さまざまな版画の技術や表現法を革新して、伝統的な浮世絵木版画とは別の近代的版画を創作し、版画を普遍的な高貴な芸術まで高めようと努力した。
長谷川潔の画家としての出発は文芸雑誌の表紙や文学書の挿画の木版画からであった。明治末から大正にかけて雑誌「白樺」などで西洋の美術文化が急速に流入した時期で、若い画家たちは西洋版画の影響などもあって衰退した浮世絵とは別の自画、自刻、自刷の個性を発揮した「創作版画」と称する新しい芸術としての版画をめざして制作しはじめた。
長谷川潔は板木に丸ノミやコマスキで直接絵を描くように粗削りの革新的な木版画を制作した。さらに多色木版画や紺紙金刷木版画、ぼかし摺り木版画など次々と実験的な試みもなしており、その頃ほとんど手がける人がいなかった木口木版画やフランスから道具を取り寄せて銅版画も制作している。ようやく画家として世間的な評価を受けるようになっが、もっとあらゆる版画の技術を学ぶために27歳の時にフランスに渡った。
フランスでは西洋版画の銅版画の技術のほとんどをマスタ−した。そればかりではなく、そのいくつかの技法、例えば、アクアタントやビュランやマニエ−ル・ノワ−ルという技法を独創的なものに革新した。とくに晩年のマニエ−ル・ノワ−ルにおいては、西洋版画の歴史においても特筆されるべき様式を確立した。
長谷川潔の版画においては素材や技術を最高度に生かしきって、版画でしか表現できない効果が発揮されている。技術は練達しており、それぞれの作品は用意周到な準備がなされ、巧緻である。その画趣は至純で高潔な精神によって統御されており、透明で品格がある。長谷川潔は版画というものを極めて高尚な芸術まで高めようとしたのである。
自然を細かく観察して、心眼で美の根源を感知して、その思索を静物画で象徴構成する。
長谷川潔は大戦中のある時から、自然を科学者のように細かく観察するようになった。できるだけ細密に正確に素描するのは、自然の模倣や写実のためではなく、草や花や樹の形態を観察することによって、それらの内部にある性質や魂に触れたいがためであった。つまり、目に見える世界から見えない世界へ入り込むためである。そのためには、心の目、心眼で、それらの背後に秘められた宇宙の真理を読みとらなければならない。そのような観察にから、地球上にあるものはすべて存在理由があり、それらは密接に相互に連鎖し合っていて、自然のすべての要素はそれぞれの役割を担っているという長谷川潔独自の全一的な自然観をもつにいたった。自然の摂理を把握することによって、移り変わる現実の事象を描きとめるというよりも長谷川潔は普遍的な美を捉えようとしたのである。1950年代のビュランによる草花の作品などでは、できるだけ人工を加えない白昼の光に照らされたあるがままの形象を描き表そうとしている。しかし晩年のマニエ−ル・ノワ−ルの静物画では写実ではあるが、外界をそれ自体としては描かないで、身辺にあるオブジェにインスピレ−ションを得て、それらに思索の意味を託して、それぞれ調和がとれるよう再構成して、象徴的に表現するようになる。絵の中に時間や思想を取り入れてはいるが、けっして理論を押しつけてはいない。画面はいたって平易明瞭である。
西洋版画の技術に熟達し、東洋的な感性と統合させて、西洋と東洋が融合、昇華した独自の版画様式をつくりあげた。
長谷川潔は西洋の銅版画のほとんどの技術に練達している。その中でも、熟練と忍耐力と強度の集中力を要するもっとも難しいといわれている西洋の本格的ビュランは清廉潔白な性格の長谷川潔にとって自己の真実を表出するには最適の技術であったにちがいない。仏訳「竹取物語」のビュランによる挿絵や1940年から50年代の風景や草花の作品は西洋のクロス・ハッチングによって陰影を現す手法をできるだけ避けて、平行線によって中間色を現し、できるだけ純粋で清潔な線を生かしきっている。それらの線描には日本のやまと絵や絵巻物や浮世絵の輪郭線などの美しい線、あるいは、水墨画にみられる一回限りの鋭い気魂を感じさせる線などの伝統的な日本的感性が見事に発揮されている。また、純白の余白の背景のとり方なども何も描かれていない空間が絵画の構成要素となっていて、いかにも日本的表現法である。さらに晩年のマニエ−ル・ノワ−ルにおいては東洋美の粋である唐墨のしっとりとした芳醇な黒を褐色がかった黒や青藍がかった黒などと作品のモチ−フによって使い分け「黒に五彩あり」という、黒一色で多くの色を感じさせる東洋の伝統美と、西洋の幾何学的な厳密な画面構成によって「心身一如」の幽趣ある瞑想世界を現出させている。このように長谷川潔は西洋の銅版画の技術や構図法と東洋の象徴性と神秘性を見事に統合させている。