横浜美術館 長谷川潔コレクション物語
「銅版画家 長谷川潔展―作品のひみつ」展
平成18年(2006年)に横浜美術館で大規模な「銅版画家―長谷川潔―作品のひみつ
」展が開催された。長谷川潔が亡くなってから26年になる。生前に直接親しく面談した人もほとんどいなくなってしまった。パリのアトリエに足を運んだ数少ないひとりとなった私がその展覧会中にトークサロンに招待を受けて、最初にアトリエを訪問した時の印象の話やいくらかの作品の説明をさせていただいた。
その時の展覧会場で展示された作品は258点であったが、それはすべて横浜美術館の収蔵品である。そのひとつひとつを拝見して、この美術館の長谷川潔の作品のコレクションのはじまりには私が関わっていたので、ひとしお感懐深いものであった。
この展覧会の時点で、横浜美術館の長谷川潔の作品コレクションは版画約657点、油彩画7点、さらに日本側遺族の長谷川家より、1000点を超える水彩と素描・下絵のほか50枚の銅版画の原版が寄贈されたそうである。今や日本はおろか世界最大規模のコレクションとなったわけである。
長谷川潔の銅版画との最初の出会い
私が長谷川潔の銅版画に出会ったのは1966年の25歳の時であった。オープンしてまもない新宿・京王百貨店で、みづゑ創刊60周年記念「戦後20年 現代日本版画展」(美術出版社主催)が開催されたが、主催の担当者は『みづゑ』の功労者のひとりである田中邦三さんで、私がそのお手伝いをすることになったのが始まりである。展示された作品は「仮装したる狐」「玻璃球のある静物」「コップに挿した種草」の三点であった。それと銅版画集『Portrait de hasegawa』がガラスケースの中に納められていた。
この展覧会の出品作は、長谷川さんが毎年出品していた春陽展の窓口になっていた横浜在住の洋画家である田辺謙輔さんを通じて交渉し、パリから直接送られてきた作品であった。そして、この展覧会がきっかけで、美術出版社と京王百貨店との提携関係が緊密となり、店内に常設の版画専門ギャラリー「版画サロン」が開設されることになった。
ギャラリーは全国の百貨店では唯一のもので、当時としては画期的なものであった。毎週、現存の版画家の個展による企画展が開催され、注目された。さらに大催事場ではベネチア・ビエンナーレ・グランプリ受賞記念「池田満寿夫銅版画展」、「池田満寿夫ミニァチュール全版画展」、特別室で「長谷川潔銅版画展」も開催されたのである。そして、それらの実務を美術出版社・版画友の会の仕事として私が担当することになったのである。
新宿・京王百貨店での「長谷川潔銅版画展」(1968年)では、今度は田中邦三さんを通じて直接パリの長谷川潔さんに依頼され、承諾を得ることができた。しかし、その当時作品の販売は株式会社日本アート交易という会社と契約しているので出品作品はその会社を通してほしいということであった。また、その出品作の具体的な選定の段階になって、作品の状態や刷りの品質は作家自身が確認したものでないと困るということなり、結局、ほとんどの作品はパリの本人から直送されてくることになった。
展覧会の開催準備の過程で、長谷川潔の銅版画は同じ絵柄のものであっても、ステート版(修正版)があり、あるいは刷りの状態や黒色のインクの色調の違いなどがあって、作家の眼による品質は各作品によって、それぞれ異なっていることが次第に解ってきた。
横浜市民ギャラリーでの「長谷川潔展」
私は1971年に株式会社プリントアートセンターを設立して独立した。現代版画の普及の拠点として『printArt』という機関紙を発行し、併設のギャラリーも開設した。オープニング記念として、池田満寿夫さんを中心に当時国際版画展で受賞した12人の新作展「プリントアートの旗手12人展」を皮切りに、毎週、現代版画の展覧会を開催していた。1972年の札幌冬季オリンピックの公式行事『日本の現代版画展』にも協力した。
1974年に銀座・松屋の催事部から、今注目されている現代版画をテーマとした展覧会をぜひ企画してほしいという依頼があった。それを実現したのが「現代版画の展望―日本の28人展」であった。この展覧会はたいへんな反響があって、今から当時を振り返ってみれば、現代版画の一時代のピークであったような気がする。
この展覧会がご縁で松屋の美術部に現代版画の作品を納入することになったのである。不思議なことにこのことも、札幌冬季オリンピックの公式行事『日本の現代版画展』への協力も、やがて横浜美術館の長谷川潔コレクションに連なってゆくことになるのである。
私は1977年に体調を崩して京橋にあった事務所と画廊を閉鎖したが、翌年に東京駅八重洲口前に八重洲ブックセンターが開店して4階に版画コーナーが開設され、その運営を任されることになった。
ある時、そのお店に京王百貨店で開催された「戦後20年 現代日本版画展」や「長谷川潔銅版画展」でお世話になった横浜の田辺謙輔さんがやって来られて、横浜市民ギャラリーでも「長谷川潔展」をやりたいといっているが、ひとつ協力してやってくれないかと頼まれた。
田辺さんと北岡文雄さんの所蔵作品に加えて、地元横浜のコレクターや関係者からも出品作品を借りる準備をしているところだという。私は快く了解して、当時、私を支援してくれていたコレクターS氏から代表作20点を借り出して、作品約50点と豪華版画集『長谷川潔の肖像』『竹取物語』を展示した「長谷川潔展」(1979年9月)が開催された。春陽会の版画部の人たちの協力もあって、立派な展覧会になった。
その翌年、銀座・松屋の美術部から私に一本の電話が入った。画廊で今「長谷川潔展」を開催しているという。是非見てほしいということであった。たいした宣伝もしていないから、出入りの画商が即売のために持ち込んで展示しているのであろうと、とりあえず、見てみることにした。
その展示された作品約 50点と豪華版画集『竹取物語』、『日夏耿之介定本詩集』(3部本)などを見て驚いた。すばらしい内容の展覧会なのである。先に横浜市民ギャラリーの「長谷川潔展」よりもはるかに質の高い展覧会であった。作品の選定といい、刷りの状態といい、長谷川潔自身が自選してパリから直送されてきた京王百貨店での「長谷川潔展」と同じようなレベルの作品がズラリと展示されていた。
松屋の美術部の話によると、長谷川潔の作品の日本における販売の権利を契約していた株式会社日本アート交易の所有するもので、近々、その会社が解散するので、長谷川潔の最良の代表作品を一通り会社の財産として保管してあったが、一括して売却したいので、その購入先を見つけるために展示しているのだということであった。魚津さん、あなたが専門の分野だからどこか買ってくれるところはないでしょうか。と課長のKさんから懇請されたのであった。
京都国立近代美術館での大回顧展と『長谷川潔銅版画集』の刊行
株式会社日本アート交易というのは、日本橋三越本店で現代フランス具象絵画を中心に紹介する「国際形象展」を主催していて、そのフランス絵画の輸入会社であった。代表は日動画廊の娘婿である「ギャルリーためなが」の為永清司社長で、他に藤井画廊、梅田画廊、村越画廊などの代表者が取締役として名を連ねていた。
私はその頃には、何度もパリの長谷川さんのアトリエに伺っていた。長谷川さんの作品は専属の刷り師が亡くなって、その後一点も制作されておらず、長谷川さんの手持ちの作品の内情をよく知っていたので、これだけの良質の代表作がまとまったコレクションは今後おそらく出ないであろうし、一点一点買い集めていたのでは気が遠くなるほど時間がかかるだろうと思っていた。
実は、10年も前から美術出版社で長谷川潔の画集の刊行の計画がすすめられていた。その発端は京王百貨店での「長谷川潔銅版画展」であった。はじめて代表作50数点を会場に展示して、長谷川さんに直接交渉にあたった田中邦三さんも私も、それらの作品に大いに感動したのである。
そこで、これは是非画集を刊行すべきであると私は田中さんに進言した。丁度、阿波慶さんという長谷川潔の親戚筋にあたる方が、その展覧会に来られて作品を購入して下さったが、阿波さんはしばしば長谷川さんのアトリエに足を運んで直接作品を譲り受け、すでにかなりをコレクションされていた。その阿波さんに画集刊行の打診と根回しをお願いしていたのである。
しかし、それらは遅々として進まなかった。その後、『季刊版画』の編集長であった川合昭三さんが休刊後、出版部長になって正式に交渉された。ある時には私が大下社長とパリのアトリエに同行して説得にあたったこともあった。そのうちに京都国立近代美術館の館長であった河北倫明さんの強い意向もあって回顧展の計画がすすめられることになった。
画集の図版印刷では、長谷川さんのマニエール・ノワールの作品は黒色の調子がいちばん大切なところで、原作をよく見て校正をすすめてもらうために、すべての作品を買い取って欲しいという長谷川さんの強い要望であった。この条件も障害になっていたが、幸いにして京都国立美術館が回顧展の出品作を何度かにわたって長谷川さんからじかに購入することになった。
これによって画集の刊行と回顧展の準備が併行してすすめられた。長谷川さんは手元にある作品を一枚一枚慎重に吟味して納入され、1980年に160点が展示された大回顧展「銅版画の巨匠 長谷川潔展」が開催された。しかし、画集は生前には間に合わなかった。
したがって私の知るかぎり、京都国立近代美術館の長谷川潔の収蔵作品は本人が後世に遺すことを意識して自選されたベストの品質の作品であると思う。
また松屋美術部から売却を頼まれたアート交易のまとまったコレクションもそれに劣らぬ優品であった。私はこれらを一括して購入できるコレクターを二、三人知ってはいたが、先に横浜市民ギャラリーでの展覧会を手伝ったことから、このコレクションは長谷川潔の出身地である横浜市がぜひ買うべきであると心の中で固く決めていた。
そこで横浜市民ギャラリーの「長谷川潔展」の時の担当者にさっそく打診してみた。購入の可能性がないこともないのでとりあえず資料を提出してほしいという返事であった。まだ横浜美術館ができる前で、その準備室もまだ開設されていなかった。ただ「みなとみらい21」計画という都市整備計画が進行中であり、その中に美術館の建設計画が盛り込まれているという話であった。
ちょうどその頃、私のところにパリで日本の現代版画展をやらないかという話が持ち込まれた。日本航空が服飾フアッションのパリ・コレクションのためにツァーを組んでいるので、その際、日本の文化を紹介したいという趣旨であった。作品の輸送は日本航空が負担し、会場はピェール・カルダン所有の展示会場「エスパース・カルダン」を提供するという。
私が日本の現代版画を普及するために設立した潟vリントアートセンターが丁度10周年を迎えるときでもあり、その記念行事としてこの話の企画を了承したのである。
パリでの「日本の現代版画パリ展」と長谷川潔の最期
パリで日本の現代版画の展覧会を開催しないかという話が持ち込まれ、その計画を承諾したものの、輸送費や会場費のほかに、いったいどれだけの費用がかかるものなのか、私には皆目見当がつかなかった。その他の膨大にかかる諸費用を独自で賄うことにはどう考えても無理があった。それをどう調達するかを解決しなければならなかった。しかし、若いということは無謀だと思われることでも怖れずに突進すれば案外簡単に難関を乗り越えられるものだ。
当時、八重洲ブックセンターの私のお店にしばしばお寄りになって親しくさせていただいていた、日本楽劇協会の米林那翁司さんという方がいらした。この方は元毎日新聞文化部の音楽担当の記者で、山田耕作に親交があって山田耕作の伝記などの執筆もされていた。この米林さんにそれとなく相談をもちかけたら、それは日本の文化を紹介するいい話であるからぜひ協力しよう、ということになった。
米林さんの助力で実行委員会をつくり、その委員長に参議院議員で外務委員長であった秦野章さんになってもらった。これによってトヨタ自動車や日産自動車、国際交流基金などから賛助資金を集めることができ、また外務省を通じてパリの日本大使館の協力も得ることができて、日本の版画家27名114点の展覧会が開催された。
この展覧会のために会場の下見や打ち合わせでパリに滞在した時に、事前に連絡して、長谷川潔さんのアトリエを訪ねた。前回訪ねた時には雑然と物がつみあげられていたアトリエはすっかり整理されていて、ガランとしていた。
長谷川さんはタオル地のガウンのような寝巻き姿でベッドから起きられて応対してくださった。私は京都国立近代美術館での展覧会の様子や反響を報告し、また横浜市に美術館の構想があることもお話した。たいへんお喜びになって、あなたに進呈しておきたいものがある、と言って自作の数点と古版画などの資料を私に下さった。その時の会話の中で、この部屋に掛かっている「花瓶に挿した花」の絵を横浜市に寄贈したいのだれけども、この絵は家内がいちばん気に入っている作品なので、家内が外出した時にパリの日通に頼んで発送してくれないかとお頼みになった。
私は、今回はその時間の余裕がないので、12月にパリで展覧会を開催することになっていて、1ヵ月ほど滞在しますから、その時にお手伝いしましょうと約束した。しかし、残念ながら、この約束は果たされなかった。
この頃の長谷川さんの窮状を、パリ在住の画家で長谷川さんを師と仰ぎ、すでにかなり病状が悪化した長谷川さんを入院させ、身の回りのお世話までなさっていた岩田栄吉さんが、「せっかく入院にこぎつけたのに、しばらくして、勝手に退院なさってしまった」と言って、疲労困ぱいしてもうノイローゼですよ、と「日本の現代版画パリ展」の開会式の当日、私にすがるように切々と訴えられていた。
私は先に頼まれた油彩画の発送の約束を果たそうと「日本の現代版画パリ展」の会期中に再び長谷川さんのアトリエを訪ねた時には、病状がさらに悪化していてほとんど会話のできる状態ではなかったのである。
この時のことは、本誌1999年3月号「現代版画と私 ― 長谷川潔の最期」で詳しく記述しておいたが、たいへん悲惨な状況であった。ミシェリーヌ夫人は狂乱状態であり、息子(ミシェリーヌの先夫カス氏との子)はすでに60歳ぐらいで盲目、寝室やアトリエはひどい散らかりようで、明るくない電燈で私の目に映った室内は恐ろしい光景であった。ミシェリーヌ夫人の叫びのような言葉が理解できず、いったん外に出て、フランス語のよく解る画家の佐藤亜土さんを呼び寄せて対応してもらったが、我々のできることは当面の食料を枕元に置いてあげることぐらいしかできなかったのだった。
私は「日本の現代版画パリ展」の対応に追われ、また終了後の後始末に忙殺されて病状が気になりながらも、その後に長谷川さんのアトリエに行くことができなかった。「パリ展」をやっと為し終えて114点の作品とともに成田に到着したそこで、出迎えてくれた私の家内から長谷川さんの訃報のニュースが届いたと伝えられたのであった。したがって、私が最後にアトリエを訪ねたのはお亡くなりになる五日前であったということになる。
代表作50点の長谷川潔コレクション横浜市に納入
不思議なことがあるもので、「日本の現代版画パリ展」の実現の重要な役割を果たして下さった米林さんが当時の横浜市長であった細郷道一さんとは旧知の間柄であった。市長と直接面談するコンタクトをとって下さって、私は市長に懸案の日本アート交易所有の長谷川潔コレクションは横浜市がぜひ収蔵すべきであることを一生懸命に説得したのである。
これまでもこの話は進展していないわけではなかった。横浜市の企画調整局や他の文化関係の課長とも折衝し、また市の文化顧問であった山田智三郎さんや高階秀爾さんに直接作品を検品のためご覧いただいたりしていたのである。横浜市の「みなとみらい21」埋め立て整備計画の美術館建設とも絡んでいたために、最初の打診から1年近くかかったが、結局、市長への直接説得したのが効を奏したしたのか長谷川潔の銅版画の代表作約50点と『日夏耿之介定本詩集』『竹取物語』は横浜市に収蔵されることになった。したがって、今から振り返ってみれば、パリで展覧会をすることになったのも、長谷川潔さんの最期に立ち会ったのも米林さんとのめぐり合わせも横浜市に長谷川潔の代表作のコレクションんが収蔵されることになったのもそういう不思議な運命にずっと連なっていたように思えてならないのである。
収蔵後の翌年1981年4月に市民にこのコレクションを披露するために横浜市民ギャラリーで「横浜が生んだ世界の巨匠―長谷川潔展」が開催された。この時の展覧会も私が全面的に協力することになった。その時には市長や横浜の文化人の方々に展示された作品の説明をさせていただいた。また、1982年に横浜美術館建設の具体的な計画が策定され、開設準備室(横浜市市民局市民文化室)が設置された。また、長谷川潔さんの一周忌に「長谷川潔を偲ぶ会」も遺族代表の長谷川仁さん、田辺謙輔さん、北岡文雄さんと私が中心になって上野の精養軒で開催し、横浜市の関係者も出席され、この頃には収蔵されたコレクションを中心にさらに拡充してゆく方針になっていて、美術館が建設される時には長谷川潔の特設の部屋もつくりたいという意向も遺族に伝えられていた。横浜美術館基本構想は委員会を設置してすすめられていたが、最初のうちには美術館の特色として美術資料センターとして力点をおきたいという話や、写真芸術を中心にすべきであるとかという噂が時折、私の耳に聞こえていたが、美術館基本構想委員会の委員や準備室のスタッフなども内部変動があって、その構想がまだかなり流動的であったらしい。
1985年頃に
倉田さんは美術館づくりのエキスパートで
私は札幌でいくつかのかなり大規模展覧会の開催に関係したことがある。1970年には札幌時計台文化会館で「現代版画のフロンティア展」、1972年には冬季オリンピック公式行事の「日本の現代版画展」に協力し、1976年には札幌・松坂屋開店2周年記念「現代版画の状況展」を主催した。その時、いつも現地でひとかたならぬお世話になったのが後日、道立美術館の学芸部長となり、その後、横浜美術館学芸部長となった武田厚さんであった。いずれも今の道立近代美術館が開館する前で、松坂屋展の時には倉田公裕さんは道立美術館設立準備室長で開会式には挨拶もしていただいて、お世話になった。倉田さんも武田さんも元は山種美術館の学芸部に在籍されていたことがある。
日本のテレビにはじめて出演
倉田公裕さんが横浜美術館の開設準備室長(市民文化室)として赴任されてから、しばらくして、今度は北海道立美術館学芸部長であった武田厚さんが助っ人として開設準備室に来られた。多分、倉田さんの要請であろう。
先にお話したように、お互いに若い頃、私が出版社に勤めていて、北海道札幌で企画開催した「現代版画のフロンティア展」や独立してから私が主催した「現代版画状況展」、そして札幌冬季オリンピック公式行事の「日本の現代版画展」をお手伝いした時に武田さんにはたいへんお世話になったのであった。
武田さんにはまた、当時外務省の東欧課長で後に最後の東ドイツ大使になられた新井弘一さんの、すばらしい日本の創作版画のコレクションを道立美術館に納入した際にも窓口として力になって下さった。
美術館の開館する前、1987年の6月頃だったと思う。横浜美術館開設準備室の猿渡紀代子さんが私を訪ねて来られた。美術館のビデオライブラリーとして、横浜ゆかりの作家を紹介するビデオを作成しているので長谷川潔に関することをいろいろ教えてほしい、ということであった。非常に熱心で、質問の内容もはっきりしていて、私の知っている主だったことをお話した。
長谷川潔さんの生前、1976年、11月3日の文化の日に、NHKテレビのスタジオ102という朝の生番組で特例として15分間を割き「世界版画の雄、長谷川潔の人と芸術」が報道されたことがある。当時の報道ディレクターは羽田さん(元羽田総理の弟さん)で、私のギャラリーに訪ねて来られたのは棟方志功の贋作の取材であったが、かなり強引にパリの長谷川潔の紹介をすすめた。それで私が全面的に協力することになり、一度も日本にお帰りになっていない長谷川潔を羽田さんが現地のパリ支局と連絡をとって取材することになった。
しかし、最初は取材を拒否され、若い頃からの友人であった堀口大學さんや萩原駐仏大使に説得してもらって、ようやく実現できたいきさつなどもお話した。NHKのパリ支局員が長谷川さんのアトリエに取材に行ったところ、電話がなく、また撮影できるような電源もなく、発電機を持ち込んで取材したという苦労話も現地から伝わって来た。その時の16ミリフイルムが生前の長谷川潔の動く映像として唯一に残されたもので、NHKで保管されているはずであるから、ぜひ交渉して、それを使わせてもらってはどうかとお奨めした。首尾よくその一部が収録されて、そのビデオ映像はきっと今では貴重なものとなっているはずである。この時の猿渡さんの登場がその後の横浜美術館の長谷川潔コレクションの形成にとって、担当学芸員として非常に重要な役割を果たして下さることになる。
横浜美術館の開館
1989年に横浜美術館が開館した。 事前にオープニングレセプションの招待状が届いたので新美術館の準備室の武田さんを訪ねた。建物はヨーロッパのお城のような形をした豪壮なもので、その内部を案内してもらった。そこで、長谷川潔の銅版画の代表作を横浜市に納入させていただいたことや、生前の長谷川さんのメッセージや準備室ができる前に、市の事務局の担当者が新美術館には長谷川潔の作品を展示する特別室をぜひつくりたいとの意向があって、遺族との仲立ちをして差し上げたこと、そして、いつの間にか、その話がすっかり立ち消えになってしまっていることなどのいきさつをお話した。しかし、今、こうして案内をしていただいてこの建物を見ると、ほとんど小さな作品である長谷川潔の銅版画を展示する特別室のようなものは雰囲気としてもそぐわないものであるし、これらの話はなかったことにしましょうと申し上げた。
そこで、武田さんからは、魚津さんのような専門家は長谷川潔の業績をよく解っているでしょうが、横浜市の行政の人たちや市民はほとんどそのことを知らない。今の状態ではお話下さったようなことは難しいでしょうから、みんなにもっと理解してもらうために展覧会を開きましょう。まもなく、生誕百年ぐらいになるのではないでしょうか。そういう記念展であれば実現できるでしょう、と提案して下さった。
このようないきさつがあって1991年に、生誕百年記念「 長谷川潔の世界」展が横浜美術館で開催されることになったのである。
パリのアトリエに遺された遺品の競売
長谷川潔さんは1980年の12月に亡くなられた。その後、アトリエはフランスの当局によって封鎖され、遺された作品類は遺産の対象となり、長期にわたって調査がなされた。その結果、それらの作品にはスタンプ・サイン(ゴム印)が押され、自筆のサインのあるものは裏面に、サインの付されていなかった作品には、通常、絵の余白の右下に押されている。その調査によって、遺産の相続者には多額の相続税が課せられることになった。
そこで、その相続分の支払いのために1987年4月、遺作品の一部がパリのオテル・ドゥルオーで、「長谷川潔の遺産」と銘打って、第一回目の競売が執行されたのである。
その頃は日本がバブルの絶頂期で、ほとんどの出品作品が驚くほどの高額で落札された。その結果、それらの遺作の大部分は最終的には、日本の2ヵ所のコレクターの手元に納まることになったようである。しかし、残りの実際の遺作品はミシェリーヌ夫人のフランス側の遺族と、日本側の遺族との間で分配の交渉がつづけられ、結局、その相続手続きの解決には死後10年も経過し、1990年にようやく決着した。そして、フランス側の遺族に相続された分は、ミシェリーヌ夫人の姪の長男であるイヴ・ドードマン氏が管理することになり、すぐその年の6月にオテル・ドゥルオーで、第2回「長谷川潔の遺産」のアンコールとして競売に付された。
その時、私は丁度オランダやベルギーの美術館を見て回っていて、パリに着いて、友人からその競売が滞在中に行われることを知った。そして幸運にも前日に競売会社のオフィスに出向き、特別に出品作品の一枚一枚を事前に下見させて頂いた。その後にも1992年にロンドンのサザビーズで版画24点が競売に付され、さらに何人かの売人を通じて日本の市場にも大量に流入することになったのである。
「生誕100 年長谷川潔の世界展」の開催
横浜美術館がオープンして2年目の1991年、学芸部長の武田さんが約束してくれた生誕百年「長谷川潔の世界」展が開催されることになった。
その展覧会の担当になったのが、長谷川潔の画業を紹介するビデオ制作の取材のために私を訪ねてきた猿渡紀代子さんであった。先にちょっと指摘したように、猿渡さんがビデオ制作をまとめ上げられたことと、この大展覧会の準備作業を通じて、長谷川潔の画業についてしっかりと理解を深められたことが、やがて労作の評伝『長谷川潔の世界』(上・中・下)の著述や、横浜美術館における長谷川潔の大コレクションの形成、そして、それらの研究の成果である「銅版画家
長谷川潔− 作品のひみつ」展の開催へと大きな業績として結実していったのである。
生誕百年記念「 長谷川潔の世界」展では、アトリエに遺された遺品の日本側の遺族に相続された分を心待ちにしていたが、残念ながら到着しなかった。そこで、横浜市が所蔵している代表作50点と『日夏耿之介定本詩集』『竹取物語』に、京都国立近代美術館の所蔵55点、長谷川潔が渡仏する前に日本の親族に託していった長谷川家の初期木版画の作品、オテル・ドゥルオーでの競売で所有することになった油絵の小野コレクションから油絵5点、版画では同じく競売での鈴木英幾氏コレクションからも借り出して大回顧展が開催されたのであった。
横浜美術館の生誕百年記念「 長谷川潔の世界」展が開催される少し前に、東京都庭園美術館館長の鈴木進さんが私を訪ねて来られた。庭園美術館では海外で活躍した画家たちの紹介に力を入れているので、長谷川潔の展覧会を是非実現したいが、どうすればよいかという相談であった。鈴木さんとは、私の叔父が京都で古美術商を営んでいたので、そのお使いで学生時代から何度かご自宅を訪ねたりしていたこともあって旧知の間柄であった。
今、丁度横浜美術館でも計画をしていて、それを東京に巡回展として持ってきたらどうだろうか、私はそう申し上げた。だが、鈴木さんは、私どもとしては独自企画で進めたいし、長谷川潔は横浜の出身であるから、やはり単独開催の方がよいとのことであった。
その話はそれで決着したのだが、まもなく、死後パリのアトリエに遺っていた遺作が長谷川家に到着することになっていて、それまでお待ちになるのがよいでしょう、ということになった。
日本側の遺族に到着した長谷川潔遺作品
長谷川潔の死後、パリのアトリエに遺された遺作品は相続税の支払いのために一部はパリのオテル・ドゥルーオで競売に付され、それ以外はミシェリーヌ夫人のフランス側遺族と日本側遺族に1990年に相続された。結局、遺品の調査・確認作業や諸手続きに十年の歳月がかかったわけである。その後、フランス側の相続分についてはオテル・ドゥルーオで第2回目の競売やロンドンでのサザビーズで売却され、また売人を介してかなり大量に流入した。
日本側遺族への相続分については約1年がかりで輸入の手続きがとられ、1991年にやっと遺族のもとに届けられた。日本側遺族の代表者は長谷川潔の甥にあたる昆虫学者の長谷川仁さんであった。しかし、荷解きや作品のチェックのために時間がかかり、整理が一段落したのが1992年の9月で、この時に私が遺族から依頼を受けて、各作品の状態や品質を確認し、写真の記録が必要なものは、その時にすべて撮影した。さすがに昆虫学会では高名な学者であるだけに、ご夫妻で作成された膨大な数の作品リストは完璧なものであった。
庭園美術館での「長谷川潔展」
横浜美術館の『生誕100年 長谷川潔の世界展」が終了して、しばらくしてから、庭園美術館々長の鈴木進さんがやって来られて、予定していた企画展のひとつがとり止めになったので、長谷川潔の展覧会をなんとか急いで実現できないかと再度相談に見えた。ちょうどいい時にお見えになった。パリからアトリエに遺されていた遺作の数々が日本の遺族に到着したところですから、今度はぜひおやりになったらどうかとおすすめした。
そこで、長谷川仁さんを庭園美術館にお連れして、三者で会談して、1993年4月に長谷川潔のパリのアトリエに遺された遺作を中心とする「長谷川潔展」の開催が実現することになったのである。
しかし、この庭園美術館の展覧会はあまりにも会期が切迫していたので美術館側での遺作の品質の調査がまだ十分になされておらず、また版画に関する知識が十分ではなく、遺作の中には完成品とはいえない不良作品が混在していることに注意せずに準備が進められた。展示直前になって、そのことに美術館側でも気付いたのか鈴木館長から呼び出しを受けて、私と横浜美術館の猿渡さんが展示予定作を点検することになった。その結果、代表作の約30点は横浜美術館と他から借用して展示することにした。
この展覧会の会期中にもしばしば長谷川仁さんからこれらの大量の遺作をどうすべきか相談を受けていたが、フランス側の相続分として売却されたもののほとんどが日本の市場に流れており、それらはスタンプサインのみの作品が多く、遺作といっても、刷りの状態や品質において問題のある作品もかなりあった。
日本側の遺族に相続された作品を遺族から依頼されて品質を確認した時も、自筆サインが無く、刷り損じた作品なのか、試作なのか、刷りのためのサンプルなのか、単なる資料として保管されていたものなのか判別できないものが多く混在していた。
私は、これらをフランス側と同じように試作や不良な品質の作品が混在しているものを市場で売却することは将来禍根を残すのではないかと危惧を抱いていた。これらはやはりもっと徹底して調査する必要があり、そのために美術館が腰をすえてその作業を行い、品質の確認と選定をして所有するのが適切であると思い、私がこれまで関係してきた横浜美術館の学芸部長の武田さんを訪ねて、先に整理した写真資料やリストを持参して相談することにした。
ちょうどその頃、横浜の外人墓地近くの米軍の施設が返還されたので、長谷川潔の記念館にしたらどうかという話も耳にしていた。しかし、武田さんの意見では、美術館ではすでに購入予算が削減されているので大量の作品の購入は難しいということと、まず、ある程度の寄贈があれば、横浜市の方でも動き易くなるだろうから、記念館の話も進展するかもしれない。まず、市の方を納得させることができるような寄贈の形をつくることが先決であるというアドバイスであった。
横浜美術館へ調査のための預託、そして購入
1980年に亡くなった長谷川潔のパリのアトリエに遺された油彩画とデッサン類、そして版画のすべては、相続手続きに十数年を費やしてミシェリーヌ夫人のフランス側の遺族と、日本側の遺族に相続された。そしてフランス側の遺族に相続されたものはかなりの量が市場で売却され、そのほとんどは日本に流れ込んだ。
しかし、日本側に相続されたものはいくらかの作品は親族の人たちに分配されたらしいが、その大部分は横浜美術館に預託され、保管されることになった。というのは前回お話したように、横浜美術館の学芸部長の武田さんに長谷川潔のパリに遺された遺作の日本側の相続分について、市場で売却するよりも、横浜美術館で収蔵すべきであることをおすすめしたのだが、購入予算が削減になって、難しい状況なので、まずいくらかの寄贈の形をとれないだろうかということであった。私はそのアドバイスを受けて、このような説明を遺族の方にしたが、あまりよい反応ではなかった。この相続手続きにはかなりの出費がともなったこともわかっていたし、それぞれの親族に配分する必要もあるので、みんなの意向を確かめる必要もあったのだろう。という事情で私はこれ以上この話に深入りすることはしなかった。
しばらくの期間をおいて、横浜美術館の猿渡さんから長谷川家にあるパリから届いた遺作をすべて横浜美術館に預託された。と知らされた。それで、全作品を調査し、美術館でぜひ必要な作品は、毎年予算をとって購入する方向ですすめるということであった。
それから、1996年から2003年まで8年間にわたって段階的に購入され続けられたのである。
その結果、この物語の冒頭に申し上げたように横浜美術館の長谷川潔の作品コレクションは版画約657点、油彩画7点、さらに2004年には日本側遺族代表の長谷川仁さんより、1329点の水彩と素描・下絵のほか50枚の銅版画の原版が寄贈されたそうで、驚くべき数量に達した。長谷川潔の死後パリのアトリエに遺された遺作品が結果的にはこのようなかたちで理想的な方向に進み、あるべき場所に納まってたいへんよかった、と私は思っている。
1979年に横浜市民ギャラリーで開催された「長谷川潔展」をお手伝いすることから横浜市とご縁ができて、1981年には私が仲立ちをして長谷川潔の銅版画の代表作の50点と豪華版画集『竹取物語』、『日夏耿之介定本詩集』(3部本)を最初に横浜市に納入することになり、それから20数年の歳月の経過を経て、長谷川潔の作品のコレクションとしては世界最大規模のものと成長したわけである。
そして、この成果の事実上のお披露目の展覧会となった自館所蔵だけによる258点が展示された「銅版画家―長谷川潔―作品のひみつ 」という大展覧会が2006年に開催された。
入場者は34000人に達し、展覧会カタログの売り上げは会場と書店市販分を含めて7000冊であったと知らされた。
私は展示されたそれらの一点一点を拝見しながら、若い頃、長谷川潔の銅版画に最初に出会った京王百貨店でのみづゑ創刊60周年記念「戦後20年 現代日本版画展」を手伝ったこと、続いて田中邦三さんの尽力で実現した同じ京王百貨店での「長谷川潔銅版画展」を担当したこと、パリのアトリエで長谷川潔の最期に立ち会ったこと、それからいくつかの展覧会のお手伝いをしたこと、そして長谷川潔の遺稿集である『白昼に神を視る』や『長谷川潔の全版画』(カタログ・レゾネ)が刊行できたこと、さらに私の郷里の朝日町立ふるさと美術館で没後20年「長谷川潔展」を開催できたことなどを思いうかべて感慨深い想いに浸ったのであった。
最初の出会いから40年を経た今日、渡仏して一度も帰朝しなかった長谷川潔の故国日本において、今やその業績は銅版画の偉大な巨匠としての評価は確固たるものとなったことをこの目で確証することができたのである。
預託品返還と遺作管理委員会の設置
1980年12月に亡くなった長谷川潔のパリのアトリエに遺された遺作品は、遺族への相続の手続きに約10年の歳月が費やされた。そして、相続されたミシェリーヌ夫人のフランス側の相続分は、競売をはじめとしてかなりの量が市場で売却された。
また、日本側の相続分はほとんどの作品が横浜美術館に預託され、その後8年にわたって調査され、また収蔵されるべき作品は段階的に予算を計上して購入された。さらに遺族からは多量のスケッチ・デッサン類が寄贈され、これによって横浜美術館にはすばらしい長谷川潔大コレクションが形成された。
1997年に、版画界のスターであった池田満寿夫さんが亡くなり、それと前後して私の関係する版画家たちが次々と亡くなってしまった。日本の現代版画において、ひとつの時代が終焉したように思えて、私は富山県の郷里に居を移し、現代版画関係のコレクションや資料の整理にあたった。
その主たる仕事のひとつが長谷川潔の版画のカタログレゾネ『長谷川潔の全版画』の編纂であった。この仕事はパリのアトリエに遺された遺作のうち日本側の相続分が長谷川家に到着して、その確認作業に立ち合わせていただいたことが大きな動機となったものであった。これは1999年に刊行されたが、この移居がご縁となって、町の小さな美術館の仕事を手伝うことになり、この美術館で2000年には規模としては小規模であったが最良の作品を厳選した没後20年「長谷川潔展」を開催することができた。結局、この美術館に7年在職して、約10年間、この郷里の町に居住することになった。
私の現代版画関係のコレクションや資料の整理も一段落したので、2007年の春に東京に舞い戻った。転居する少し前に長谷川潔の遺産の相続にたいへんご苦労をなさった遺族代表であった長谷川仁さんが亡くなられた。それからしばらくして、横浜美術館の猿渡紀代子さんから連絡があって、長谷川仁さんが亡くなられたので、美術館で購入所蔵された以外の預託されている遺作を返却することになった。その返却の際に作品の状態や品質について客観性のある立場で厳密に選別しておきたいので手伝って欲しいという、遺族からの依頼の主旨が伝えられた。
私は3月に東京・立川市に転居したが、翌月4月24日に品質の選別・確認のための第1回の会議が横浜美術館で開かれた。そのメンバーは長谷川家から長谷川幹さん、東京藝術大学の名誉教授である中林忠良さん、横浜美術館の猿渡紀代子さん、そして私の四人で、オブザバーとして長谷川家から幹さんの娘さんが参加された。
この時点で、これが長谷川潔遺作管理委員会となった。その後、8回に及ぶ調査会議で作品の保存状態や、刷りの調子、修正版や技法などの品質の厳密な確認がなされ、すべての版画作品を左記のように分類された。
@ 自筆サインの入っている作品
A 修復すべき作品
B 自筆サインは無いが、完成作品で市場に流通しても品質に問題のない作品
C 廃棄すべき作品(販売禁止の作品)
D 下絵など版画制作に関する資料
このうちBについては、遺作管理委員会が作製したエンボスマークを刻印した。これによって、日本側に相続された作品からはおそらく将来において問題となる不良品が市場に流出することはないはずである。
このようにして、世界的版画家である長谷川潔の遺作のコレクションが後世に伝えるべき日本の貴重な文化遺産として、公的機関によってしっかりと保管され、活用されることになったのである。
2006年6月に永井画廊の永井龍之介さんから一本の手紙を受け取った。長谷川潔の展覧会を企画して今後作品を扱いたいので相談をしたいという趣旨である。その時はまもなく東京に舞い戻るので、いずれお会いしてゆっくり相談しましょうと保留したままであった。
それが、パリの長谷川潔のアトリエに遺された遺作が前述のように横浜美術館に預託された作品が返還されることになり、遺作管理委員会によって検品と整理がなされ、一段落したので、私が遺族に仲立ちして今年(2009年)4月に永井画廊銀座移転記念として、「長谷川潔展 ― パリのアトリエに遺された銅版画代表作と油絵―」が開催されたのである。 (完)
『実業之富山』(2009年)に10回連載。