの3人は23年ぶりに再会したのであった。
この展覧会には秩父の個展に展示してあった油絵の代表作「祖母ソノ像」は神戸の所蔵者から借用し、鉛筆画の処女作「流浪」も新潟県新発田市の所蔵者から特別に出品をお願いして会場に展示されたのである。


※本展図録は会期中に完売になったが、あとがきに「木下晋さんの鉛筆画」という拙文を載せてある ので併せてお読みいただきたい。






中島通善展

この町の美術館で、町の人が誰ひとり知る人無く、県内でもほとんど知らなかったはり絵作家の内田正泰さんの展覧会を開催して、感動的な大成功を博したが、この内田さんを知ったのは,やはり八重洲ブックセンターのお店であり、私が美術館での最後の年に企画した「中島通善展」の中島通善さんもやはり、ブックセンターのお店で知りあったのである。
中島通善さんは、美術大学で学んだわけでもなく、師匠について絵を勉強したわけではない。また美術団体の画壇で活動したわけでもなく、まったくの独学で、独力で作品を発表してきたまさに一匹狼の版画家である。私は
20代の頃から、版画専門雑誌に関わり、また画廊を経営して,いろいろな版画家の作品を取り扱ってきたが、中島通善さんという名前は一度も聞いたことがなかった。
 その中島さんが,ある時、自作を抱えてブックセンターのお店に私を訪ねて来て、作品をぜひ見てほしいという。私はその時に10点ぐらい拝見した。そして驚いた。どれもすばらしい木版画なのである。それで何点かお預かりして、何人かの愛好家に購入をすすめた。そして,私もまた少しずつ買うことにしたのである。その後もしばしば、作品を注文することになったが、必ず、本人が「いい摺りのものをお持ちしました」と言って届けられた。そういう時には、必ず喫茶室で中島さんの苦心談などを聞くことにしていた。話題がまたいつもおもしろく、この版画家の仕事ぶりをしだいに理解していった。
中島さんは制作も販売も画商などに頼ることなくすべて独自で活動していたので,版画界でもほとんど知る人は無かった。私もブックセンターにいなければ、おそらく出会いはなかっただろうし、こんなにすばらしい木版画を発見することもできなかったにちがいない。

 私は1999〜2000年に町の美術館の行事として年6回「現代版画鑑賞入門」という講座を開設したことがあった。その講座では私の30年に及ぶ個人コレクションを受講者に実物で見てもらい、解説したものであったが、私が密かにコレクションしていた中島さんの作品も30点ぐらい公開した。すでに私の手元には中島さんが自分で丁寧にお作りになった作品写真アルバムや文献や紹介記事などを事あるごとに集めて,理解を深めていたが,講座の話しの参考のためにと中島さんから、NHKラジオで青木裕子アナウンサーがインタビューしたすばらしい番組のテープや雑誌の記事や他の資料などもたくさん送っていただき、ますます中島さんの作品の魅力にとりつかれて理解を深め,そして、いつかは,ぜひ中島さんの展覧会を実現したいものだと私の心の中で描くようになっていた。
しかし,私は
町制施行50周年記念展の二つの展覧会の準備を完了した時点でこれを最後に本年度限りで美術館の仕事を退くことを伝えてあった。もうすっかり,机の周りなども整理をして待機していて,中島さんにも電話で「あなたの展覧会を実現したかったが,できなくて残念だった。そのうちにまたどこかでそういう機会がありますよ」と話していたのである。ところが急転直下,町長から,もう一年なんとか続投するようにと懇請された。それで、この「中島通善展」が実現することになったのである。この展覧会の詳しい現場の報告については、本誌2006 1月号に「小さな美術館の展覧会現場から」が掲載されている。


※ 本展図録のあとがきに「中島通善さんの版木画」という文を記しておいたのであわせてお読みいただきたい。






笹島喜平展

 笹島喜平さんとの最初の出会いは私が26歳で笹島さんが還暦の時であった。還暦を記念して『一塵』という画文集を出版されたので、編集関係者を料理屋に招待して下さったのである。その時からしばしばアトリエにも伺うことになった。笹島さんは人生の節目々々にはきちんとご自分の仕事の歩みを確認するように、70歳では古希記念として『笹島喜平画文集』を刊行され、77歳の喜寿には全作品から77点を自選されて、東京日本橋の高島屋をはじめとして、長野や四国の松山を巡回する展覧会を開催されている。 その次は88歳の米寿で、こんどは88点の記念展を開催したいものだと、その準備にとりかかられていたが、残念ながら、それを実現する直前に他界された。
 私は若い頃に画廊を経営していたことがあって、その頃に笹島さんの個展を2度開催させていただいている。私の発行していた『Print Art』という雑誌に笹島喜平特集を組ませていただいたりして何かにつけて私の仕事を応援して下さった。
 79歳の時に、突然、府中から郷里の益子に転居された。じつはそれまでも私は笹島さんのアトリエを訪ねる度にプライベート・コレクションとして笹島さんの作品を少しずつ購入して集めていたのである。しかし,これからは遠くの益子まで足を伸ばすのがたいへんになるので,困ったことになったと思ったが,これからも購入しつづけようと、密かにに決心して,3ヶ月に一度ほど、作品を注文して、益子までそれを戴きに行くことにしたのである。すでに手に入れることが難しそうな代表作品を数点事前に知らせしておくと、刷り上った時に私に電話で連絡が入るのである。ほとんどは日曜日で、その日の11時ごろまで、アトリエに伺うことになっていた。それが暗黙の慣行になっていて、最初は近況報告、そして作品の受け渡し、それが終わると近くの「古陶里」というレストランで食事、次は喫茶で雑談、といった具合で、とうとうお亡くなりになるまで7年ぐらい通い続けたのである。
 私の手元には150点以上の笹島コレクションができた。そのほとんどは私のために刷って下さったもので,笹島さんから直接私に手渡されたものである。笹島さんに関する文献や資料も40年ちかく目を通して集めていたので、私なりの独自の展覧会を開催したいものだと温めていたし、笹島さんが準備をすすめていた米寿を記念する展覧会ができなかったこともあって、いつかはそれを実現してあげたいという気持ちもあって、その機会の到来を待ち望んでいた。
 それが生誕100年というまたとない機会に北陸の小さな町の美術館で実現したのである。出品作品のほとんどは私のコレクションを展示してもよかったが、ほとんど額装されていないのと、公的機関で私の個人的なコレクションを宣伝するは立場上気がひけたこともあり、また88点を全作品からの選定をより完璧をきすために益子陶芸美術館とギャラリーみそのさんに協力していただくことになった。
 この展覧会は笹島喜平さんにおける私の40年間の総決算であり、たいへん重要な展覧会であった。この展覧会の図録には「笹島喜平の生涯」「笹島喜平の芸業」として私の笹島喜平芸術についての所感を述べ、「笹島喜平の言葉(1)」「笹島喜平の言葉(2
を編成し、あとがきにも一文を記述しておいたので、それらもぜひお読みいただきたい。






殿村芳謙展

  平成16年、町制施行50周年としての記念行事として美術館では「木下晋展」「梅津榮ありのまま展」を開催し、「梅津榮ありのまま展」の展示が終了して開会式が終えた918日の時点で、私はもうこれで役割を果たしたと思い、この仕事を退くことを伝えてあった。次年度の事業計画としての美術館の企画展案を具体化しなければならない時期にも来ていたのである。仕事の引継ぎのためには、後任者を就けるべきだと何度も申し上げてあったが、そのような対応は簡単にはとれないらしい。何の音沙汰もなく、翌年の1月中ごろになって、突然、町長から呼び出しを受け、もう一年、なんとか引き受けてくれないかと懇請されたのである。きちんとした展覧会企画を実現するには、所蔵家や他の美術館から重要な作品を借用しなければならない場合が多いので、二、三年前から構想を立て、すくなくとも、一年前には根回しと段通りをしっかり固めて、起案を提出する時にはすぐに具体化できる状態でなければならないのである。現場に立ちあったことのない役所の上層部にはそのようなことを理解することはできなかった。とはいっても、事態は切迫していたので、すぐに実現可能な展覧会企画をおもいめぐらし、私でないと絶対できないものを絞込み、手配を打って、ご要望にお応えすることにした。それで「中島通善展」「笹島喜平展」「殿村芳謙展」が開催されることになったのである。
 「中島通善展」「笹島喜平展」の趣旨やいきさつについては前に記述したが、私の専門は現代版画なので、年間の主要企画はすべて版画展とし、しかも木版画展でまとめあげた。
殿村芳謙さんは私が住んでいる自宅の近所に木彫の仕事場があって、駅に行ったり、買い物に出かける時には必ずその前を通ることになる。ガラス越しに額装の自作の木版画が数点いつも置いてあるので、時折、立ち寄って、見せていただいたり、お話を聞いたりした。それがご縁で、ある時、代表作の数点を美術館に寄贈したいと申し出られた。私はその中の一点、「山門」という作品は白黒の木版画であるけれども、これはすばらしい作品であると注目して、町の広報に紹介した。そして、私は美術館での最後の仕事をこの地元の老版画家の「殿村芳謙展」でしめくくることにしたのである。
殿村さんは
85歳になる。今、もうこの機会を逃がしたら、この小さな町の片隅で永年にわたって、こつこつと創りあげてきた仕事の全容が知られること無く、きっと時の経過とともに闇の中に消えていってしまうだろうと私は危惧していた。
この町では
富山県の福光に棟方志功が疎開していたこともあって、故間部善治さんや殿村さんが中心になって、木版画が盛んであった。有望な若い版画家も台頭してきている。そこで、殿村さんを説得するために仕事場に出かけて、殿村さんに美術館で展覧会をやりませんか、殿村さんがおやりにならないと、後に続く人たちがあなたを飛び越えてやるわけにはゆかないので困っているのですよ。と申し上げた。しかし、広い会場に展示できるだけの作品が揃うかどうか、と言って、即答されなかった。その時、仕事場に2,3枚の欄間が立てかけてあった。私は即座に、木彫の作品もお並べになったらどうでしょう。とくにこの欄間も。ちょうど同席されていたお弟子さんも大賛成で、話は決まった。それでこの展覧会のサブタイトルを「木版画と木彫」とすることになった。
 殿村さんの本業は木彫である。戦後はずっと欄間彫刻で生計をたてられていた。したがって、プロの職人さんなのである。私は長い間、たくさんの版画家と交流してきた。その大部分は美術大学で専門の課程を学んできた人たちである。そして、そのうちでプロの版画家として生計を立てて行ける人は皆無と言ってもよかった。どちらかというと、理屈は達者であるけれども、意識や制作態度はアマチュアなのである。富山県の井波の欄間彫刻は全国的には有名であるけれども、呉東地域ではもう欄間職人はいなくなっている。私は殿村さんの版画に注目したのは先に記したように白黒木版画の「山門」という作品である。白黒版画は簡素であるけれども、絵がしっかり構成されていなければならないし、作画の破綻や技術の稚拙さがもろに画面に出てくる。「山門」はすべてがパーフェクトなのである。とくに彫版の刀の切れ味は見事であった。このような芸当は長年修練を積んだまさにプロの職人の技術でなければけっしてできないだろう。現在、国宝となっている昔の仏像を彫る仏師たちも、寺院の宮大工もみな職人であった。殿村さん本人は、私は単なる職人ではなく、芸術家なのだという自負心が会話のなかで見え隠れしていたが、私は今度の展覧会ではもう廃れつつある貴重な職人技をぜひ見てもらうべきだと考えていた。
 展覧会のための出品作品のリストアップがなされた。版画制作は40歳ごろから制作されていて、45年ぐらいになっているが、ほとんど年1回、版画団体「日本版画会」のための出品作であった。
 問題は木彫作品である。木彫作品のほとんどは注文作品である。欄間の代表作「水浪に鯉」は50年も前の制作であるが、現在も料亭の客間に据えてある。取り外して展示するには代替物を用意しなければならない。ひとつひとつ難問を解決しながら準備をすすめた。いちいち現物を確認して廻るのは困難である。写真を拝見して、本人の記憶に頼って集め、ぶっつけ本番でゆくしかない。
こんなこともあった。木彫の代表作の「松鯉」「残月一声」は所有者に所在を確かめたけれども、主人は病伏中で、娘さんに問い合わせた。しばらくして、蔵やそのほか家中を探したけれども見つからない。と返事があった。お宅にあるものは殿村さんの代表作で自信作であるから、なんとかもういちど探してくださいと懇願した。数日後、「ありました。玄関の正面に置いてありました。いつも見ている家具だとばかり思っていたものですから」と連絡が入ったのである。

 作品はすべて、集荷され、展示がなされた。本人に来ていただいて会場を見ていただいたが、ずっと座り込んで,かなりの長時間,じっと会場を眺めて,動かれなかった。これまで、自作を系統的に配列して全部並べて見たことがなかったのである。全仕事に囲まれて、万感のおもいであったにちがいない。
 展覧会は大成功であった。展示作品を買い求めたいという鑑賞者が続出した。


※ 本展図録に「殿村芳謙さんの木版画と木彫」というあとがきを記しておいたので併せてお読みいただきたい。







町の美術館裏方体験記 

第2章 美術館の仕事編

予算

私は予算についてはまったく触れたことがなかった。だいたい前年度の予算の範囲内で企画を構成していたのである。この仕事をお手伝いすることになって、そのことを町長に率直に申し上げてあった。私は現場の実務者であるので、管理者ではなく、一般職員として扱ってほしい。予算折衝に四苦八苦するのは私の役割ではないと念を押してあった。
美術館は財団法人朝日町文化・体育振興公社によって管理されていた。しかし、実質は町役場が運営しているのである。館長は施設長か教育長の兼務で事務長は役場から出向してきている。私が就任中7年間に8回ぐらいくるくる館長が代わっていた。事務長も5人も交代している。館長は美術館には展覧会の開会式か財団の総会ぐらいしか顔を出さない。したがって常勤しているのは役場の課長級の事務長である。まったくといっていいくらい現場の実務にタッチしていないので実情がわからない。また前の担当であった建設課であるとか税務課などから派遣されてくるので、美術界の情勢や専門的な知識については話にならないくらい無知なのである。開館当初から女性の学芸員がひとりいて、美術館の実務はほとんどその学芸員に任されていて、主導的な役割を果たしていた。私は最初の年は見習いで、あるいはそのつもりで補助的な仕事をこなしていたが、2年目から自主企画をやらざるをえなくなり、年一度は自主企画として特別展を実現していった。4年目から、女性学芸員が役場に出向になったので、年間6回の展覧会やその他の美術館のすべての実務は私に任されることになってしまった。
したがって、展覧会の年間企画を立てること、作品の調査,展覧会図録や宣伝物の制作,作家や他の美術館や作品の所蔵家との交渉や作品の集荷、展示作業、開会式や講演会の準備,広報の文章作成、会場での説明、報道関係の対応、宣伝物の配布、町内全域のポスター配り、友の会の業務、販売物の管理、施設の管理、清掃,時には受付業務など、結局、美術館の全実務は私一人と受付のパートの女性たち(
3人の交替勤務)だけで切り回していたのが実態であった。はっきり言えば、最小限の臨時職員だけで美術館の実務をこなしていたのである。財団の職員としては10名ぐらいいたが、体育館が5名で埋蔵文化財担当が2名、総務が2名と私である。他の業務のことはわからないが、美術館の仕事は美術についてある程度の知識がないとスタッフとしては使いものにならない。ましてや他の業務の担当者に協力を要請しても、役所的な常識では臨機応変に使うこともできないし、仕事に熱意がないから、むしろ、障害になってくる。昼食時の受付業務を職員で交替していたこともあったが、廃止してしまった。私が企画したある展覧会で、作家が逗留して、美術館の会場に一週間詰めて、来館者に応対したことがあったが、元教師であったこの作家はこうした状況を察知して、館長に美術館の職員からは働く意欲がまったく感じられないという意見書が提出されたこともあったくらいである。
事務長の美術館の仕事といえば、展覧会における開会式の手配と予算案の作成と折衝である。これはお役人特有のテクニックが必要なようである。毎年、
11月から年末にかけて、次年度の事業計画案と予算がなかなか決まらないので、やきもきしていたが、今になって振り返って見れば、前例に従った微調整でほぼ予算額は平均して決定されていた。それでも町の規模からすれば、あるいは他の県内の市町村のレベルからみてもかなり奮発していたように思われる。民間の個人美術館では固定的な施設の管理費や人件費のほかになかなかこのような継続的な出費はそうはできないと思う。そのお陰で個人ではとても刊行することのできないやがて参考になる立派な意義ある展覧会図録がいくつも制作して残すことができた。
本来ならば、事業計画が先にあって、その事業の内容によって、予算が組まれるべきなのだが、この町の美術館の場合はお金のかかる予算のほとんどは企画展にあてられていて、年々パターン化されてしまっている。年間の展覧会としては「ふるさと美術館」という名称のとおり、町にゆかりのある作家の展覧会がほとんどであるが、年に一回ぐらいは特別展として町に関係がなくても、一般的な話題性があり、内容のあるものとして企画されていた。そのほかには企画展、郷土作家企画展、館蔵品企画展、常設展となっている。特別展と企画展以外は、前例に従ってほぼ定額の予算で賄われていたが、問題はその年のメインとなる企画展の内容である。私の主たる任務はそれにあるのだろうと自覚はしていたが、現実にこの町の置かれている状況をつぶさに観察してみると、とても理想に描いているような展覧会の実現は難しい。もちろん予算の制約もあるが、美術を理解できるレベルの問題もあり、税金で賄われている公立の美術館では企画者の個人的な趣向を押し付けるわけにもゆかず、郷に入っては、郷に従え=Aあるいはひとを見て法をとけ≠ニいう言葉があるように私がこれまで為してきた仕事のように美術専門家や熱心な愛好家だけを相手にしてきたようなわけにはいかないことが、ひしひしと解ってきた。そこで、私は在任中にどのような展覧会をこの小さな町の美術館で開催するかが最大の課題となったのである。

 それで次のような原則で企画を考えることにした。

1.  例年の予算内で可能なこと。

2.  この木造の天井の低い小さな美術館の壁面に展示してもマッチする作品であること。

3.  すでに評価の定まった著名な大画家の展覧会ではなく、ひとつの分野で最上級の仕事

であること。

4.   全作品から最良の作品を厳選して展示すること。

5.   企画者である私にしか絶対にできないオリジナルな展覧会であること。

6.    最低5年ぐらい継続して系統的な自分なりの世界をつくり上げること。

 著名な大画家たちの展覧会は数ヶ年かけて準備しなければならない。この町の美術館のように事業計画や予算の決定が新年度直前までどうなるかわからないような不確定な行政の枠内では、他の美術館や所蔵者から広く作品を借用することは困難なのである。
したがって、全国でもっとも規模の小さい美術館であるけれども、他の美術館では真似ることができない最良の展覧会となるよう心がけた。


掃除

 私の美術館の仕事は掃除から始まる。開館する一時間前には出勤して、正面玄関や周りを掃除する。在職中7年間欠かさずそれを実行してきた。
最初、美術館の仕事といっても何からはじめたらよいのか、まったく事情がのみこめない時に、小さな施設ではあるが、全体を把握するために、展示室や収蔵庫の図面を見て、広さや照明の電源の配置なども何度も確認して、庭の樹々の種類までも写真を撮って、頭に焼き付けようと心掛けた。今になってみれば、このようなことは日々の業務の経験を積み重ねれば自然に解ってくるものであるが、即戦力の期待に応えるためにはそうせざるを得ない心理状態だったのかもしれない。その時に、まず気が付いたのは美術館の周りや正面玄関前に敷き詰められていたレンガの床の隙間から雑草が生えていたり、肝心の「
朝日町ふるさと美術館」という看板の文字が錆付いたり剥落していたり、建物の大きなガラス面が汚れて曇っていたりしていたことであった。
私はこれまでの人生経験で、お店や会社が、内容が充実していて繁盛しているかどうかは、そのお店や会社の外見を一瞥して直感的にわかるような気がしていた。例えばお客を迎えるために開店前の店先をきれいに掃き清めて水打ちをしてある料理屋であるとか、会社のビルがいつも清楚に外装されていて、車庫などの周りが整備されて、あるべきところに物がきちんと配置されて手入れの行き届いているところの社屋は光って見える。

光っている外見は店主や会社の経営者の人間性とか心が反映されているのである。愛情をもって手間ひまをおしまず、手入れが行き届いているかどうかなのである。衰退している施設はそうではない。人が住まなくなってしまった家がみるみるうちに廃墟化する様などもよい例である。

 私はまず美術館の仕事は周りの掃除からはじめ、それを日課としようと決心した。美術館の看板の文字の錆びも落とし、ペンキが剥落したところももきれいに塗り直した。
美術館の外周りには池があって鯉が泳いでいる。花壇もけっこうあって、裏側には植木を配置した庭もある。これらの手入れもたいへんなのである。
 池はひどく汚れていた。泳いでいる鯉の姿が見えないくらいひどかった。鯉の飼育は経験がない。他のスタッフもほとんど無知であった。偶然にも私の自宅の近所にいつも鯉の世話をしているおじいさんがいて、手土産にお酒を持参して、苦労話をうかがってきた。餌の与え方や注意すべきこともすこしわかった。おじいさんの感想では池は浅すぎて鯉を飼うにはふさわしくないということであった。
 美術館の建築は切妻屋根の木のあたたかみを生かしたすばらしいものであるのだが、庭の池は鯉を飼うにはふさわしいものではないことがわかったし、傍に植えてある松の木は根の行き場がなくて敷き詰めたレンガを盛り上げて浮かせてしまっている。つまり、見た目のデザインがなかなかよいのであるが、この設計者は鯉も松も知らないで設計している実態がわかりかけてきた。
 美術館のスタッフもこれまで掃除をしなかったわけではない。展覧会の開会式の前日であるとか、なにか行事のある時にはやっているのである。しかし、上司から命じられてやっていることには身が入っていない。水の撒き方ひとつでもしかたがないからいやいややっているのがよくわかる。偉い人が来て、注意されると困るからという理由だけで作業をしているのである。また年に数回、業者に依頼してガラス拭きや清掃作業をしている。これらもまた形式的で、作業の終えた後、責任者がやってきて、報告する写真撮影だけは真剣である。おそらく、公共施設の管理はどこもこのようなものかもしれない。
 とにかく、ドロドロになった池をきれいにするために、急激な環境の変化は鯉にも良くないので、少しずつ水を放水して、朝と昼にこの作業をこなし、鯉の姿や池の底がきれいに透き通って見えるまでに三年の月日がかかった。
 ここに就職したのは掃除をするためではない。自分はもっと有能なのだから、掃除は誰かにやらせて、自分はもっと重要な仕事をすべきなのだという声が聞こえてくる。しかし、私はこの一見ムダなことがきわめて大切なことであると思っている。
 池の水がきれいに透き通って鯉の姿がはっきりみえるようになり、元気に泳ぎ廻っている。日々、このような作業をしているうちに、周囲の環境が少しずつ変わってきたことに気付きはじめた。まず、近所に住む親子がやって来て、鯉の泳ぐ様子を見に来た。このような時、子供にすかさず手元にある餌を渡して、餌に食いつく鯉の姿を見て、よろこばせる。そのうち、子供は仲間を連れてきて、次第に賑やかになる。時には小遣いで美術館の入場券を買って入館するようなこともおこってきた。また、美術館の隣に立派な邸宅を新築して間もなく、ご主人を亡くして一人暮らしとなったおばあさんが、毎日、家の中で、ひとりぽつんと座っていても気が滅入るので、この池のベンチに座って鯉の動く様子を見ていると気が休まるといって、鯉の鑑賞者の常連のひとりとなった。そのうちに近くの保育所がたくさんの子供を連れて来るようになった。美術館の来館者も池の鯉を見てくれるようになり、時には「この池は手入れが行き届いているね。鯉の世話は手がかかるんだよね」と褒めて下さる方もでてくるようになった。
以前、事務所から「池の掃除と鯉の世話はたいへんだから、池を埋めて花でも植えればよいのに」という声が聞こえてきたことがある。また「美術館の展覧会企画はたいへんだし、入館者も少ないから貸しホールにしてしまえ」という声も聞こえてきた。これらは同じ発想と意識なのである。常識ではこのような考えは合理的でムダを省いているようだが、こういう考え方では発展が望めない。

 要するに心が入っていないのだ。掃除もただ上面をきれいにすればよいというものではない。草刈り機でジャーンとやれば簡単に刈り取れる。除草剤を撒けば一挙に解決するかもしれない。しかし、一本一本心を込めて抜き取ったものとはどこかが違うのだ。芸術も同じなのだ。この違いがわからぬ人にいくら名画を見せても理解してもらうのは無理だろう。

掃除(続)

 私の美術館の仕事として、周りの掃除のことを書いたが、じつは郷里の町に移住して、自宅の周辺も毎朝5時前に起床して12時間程欠かさず掃除することを日課としている。今でも続けているから9年ぐらいになる。したがって、自宅の周辺と美術館の周りの両方を掃除する。朝刊をゆっくり読む時間すらない。
 私が30歳を過ぎた頃に過労と心労が重なって肝臓病を患ったことがある。独立して事業を興したのであまりにも夢中になって働き過ぎたのだ。それを機に生活習慣を一変させた。仕事でのお客や画家たちを接待するための夜の交際を一切やめて、朝まだ暗いうちに起床して近くの公園の周りを軽いジョキングで3 周する。さらに公園の中で年寄りグループに混じってラジオ体操をこなして帰宅し、それから朝食をとるという日課を25年ほどずっと励行してきた。病気を治すにはできるだけ日の出から日没まで自然の運行に身を任せる生活が大切であるということ自覚して、それを持続することに努めた。幸いにして、以来、肝臓病の方はすっかり治ってしまった。
 郷里に移住したというのも自然へ回帰したいという強い願望が意識の底にあったためでもあったのだろう。早起きは習慣になっているので、こちらでは海岸まで散歩することにした。早朝の海岸は静かできれいな空気で気持ちがいい。しかし、数日で、ただ歩くだけでは単調すぎるので携帯ラジオを持参してラジオ体操をすることにした。これもなかなか気持ちがいいにちがいがなかったが、広大な海辺でポツンと一人きりでラジオ体操をするのもしばらくすると張り合いがなくなってしまう。このような時に自宅から海岸までの道、とりわけ自宅周辺の歩道と車道にはゴミが散乱していてひどく汚れていることが目についた。とくに階段になっている所の脇に雑草が生え、紙やビニールのゴミで足の踏み場もないくらいであった。ある時、決心をして、その階段をきれいに掃除した。ぴかぴかになった。ところがそのきれいになった所と汚い他の所があまりにも落差があり過ぎて、周囲がいっそう汚く感じられるようになった。そこで少しずつ掃除の範囲を延長していったが、とうとう300mの歩道の両側と同じく車道の両側のすべてを掃き清めることになったのである。当初の早朝のウォーキングと体操が掃除に置き換わったが、掃除もけっこう運動になることやさわやかな気持ちになることを実感している。今では時折ウォーキングに無心に黙々と励んでいる人を見かけると、自分だけのための事ではなく、掃除の方がもっと工夫と変化があり、みんなによろこんでもらえるのに、と掃除をすすめたくなっている。
 掃除の哲学というか効用についてはいくつかの例を知らないわけではなかった。禅宗の修行僧における行住座臥の作務としての掃除、京都の一燈園の創始者西田天香の便所掃除、実践哲学者の森信三のゴミ拾い、イエローハットの鍵山秀三郎の掃除哲学などは書物を通じて常々感銘を受けていたのである。一貫して共通するところは下座の行、つまり、謙虚に目線を低く置いて、実践を大切にし、場を清め、小さなことでも積み重ねて習慣化することである。


開会式

企画展の開催時には開会式を行っている。招待者に案内して、通常、展覧会の初日の午前中におこなわれる。支障のないかぎり町長が出席して、テープカットがなされ、展覧会がはじまる。
私がこの美術館の仕事をお手伝いして最初に独自の企画として実現したのが没後20年「長谷川潔展」であった。長谷川潔は27歳の時にフランスに渡って、没するまで一度も故国に帰らなかった画家である。ましてや没後20年を記念した展覧会なのである。日本での親族はほとんどいないに等しい。一番近い身寄りは甥の長谷川仁さんであるが、病伏状態である。したがって、開会式には出席されなかった。そこで作品を借用した京都国立近代美術館と横浜美術館から出席してもらうことにした。前例に従って、開会式の招待状を印刷して、規定の招待者名簿に従って、発送した。ところがである、開会式の10分前になっても出席者がパラパラとしか集まらないのである。これはたいへんだ、と一瞬背筋が寒くなった。私は長谷川潔の展覧会はすでに何度か開催しているので熱心な愛好家であるとか、関係者はたくさん知っていた。しかし、ほとんど東京中心なので、招待することをためらった。町が主催する展覧会であって、私が主催しているわけではないのだ。社会的地位のあるたくさんの関係者がこの町に来てくれたとしても、町としても対応に困るだろうという心配もあって、遠慮したのである。しかし、その時は、間際になって、駆け込んだ人たちや、内部の関係者で、どうにか用意した座席がなんとか埋まったのでほっとした。
問題は招待者名簿にあると思った。これまでの招待者名簿は美術館というよりも役場の関係者で作成したもので、対象は県知事をはじめとして県内の市町村の首長であるとか、役職者たちがほとんどなのである。長谷川潔は美術界ではすでに世界的な巨匠として有名であったとしても、この町では知る人はなく、ましてや、行政にたずさわる偉い人たちはほとんど出席しないのである。別の展覧会の開会式でも招待者の出席が少なくて、職員が席に座ったり、夜間管理のおじさんや清掃のおばさんや学習館の講習者を動員したりしてカバーしているのが実情であった。どうしてこういうことになるのか、最初は町民の無関心だろうと安易に見ていたが、実際に担当者になってみると、出席者が少ないと展覧会の当事者の画家や関係者に申し訳なく、やはり、賑やかな開会式にしたいのである。そこで、この原因は役所特有のお伺いの形式的な招待者名簿作りの工程にあることが私にわかってきた。つまるところ,町長にお伺いの書類がまわって,なぜこの人を招待するのかと言われたくないのである。それで関係機関の役職者の序列招待者になってしまうのだ。町の行事としては当然のことかもしれない。しかし、これでは人が集まらない。また,町役場関係者だけの儀式で,展覧会の準備に協力してくれた人たちや町民のためのものになっていないように思えた。そこで私は最初のこの衝撃的な経験から,お伺いは形式的にすすめるが、実際には無視して、私なりの出席者を集める方法を考案して実行することにした。それ以後徐々に多くの人が来てくれるようになり、開会式はいつも満席の賑やかなものとなった。


作品の輸送

この町の出身の彫刻家柚月芳さんが100歳で亡くなった。作品は、生前、毎年欠かさず日展に出品していたが、個展などはほとんど開催したことはなかった。1993年に町の美術館で回顧展が開催されたが、それがご縁となって、本人の遺志によって、遺作の原型55点が町に寄贈された。その寄贈作品を中心に追悼展を開催されることになったが、私がそれを担当することになったのである。
問題は作品の輸送と修復である。作品は石膏のものはアトリエに保管されていたが、樹脂のものは自宅の庭に野ざらしになっていた。展覧会の期日は決定されていたので作品を美術館に移動し、展示できるように準備を急がなければならない。輸送はN社の美術部にお願いし、修復は宇奈月在住の彫刻家K氏にお願いした。その時の輸送作業も修復もたいへんであった。N社の美術品輸送トラック3台と6名の作業員と共に東京郊外の東村山のアトリエに出向き、丸二日間終日かかって作品をそれぞれ木枠に組んで厳重に梱包作業をすすめた。庭に置いてある作品などは周りの草刈りから始めねばならなかった。さすがに専門の業者である。すべての作品は無事美術館に運び込まれた。私と郁子夫人は現場でずっと立ち会っていたが、その時、夫人のため息が私の耳に入った。「仕事は丁寧で安心だけれどもこれはたいへんな費用がかかるでしょ。木枠やたいそうな作業はみなお金にみえますね。お父さんだったら、毛布にくるんでトラックに積み上げて簡単に運ぶのに。壊れてもすぐに自分で直せるのですから」。たしかに、この時の輸送費は相当なものであった。
 作品を借用しなければならない企画展の作品の輸送費は経費大きなウエイトを占める。小規模な美術館の予算ではたいへんなのである。他に専門業者もなく、ほとんど独占で、値段も言い放題に近い。しかし、今回のような壊れやすい彫刻や貴重な重要文化財のようなものは訓練が行き届き、キャリアの豊富な業者に任せなければならないだろう。私は30年以上も美術の世界で仕事をしてきたが、N社の美術部にお願いしたことはなかった。私の知っている画廊や美術商もそうであるにちがいない。作品の輸送にそんなに費用をかけては営業としての展覧会では利益がでないと思う。これは大美術館か公的美術館での特有なものに思われた。そこで、私はできるだけ輸送費を切り詰めるために次のことを心がけた。アマチュア的な作品はできるだけ公用車でまかなう。地方ではかなり著名な画家であっても、通常の作品類は公募団体展に出品する時に運送する業者にする。他の美術館か公的機関から借用する場合に限りN社の美術部にお願いすることにした。要するに作品の性質を厳重に見極めて、どうふりわけるかが大切なのである。これによって、私の企画した展覧会においてはかなりの予算が倹約されたはずである。
 本来ならば、作品の梱包や取り扱いは美術館の職員のやる仕事なのである。そういう技術を身につけるべきで、大部分はそんなに難しいものであるとは思えない。


図録(カタログ)制作について

 企画展の図録の編集はたいへん重要な仕事のひとつである。もちろん展覧会は実物の作品を展示するのであるから、実際にその作品を自分の目でみて、何かを感じることが一番大切である。芸術は感覚で感じるものであって、学問ではない。他の美術館の展覧会図録を拝見する機会も多いし、私の書庫にもうんざりするほどの展覧会図録が積み上げられている。ひと昔前からみると、年々ページ数が増えて分厚い立派なものになっている。装丁のデザインも洗練されたスマートなものになっているが、大部分は活字が小さく、専門用語を羅列した難解な文章で書かれていて読みづらいし、なかなか読む気も起こらない。実際に私が企画展を担当することになって、いちばん予算の割合を占めるのが、図録制作を含めた宣伝のための印刷物と借用する作品の輸送費である。果たして、これだけ立派な図録が必要かどうか、ある種の権威主義で、もっと簡素であってもよいのではないか。
 展覧会は会期が過ぎれば、消えてしまう。後に残るのは図録と記録写真ぐらいだろう。画家や芸術家の仕事は図録を通じて後世に伝えられていく。したがって、展覧会企画者とすれば、その意味で図録制作はきわめて重要なのである。この展覧会で伝えたいことは何か、いちばん見せたいものは何か、展覧会の骨格のすべてがこの図録の編集で具体化してゆく。表紙を飾る絵をどれにするか、掲載作品の選定、カラーかモノクロか。主要掲載文を誰に書いてもらうか。写真撮影をどうするか。
ある展覧会の時、役場から出向してきている館長兼事務長から、ポスターの図柄を自分に選ばせてほしいという申し出があった。私は「これは作家の強い意向なのだ」と即座に拒絶した。ポスターの図柄はその展覧会の象徴となるもので、宣伝用の印刷物ではもっとも重要なものだ。それを決定するには、この展覧会全体を把握し、チラシや新聞広告などのすべての宣伝のための印刷物の関連から選び出される。役所であれば、当然上司が選ぶ権限があるのかもしれない。しかし、この場合、単なる好みで選ばれたらブチコワシになってしまう。私は強引に押し通した。

 私は企画した展覧会の図録では次のことを心がけてきた。できるだけシンプルで読みやすいものにすること。すでに既刊の画集などの本が市販されている作家については最小必要限度のものにすること。できるだけ作家自身に自分の制作について記述してもらうこと。あとがきで企画の意図について自分で書くことなどである。
宣伝物の印刷業務について、業者は入札によって決まるが、これは毎回疑問に思った。

とくに美術館のような専門家としての美的センスが要求される印刷はデザイナーの力量によって大きく左右するので、入札額が安いところに落札するというのは現実にはそぐわない。展覧会の性格によって、それをうまく表現できるデザイナーを使い分けるくらいの配慮をしてはじめてよいものができる。作品を撮影するカメラマンにしてもしかりである。ましてや町の印刷業者や写真屋では技術的な限界がある。こういうのは企画者の裁量にある程度は任せるべきなのだろう。


マスコミ対策

私は若い頃から出版関係の仕事に関わっていたので、報道関係者の知り合いが多い。自分の画廊で、あるいは百貨店や他の施設などたくさんの展覧会を企画してきたので、それらの展覧会を成功させるのにマスコミ関係には特別の神経を使ってきた。中央では無数に催事があるので、マスコミの報道は大きな影響力をもつ。特に美術展の場合、大新聞(朝日、読売、毎日)の学芸欄にとりあげられれば、たくさんの来場者を得ることができる。とくに私の時代には朝日新聞の学芸欄がインテリ層には圧倒的な影響力を持っていた。当時の記者に聞いた話であるが、一週間の間に机の上に山ほどの展覧会の案内状が届き、その中から2〜3枚しか紹介できない。福岡や名古屋や地方都市から比べると東京は10倍以上の情報量だそうである。たいがいひとつの新聞が取り上げると他社は無視をする。しかも民間の画廊の個展などは最終日の直前ぐらいにやっと紹介するのが通例であった。こういう状況から比べると地方の公立美術館の展覧会はラジオ、テレビ、新聞は必ずといっていいほど紹介してくれる。しかし、やはり細心の注意をはらって対応しなければ、期待を裏切られることもある。
私は自主企画としての最初の展覧会は没後
20年「長谷川潔展」であった。企画展案を固める場合、主催、共催、後援、協力などを設定する必要があった。主催は町と美術館なので共催、後援をどこにするかによって、報道の効果にかなり影響する。共催とか後援それ自体がマスコミ対策なのである。たいてい共催は新聞社にお願いする。共催といっても私どもの企画に資金を提供してくれるわけではない。暗黙の記事紹介協力を意味している。この共催は後援、協力の関係で、新聞意外のテレビ、ラジオなどの紹介にも影響する。背後の系列にも配慮しなければならないのである。また広告の営業協力も考慮する必要がある。
私は中央のマスコミ間の熾烈な競争を経験しているが、地方の実情はわからない。そこで、高校時代の同級生がある新聞社の要職にあったので、私が郷里の美術館のお手伝いをすることになったという挨拶と報告もかねて「長谷川潔展」の共催、後援をどうすればよいか、相談に行った。即座に共催を快諾してくれ、担当部長を呼んで事前に提出してあった書類を見てくれた。私が提出してあった書類は前例を踏襲したものであったが、ざっと目を通して、このテレビ会社の後援ではわが社は共催できないから、これをはずすようにと強力な指示がなされた。やはり、系列会社として競争相手であったのだろう。これは困ったことになったと思って、そのことを美術館の事務方に報告したが、ところが町ではどういう事情があるのかその時は変更してくれなかった。お役所は前例主義でお伺いを立ててもすぐには対応できないのかもしれない。

しかし、「長谷川潔展」はNHK教育テレビの『新日曜美術館』のアートシーンで全国ネツトによって紹介され、産経新聞の文化部記者がこの小さな町まで取材に訪れ、紙面の半分を割いて記名入りで記事にしてくれた。もちろん、共催の新聞社も民間テレビも協力していただいた。結果的には「長谷川潔展」では私の個人的なコネクションが大きく作用したのである。以後の私の企画した展覧会は、その都度、臨機応変に対応して、予想以上の成果を得ることができたとおおいに満足している。


展示

 書家大平山濤さんは平成14年度に文化功労者として顕彰を受けられた。翌年、その記念展として「大平山濤書展」が開催されることになった。私がその担当者となった。
 大平さんの息子である匡昭さんも書家で日展では若手のホープとして期待されているが、その匡昭さんが展覧会の準備の大部分をすすめてくださった。ポスターやチラシや図録の制作も順調にすすみ、いよいよ会場での展示である。今回は談話室に壁面を特設して入口の両側には日東紡績の祭壇のための幟も据え付けた。作品の集荷も無事済んだ。
 開会前日、いよいよ作品の展示である。展示作業はいつもN社の美術部にお願いしている。もちろん作品の配置は私どもで設定をするのであるが、今回の場合は匡昭さんの陣頭指揮で山濤さんや匡昭さんのお弟子さん総動員で飾り付けの作業にとりかかった。近年の日展出品作や代表作がほとんどなのでかなりの大作が多い。しかもかなり重量がある。匡昭さんの苦心の配置の指示にしたがって、早朝から何度も取り替えたり移動さしたりして、みんなで協力して、60点近くを配置し、夕方遅くまでかかって、やっと展示作業は終わった。
N
社の展示作業員も私たちの確認を得て帰路についた。
そして、最後に、展示終了の知らせを聞いた山濤さんが美術館にその展示を見にこられた。ざっとご覧になって、険しい顔付きになって、「これでは駄目、やり直し」ということになった。幸いにして帰路の途中のN社の作業員の車に携帯電話で連絡がつき、引き返してもらって、もう一度、指示どおりに掛けかえることになったのである。
 この時に、作品の展示の配置はいかにその作家にとって、大切であるか思い知らされた。特に書の場合は全体のバランスの破綻は命とりになりかねない。
 作品を壁に掛ければだれでも展覧会の形はできる。しかし、良い展示かどうかの苦心の効果を理解してくれる人は少ない。良い展示をするためには企画の意図がはっきりしていて、全作品の性質や意味を頭に記憶して、それを自由に操れなければならない。良い展示は結局、良い展覧会なのである。会場全体の壁面もすっかり記憶して、作品の意味を理解して、頭の中で組み立てて、実際に配置して、最後に調整をする。
 私の企画したほとんどの展覧会は20〜30年作家と直接の交流があり、資料の蓄積があり、代表作はすべて記憶している。この会場にどの作品を選ぶかから企画の構想がはじまるのである。
この町の美術館の仕事をして、解ってきたことであるが、お役所の仕事は誰でも、すぐに交代しても出来るようにしておかなければならないのが原則なのである。ところが美術館の仕事は、企画者その人でなければ絶対できないことこそ他館の真似のできない独創的な展覧会にすることができるのである。
 中島通善展の時である。本人が来館し、会場をはじめて見て、「なにもかもどんぴしゃり、見事な展示だ。ずっとこのまま私の美術館として展示しておいてほしいものですね」「今後このような展覧会は二度とできないでしょう」とお褒めの言葉をいただいた。


学芸員について

 質の高い充実した美術館を運営するには学芸員の力量によって左右されると言っても過言ではない。もちろん、実力のある館長がすべてを取り仕切ることができれば最良であるけれども、残念ながら現在の公立美術館ではそのような例は多くない。どちらかというと大都市の著名な美術館は別として館長は行政側の人材を登用する。複雑な役所の人間関係の組織を動かすのにはやむをえないのかもしれない。
 朝日町立ふるさと美術館でも歴代の館長は役場の生涯学習課長か教育長の兼務である。私が在職した7年間の間に8度も交代している。市町村のこのような実情の美術館ではいっそう現場の学芸員に負担がかかっている。
美術館の学芸員といえば、一般の外部の人にとっては、資格をもった相当の専門家としての印象が強いが、私の知っている学芸員でもピンからキリまであって、資格といっても運転免許の取得よりもやさしいような気がする。私も研修生なるものに立ち会ったことがあるが、大学の在学中に資格さえ取っておけば、何か役にたつかもしれないという安易な学生が多く、明確な目的意識を持った学生はほとんどいなかった。美術館とは名ばかりで、
富山県内でもいちばん小さい未成熟な施設を研修先に選ぶのであるから、楽をして資格を得ようとする魂胆がみえみえなのである。
私が美術の仕事を始めた頃は公立の美術館といえば、東京国立近代美術館と京都国立近代美術館、そして鎌倉の近代美術館ぐらいであった。その頃には学芸員という名称はあまり聞いたことがなかった。美術館の学芸員的な実務を担当する専門職員のほとんどは別称の美術評論家として対外的に活動していた。その方が社会的には権威があって、影響力が大きかった。それが全国に公立美術館がたくさんできるようになって、展覧会の実務を担当する学芸員の存在が急速に台頭してきて、企画展には必ず図録を編集して、自らも文章を書くようになった。どの図録も分厚い立派なもので、いかにも学問的に権威があるものの如く体裁が整えられている。大部分は専門用語で参考資料をアレンジした文章で埋められている。

公立美術館の企画展には予算があって、収支にかかわりなく、大規模な展覧会が実現される。報道関係も協力的で、反響は大きい。ひと昔前までは官展、院展であるとか日展、二科会などの美術団体の影響力が圧倒的であった。今でも地方には特にそのなごりが強く残っている。戦後は銀座の画廊が活躍した。団体展に反撥する進歩的な画家たちが画廊での個展の発表で自己主張し、評論家が応援し、雑誌や新聞も積極的にこれらを報道した。個性的な画廊も排出し、美術評論家の時代でもあった。ところが全国に公立美術館がたくさんできて、美術評論家や報道記者たちも美術有識者として美術館に吸収され、予算を持ち、図録での紹介文の執筆や報道の機会を多く持つ学芸員や館長が美術界において隠然たる力を持つようになっている。したがって今は美術館の時代であり、美術ジャーナルも画廊も評論家も急速に弱体化してきているというのが現状である。

すべての仕事をこなさなければならない町の美術館で、通常、学芸員がやっているようなことを体験して、感じたことであるが、学芸員の仕事が美術館内部の仕事かディスクワークだけになっていて、現実の美術界の現場で起こっている動きや実情から離れたところで文献、資料を頼りにきわめて観念的なものになっているのではないかと危惧している。

もう
10年も前になるが、東京のある美術館で「1970年代の版画」という展覧会を見た。私自身1960年代後半から版画に関わる仕事をずっとしてきて、しかもその間、版画専門誌の編集にたずさわり、自ら発行もしてきて、版画ジャーナリストとしていろいろな版画家と交流し、展覧会なども企画して、その現場で働いてきた。丁度1970年代はその版画の分野が隆盛となり、きわめて熱気ある時代であったのである。それで「1970年代の版画」というタイトルを見て大いに期待してその展覧会を見に行った。ところが会場をひと回りして考えこんでしまった。私が現場で見て体験してきた版画の世界とはまるで違うのである。1970年代は棟方志功と池田満寿夫が圧倒的な人気であった。まず、この二人が欠落している。この時代に活躍した主要な版画家の作品もほとんど展示されていない。大部分は現代美術志向のアーティストの版画である。もちろん人それぞれ見方が異なるだろう。しかし、この展覧会の企画者はあまりにも観念的である。展覧会の切り口とすれば、おもしろいのかもしれない。あるいは企画者なりの分析と理論を展開したかったのかもしれない。それにしても現実を離れて、企画者の理屈を先行させて、それに合わせて、人選や作品を都合よく集めすぎてはいないだろうか。
 学芸員は役所的な組織の中で働いている。普通の公務員とほとんどかわらない。そこではすべての事案はお伺いをたてなければならないし、少し離れた地域の展覧会を見たり、調査するには出張届けを出して、上司の許可をもらわなければならない。旅費の請求やいろいろ気を使って、ついついおっくうになって、送付されてくるカタログの図版を見て、あるいは、それに記述されている解説を読んで済ませてしまい、展示会場や収蔵庫とディスクを往復するということになる。ましてや煩雑な雑用をたくさん抱えていれば、なおさらその傾向は強まる。結局、展覧会の企画も文献と資料に頼り、書く文章は他人の論述を少しアレンジしたものであったり、あちこちからの引用文をつなぎ合わせた難解なものとなる。
美術作品は実物を見て何かを感じて、感動することが原点でもっとも重要なことなのである。芸術は学問ではない。いくら世界の名画をパソコンにアッブして、いつでも閲覧できたとしても、それは知識であって、やはり、現物を見て感動を受けなければ話にならない。

 私が小さな町の美術館でいくつかの展覧会を企画して、その度にたくさんの来館者があって、中央の報道関係も何度か飛行機で機材を運んできて、全国に報道して下さったが、無数にある美術館の学芸員が足を運んで見に来てくれたことはほとんどなかったといっていい。

 



町の美術館裏方体験記
      
番外編

時枝油絵展

 朝日町立ふるさと美術館の仕事を手伝うことになってどのような事を為してきたかを私自身のための記録のメモのようなつもりで記述してきた。その7年間は今から振り返ってみると、思いがけない実りのある充実したものであった。とりわけ、年に一度は特別展や企画展において私個人ではとてもできなかった重要な展覧会を町の予算のお陰で実現させていただいた。若い頃から30年以上関わってきた日本の現代版画を世に紹介し、広めるという私の仕事の資料を整理しなければと広いスペースと時間を確保するために郷里に移住したが、その整理作業のほかにやり残していた仕事まで達成することが出来たばかりか、私の人生にとってひとつの時代をしめくくるには格好の機会となった。町のみなさんや町長さんには心から感謝しなければならない。
 最後に町の要望で私が担当した二つの展覧会のことを記しておきたい。そのひとつは女優の左時枝さんの油絵展である。この展覧会は私が手伝う以前からすでに開催することが決定されていた。それを実現するために展覧会の具体的な進行を私がするようにと命ぜられたのである。 ご存知のように時枝さんは朝日町の出身で大女優左幸子さんの妹さんである。近年、中堅女優として、その演技力は円熟して、映画やテレビで大活躍である。
実は時枝さんの兄さんの鉄夫さんは私の小・中学時代の同級生である。お父さんは町で長い間骨董屋さんを開業されていたが、後に東京に上京されて鷺ノ宮に住まわれていた。古美術商であった私の叔父と親しくて、私も紹介され、何度か遊びにお宅に伺ったことがある。お母さんは華道の先生で、左幸子さんも美術にはたいへん造詣が深かった。たしかすぐ上の姉さんも美術大学に通っていらしたと聞いている。したがって、時枝さんはそういう美的環境の中で育っていた。しかし、まさか油絵の作品を美術館で展覧会ができるほど制作されているとは夢にも思わなかった。
 私は展覧会の内容を固めるために東京・世田谷の自宅を訪ねた。そこで紹介されたのがご主人の市田喜一さんである。町との最初の約束で市田さんの彫刻も同時に展示することが決まっていたが、どのような彫刻の仕事なのか私はまったく知らなかった。しかし、この打ち合わせで実作のいくつかを拝見して、それは見事な作品で、これはまさしくプロ級の仕事だと思った。市田さんは武蔵野美術学校を出て、映画や舞台の彫刻やデザインをされていて、近年は主にテレビCMのセットデザインを本業とされている。鉄の廃品、例えばオートバイの部品などを素材にして、カラスやペリカン、ツルなどの彫刻を造っている。ユニークでどことなくユーモラスで市田さんの温厚な人柄が滲み出たすばらしい作品であった。
 時枝さんの油絵は、最初片岡鶴太郎展で問題にしたように最近めだってきた俳優さんたちの余技の類だと思って、あまり期待はしていなかったが、実物は予想もしなかった大作で、チューリッブやバラ、カサブランカの花を画面いっぱいにクローズアップした100〜120号の作品がずらりと並び、その力感と迫力で見る人を圧倒した。多分、ご主人の芸術に対する理解と姿勢から啓発を受け、今日まで隠れていた才能が一挙に開花したのだろう。
会期中にご夫妻でご覧になったマンダラ画家前田常作さんも「見せますねぇ。このような見せ場をつくる展覧会はふつうの画家ではなかなかできるものではありません」と言って感心されていた。「こういう有名人の展覧会も美術の普及という点では大事なことですよ」とも言われていた。さすがに教育者である懐の深い美術大学の学長さんの含蓄のある言葉である。






梅津榮ありのまま展

 私の郷里の町は富山県新潟県の境にある一握りの小さな町ではあるが、昔、関所があったり、温泉場があったり、親不知の難所のすぐ手前で、荒波が静まるまで逗留するという宿場町でもあった。そのため遊郭なども盛んとなり、文人墨客が多く出入りして培った文化的土壌から有名な文化人が輩出している。先に紹介した女優の左幸子、時枝姉妹もそうであるが、俳優梅津榮さんもそのひとりである。私は先に戦後まもなくこの町で演劇活動に情熱を燃やした阿部順三という人物の業績を発掘して展覧会を企画したが、青年の頃、その劇団の主役を演じていた梅津榮さんと阿部順三展を通じてご縁が出来た。
実は私の実家の家業は履物商(下駄屋)で梅津さんも下駄屋の息子であった。まだ写真を撮ることの少ない時代、私の父と梅津さんのお父さんが同業者の慰安旅行で一緒に写っている写真が見つかって、それを送ってあげたところ、大喜びで、なお一層親近感が増すようになった。
梅津さんは
10数年前から筆をとって「書」を書いて発表して話題になっている。 町ではぜひその展覧会を実現したかったが、梅津さんの奥さんが亡くなられたこともあって、なかなか本人の承諾を得ることができなかった。町制施行50周年を記念して、是非お願いしたいと申し入れて、ようやく実現することになった。その展覧会の担当が私になったのである。というよりも、その同じ記念展のひとつとして私の独自の企画で鉛筆画の「木下晋」展を開催したが、どういうめぐり合わせか、その木下さんと梅津さんはかなり前からごく親しい友人であったのである。そういうことから、私が密かに連絡をはかり、かなり根回しをして、梅津さんの展覧会に漕ぎ着けたというのが実情なのであった。
 
梅津さんの俳優人生はかならずしも華やかな脚光を浴びる主役ではなく、ほとんど脇役であった。しかし、75歳なるまでに驚くほどの役柄をこなして今や味のある演技がいよいよ注目されている。ひとりだけでは成り立たないないきびしい芸能界で今日まで役者人生をまっとうされたことは、そのわずらわしい複雑な人間関係においても 並々ならぬご苦労があったと思う。そういう苦難を乗り越え、ようやくゆるぎのない境地を開かれた地点での梅津さんの人生そのものが滲み出た展覧会になるよう作品の選定や展示を心掛けた。
「芝居でもうまく見せようとすると良くないですね。人を感動させられない。文字もいっしょで、自分で思ったとき、書きたい時に書いた文字が一番いい」「書ではなく、字を書きました。何かゆうかもしれません」と本人は語っている。
この展覧会を機に記念講演として「泣いて
笑って 75年」が開催され、梅津さんの役者人生に焦点を合わせたNHKテレビでホリデー・インタビューの番組が制作され、後にKNBテレビでもドキューメンタリー番組が制作された。       (完)








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