笹島喜平の芸業
魚津章夫
制約された芸術
笹島喜平の絵画への関心は師範学校の学生時代から芽生えてはいたが、実際に画家として制作に専心するようになったのは遅かった。30歳の頃、平塚運一の版画講習会を受講して、黒と白の簡潔で明快な画面に強く心が引かれた。これが木版画をはじめる第一歩となった。郷里益子に帰省した時に木版画の制作をすることになったと陶芸家浜田庄司に話したら即座に「版画をやるなら棟方志巧を紹介する」と言われ、棟方を訪ねてすぐにその門下に入ることになった。しかし、画業一本に専心したのは39歳からであった。木版画は平板な面の構成が特性である。笹島喜平の木版画では現実の体験や感動を描き留めた鉛筆の線によるスケッチから版のための面化する下絵への移行は絵づくりの核心にあたる。それは黒と白の操作によって、すなわち墨一色であらゆる余分なものを切り捨てて、単純な元素的な骨格のみで対象を組み立て、調和とリズムをととのえ、納得のゆくまで推敲する作業である。そのための時間と労力は惜しまなかった。
例えば、短歌の三十一文字、俳句の五七五の定形、一つの型に制約される演能などいずれも制約された「型の芸術」で、最も日本的なものである。別の言葉で言えば「捨ての芸術」ともいえるかもしれない。この最小限の芸術形式で習練と工夫がなされ、そのなかから巨匠が生まれ、五百年、千年と延々と今日まで続いている。笹島喜平は黒白木版画と出会い、その表現の可能性を確かめてゆくうちにそういった「型」の芸術形式に共通するものを自覚するようになり、墨一色の黒白木版画こそ日本的な絵画形式のひとつになりえると確信する。その精神的支えになったのは短歌の西行であり、俳句の芭蕉であり、能の世阿弥であった。それらの偉大な先達たちの芸の極意に「貫通するものは一つなり」をたえず学びとって、「古人の跡を求めず、古人のもとめたるところを求めよ」と言って精進に精進をかさねて励んだ。すなわち、笹島喜平の画業は限られた極小の材料と素材で、最大なる精神的な要素、つまり東洋独特の水墨画の伝統と日本美の伝統をふまえ、自分の目で見て感じとった現実の自然の生命的真実をいかに画面に含蓄させるかの格闘だったのである。
自然讃迎と写実
初期の木版画はほとんど風景画である。そこには郷里益子の風土で育まれた感性が色濃く反映されている。深々とした森の中だとか、野原や山や湖、そして川など、黒と白の明暗で光と陰を、樹々の葉ずれの音や川のせせらぎや風までも表した素朴でデリケートな詩情をうたっている。木版画特有の粗々しく剛直な画風に見受けられるが、もともと繊細な感覚の持ち主なのだろう。戦後、どっと押し寄せてきた抽象画などの西洋の絵画思潮と棟方志巧の強烈な表現主義的な傾向に刺激され、やや一時期、動揺した兆しもあるが、これほど日本の伝統文化を信頼し、その美意識を徹底して頑固に貫き通した版画家も珍しく貴重な存在だと言わねばならない。黒と白の平版な制約された画面であるが、その一点一画の操作によって、あくまでも写実で自然の姿形をリアリティをもって表現したいと繰り返し繰り返し述べている。抽象画の一つの理論的根拠となっている「美術は、眼に見えるものを複写して与えるものでなく、見えないものを見させるのである」というクレーの主張を一天才人のひとつの見識であって、絶対的な公理ではないと受け流し、あるいは反発し、自分には「自然よりほかに師はない」という自然讃迎の道こそ凡人の歩く他力門であり、不易に通ずる道なのだとたえず自分に言い聞かせて、写実と具象という客観主義を堅持した。さらに笹島喜平は「写実といっても単なる瑣末主義の写実ではない。物象の生命真髄にふれ、黒白の単純な操作によって、それを版化表現しようとする格闘である。実存在の物象をみつめ、秘められた生命感、実在感、神秘感を感得する。そのための写生であり、それが制作の媒体となり、根基となる。」と言っている。あくまで見える形から入って見えないものまで顕さなければならない。やがて「拓刷り」という独自の技法を創案して、確固たる信念で、日本的象徴を主題とする古都の風景や仏像などの名作が続々と生まれてくる。
「行ずる」こと
笹島喜平の晩年の仕事は古都の風景、不動明王や美女神などの仏像、富士など日本的象徴のテーマに限られていて、それらを繰り返し繰り返し制作している。不動明王は生涯に100態を完成したいという念願であったが、110態にもなっている。この「一つのことを繰り返せ」という言葉は浜田庄司からの教訓らしいが、民芸運動の柳宗悦も『南無阿弥陀仏』の中で次のように記している。
「……凡夫たる工人たちからどうして成仏している品物が生まれてくるのか。仕事を見ていると、そこには心と手との数限りない反復があるとが分る。有難いとにこの繰り返しは才能の差異を消滅させる。下手でも下手でなくなる。この繰り返しで品物は浄土につれてゆかれる。この働きこそは、念々の念仏と同じ、不思議を生む。なぜならこれで自己を離れ、自己を越える。あるいは、自己が、働き、そのものに乗り移るといってもよい。自分であって自分でなくなる。……」
笹島喜平はこれぞと決めたテーマを表現するには現実の物象を写生によって目で見、心に感じたものを画面に定着させようと一点一画をおろそかにしないで最善をつくす。一作や二作では満足せず、次ぎの作、その次と繰り返すことになる。この繰り返しによって作為的な自我意識を取り去り、体の中に流れる血液(日本民族としてのDNAといってもよかろう)を汲み取るように、無意識に形が生まれてくることを待つ。つまり「行ずる」ことによって自我を取り去って、他力にゆだねるように無の境地にまで高めようとしたのだろう。そのなかでひとつでも納得のいくものができればそれでよいのだと、ひとつひとつの画面に全身全霊をこめて制作している。作品の第一試刷りが仕上がると遠くから見たり近くに寄ったりして「うーん良し」といって画架の両側に御燈明を立てて火を付け合掌したという。このように笹島喜平の画業はまさに版画道を極めるという行者の精進そのものであった。
だがしかし、この画人の最後に残した言葉は『葉隠』の「その道深く入れば成就することなし」であった。
生誕100年記念「笹島喜平展」(2005年 冨山県・朝日町立ふるさと美術館)図録テキスト