阿部順三さんの絵と演劇                            魚津章夫


 この展覧会を企画する動機になったのは昨年東京から富山に移住された湊晴夫さんに同道して故阿部順三さんの不二子夫人をお訪ねしたことでありました。湊さんは富山大学の学生時代から阿部順三さんのお宅に出入りし、阿部さんの人格や演劇活動に感化を受けて、演劇を志して上京されたという夢多き青春時代の思い出をもつ朝日町泊出身の作家です。阿部さんに直接師事された最後の弟子のひとりでもありました。夫人は久しぶりに息子が帰って来たように暖かく迎えてくださって、いろいろな話題に花が咲いたのでした。歓談の時は過ぎ、さてこれで辞去しようと立ち上がり、ふと部屋の壁面の上の方に掛けてあった風景画に目が止まりました。最初は古道具屋の店に掛かっているようななんでもない平凡な風景画という印象でしたが、その絵は阿部順三さんが晩年に描かれた絵であると夫人からお聞きして、他の数点も今度は興味深く拝見しました。それらの絵のすべては自宅の周辺から見える田園風景でした。しかもその画面の3分の2は空であって、雲が描かれておりました。季節によって、あるいはその日その日の時の流れとともに刻々と移り変り、二度と同じ形を現すことのない雲の姿を油絵で克明な写実で描き止めた絵です。独学のアマチュア画家にしてはなかなかの力量です。聞くところによると晩年の3年間はこの油絵の制作に没頭されていたそうです。しかも70点以上の完成作が残されていることを知り、その集中力のすざましさになお驚きました。
 阿部順三さんの絵は「雲」だけの連作です。題名が「静美久動」というシリ−ズです。題材を限定して統一している姿勢からみて、これは相当にテ−マを煮詰めて熟考した上での強固な意思が働いており、辛抱強く持続されていたことを示しています。几帳面で繊細な感覚で描かれた静かな孤愁が漂う絵です。それにしても阿部順三さんが人生の終着の時点で憑かれたようになぜこの「雲」だけを選んで描き続けたのでしょうか。きっと深い意味が隠されているように思えてなりません。それを探ることが阿部さんがどういう心境で何を為そうとしていたか、これらの絵が何を訴えようとしているかを解き明かす鍵のように思えてきました。プロの画家の技術の巧い絵は必ずしも良い絵であるとはかぎりません。絵を描くことで何を為そうとしたか、どのような感動を見る者に呼び起こさせるかが大切なのです。芸術は物の見方と心です。
 にわかにこの「雲」の絵に関心が高まり、これは是非「朝日町立ふるさと美術館」で展覧会ができないものだろうかというアイデァがひらめいたのでした。以来、阿部順三さんに関する調査をすすめ、関係資料をあたるうちに、今度は別に絵画よりも劇団「泊演劇研究会」などの演劇に関する貴重な資料が続々と発見されたのです。そして阿部さんの演劇活動の全容が少しづつ解りかけてきて、書き遺された数々の熱意に満ちた文章などに接し、この事は戦後の復興期に小さな町(泊町)で展開された希に見るユニ−クな素人劇団の活動であること、また阿部さんの人間性を理解するには欠くことができないことのように思われ、この奮闘の記録を関係者がまだ現存する今のうちにぜひ纏めておく必要があることを痛感いたしました。通常の美術館の企画としては異例ではありますが、このような経緯で油絵のほかに演劇資料などを含めて展示して阿部順三さんの文化活動を紹介する展覧会がここに実現することになったわけです。
 阿部さんは旧制富山高校時代から絵が好きで入善町椚山の長島勝正さんのアトリエに出入りしたりして、画家を志望したこともあったそうです。また在学中のある時期には、深刻な虚無的な精神状態に陥り、学校の授業に疑問をもち、休学して土蔵に籠り、一心不乱に随筆や短編小説や戯曲などの執筆に熱中した熱烈な文学青年でもありました。大学は日大芸術科で映画を専攻。この多感な都会での学生時代の生活は絵を描き、文学を論じ、映画を語る“芸術放浪の時代”であったと回想しています。生来の芸術的な素質がふつふつと体の中を出口を求めて駆けめぐっていたのでしょう。社会に出てまもなく時局は急変して戦争が勃発、応召となり、終戦まで3回の召集を受けています。その間にも短期間でありましたが改造社の雑誌「大陸」の編集に関わったり、松竹本社にも在籍していましたが、実役5年4ヵ月の軍隊生活で、せっかく芽吹こうとしていた芸術的な才能もやむなく凍結せざるをえませんでした。
 復員して戦後はふるさとの町に帰り、しばらくして県農業会に勤務してやっと生活が支えられるようになって落ち着くと、再びむくむくと眠っていた芸術心を呼び起こし、芝居好きの同志と出会い、町の若者たちを集め、劇団「泊演劇研究会」を結成します。本業の農村の生活文化の改善運動のかたわら、その実践としての演劇活動にのめり込むことになったのでした。全く娯楽の無かった時代です。物資が不足した貧しい生活でしたがセットをつくる木材や、紙や絵の具などすら手にいれることは難しく、お互いにお金や知恵を出しあって、お寺や学校で稽古を重ねて苦労してやっと公演にこぎつけたそうです。またその頃には中央の一流の劇団なども、戦災で都会の大きな劇場が焼失して、公演できる施設を望んでいたこともあって、人形劇団「プ−ク」や前進座なども何度も町に呼び寄せ、「泊演劇研究会」の主催で学校の講堂や当時の亀子座劇場で公演したのでした。阿部さんはこれをきっかけに河原崎国太郎さんらと親交を深め、またある時には千田是也さんなども自宅に招き、町の若者たちとの集いをもち、機会あるごとに中央の第一級の役者や演出家とも交流を深めて、レベルの高い劇団の観劇の機会を多くもつことをすすめ、会員たちの意識をできるだけ高めようとしました。後年には劇団「四季」の富山後援会の結成に助力したり、坂本長利さんの一人芝居『土佐源氏』の朝日町での公演の実現にも奔走しています。  劇団「泊演劇研究会」は 実 質的な公演活動は約10年ほどでありましたが、県内の新劇による地方劇団としては最もエネルギッシュな活動の劇団でありました。舞台公演の出し物は『寒鴨』『土』『アリババと40人の盗賊』『夕鶴』など20種以上にもなっており、その半数以上は阿部さん自身の演出でありました。この小さな町で舞台に参加した若者たちはのべ100人以上にもなっています。残された写真の記録や質素なプログラムの資料を拝見しますと、自由を渇望していた当時の若者たちの生き生きとした熱気ある青春の夢とロマンを感じさせられます。
 阿部さんの文化活動はたえず生業をもちながらのものでした。しかもアマチュアに徹していました。地域社会に密着して日常の生活を営みながら、つつましやかであっても経済的に自立した活動体として現実の社会に定着させようとしたのです。演劇は舞台の上でのフィクションによって直接に具体的に強力に観客に訴えかけてその場で感動を共有することのできる魅力ある表現手段であったと言っています。地方の片田舎の見世物芝居のイメ−ジを一新して芸術としての演劇を創造しようとしたのです。阿部さんにとってはすでに若い頃から素養のあった絵画や文学や映画の知識を総合して演出できる格好の芸術でもありました。まったくのずぶの素人の社会人や若者を集め、初歩からの稽古や討論を重ねて、現場での触れ合いの体験を通じて助け合い、人間を磨き、ドラマを演じ、共同体をつくりあげていく創造の過程を大切にしました。几帳面で緻密な頭脳と行動力、老若男女誰れとでも楽しく語れる人間好きな性格と持ち前の強力なリ−ダ−シップも活動を推進する大きな原動力となっていたことでしょう。演劇は「劇団員のひとりひとりが実生活の社会人としても立派になり、仲良くしあってゆこうとする努力が大切で、立派な演劇をつくるためには、立派な人間にならなければならない」という生き方の探求や人格の向上を繰り返し主張しています。この一地方の演劇活動の中から、あるいはその刺激を受けて梅津栄、佐渡絹代、湊晴夫、月山丞、竹内卓雄さんなど上京して演劇人を志す若い人たちが輩出しました。またこのような町の演劇風土の中から女優左幸子、左時枝さん姉妹、劇団「四季」で活躍した浅利慶太夫人影万里江さんなども生まれていくのです。
 しかし、時代の推移とともにやがてこの演劇活動も若者たちの巣立ちと本業の忙しさと別の娯楽の普及によって衰退することになりますが、「泊演劇研究会」のひとつひとつの舞台は阿部順三さんにとっては地域社会の現実をふまえた文化活動の実践の記録であり、意欲と情熱の結晶であります。阿部さんはその後、県内の演劇関係団体の役員や委員として指導者としての役割を果たされますが、より直接的な現実の社会の変革と向上を望んでか町議会議員や収入役といった町政にも関わっていかれました。これらの活動はいずれも社会への積極的な働きかけでもありました。とりわけ後年の町政への関わりは、芸術家肌であっただけに、政治的な世界ではかなりご苦労があったのではないかと推察されます。  油絵の制作への精力的な没入は公職を退いて直ちに開始されています。生活と社会のしがらみから開放されて、望み通りに打ち込むことのできるやっと手に入れた自由な世界でした。人間関係の中で自己表現していた世界から、すべて個人としての感性の表現の世界への移行でした。演劇では人間のさまざまな喜怒哀楽の生態がテ−マでしたが、阿部さんの晩年の絵には人物はいっさい出てきません。冒頭に述べましたようにほとんどすべて「雲」をテ−マとしたリアリズムに徹した絵です。70点ちかく描き続けてやっと「雲」というものが解りかけてきたと告白しています。もう少し注意深く見ると「雲」は光に照らされて浮かび上がったさまざまな形をした「雲」です。ほとんどの作品は田園の地平線に沈む美しい夕日に映える「雲」です。しかし、それも最後になると画面は青い月の光に照らされた寒々とした夜景であったり、病臥される直前の小品では大地の景色も朦朧と霞んだ空気の中に消え去り、小さなおぼろ月が輝く青い夕景に、かすかな雲と稜線が薄くわずかに描かれた絵となります。魂が俗界から離れて天界に昇天して同化してしまったような光景です。この晩年にたどり着いた澄み切った静かな世界はかなり忠実な写実の風景画のように見えますが、この絵に託した詩情はこれまで情熱的に社会に立ち向かって訴えつづけてきたいろいろな活動の第一線の現役を退いて、時代の推移を実感し、諦念と憂愁に満ちた心象風景ではなかったでしょうか。人間が繰り広げる悲喜劇の人生の舞台からすこし独り離れて立ち、どこからか突然現れ、絶えず形が変化し、少しもとどまらず、やがて何処へか消えて行く雲の姿に世の無常を見ていたのでしょうか。広大な空のキャンバスに光によって演出されて描かれた、この不思議な自然界の美しい造形に魅入られて、今や人為的なものではなく、自然の運行の大いなるものの流れに従うことを願い、絵の中ではあえて意識的に生々しい人物や人間ドラマを描くことを排除していたのではないでしょうか。  それにしても、阿部さんが生涯<いのち>を燃焼させて本当に探し求めていたのは何だったのでしょうか。人間は生物的に糧を得て、ただ生活ができればよいというものではありません。むしろそれ以外の精神活動が人間と他の生物との違いなのです。それが人間がつくりあげてきた文化というものでしょう。あの終戦直後の生活を支えることですらやっとの貧しい荒廃した時代に道具も施設もほとんど無い中で、夢と希望と情熱で何も無い不毛の地で無償の活動によって、同志や若者たちの心に文化の火を灯したのです。阿部さんの活動の源泉は農村の生活文化改善運動も演劇活動も政治活動も絵を描くことも自分の心の内から沸き上がる欲求、<純粋な真実なるもの>をつかみとろうとする燃えるような情熱でした。それらの実践の創造活動を通じて阿部さんは自分とはいったい何ものなのか、天が与えてくれた資質を探り、自覚しつつ、自分の一生をいかに生きるかという生き方を問題にしていたのではないでしょうか。自分がこの世に生まれた使命をいかに果たすか、どのように自己表現するかにあったように思われます。
 今日では科学と文明が発達し、車で自由に移動ができ、テレビやパソコンで即時に大量の 情報をいちはやく知ることができる便利な世の中になりました。物資があり余り、町には立派な文化施設にも恵まれるようになりました。しかし、それに比例するかのように、軽佻浮薄なマスメディアの文化現象に受動的になって、小さな個の中に籠り、人間の連帯と、夢と希望に立ち向かう熱い創造的な精神を衰弱させているように感ぜられます。今こそもうすでに没後20年にもなる阿部順三さんという希有なる人物の文化活動の軌跡を辿り、その創造的な精神の原点を明らかにして、地域社会での文化の向上のためにどのように全身で戦ったかを後世に伝えるべきであります。

         『阿部順三展』(冨山県・朝日町立ふるさと美術館 2001年)図録テキスト


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