木下晋さんの鉛筆画
魚津章夫
私がこの美術館の仕事を手伝うことになって自主企画として採用された展覧会は5回目である。最初は「長谷川潔展」、次は「現代版画の黄金時代展」、「阿部順三展」「内田正泰展」と年に一度のペースで実現させていただいた。この小さな規模の美術館ではさまざまな制約があって、能力の限界もある。著名大画家たちの大作を羅列する展覧会にはふさわしくない。そこで、地味ではあるがひとつの素材を最高度に生かしきった第一級の仕事を紹介することにつとめた。ただし、「阿部順三展」だけは例外で、これは郷里の文化活動にとってどうしても記録しておかなければならないものであった。
「長谷川潔展」では世界的銅版画の巨匠が自ら完成作であると認めた最良の品質のベスト60点を展示した。「現代版画の黄金時代展」では国際版画展で受賞した話題の作品を集め、1960年代から70年代にかけて加熱した日本の現代版画の名作の数々を紹介した。「内田正泰展」は紙をちぎって貼った魔術的な「はり絵」の仕事を80歳にしてその全貌を全国ではじめて公開した回顧展であった。
さて今回は鉛筆画の世界である。じつは木下晋さんの鉛筆画を最初に見たのは23年前(1982年)である。まったく無名の頃、美術愛好家で知人の堀内康司さんからすごい絵を描く若い画家がいるから見てやってほしいという長文の手紙を頂いたのである。堀内康司さんは元画家で靉嘔、池田満寿夫、真鍋博らと「実在社」というグループを結成して発表活動していた時期もあった。池田満寿夫の才能を最初に発掘した人でもある。
木下さんの個展会場は秩父市のギャラリー古都という画廊というよりも食堂のようなところで、雑然と作品が壁面に飾ってあった。たぶんオープニングの日で10人ぐらいの来客があったが、顔身知りは堀内さんと東京国立近代美術館の本間正義さんだけであった。作品のほとんどは小品の油絵で、最初の鉛筆画ともいえる母の肖像「流浪」(今回の出品作)も掛かっていた。しかし、私はその頃、版画を専門にしていたのと、現代美術の動向に関心が向いていたので、その時は力量のある画家として感服しつつも、それ以上この画家に接触することはなかった。
ところが私が郷里に帰ってこの美術館の仕事を手伝うことになり、数年前、富山県立近代美術館や黒部市美術館でその後の鉛筆画と対面することになった。そこではじめてこの画家が富山市の出身であることがわかり、にわかに親近感をおぼえ、あの23年前、2時間も電車に乗って、個展を見に秩父に行った時の記憶が蘇ってきたのである。
私自身実現したい展覧会は数えきれないくらいたくさんある。しかし、この美術館の特殊な諸条件を考慮するとなかなかその選定は難しい。そのような実情の中で、突然、木下さんの鉛筆画の展覧会の企画が私の構想のなかで大きくクローズアップされてきたのである。そこで本人に直接展覧会の開催を要請することになった。
幸いにして、木下さんの仕事がNHK総合テレビの「土曜美の朝」で紹介されたり、画文集の『生の深い淵から』が刊行され、いよいよ美術界ばかりでなく、一般の人たちにも高い評価を受けつつある。昨年、この展覧会の打診をした直後にKNBテレビで「しあわせ、人生−木下晋の世界」が報道され、この画家の不幸な生い立ち、貧窮や放浪の人生遍歴、人間国宝の最後の瞽女と呼ばれる小林ハルさんとの出会い、制作の動機や意図の理解がより深まった。さらに新津市美術館の「越後の瞽女を描く」展では木下さんの鉛筆画の中心テーマである瞽女小林ハル像の20数点の連作を拝見してその入魂のすさまじい迫力には圧倒された。幸運にもこの画家の熟成しつつあるこの時期に代表作のほとんどと最新作を展示する機会に恵まれて、何か不思議な因縁を感じざるをえない。
木下さんの作品を評論する著名な批評家や文学者はたくさんいる。それぞれ詳細に分析して、いずれも見事に論評している。しかし、木下さんの絵は難しい解説よりも実物を先入観をもたずにじかに見るべきだと思う。だれでも強烈に本能的に何かを感じるはずである。モノクロ−ムの鉛筆のみで、いずれも等身大以上の驚くべき大画面で迫力ある人間のドラマが展開されている。美しく綺麗に描かれた絵が必ずしも優れた芸術であるとはいえない。晩年の老いの自分の姿を直視して描きつづけたレンブラントの鬼気迫る自画像にはある種の戦慄をおぼえるし、同じくレンブラントの老母を描いた絵、またデューラーの、やはり、年老いた母の素描などもけっして美しく綺麗なものではないが画家の視線には老醜の母へのいつくしみと愛情があふれていて、熱い感動を与える。これらは美を追求するというよりも真実を語りかけているすばらしい名画なのだ。
木下さん近年の絵はほとんど人物画である。まずモデルとの感応からはじまる。その多くは人生の辛酸をなめつくした社会的には不遇な人たちである。人間の生きざまを直視して、できるだけ厳密に観察し、物の外形からその奥にある何かを探ろうとしている。ひとりの人間がこの世に生まれ落ちたその時から、いわゆる生、老、病、死という苦難を抱えながら生きてゆかねばならない。どこから来てどこへ行くのか、どうすることもできない不安とか悩みとか哀しみこそ人間の存在の本質なのかもしれない。そういう人間が生きるための苦闘を重ねて営んできた年輪のひとつひとつの痕跡をモデルの顔の表層から克明に読みとり、迫真の超リアリズムで生々しく描写する。そこには木下さん自身の重い生活体験が滲み出ている。さらにその底流には根源的な大生命の存在そのものに対する畏敬とか深い祈りのようなものさえ見てとれる。
ひとつの道を極めた人たちや、宿命的な苦難との闘いに打ち勝ってきた人たちや、最期を迎えてすべてを天の運行に身を任せきった人たちの表情にはある種の透明なおだやかさが漂う。この画家はその一瞬をも見逃さない。モデルがヒカリを放ったという。このヒカリとはいったい何だろう。神とも言えるし、仏とも言えるのだろう。木下さんは全感覚を総動員して命がけでモデルを凝視して、その生命的真実の秘密を探る格闘をしつづけている。
「木下晋展」−鉛筆画による迫真の超リアリズムー(2003年 冨山県・朝日町立ふるさと美術館)図録あとがきより