長谷川潔の芸術

          永遠の美を求めて                       

                                                   魚津章夫

 「それは、今次大戦中のことだった。ある朝私は、いつもとおなじように籠を手に、画題に使えるような、なにか変わった草、石ころはないかと、パリの近郊に散歩に出た。戦争が始まっても帰国せずにフランスに留まったままの私は、そのためにひじょうなる物心両面の苦労を日々かさねていたころのことだった。そこで、その朝も、遠くの雲を眺めたりしながら、いつもの通る道を歩いていったのだったが、不意に、一本のある樹木が、燦然たる光を放って私に語りかけてきた。「ボンジュ−ル」と。私も「ボンジュ−ル」と答えた。するとその樹がじつにすばらしいものに見えてきたのである……。  いつも通る道の、いつも見る樹が、ある日ある時間、そのように語りかけてきたのだ。立ちどまって、私はその樹をじっとみつめた。そしてよく見ると、その樹が人間の目鼻だちとおなじように意味をもっていることに気づいた。土中の諸要素が、多少の違いだけで、他と異なるそのような顔をつくりあげたものであろう。しかし、人間とは友であり、上でも下でもないこと、要するに万物はおなじだと、気づかされたのであった。ラジオの受信機にしても、出来の良し悪しはあろうとも、ともかく調節すれば音が聞こえてくる。それとおなじように、波長を合わせることによって聞こえてくる万物の声というものがあるのだ。そのとき以来、私の絵は変わった」。

 
長谷川潔の言葉のなかでも最も感動的な断章である。長谷川潔の芸術は版画においてその本質が集約されているが、とくに銅版画において、天性の繊細で緻密な才能を発揮している。まずはその技術面での完璧な技量に誰しも驚嘆させられる。しかし、この衝撃的な言葉に出会ったら、それ以来、長谷川潔の芸術の内容、つまり精神的な思想や自然観に関心を向けざるをえなくなる。長谷川潔が自己の資質を自覚し、自分は何者であるか、自然の中にある美の根源を如何にして見出したか、技術の熟達と絵の構成に思想の深化がどのように密接にからみあっているかをたどれば、長谷川潔の芸術がより深く理解されるはずである。近年、作品の背後に隠された思想内容がかなり解明されてきているが、ここではその根底にある自然の観察からどのように芸術の内容を高めていったか、長谷川潔が生前に語ったり、書き残したりした言葉の断片を拾い、理解の糸口を探ってみる。

  冒頭に告白された最後の一節、「その時以来、私の絵が変わった」ということはどういうことをさすのであろうか。別のところで長谷川潔は次のようにも述べている。「…ほんとうに自然というものがわかってきたのは戦争を体験してからなんです。それまでいろいろやった中にも、僕自身は出ているんですけれど、戦争中に、肉体的に随分苦しみを受けて、その反対に精神的には深まったように考えます」。
 長谷川潔の父は銀行家で、潔は裕福な子息として幼年時代はなに不自由なく育った。12歳の時に父を失い、つづいて19歳の時に母も亡くなり、突然、不幸にみまわれるが、それでも遺産によって経済的にはなんら心配はなかった。やがて画家を志し、1918年(大正7年)27歳の時に渡仏した。翌々年、日本に残した弟弘が病没。最初は健康を回復させるために南仏に滞在して保養のかたわらフランスのあちこちを旅行してスケッチをしたり油絵を描いたりして、画家としての研鑚をつんでいたが、とくにその期間に西洋の版画のあらゆる技術を徹底的に研究した。1924年にパリにアトリエを構え、銅版画による個展をかわきりにパリ画壇にデビュ−した。すでにフランスでは廃れて誰れも試みることのなかったマニエ−ル・ノワ−ルという技法を独自の表現で復活して注目された。さらにサロン・デュ・フランス展に指名出品を受け、ジュ・ド・ポ−ム美術館に作品が所蔵され、サロン・ド−トンヌの会員にも推挙され、順調な活躍ぶりでフランス美術界に認められるようになった。経済的にも遺産の金利や株の配当による定期的な日本からの送金でイタリアやスペインなどにも旅行したりして十分に優雅な画家生活を送ることができた。
  ところが、1939年に第2次世界大戦が勃発して、とくにフランスの敵国となった日本国籍の長谷川潔は、状況が一変し、心身とも苦難をしいられることになった。危険を逃れるためにサルト県の斎藤豊作邸に疎開したり、ドイツ軍がパリに侵攻した時には再びパリを脱出して、ボルド−、ビァリッツ、ヴイッシイと転々と逃避行を重ねなければならなかった。ドイツの占領地となったパリに戻るが、日本の為替管理法の強化で、送金が激減し、あるいは停止となり、「パリは石炭欠乏、寒冷のため大いに降雪。市民生活はさらに困難を加え、しばしば病臥」、食料不足と困窮の生活を強いられるが、まとまった収入を得るために喘息の発作をこらえつつ油絵を多く制作する。米英軍によるノルマンディ上陸作戦が開始され、パリは数日間無政府状態となり、市内各所で流弾による死傷者なども続出して、自宅も襲われ一時他所に避難する。さらに翌年の1945年(昭和20年)には独伊敗戦の結果、在留日本人としてパリ中央監獄のドランシ−収容所に収監される。フランスの知人や有力者の尽力で約1ヵ月で出所するが、帰宅後もある期間、警察に出頭、絶えず監視される生活で、心身とも疲労が続き、ほとんど制作を停止しなければならなかった。長谷川潔にとって生まれてはじめての苛酷な苦難の試練が降りかかったのであつた。
  長谷川潔の画家としての自然を見る視点をたどってみると、渡仏前であれば、日常では見られないような景色、旅先での珍しい異国風な風景であるとか、花などの静物では形のおもしろさや美しさの装飾的なデザインなどに関心をよせて作画している。そこには夢幻的な光景やすばらしい天性の装飾感覚もみられる。強い光と影のコントラストをあら彫りの黒と白の面で構成した「丘の上の牛」(1914年) や「洋人の庭」(1916年) などの風景木版画、「函館港」(1917年) などの多色板目木版画、ぼかし摺り木版画「海岸の上の群」(1917年) や“Fantagic Design ”として文芸誌の表紙絵から独立させた紺紙金摺りの「種子草」(1916年) 、「柳」(1916年) などで、それぞれ革新的な新しい技術を開発して、これらを表現している。写実よりも表現主義的な、象徴主義的な傾向が見られる。

  渡仏してからは、まず日本では見られない昔の石造建築の建物に強い関心を示している。とくに南仏の建築物のくっきりとした三角や四角の幾何学的な形とマッス(量塊)のつくる光と影の美しさにひかれてたくさんの風景画を描いている。油彩画などを見ると、いくらかセザンヌやキュビスム的な造形も意識していたのかもしれない。「ヴァロリス」(1922年) 、「キャンペレの古い家」(1922年) 、「四角い塔のある風景」(1924年) 、「ヴォルクスの村」(1927年) などに見られるようにオ−フォルト、ポァント・セッシュ、多色板目木版画、リトグラフ、マニエ−ル・ノワ−ルなどのいろいろな技術を模索して、光と影の風景版画としての立体的な効果の表現に苦心をしている。
  次には建物を中心に周辺の丘や村の屋並みの風景に眼を移している。プロヴァンス地方のどんな小さな村でも中央に高い美しい鐘楼の教会があり、それぞれその村なりの特徴をもっていて、東から西への太陽の動向だとか、村道に向かう形だとかあらゆる機能を考慮して村の形の全体が構想されてる。長谷川潔は古いロマネスク時代のものほどシンプルで美しいと言ってスペインの古い村落やイタリアの古跡などに足を延ばしている。これらはまだ自分の好きな外観的な形の美しさや眺望の美しさを求めての探索の旅であった。同時に身辺の物、草花にも関心を向けて、静物画も多く制作するようになる。「丘上の教会(サン・メ−ム)」(1924年) の大型銅版画から「マルキシャンヌの村」(1934年) 、「マルキシャンヌの村」(1934年) へとポァント・セッシュの風景画の名作が誕生していく。
  大戦中の疎開先での例えば「窓からの眺め」(1941年) 、「ヴェヌヴェル風景」(1942年) などの周辺の風景画になると、美を求めて探索するというよりも、自分を固定させて、一つの対象物に注視する傾向になっていく。経済的に余裕がなくなってあちこち旅行に行けなくなったとも言っているが、平凡な日常のなんでもない自分の周りにも今まで気がつかなかったようなものの中に美しいものがあることを発見する。「木と月」(1954年) 、「林檎樹」(1956年) などのオ−フォルトの哀感あふれる風景画の秀作なども生まれる。
  フランスの田舎の広々とした野原にはなにもされずにいろいろな野の花が咲き乱れている。散歩に出かけ、はじめはその美しさに心をひかれて、花を摘みとったり、写生をしたりしていたが、草花ひとつひとつを観察しているうちに、なぜこんなにたくさんの草花がこの地球上に咲いていて、それぞれ形がちがい、色がちがい、様子がちがうのだろうと疑問を持つようになつた。静かに注意深く見ると、自然は思いがけないところに美を見せてくれる。微小な草花でも、ひとつの小宇宙ともいうべく調和した神秘的な世界を見せてくれる。今までは見ていたのではなく、ただ漫然と眺めていたにすぎなかったのだ。この不思議な疑問を解くべき探求がはじまった。それでますます細かく観察して、それらを写生するようになっていった。冒頭の神の啓示とも言うべき樹木と魂を交感する衝撃的な体験はこのような時点での出来事であった。それはまた戦時中の重苦しい逼迫した苦難生活の真只中で、ある日の散歩の中での体験であった。それはまさに“美の開眼”であった。                        さらに次のように言って、自然を科学者のような眼で観察している。「自然のあらゆる植物というのは、ただ咲いたり生えたりしているのではなくて、みんな存在する理由があるからだと思います。もちろん、人間もそうだし、あらゆる他の動物の存在も同じ理由があるからだと思います。花の場合にも何故色が違ったり、形が違うかということはおおいに理由があり、中に持っている要素の相違によるためですが、その要素の違いは非常に重要なことで、人間の場合にも何故こんな形に生まれるのかというと、やっぱり、要素からの関係によると考えられます。各存在物はおのおの使命をもっているわけです」「そうしてみると野の花も、各々草の体内に非常によく計算されたエレマン(要素)を持っていて、即ち含有物を異にし、ひなげしになったり、菊になったり、いろんな形になってくる。自然をより了解する大きな原点だと思うのです。このわれわれの住む地球上のあらゆる自然の要素というものは、そういうように非常に緊密かつロジックに組立てられている。また、美というものも自然の理からであり、書物などからではなく、それが僕のフランスにおける発見なんです。そういうことを自分が考えるようになってからは、絵を描いても対自然観が違うわけなんです。写実の意味が異なるのです」。「単なる木の外観的写実ではなくて、できるだけ木の中まで入り込んで目に見えぬ世界、即ち自然の神秘を知りたいという気持ちなんです」。「自然の写実は(木や草など)単なる写生ではなく地球上の存在物の外観の重要性、外観と内容との緊密な関係上、眼に見える世界から眼に見えぬ世界がさらに偉大なるものであるかを感じるためであります」。「コップに挿した枯れた野花」(1941年) や「野辺小禽」(1951年) などのビュランの傑作をはじめとして、この頃の草花の静物画には鋭い観察と正確な写実の結実を見ることができよう。
  さらに確信をもって決然と次のように自己の芸術を結論づけている。「誰も見ず、誰にも見られない野の枯れ草。路のほとりに投げ棄てられて誰ひとり、顧みる者のない貧しい一本の枯れ草。ところがこの繊い茎のこの微妙な迂曲には世にも不思議な旋律があり、この交互の葉は、このように萎れながらも、なおかつ、精妙的確なリズムを奏でています。自然の奥深く、もつともみすぼらしい、もっともつつましいものにも隠されている。宇宙のこの玄妙かつ純粋な律動の発見。……これが私の哲学です。― 風のない秋の昼さがり、一枚の枯葉が散るとき、空中を舞ひ、つとひるがえり、曲線を描き、地に落ちる。それが同じく神秘的なリズムです。森羅万象の根源には、かつてビタゴラスが星辰の広大無辺な運行に聴きとったあの不変的な楽音との共鳴がある。大自然の奥深くに、このような玄義を感知し、これを把握して、恣意に加えずに表現するのが私の使命、私の芸術です」。
 長谷川潔は自然を注意深く観察して、見えるものを通して見えない背後に秘められている宇宙の摂理を読み取り、そこにこそ美の根源があることをつきとめた。晩年のマニエ−ル・ノワ−ルによる静物画では、それらの自然観や思想を物(オブジェ)に象徴させ、幾何学的な厳密な画面構成によって、熟達した完璧な西洋の版画技術と唐墨のような美しい黒色で東洋的な感性を統合して、移ろいやすい現実の形ではなく、永遠の美を創造しようとしたのであった



『視る』NO. 399 (京都国立近代美術館 2002年発行 )収録

『長谷川潔の全版画』(玲風書房)
 
『白昼に神を視る』(白水社) 





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