笹島喜平の生涯

                                             魚津章夫


生い立ち

  笹島喜平は1906年(明治39年)栃木県芳賀郡益子町に生まれた。父藤作、母ミツの9人兄弟の4番目で次男。父は益子町長20年勤め、県議会議員や、陶器伝習所長や陶器組合長なども歴任していた地方政治家。小さいころのあだ名は「河原の二百十日」(台風の意)。高等小学校を卒業後、6ヵ月の教員養成の講習を受け、準訓導の資格を得て、若干14歳で母校大羽尋常小学校の教壇に立った。しかし、やはり正式の教師になりたいと思い、学費も安く、卒業後就職の心配のない東京の青山師範を受験し、合格した。「人間、学校で勉強しなくても、いくらでも世に立てるのだ」という父もしぶしぶ上京することを許してくれた。喜平少年のここまでは絵というものにまったく関心がなかったという。ビリで入学して学期の終わりにはトップ。青山師範の図画教室で、ある時、一枚の八つ手の葉を鉛筆で描いた。それを見た図画担当の赤津隆助先生が「お前のが一番よく描けたよ」と予想外の言葉で褒めてくれた。この一事が画道に入る第一歩となった。それ以来、絵を描くことに興味が深まって、しだいに美術全般に関心を持つようになった。

浜田庄司と棟方志巧に出会う

 大正15年、陶匠浜田庄司が益子の道祖土に築窯した。喜平が師範学校の4年生で、20歳の時であった。そのことを美術雑誌か何かで知り、誰の紹介もなく喜平は浜田庄司を訪ねた。浜田庄司が32歳であったが、喜平の目にはすでに60歳を過ぎた大家に見えた。その時から帰郷する度に出入りし、仕事を手伝ったりして、数々の教訓を受けている。なかでも「物を耳で見るな」という一言は画道においても、人生の処世訓としても全生涯を貫く箴言として受け止めている。時流や世評にとらわれずに、眼力を鍛えて自分の絵の姿は自分でたしかめよという意味である。
 徴兵検査は丙種不合格。青山師範卒業後、荏原郡旭小学校、駒沢昭和小学校、日本橋有馬小学校などに赴任しているが、有馬小学校在職中、30歳の時に区の教育委員会の主催で版画講習会があり、講師が平塚運一で、一週間ぐらいで基礎的な木版画の技術を習得した。その時、特に黒白版画の簡潔・明快な画面に強く心がひかれて、会の終了後も自分で制作を続けることになった。これが、木版画をはじめる第一歩となったのである。

 たまたま帰郷して浜田先生に版画の制作をはじめたことを話したら、先生は即座に「版画をやるなら棟方を紹介する」と言われ、中野の大和町に住んでいた棟方志巧を訪ねることになった。画室で制作に火の玉となってはいつくばっているその人を見て、これこそ版画の神様だと思って、たちまち傾倒する。この出会いが版画家として進む大きな大きな掛け橋となった。

敗戦、画業に専念

 1937年(昭和12年)に棟方志巧に師事することになって、翌年、日本版画協会展に入選し、さらに国画会や文展(文部省美術展覧会)にも入選して版画壇に登場することになった。しかし、日本は太平洋戦争に突入し、喜平はもともと蒲柳の質であった。教職と画業の二重の労務は荷が重すぎた。肺気腫の重症と診断され、制作を中断し、戦時下に転地養療を余儀なくされたりした。戦争末期の三年間はほとんど療養生活を送らねばならなかった。ある時期には郷里に帰って、浜田先生のお宅に弁当持参で通い、仕事の手伝いなどもしている。文展入選の頃、横須賀在住の酒井馨という物心両面の後援者となる人物に出会う。入選した大作「山道」を百五十円の大金(当時月給七十円)で買い上げ、療養の際も二千円ポンと出してくれたという。画道の指針として座右の書となる世阿弥の「花伝書」もこの人のすすめであり、刷りの重労働に耐えられず、版画制作を断念しなければならない窮地に立った時、この酒井氏から贈された拓本を見て、「拓刷り」という着想を得たのであった。敗戦後、病弱な体力では教職と制作の二重生活が無理であり、熟慮の末、画業一本に専心できたのも酒井氏の心強い支えの言葉があったからであった。
  「棟方志巧とは才能が違う、志巧の作品にはボタンやシャクヤクのような華やかさがあり、それは天性のもので自分にはそれがない」。
 昭和20年ごろ、信州の霊泉寺温泉を訪ねた時、街の入口に天然記念物の風雪に耐えた樹齢八百年のケアキの大木があった。100メートル四方に根を張っているというこの荘厳な大樹を見て、長い年季を積み重ねれば、凡人でも偉大になれる。志巧に負けない自分の道はこれだと確信した。

激震の二つの事件

  1945年(昭和20年)に富山県の福光に疎開していた棟方志巧が東京の荻窪に移住したのは1951年(昭和26年)である。翌年、棟方志巧、北川民次、笹島喜平、下沢木鉢郎、ブブノワ、棟方末華、は新しい版画団体「日本板画院」を発足した。このことで日本版画協会を退会することになるが、それによって版画団体の動向に亀裂が生じ、笹島喜平は画壇から離れざるを得なくなり、きわめてきびしい窮地に立つことになる。日本板画院を発足してしばらくしてから、国画会を退会した棟方志巧に日展から声がかかり、日展に出品。二年後に審査員となり、版画院を解散して日展に合流し、日本版画会(日版会)をつくるという。この時、笹島喜平は「あなたについてきた板画院の会員たちはどうなるのだ」と激怒し、師である棟方志巧につめよったという。同時期に日本版画協会の事務局を司り、版画界の大御所であった恩地孝四郎が『日本の現代版画』という単行本を刊行した。その本には同輩の版画家がほとんど紹介されていたが、協会を脱退したことが原因か、無視され、気骨ある笹島喜平はこれにも抗議した。結局、当時の版画界の二大勢力のリーダーのいずれとも折り合いがつかなくなった。画壇の軋轢のはざまで、この時の本人の苦悩はたいへんなものであったが、しかし、この苦境に立って、天才と凡人、前衛か伝統か、抽象か具象か、主観的表現と客観主義などの立場の違いをいやがうえにも改めて思い知らされたのであった。この二つの厳しい試練を受けて笹島喜平は自分の資質や才能をはっきりと自覚して、立脚点を確かめ、「一寸の虫にも五分の魂がある。…石にかじりついても仕事の上できっと目にものを見せてくれる」という思いを胸に秘め、凡人には凡人の道があるとして白黒木版画・自然讚迎・写実という揺るぎのない作画信条を確立して、独自の道を切り開くことになったのである。以後、棟方とは少しづつ距離をおくようになり、作品の発表は主に日本橋高島屋での個展で世に問うことになる。

日本人の根源的な美を探る

 初期の木版画はほとんど風景画である。生まれ故郷の豊かな自然環境が自然と交感する感受性を育んでいたのだろう。笹島喜平の画風には益子の風土が色濃く反映されている。もともと白黒の木版画は簡潔で力強い素朴な表現に適しているが、初期の風景画には光の明暗や樹々のはずれの音や川のせせらぎ、風までも感じさせるデリケートな詩的な情感に満ちている。木版画の制作は彫りと刷りでかなりの体力を要する。もともと病弱であった喜平は制作にあまりにも熱中したために外傷性肋膜炎を患う。医師からはバレンで摺るような重労働はつつしむようにとの宣告を受け、制作の望みが断たれ、暗然とした日がつづいた。ある時、ふと画室に掛けてあった「悉」という字の古拓の掛け軸を見て、拓の技法を思いついたのである。この発想に改良を重ねて胸部に負担をかけず、絶望から抜け出し、力仕事から開放されて木版画の制作が継続されることになった。
 1960年(昭和35年)の春、「古塔B」を制作中、一点一刻の操作に苦心して仕上げた画面を見た時、目頭に涙がにじんできて、なんとも不思議な感動に歓喜した。この古塔は小石川の椿山荘の三重塔をスケッチしたものであったが、展覧会場でこの絵を何度も見るうちに、奈良や京都のゆかしき風物が脳裏に浮かんできた。すぐさま導かれるように現地に出向き、美しき情景を自分の目で確かめた。以後、毎年のごとく、何度も奈良・京都の古刹やその周辺を訪ね、感動のまなざしで描き留めた膨大な量のスケッチが遺されている。この時点から古都の風景や不動明王を中心とする仏像や霊峰富士など笹島版画の日本的象徴を主題にした傑作が続々と生まれてくるのである。古寺の建築や仏像彫刻のなかに日本人が脈々と引き継いできている根源的な美意識のアイデンティティを探り当てたのであろう。

晩年

  笹島喜平は1985年(昭和60年)79歳の時にそれまで住んでいた東京・府中の四谷から郷里益子に移住している。それから実質7年の間に40点以上の作品を制作している。生涯100態の不動明王をつくりたいと念願されていたが、それを超えて110態にもなった。生前、居室に鉄斎の「山紫水明処」の複製画と木食上人の不動尊の拓像が掛けてあり、朝に夕にそれを拝んで、「鉄斎は70歳をすぎてから鉄斎らしいほんものになった。木食は60歳ごろから千体仏の造像を発願し、麻衣一枚を身にまとい全国を行脚してそれを達成して、93歳まで生きた。いつもこれを見習ってがんばるんだ」と言われていた。益子に居住してからもたゆまぬ制作で、作品は少しも衰えることなくますます充実し、威厳と風格の満ちたものとなった。体が衰えた最後には由緒あるお寺の経営する診療所の特別室を借り切って、通常は面会謝絶で、そこからアトリエに通って、ほんとうに命の燃え尽きるまで精魂をこめて制作に打ち込まれていた。
 戦後、画業一本に専念されてからの半生は全力で一心不乱にコツコツと画道を切り開いて進まれ、苦境に立った時や障害に出会った時には堂々とそれらをはねのけて難局を乗り越えられた。不動明王の右手に持つ利剣は愚痴・怒り・貧欲の三毒を断ち、左手の羂索は、我が望む道を貫く決意を、背後の火炎は慈悲の徳相を表しているといわれているが、まさに110態もお造りになった不動明王像は笹島喜平の人生の指針そのものであった。
 最晩年には遺作の寄贈のことやお墓の墓碑名まで周到に身の回りをきれいに整理されて画家としてあるべき姿のお手本のような見事な生涯を閉じられた。享年87歳。

「画家は作品だけが勝負だよ。今、おだてられるよりも、100年後に評価されたいね。平凡な画才の上に、歓喜の世界を築きたいよ。私の名前のように」。
 

(生誕100年記念「笹島喜平展」2005年 冨山県・
朝日町立ふるさと美術館)図録テキスト収録



笹島喜平の木版画(作品の紹介)    笹島喜平の画歴



笹島喜平の芸業

笹島喜平の最晩年

不動明王百十態

笹島喜平の言葉(1)

笹島喜平の言葉(2)

生誕100年記念「笹島喜平展」図録あとがき

TOPに戻る