笹島喜平さんの最晩年
                                                   魚津章夫


  突然、道祖神のお呼びがあって、郷里益子に帰った。と笹島喜平さんから電話で連絡を受けたのでした。思いもよらぬことでその意味がとっさには理解が出来ないほど唐突なことでした。
 笹島さんとの最初の出会いは笹島さんが還暦の記念に「一塵」という画文集を出版されたので、編集関係者数人を招待して、慰労会を開きたいと申され、それに出席させていただいたのが始まりで、私が26歳の時でした。それから幡ケ谷のお宅、そして、府中四谷のお宅に数えきれないほどお訪ねし、その度に、直子夫人にもお世話になったのでした。
 直子夫人は永年教職に就かれていて、一見して、典型的な女教師という感じでした。私がお目にかかった時には、もう退職なさっていらっしゃいました。いつも目立たないようにお茶をお出しになったりして、なにかにつけて行き届いており、とても繊細な神経の持ち主のお方でした。
 若い頃は北原白秋の短歌『多摩』の門下生で、その後は木俣修の『形成』の同人として寄稿なさっていて、立派な歌集『古鏡』も上梓されていました。実妹のマサさんが同居されており、それがまた姉さんそっくりで、私などは今でもはっきりと区別がつかないのです。その妹さんも教職に就いていらしたと聞いています。
 府中のお宅は広い庭と門のある立派な邸宅で、突然の郷里益子に帰ったという笹島さんの言葉があまりにも現実と遊離しているので実感がとものわないのです。笹島さんが益子に移られて数カ月たって、マンションの一角にあるアトリエを訪ねました。二区画をご使用なさっていて、ひとつは住居、もうひとつはアトリエでした。この訪問から、8年間、3、4カ月に一度、ここを訪ねることになるのです。
 しかし、最初の訪問の時も次の時も、いつもの直子夫人も妹さんも出てこられないのです。それどころかまったく女性の気配がないのです。それでもしばらくの間はあえてそのことを気に留めるということもなかったのです。
 そして何度目かの訪問の時に、いつも奥様のお姿が見えませんが府中のお宅ですか、とおそるおそる聞きましたら、「離婚したんだよ、今でも夢に出てきて、可哀相うで…」と、これまた思いもかけない事実を知ることになったのです。そして事のおおよその成り行きを話してくださったのです。それこそ晴天の霹靂で、79歳の老齢で離婚というのは世間一般にはちょっと考えられないことです。それにもまして、直子、直子と言って、普通の夫婦以上に支え合って、厳しい苦難の多い作家生活を乗り越えてこられたことを知っているだけに、いっそう人生の皮肉な顛末にわりきれない思いをしたものです。
 それから数カ月して、ある日、私の店にめずらしく、いや、はじめて妹さんのマサさんが見えられ、姉は亡くなりました、一周忌を期して書き遺こした歌をまとめてやりましたので、私どもの家にいろいろ出入された方がありましたが、とくにあなたに読んでいただきたいと思い、お持ちしたのです。と言って歌集『河畔朝暮』を一冊くださいました。「姉は悲しんで死にました…」と事のいきさつをお話なさろうとなさいましたが、私は意識的にそれを聞くことを避けました。
 私は笹島喜平さんを版画家としての画業を讃えるばかりではなく、仕事に対する一徹さであるとか、気迫であるとか、厳しさであるとか、生き方やその人格に人生の師として尊敬していましたから、すこしでもそのような私の笹島像を壊したくないというとっさの心理がそうさせたのでしょう。いずれ時期が来れば私のほうから奥様の方の事情を聞きに行こうとおもったのです。そういう私の意を察してか、私の家内が場所をかえて聞き役に回ってくれたのでした。いろいろ複雑な事情が双方にあったでしょうが、笹島さんは画家として、残された人生の決着をどうつけるか、ぎりぎりの選択で、すべて絵を描くことに賭け、それを命の尽きるまで貫かれたのだろうとおもいます。そのためには煩わしい世俗のいざこざを断腸のおもいで断ち切られたにちがいありません。
 益子での笹島さんは一心不乱、制作に没頭されました。絵の内容はますます充実し、円熟しました。不動明王像を生涯に百体を制作したいという念願も達成し、百十体にもなったのです。最晩年にしばしば愛染明王をお創りになったのも、人間の愛憎の罪深さやおろかさを仏心にまで昇華させるべく、自らの心境を重ねて万感の思いで制作なさっていたのではないでしょうか。
 最後の一年間は益子の西明寺という由緒ある古刹が経営する普門院診療所の特別室を借り切り、普段は面会謝絶にして、そこからアトリエに通って、本当に命が燃え尽きるまで制作なさったのでした。
 87歳の最後の作品は「不動明王NO.110」ですが、まったく衰えはなく、気力の充実した威厳と風格のあるすばらしい作品であります。生前に長谷川潔さんの最期の5日前に訪ねた時の話をしてさしあげましたところ、たいへんに気になさって、私の場合にも5日前に来てもらいたいものだね、と冗談めいておっしゃっていたのでした。
 ところが、それが現実になったのです。益子では親子以上に笹島さんの身辺のお世話をなさっていた「古陶里」というレストランのご主人から連絡があって、先生の病状がおもわしくなく、今なら先生が会ってくださるから、ぜひおいでください、と言ってくださったので、とりもなおさず、診療所に駆けつけました。笹島さんはベットの中でもう小さくなっておられ、言葉はほとんど聞き取れず、眼の表情だけでわたしを確認なさったのでした。そして、1993年5月31日午前9時40分に亡くなられたのでした。
 後日、遺書が残されていて、作品類は
益子町に寄贈され、それをもとに立派な記念館が建てられました。また、墓所も生前に確保されており、墓碑名も事前に自筆で書かれておりました。それには「半画人−喜平・直子之墓」と記され、直子夫人とご自分の名を並べて書かれて保管されていたのです。多分、遺言どおり直子夫人の遺骨もそこに移されたのだと思います。それからまもなく直子夫人の妹さんの内藤マサさんも亡くなられました。
 私が離婚なされた当時の真相を、もうお聞きしてもよいのではないかという心境になって、その妹さんを訪ねるために、近日中にお伺かがいしたいという内容のハガキをさしあげましたら、今、体調を崩しているので、来られるまえに連絡をして来てください、というご返事をいただいていたのです。しかし、私は訪ねることなく、そのご返事のハガキだけがわたしの手元にのこることになったのです。

願わくは眠るがごとく我逝かん普門院の奥の部屋にて 
                       < 笹島喜平辞世の句>


『実業之冨山』1999年4月号初出                
『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎刊)より



笹島喜平の木版画(作品の紹介) 



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