長谷川潔の生涯
                                                  魚津章夫



生い立ち

  長谷川潔は1891年12月9日横浜で生まれた。銀行家の父のもとで裕福な家庭の5人姉弟の長男として育った。父は財界人でもあり、篤学の士で、美術文芸を愛して多くの文人墨客と交わっていた。潔も小学生の頃から、毎日書を習い、論語の素読をうけ、書画や陶磁器の鑑賞や日本画の筆法なども父から教えられた。一族のなかには明治初期に中国に渡って10年も絵を学んだ安田老山という南画家も出ており、潔は画家としての素質や気性を受け継ぎ、育んでいった。父の転勤にともない大阪に移り住んだが、翌年、潔13歳の時にその父・一彦が死去した。一家は東京に移り、潔は麻布中学に通ったが、卒業前に今度は母もまた病没するという不幸に見舞われた。

青年時代

 伯父たちのすすめで潔は外交官にむいているから、帝大で仏法(フランスの法律)でもやったらよかろうということになり、猛烈な受験勉強をはじめたが、無理を重ねたため胃下垂に喘息が併発するなど、身体が衰弱し、変調をきたしてきた。そして医師に「とても勤め人にむく身体ではない。自由業でなれれば保つまい」と宣告され、それで外交官を断念し、結局好きであった美術の道を選んだ。

 こうして画家を志すことになり、麻布中学を卒業した翌年、20歳(明治44年)の時から葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝に素描の指導を受け、ちょうどそのころ開設された本郷洋画研究所にも通い、岡田三郎助、藤島武二から油絵を学び始めた。大正初期の頃は「白樺」などによって西洋文化が流入し、その刺激を受けた若い文芸家や画家たちが輩出し、文学と美術の蜜月時代でもあった。大森の洋館に弟と住むようになり、文芸雑誌「聖盃」(後に「假面」と解題)の表紙絵を永瀬義郎と交代で担当することになるが、この雑誌を通じて、あるいは大森に在住する文人や画家たちと多く交流することになる。さらに翌年、短歌雑誌「水甕」の表紙絵や装画も手がけることにもなり、他の文学書の装丁なども引き受けるようになる。とくに生涯の友となる日夏耿之介の第1詩集である「転身の頌」をはじめとして堀口大學の詩集のための装画などはその代表的なものである。長谷川潔はこれらの文芸書の装画から自画自刻の創作板目木版画や木口木版画の制作を始めるようになっていくのである。また彼はその頃にはほとんど制作する画家がいなかった銅版画にも興味をもち、フランスから銅版画用印刷機や道具一式をとりよせたりして、岡田三郎助から、あるいは今は陶芸家としても有名なバ−ナ−ド・リ−チから、技法を学んだりしている。第1次世界大戦でフランスから帰朝した画家たちからパリの画壇の様子を聞くにつれて、これから画家としてやってゆくためには、あるいは銅版画を勉強するには、やはりフランスに留学しなければならないと思うようになっていく。 

渡仏、パリ画壇での活躍

 
第1次世界大戦の終結を待って、1918年(大正7年)長谷川潔27歳の時、再開された欧州航路第1便春洋丸で横浜港を発った。アメリカ経由の航路で、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ニュ−ヨ−クを経て、4カ月後の翌年4月4日にパリに到着した。しかし、旅の疲れと父親譲りの蒲柳の質で、極度に身体が衰弱し、健康回復のために静養をしなければならなかった。そのために、パリを離れて、秋には暖かい南フランスのカンヌやカ−ネに滞在することになる。ときおりスケッチブックをもつてプロヴァンス地方の村々を訪ね歩く。日本にはない石造の人工的な家並みと丘陵の自然の風物見事に調和とれていることに感動する。ルノア−ルやセザンヌやゴッホのゆかりの地などにも訪れ、ブルタ−ニュ地方などにも足を伸ばしている。南仏には3年ほど滞在するが、その間に油彩画をはじめ、たくさんのスケッチを残している。また版画においても、あらゆる版画の技法書を読み研鑚を積んだと記録している。そして、1922年(大正11年)イタリア旅行から帰って、パリに居を定める。
 長谷川潔が初めてパリ画壇に登場することになるのは、1923年(大正12年)にサロン・ド−トンヌに油彩画を出品した時である。それ以後、さまざま展覧会に出品していくことになるが、1924年にデュフィ−のすすめで、ソシエテ・パントル・グラヴ−ル・アンデパンダン(独立画家版画家協会)に入会する。ブラマンク、ドラン、デュフィ−,ロ−ランサン、マティス、ピカソ、スゴンザック、シャガ−ルなど画家であると同時に版画家であった新進の作家たちのたいへん権威のある団体で長谷川潔は1935年まで同会が解散するまで毎年出品した。1925年にはパリのヌ−ヴェル・エソ−ル画廊で初めての版画の個展を開催している。その頃にはかなり大型の銅版画やもうフランスでは廃れて道具も技法も忘れ去られてい
マニエ−ル・ノワ−ルという技法を復活して独自の改良を加えた実験的な意欲作など切ったように数多く精力的に制作しているが、それらを発表したところ、パリ画壇から驚きと称賛をもって迎えられたという。

苦難の中で開眼

  それまでは親の遺産によってなに不自由のない生活で制作を続けていたが、1940年代初めに大きな転機がやってきた。第2次世界大戦の勃発であった。サルト県の斎藤豊作宅に疎開するが、いったんはパリに戻ったものの、ドイツ軍のパリ侵攻によって、フランス政府、日本大使館とともにボルド−、ビァリッツへ転々と移動しなければならなかった。ドイツ軍のパリ占領後に再びパリに帰るが、為替管理法の強化で日本からの送金が激減し、また停止となり、経済的にも苦難を強いられることになる。戦時下の窮乏生活のため、健康を害し、喘息発作に苦しみつつ、制作を続けるが、戦争の激化とともに再び一時他所に非難する。一ヵ月後自宅に戻るが、日本・ドイツ・イタリア敗戦の結果、今度はフランス在住日本人とともにパリの中央監獄およびドラシ−の収容所に収監されることになる。約1カ月後に釈放されて帰宅するが、心身ともに疲労が激しく、しばらく制作を停止ししなければならなかった。このような苦難の戦時中に、ある日、パリの郊外を画題に使えるような、何か変わった草や石ころはないかといつものように散歩していると「不意に、一本のある樹木が、燦然たる光を放って私に語りかけてきた。『ボン・ジュ−ル』と答えた。するとその樹が、じつに素晴らしいものに見えてきたのである。いつも通る道の、いつも見る樹が、ある日ある時間、そのように語りかけてきたのだ。立ちどまって、私はその樹をじっと見つめた。そして、よく見ると、その樹が人間の目鼻立ちと同じように意味をもっていることに気づいた。土中の諸要素が、多少の違いだけで、他と異なるそのような顔をつくりあげたものであろう。しかし、人間とは友であり、上でも下でもないこと、要するに万物は同じだと、気づかされたのであった。」とこの劇的な瞬間を語っている。この神の啓示ともいうべき1本の老樹と交感して対話をかわす体験はそれ以後の絵画の考え方を大きく変えることになる。

長谷川潔芸術の完成と数々の栄誉

  戦時中は苦境の経済状態をなんとか克服しなければならないと思ったのか、版画よりも油彩画や水彩画の制作が多く、その個展を何度か開催したり、積極的にいろいろな展覧会に出品している。第2次世界大戦が終了して、平和が回復すると、戦前よりも制作点数がめっきり少なくなったとはいうものの、苦難を乗り越え、あの劇的な老樹との対話を契機にして、次第に銅版画の制作だけに集中するようになり、着実で安定した制作をするようになる。作為的で人工的な制作態度をとらず、白昼の光に照らされた自然の成り立ちを深く観察するようになり、その背後に隠された宇宙の摂理に関心を向け、そこにこそ美があるのだと確信をもつようになる。銅版画における技術も飛躍的に上達し、オ−・フォルト(エッチング)、ポァン・セッシュ(ドライ・ポイント)、アクアタント(アクアチント)ビュランなど西洋の銅版画のどの技法も最高の水準に熟達し、また独自の工夫を加え、それらから続々と名作が生み出される。しかし、最後に長谷川潔が到達したのは、はやくから着目し、改良して工夫を重ねていたマニエ−ル・ノワ−ルという技法で、晩年の約10年間はすべてこの技法による作品だけになる。
 マニエ−ル・ノワ−ルというのは17世紀中頃ドイツ人によって発明された銅版画の技術であるが、18世紀にフランスやイギリスで肖像画や風俗画として、あるいは絵画の複製画のために盛んに用いられていた。しかし、19世紀になって、写真が発明されると急速に衰え、その道具も技法もすっかり忘れられていた。長谷川潔はこの技法で作られた肖
像画を見つけて、この美しいマチエ−ルに着目する。これをなんとか自分の芸術としての銅版画の作品に使えないものだろうかと、使われていた材料や道具を探し求め、やっとベルソ−という道具を手にいれる。またインクの調合や印刷機の工夫や名人級の刷り師の協力など、苦心惨憺してとうとう完成の域に達する。このマニエ−ル・ノワ−ルの作品はまさに独創的なもので西洋版画の歴史においても、類例のない長谷川様式というべきものである。画面は幾何学的に緊密に調和のとれたものとなり、モチ−フのオブジェには象徴的な意味をもたせ、深い思想と世界観を暗示させている。またその黒色のビロ−ドのように美しいマチエ−ルは東洋美の粋、高雅な唐墨の黒色をなんとかこの銅版画で表出させようとしたものである。西洋の銅版画の技術と合理的な画面構成の方法を取り入れ、東洋の美的感性を統合して長谷川潔芸術は完成する。
 これらの業績はフランスでも高く評価され、レジヨン・ドヌ−ル勲章、フランス文化勲章、パリ市金賞牌などを授与され、フランス王立貨幣賞牌鋳造局が、葛飾北斎、藤田嗣治に次いで3人目の日本人画家として肖像メダルを発行した。さらにフランス芸術院コレスポンダン会員にも推挙されている。このようにフランスでは高く評価されていたにもかかわらず、一度も日本には帰らなかったこともあって、日本においてはごく少数の人たちにしか理解はされていなかった。
 1980年京都国立近代美術館で自選による「銅版画の巨匠・長谷川潔展」という大回顧展で長谷川芸術の全貌が紹介され、にわかに評価は高まることになったが、その年の暮に、パリの自宅で、孤高の老大家はひっそりとその生涯を閉じた。



      
没後20年「長谷川潔展」(2000年 冨山県・朝日町立ふるさと美術館)図録テキストに収録

          朝日町立ふるさと美術館で企画した展覧会
          


長谷川潔の画歴

長谷川潔の芸術

長谷川潔のビュランの世界

長谷川潔の芸術の特色

横浜美術館 長谷川潔コレクション物語

魚津章夫の長谷川潔関係の編・著書



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