生誕100年記念「笹島喜平展」(図録あとがき)
                                              魚津章夫


  島喜平さんが亡くなって、13回忌を迎えました。そしてちょうど生誕100年の年にあたります。このような記念すべき年に直接縁もゆかりもなかったこの朝日町で「笹島喜平展」が実現することになって、この企画にご理解を頂き、採用してくださった町長をはじめとする町の関係者に心から感謝する次第です。と言いますのはこの展覧会の企画担当者である私が生前の笹島喜平さんに特別のご温情をいただいた一人であったからです。
  笹島さんと最初に出会ったのは私がある出版社に勤めていて、そこで還暦記念に『一塵』という画文集を発刊なさった時で、その慰労会をしたいと言われ、編集関係者を料理屋に招待してくださったのです。笹島先生が60歳で私が26歳でした。その時から当時笹塚にあったアトリエを訪ね、府中の四谷のお宅、そして益子のお宅へと数えきれないほどお訪ねし、そのたびに昼食をご馳走になり、直子夫人にもたいへんお世話になったのです。私が独立して版画の普及事業をはじめて、その機関誌『Print Art 』にエッセイの連載をご執筆いただき、2度の個展を開催させて頂きました。『Print Art 』の最終号では『笹島喜平の芸業』という特集を組みまし
た。また古希を記念した『笹島喜平画文集』の刊行の時も関わりました。今、手元に毛筆でしたためられた巻紙の書簡15通に約30通の親書類があります。一周忌の時も『芸縁冥利』という追悼文集の編集も手伝わせて頂きました。お亡くなりなった年に来年は米寿なのでその記念展を開きたいと言われていたのを何度もお聞ききしており、残念ながら、それを実現してあげることができず、それがいつも心残りでありました。その思いの成就をかねて今回の計画がなされたわけです。
  5年前にこの美術館で没後20年「長谷川潔展」を開催させていただきました。その展覧会も作家と私の個人的な交流にもとずくもので、展示作品の選定や新資料の公開などに30数年の研究成果を結集した「最良の展覧会」であったと自負していますが、今回もそれに劣らない約40年の成果をふまえた代表作のベストセレクションで構成してあります。
  ここ
富山県は棟方志巧さんが疎開していたこともあって、関係者も多く、その影響力が絶大でありますが、笹島喜平さんは年齢は3歳しか違いませんでしたが、その棟方さんの最初の弟子で、第一の弟子でした。棟方さんを天才として心底から敬服していました。福光に棟方さんを訪ねて、その時に周辺を写生して、その風景のスケッチや作品も遺っています。棟方さんは自由奔放、天真爛漫、笹島さんはきまじめで几帳面、奔放より誠実、一方は鍛冶屋の息子で給仕上がりの苦労人の野人、笹島さんは町長20年歴の地方政治家の御曹子で師範学校出のインテリといったまったく対照的な人柄の違いでした。作品においても黒白木版画ということで同類と見られがちですが、棟方さんは一気呵成の即興と原始的なエネルギーとデフォルメ、笹島さんは知性と求道精神、写実による一刻一点をおろそかにしない厳密な構成で、画面を追求する姿勢や方向では正反対でありました。棟方志巧さんがあまりにも有名であったがために、どちらかというと笹島さんの業績がその陰に隠れて世俗的な評価や知名度では悲運であったかもしれません。
  芸術の世界では時代の風潮によってその評価は移り変わります。主観的なものと客観的なもの抽象的なものと具象的なものなど、どちらも真実を表す一面なのかもしれませんが、フェルメールやレンブラントやバッハでさえもある時代には忘れ去られていました。時代によって舞台が変わることはこれまでの美術史が示しているとおりです。今日では価値がますます多様化して普遍性をもった本物の美術品を見極めることがなかなか困難な時代になっています。「物を耳で見るな」というのは笹島さんが青年のころ陶匠浜田庄司から受けた教訓で、世評や肩書きにまどわされず、自分自身の目で確かめよ、そのためには眼力を鍛えよということです。
  今回のこの記念すべき展覧会で厳選されて展示された代表作品の数々は笹島喜平さんが幾多の苦難を乗り越え、自分の道を切り開き、信念を貫き通して、天才的な才能がなくてもコツコツと努力を積み重ねれば立派な仕事が達成できるのだというお手本のようなすばらしい「拓刷りによる黒白木版画の世界」です。皆さん、ひとりひとりの目でしっかりとご覧いただくことを願っています。


生誕100年記念「笹島喜平展」2005年(冨山県・朝日町立ふるさと美術館)図録に収録

笹島喜平の生涯

笹島喜平喜平の芸業

笹島喜平さんの最晩年

不動明王百十態


笹島喜平の言葉(1)

笹島喜平の言葉(2)

笹島喜平の画歴

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