中島通善さんの版木画                        
                                            魚津章夫



  生前の世界的銅版画の巨匠長谷川潔さんがパリのアトリエで、私に次のようにお話をなさったことを記憶している。「日本における最近の版画について、時折、送られてくる雑誌や書籍から拝見することもありますが、いずれもアメリカの影響が強いものであったり、ポスターや壁紙のようなもので、真の版画を追求しているようには思えません。日本の創作版画(自画・自刻・自刷)は今から反省してみると、最大の欠点は技術が稚拙で、あの浮世絵の高度に洗練された職人の技術を捨てるべきではなかったとくやまれます。優れた版画を作るためには刷りの仕事だけでも一生賭けて習得しなければならないほど時間と労力が必要なものなのです。ひとつの版画の作品が成功するかしないかはすべて最後の刷りかかっています。8割かたこの刷りの良し、悪しが決定づけるのです」。

 
20年程前に中島通善さんと出会い、すばらしい木版画の作品を見せていただいた時に、一瞬、この長谷川潔さんの言葉が思い浮かんだ。もちろん長谷川さんとは絵の内容については次元の異なる別世界の仕事ではあるが、版画に対する取り組み方や価値観については共通するあるものを感じたのである。

 中島さんは『木版画三十年』という文章の中で次のように記している。すこし長くなるが、中島さんの仕事の核心にあたるので紹介させていただく。
 「私は色刷り木版画こそ版画とよぶのだが、版画の魅力は、版木、和紙、顔料、刀、バレンのあんばいで醸し出される。肉筆画にない力と生きた風合いにある。版画が何枚も摺れるということは二義的なことで、最大の魅力は版を摺らなければでない色調と形の面白さにあるのは知られない。この摺りこそ生きもので、年が経つほど深みのある不思議な色調に変わっていくのが憎いところ、結局、版画は摺りで決まってしまう。摺りを極めることは、紙、色調、彫り、木を知ることであり、水や気候にも関係して、最後は自分の生活を知ることに還ってくる。摺りというものは、想像以上の神経の集中と体力を必要とし、体調や精神状態でまったく変わる。まだ何も彫っていない平版を摺って板より美しく上げなければ駄目で、それが水面か地面か空中か、色面だけで摺り分けして季節の風や音や香りまで出せなければ満足いかず、いい摺りは1日1枚がやっとということになる」。
  この文面には中島さんの仕事の苦心と体験の実感が滲み出ている。ご自分の木版画の作品のことを特別な名称をつけて「版木画」と称されている由来はここからきている。
 冒頭の長谷川潔さんの刷りの仕事一つでも一生かかるのだと言われているように、きわめて困難な仕事を中島通善さんは摺りばかりではなく、彫りにおいても浮世絵の職人に負けない技術を達成している。また描画においても見事な描写力である。つまり、絵を描くこと、彫ること、摺ること、これらひとつの事でも画家や浮世絵職人が一生かかってもむつかしい技術を一人だけで最高度に熟達している。これは驚くべき偉業であるといわなければならない。血を吐くような格闘から生まれた画面を見ると、そのような努力の痕跡を感じさせないで、いとも簡単に出来上がっているようにも見える。薄っぺらなアイデアの提示ではなく、高鞜的な気取りもなく、難解なこけおどしやまやかしや煙幕を張ることもない。どの絵もなにげない日常生活の一駒であり、懐かしい風情であり、季節の移り変わる美しい日本の風景である。美術専門家や版画愛好家ばかりではなく、どんな人でも、おじいちゃんやおばあちゃんでも、味わい深い美しさに感動して拍手を送るだろう。大衆の目を畏れよ。普遍的な美とはだれにでもわかりやすいものでなければならない。
 日本の誇るべき江戸時代の浮世絵木版画の高度に洗練された技術と近代の創作版画の造形性と現代感覚を統合して、それらを凌ぐ仕事としてこれからますます国際的にも注目されることはまちがいないと思う。中島通善さんの45年に及ぶ画業の集大成とも言うべき重要なこの展覧会を当美術館で開催できる機会をもてたことに深く感謝する次第である。

 中島通善展(2005年 冨山県・朝日町立ふるさと美術館)図録あとがきより


中島通善の版木画(作品の紹介)    小さな美術館の展覧会の現場から<中島通善展>


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