笹島喜平 不動明王百十態
魚津章夫
最後にお目にかかったのはお亡くなりになる5日前でした。病院のベットの中でほとんど会話がおできになりませんでしたが、目の表情で「ながいつきあいだったね。いろいろ世話になったなぁ」と言って下さっているようでした。
私と笹島先生との出会いは先生はすでに還暦、私は26歳の時で、年の差はもう親子以上もありましたが、先生はいつも温かいおもてなしをして下さいました。はじめは幡ヶ谷のお宅に、そして府中、最晩年には益子へと数えきれないくらいお宅をお訪ねし、そのたびに昼食をご馳走になり、食後には喫茶店で歓談するという、時間も定刻のお定まりのコースでした。歓談といってももちろん私がほとんど拝聴するばかりでしたが、いつも漫談とか年寄りのくり言とおっしゃって、その時の話題の中で、ご自分の絵画の主張に加えて東西の画家の評価、西行の和歌から世阿弥の「花伝書」、「徒然草」や芭蕉のこと、「五輪書」「葉隠」などの名言をちりばめられて、真の芸道に一貫する精神とはどういうものかをそれとなく教示されるのでした。私にとっては学生のように教わるばかりでした。
笹島先生は画業に本格的に専心なさったのは遅く、戦後40歳を過ぎてからでした。人生半ばからの出発という意味と版画家は絵を描くのが半分と彫りと刷りの作業が半分で、画家としては半人前なのだからご自分のことを「半画人」と謙遜して称しておられました。ある時、樹齢一千年もする欅の大木を見て、その荘厳さにうたれて、(かりに自分の画才が凡器で)この樹のように花の咲かない樹であったとしても、風雪に耐えて苦難を乗り越えて鍛錬を重ねれば、この巨樹のような存在感のあるものになれるかもしれないと思い、その時、それなりの覚悟ができて、これからすすむべき道に一筋の光明を見出したと語られ、「自ら知る者は明なり」と非凡なる凡人の道を歩こうと意識の転換をはかられ、不動の脚点に立たれたのでした。
日ごろ接する先生は謙遜で温和でしたが、同時にユーモアもあり、童心のような純真さをお持ちでした。しかし、本質的には生真面目で、時おり、ふっと寂しそうな表情から、一瞬きらりと光る眼光が発せられ、その奥底にはたいへん厳しく烈しいものが隠されているようでした。
私がお会いした時にはすでに平刷りの風景画から拓刷りという新技法を創案され、古都の古刹周辺の風景、霊峯富士、不動明王を中心とする仏像や女神像などの日本的象徴を主題に限定されて、画業としてはゆるぎのない作画信条を確立されていました。
「自然よりほかに師がない」といった自然讃迎の謙虚な立場で、あくまで写実を基本として、物象の存在感が宿ることを願って、素直な眼で正面から正攻法で画面に立ち向かっていらっしゃいました。
あえて骨の折れる困難な道を選ばれて、手間暇を厭われるということはありませんでした。そのために残されたスケッチ類はすばらしく、膨大な量です。このスケッチから版のための下絵への移行は体験・感動・表現を一体化する笹島版画の絵づくりの核心にあたるものですが、それは黒と白、すなわち墨一色で、自然の命を単純な骨格だけの元素的なものに還元して、それをいかに操作するか、無駄なものをすべて省いて、木版の平版な特性を生かして、点と線と面を調和とリズムのあるものにいかに組み合わせるかの格闘でした。
すなわち、限られた極小の材料と素材で、極大な宇宙的神秘をつかみとろうとする果てしない闘いでもあったのです。
先生はある時期から生涯に百態の不動明王を完成したいと発願されました。そして遂にそれが百十態にも達してしまいました。不動明王の背後の火焔は慈悲の心です。忿怒の形相は悪魔を追い払い、右手の利剣は三毒(愚痴・怒り・貧欲)を断ち、左手の羂索はいかなる法敵も説破するという決意の表明です。
ふつうであれば同じモチーフのものが数点もあればかなりのものが表現できると思われるのですが、百態も完成させたいという先生の念願はいったい何だったのでしょうか。ひとつは名もない古人の心と技を持つ職人仏師への尊崇、すなわち、日本人の民族的な美意識への絶対的な信頼ではなかったでしょうか。昔の職人たちのように同じことを何度も繰り返すということをとても大切になさっていたようです。
この不動明王像を何度も創り重ねることで、自分の中に流れている同じ血脈を掘り起こされていたのだろうと思います。しかも当初の作為的なものを何度も何度もひとつの同じことを繰り返す手作業によって、他力的なものに身をゆだね、内から涌き出る魂を画像の中に定着させたいと念じられていたのだろうと思います。
不動明王を創りつづけることは行ずることでした。この厄介千万な人間の娑婆世界をいかに生き抜くか、つまり、煩悩にとらわれている自らを鍛えぬいて覚者としての理想を希求する祈願の対象の図像であると同時に、それを完成することは自己の人格を完成する行でもありました。
その意味で不動明王は自らを反映する自画像であったように思われるのです。温和の中にもあのきらりと光る眼光は一筋の道を貫く苦行者の厳しさをものがたるものです。まさに求道者でした。笹島先生は偽りの多い瑣末な現象の記録を描きとめる画家ではありませんでした。永遠なるものを求めつづけられたのです。
最後の一年間はほとんど病院からアトリエへ通われて制作をなさっていました。アトリエに仕事に行くのが楽しみで、その日が待ちどうしくて仕方がないと、ほんとうに歓びに満ちた笑顔が印象的でした。ひとつの高い境地に達せられたたしかな手ごたえがあったのでしょう。
『芸縁冥利』(笹島喜平追悼文集 1994年刊)より