現代版画の黄金時代
魚津章夫
戦後における日本の美術において、とくに著しい隆盛を誇ったのは現代版画であった。混迷と荒廃からようやく立ち直り、とりわけ1950年代初めぐらいから1970年半ばにかけて世界の諸都市で国際版画展が年ごとに数多く開催されるようになった。日本の版画家たちはいちはやくそれらの各国際展に出品して急速に海外との交流を深めた。そして、それらの展覧会では次々と輝かしい受賞の栄誉を受け、きわめて高い国際的な評価を得るに至っ
た。
まず1951年(昭和26年)に開かれた第1回サンパウロ・ビエンナ−レ展で初の国際展参加を試みているが、駒井哲郎と斎藤清が受賞した。翌52年には第2回ルガノ国際版画ビエンナ−レ展では、駒井哲郎と棟方志功が受賞し、1956年には19世紀末から伝統をもつ第28回ベネチア・ビエンナ−レ展で棟方志功がとうとうグランプリを獲得した。その後もグレンヘン国際色彩版画トリエンナ−レ展、リュブリアナ国際版画ビエンナ−レ展、ノ−スウエスト国際版画展など毎年のごとく日本の版画家たちの受賞が続く。とくにサンパウロ・ビエンナ−レ展やベネチア・ビエンナ−レ展には日本は当時の日本画、洋画、彫刻の画壇の一流作家たちが選出されて出品されたにもかかわらず、いずれも受賞せず、版画だけが次々と受賞したので、日本の美術界は大きな衝撃を受けることになり、またきびしい反省を強いられることになった。1966年には第33回ベネチア・ビエンナ−レ展で池田満寿夫もグランプリを受賞し、1970年にはついに版画界ではじめて棟方志功に文化勲章が授与された。こうした海外での受賞と評価の高まりで、版画家たちをますます刺激し、活気づけ、日本の現代版画はいっきに開花して華々しい様相を展開していった。
1957年に日本で初めて開催された国際版画展「東京国際版画ビエンナ−レ展」は当時としては世界でも最大規模であり、約20年の間に11回開催された。それには従来の版画家以外に画家や現代美術家たちの新しい世代が登場し、意欲的な作品の発表の舞台となり、新しい表現の可能性が様々な形で追求された。その期間はエネルギ−に満ちた激動の時代であり、また現代版画興隆のまさに黄金時代であった。しかしこのように日本の現代版画が評価されて活況を呈するまでには先人たちのたゆまぬ努力と苦闘の累積の土台があったことを忘れてはなるまい。
現代版画までの歴史的経過
江戸時代に開花した浮世絵木版画は徳川幕府の終結と明治維新の断行によって、西洋文明の流入などもあって多大なる影響を受け、芳年、国周、周延、曉斎などで最後となり、まったく衰滅することとなった。明治では小林清親が和洋折衷の新しい様式を生み出し、次の時代の創作版画の先駆的な仕事をなしていた。洋風の技法による版画が先進洋画家黒田清輝、岡田三郎助、和田英作らによっていくらか試みられてはいたが、まだそれらは試作の域を出なかった。1907年(明治37年)に山本鼎が『明星』に創作木版画「漁夫」を発表し、伝統的浮世絵木版画とは別の芸術を目的とする近代の創作版画の幕が開かれた。明治40年に『方寸』が創刊され、それに発表された石井柏亭、山本鼎、織田一磨らが主張するいわゆる創作版画運動が展開されていく。1912年(大正元年)に『聖盃』(後に『假面』と改題)が創刊され、長谷川潔、永瀬義郎の創作木版画で表紙や装画がなされる。大正3年には恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄によって詩と版画誌『月映』が創刊された。しかし、1年2ヵ月の間に7冊を刊行して終わる。これまでは文芸雑誌など出版物による版画の発表が目立っている。雑誌「白樺」が西洋の版画を多く紹介し、斎藤佳三、山田耕筰がドイツから持ち帰ったデァ・シュトルム木版画展覧会でドイツ表現派の版画が展観され、当時の青少年画家たちに強い影響を与えた。大正5年に長谷川潔、永瀬義郎、広島晃甫によって日本最初の版画家グル−プ「東京版画倶楽部」が結成されるが、長谷川潔が渡仏して第一回展のみで終わる。その頃から版元渡辺庄三郎が浮世絵木版画の再興を図って「新版画」と称し、橋口五葉や伊東深水や川瀬巴水らの木版画の刊行するが、それは少数派であった。大正7年には山本鼎、寺崎武雄、織田一磨、戸張孤雁、竹腰健造、寺崎武男により「日本創作版画協会」が創設される。ここに創作版画の発展の基盤が形成され、主催展ごとに出品者や会員の参加者が多く集まるようになる。昭和4年には織田一磨らによって洋風版画会が設立されて、石版画や銅版画なども発表されるようになる。昭和6年,「日本創作版画協会」を解体、洋風版画会と無所属の版画家たちが合流し、「日本版画協会」が設立された。ここにようやく版画家集団の大同団結がはかられ、日本の現代版画は以後この団体を基軸に発達してゆくことになる。
戦後の現代版画における偉大な推進者 恩知孝四郎 棟方志功 瑛九
戦後の現代版画の発展に大きな影響を与えたのは恩地孝四郎、棟方志功、瑛九の三人の巨星である。その周辺の版画家たちをみれば高く聳える三つの山脈を形成している観がある。本展ではこの三人を現代版画の黄金時代の原動力となった先駆的な功績者として特別にその代表作を展示することにした。
<恩地孝四郎>
恩地孝四郎(1891〜1955) は大正から昭和の戦前にかけて創作版画運動を推進した代表的な版画家である。「版画とは版にした画ではなく、版をつかってかく画であり、それを創作の手段とするものである。版画作製に於ける芸術的機能は創作的意図あってのみ生まれるのである」と創作版画を意義づけ、生涯それを主張し続けた。竹久夢二からの感化もあって、版画や装本に興味をもち、1914年(大正3年)に田中恭吉、藤森静雄らと詩と版画の同人雑誌『月映』を創刊した。ここに発表した木版画が恩地孝四郎にとって創作版画への出発であった。また、このなかに版画によって日本で初めて抽象画を発表したパイオニアでもあった。1918年(大正7年)に日本創作版画協会が結成され、恩地もその創立に参加する。やがて、1931年(昭和6年)に日本版画協会に再編成されてからも、この協会の主要メンバ−として、版画の地位向上と社会への普及、啓蒙のために努力をしつづけた。さらに戦後には恩地邸が戦災を免れたので、会員の消息や版画家仲間の連絡所となり、1946年(昭和21年)に日本版画協会の事務所が恩地邸に置かれることになった。これを契機として、日本版画協会は恩地が中心的な役割を果たしてゆくことになるのである。恩地邸では関野凖一郎、山口源ら中心になって毎週木曜日に一木会という版画の集いが行われ、畦地梅太郎、北岡文雄、斎藤清、若山八十氏、品川工、駒井哲郎、太田耕士、前田政雄などの若い版画家たちと交流した。そのうえ恩地の長女が英語が堪能で、GHQに勤務していたので同じ職場のW・ハ−ネットを知り、この会に出て、以来次々に日本の現代版画を愛好する外人が恩地邸を訪問する。そのなかには日本の現代版画を系統的に収集し、『Modarn Japanise Prints 』という書物を著述したO・スタットラ−やこの時を機に一挙に恩地の版画をコレクションすることになったJ・ミッチェナ−などもみられ、彼らを通じてアメリカを中心に国際的に日本の現代版画が広く紹介されるようになった。恩地孝四郎は戦後から晩年にかけての10年間に生涯に制作した約半数の200点もの作品を精力的に制作している。孤独と憂愁が漂う抽象木版画の傑作の数々がこの時期に生まれるが、たえず新技法の開拓にも挑戦して、版材に布、紙紐を用いたり、ろう紙、糸屑、針金、紐、木の葉で「多版材版画」、炭や板などをそのまま版として利用した「実材版画」などと称して、版画の表現領域を拡大した。そのような創造的な精神は生涯を貫いており、その制作は自由多彩で清冽で気品がある。版画の他にも装本、詩、写真などでも優れた才能を発揮している。
<棟方志功>
1956年第28回ベネチア・ビエンナ−レ展で棟方志功がグランプリを受賞した。国際的に伝統と権威のあるベネチア・ビエンナ−レ展での受賞は当時においては芸術の分野でのオリンピック大会で金メダル獲得したような快挙であった。棟方志功は前年の第三回サンパウロ・ビエンナ−レ展でも版画部門のグランプリを受賞している。とくにベネチアでのグランプリは戦後の美術界ではもっとも衝撃的な出来事のひとつであった。この時、日本で選抜されて同展に出品されたのは油絵の須田国太郎、脇田和、山口長男、彫刻の山本豊市、植木茂という国内では一流の人気実力者たちの作品であった。ところがそれらの作品はどれひとつとして受賞対象とはならず、絵画部門ではフランスのジャツク・ヴィヨン、彫刻部門ではイタリアのエミリオ・グレコ、イギリスのチャドウィックに並んで版画部門では棟方志功が国際大賞となったのである。日本の美術界にとっては大きな衝撃であった。もともと明治以来、大げさに言えば版画は芸術であるとはみなされてはいなかった。ましてや棟方志功の版画は民芸系統の一種の下手ものとして正当な系列のものとは考えられてもいなかった。したがつて棟方志功のグランプリの受賞は版画は絵画より低いものだという偏見を打破して、版画は堂々たる美術の一部門であることを認めさせた。また、同時に戦後急速に流入した西洋絵画的な価値観の傾向にたいして、東洋的な、土俗的な表現が国際的にも受け入れられるという評価基準の見直しを促すものでもあった。一躍世界的な棟方となったが、それまでも強烈な個性で周辺の人たちには少なからず影響を与えていたが、とくに民芸の柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らの具眼の人たちの目に留まり知遇を得て、高い評価を受けていた。しかし受賞後、1956年には日展審査員、1960年には日展評議員、1963年には藍綬褒章受章、1965年には朝日文化賞受賞、紺綬褒章受章、1970年には毎日美術大賞受賞、文化勲章受章とみるみるうちに公的に認知され、学問・芸術の最高の栄誉を受ける。これは美術界にとっては異例中の異例の選考であった。それだけに与えた衝撃は大きく、棟方の名は全国に知れ渡ることになった。また棟方志功の周辺では1952年(昭和27年)に設立した日本版画院の下沢木鉢郎、笹島喜平や富山疎開時代の金守世士夫、尼野和三などその他多くの版画家たちに大きな影響を与えた。
<瑛九>
瑛九(1911〜1960) は最初から版画を志したのではなく、また版画を徹底的に極めようという版画家ではなかった。瑛九は昭和初期以来油絵のほかにフォト・モンタ−ジュやフォト・デッサンなど独創的な新しい分野を開拓していたが、自由な表現のひとつとして、ある時期の短期間に集中してエッチングとリトグラフを制作した。版画は当時「半画」と呼ばれて、日本画や油絵よりも一段低く蔑んで見られていたが、瑛九は「油絵も版画も平等だ。それを証明しよう」と主張して、仲間たちにもすすめ、それを実現していった。西欧のピカソやマチスやルオ−などのすぐれた画家たちが絵画、彫刻にならんですばらしい版画をつくっていて、西欧ではすぐれた画家はすぐれた版画家であることを知って、そのような立場で版画を制作した。したがって木版画を中心とする伝統的な創作版画の版画家たちとは、制作の動機の出発点がかなり異なっていた。結局、瑛九は7年間に229点のエッチングと149点のリトグラフを残した。瑛九はまた既成画壇の権威を徹底的に拒絶し、画家はあらゆる権威と規制から自由でなければならないと主張して「デモクラ−ト協会」を結成した。そこには若い才能ある画家やグラフイック・デザイナ−や写真家など多様な芸術家たちが同志として集まった。この「デモクラ−ト協会」の同志のなかから、泉茂、靉嘔、池田満寿夫、吉原英雄、木村茂などの版画家が輩出した。従来の版画家たちに属しないこれらの版画家たちがいわゆる1970年前後の現代版画の最も加熱した黄金時代の立て役者になっていくのである。
創作木版画の開花 笹島喜平 斎藤清 萩原英雄 関野準一郎 清宮質文
戦前から戦後を通じて日本版画協会を中心に恩地孝四郎のモダ−ンな抽象木版画や棟方志功の土俗的な巨大な大作板画などにみられるような創作木版画の新開拓が展開されるが、その後に続く木版画家たちも苦闘をのりこえてそれぞれの個性に応じた独創的な世界を構築して創作木版画を開花させた。
笹島喜平(1906〜1995) は棟方志功よりも3歳年下であるが、版画家として画業に専念したのは戦後で40歳を過ぎていた。郷里益子の浜田庄司に棟方を紹介され、遅い師弟関係を結んだが日本板画院の解消を機に次第に疎遠となり、笹島は以後個展を中心に作品の発表をする。棟方は野性人、笹島は教養人、天才と平凡、動と静、即興と構築、表現主義的と古典主義的、何もかにも正反対の性格であったふたりは当然の結末だったのかもしれない。笹島は白黒木版、自然讃迎、写実を徹底して苦難の中から独自の新技法拓刷り木版画を編み出し、不動明王や他の仏像、古都風景、霊峯富士などの連作で確固たる画境に到達する。
斎藤清(1906〜1995) は戦中から戦後にかけて朝日新聞社に勤めて絵を描く仕事を続けていたが、本格的に版画に専心したのは1954年に退職してからであった。1951年に新たに開設された国際版画展である第1回サンパウロ・ビエンナ−レ展に日本側は伊東深水、宮本三郎、山本豊市、恩地考四郎など日本14名、洋画17名、彫刻7名、版画8名の計46名が参加した。その結果、日本の美術関係者の期待に反して脇役であった版画の駒井哲郎と斎藤清が受賞した。これが日本の現代版画が国際的な評価を推進していく端緒となった。斎藤は受賞以後、国内よりもアメリカ、フランス、オ−ストラリア、インド、韓国などの海外に活動の場を拡げていく。木版の木目を生かした効果やノミやきりで引っかいた版づくり、またバレンでの工夫によるゴマ摺りなど独自の技術を駆使し、対象を極端に単純化して装飾性を強めた日本的な情緒の漂う斎藤版画をつくり上げた。
萩原英雄(1913〜) の木版画は日本の創作木版画、つまり自画・自刻・自摺の生み出したひとつの到達点であろう。例えば、使う絵の具の種類では、萩原の場合は画面の空間の深さを表す必要から透明な絵の具と不透明な絵の具を使う。水彩絵の具に染料、そしてガッシュ、またはポスタ−・カラ−。摺りは両面摺りといって表と裏からの両面をバレンで摺るのである。水性の絵の具が和紙を通して滲み出る色調などは柔らかい色彩効果を奏でる。いずれも萩原が油絵画家としての出発した苦難時代での習得と生活のために職を得た浮世絵複製の仕事の経験から得たものだ。またエッチングのようなデリケ−トな凹版の線を表す試みも実現している。このように自分で彫ったり摺ったりしなければ体得しえない創意工夫が集積されている。それゆえに日本でしか生まれない創作多色木版画である。1960年に第2回東京国際版画ビェンナ−レ展で受賞し、1962年の第7回ルガノ国際版画ビェンナ−レ展でグランプリを獲得して、その評価を決定的なものとした。
関野準一郎(1914〜1995) は油絵、水墨画、水彩画、素描、木版画、銅版画、リトグラフ 装画、装丁などあらゆる種類の作品を残している。木版画は恩地考四郎に師事し、銅版画は西田武雄に学んでいる。1951年頃自宅で銅版画研究所を開設しているが、そこには駒井哲郎や浜田知明なども出入りし、後進の指導にあたり、小林ドンゲや加納光於などたくさんのエッチャ−が巣立っている。関野の画業は最終的には本来の資質に合った木版画に集約されてゆく。1957年にアジア・アフリカ国際美術展、1960年に第31回ノ−スウエスト国際版画展、1961年に第4回リュブリアナ国際版画ビエンナ−レ展などで受賞する。1958年から15年近くに渡って完成させたライフ・ワ−ク『東海道五十三次』は圧巻で、この功績によつて芸術選奨・文部大臣賞が授与された。また木版画による人物・肖像画シリ−ズも関野版画を代表する仕事である。
清宮質文(1917〜1991) には華々しい受賞の記録はない。作品のほとんどは小さな多色木版画である。晩年にはいくらか水彩画やガラス絵を描かれていた。桂の版木に彫られてバレンで摺られる。形はいたって単純である。ところが微妙な色調を醸し出すために時には数十回も摺り重ねるという。清宮特有の淡い中間色で深い詩情に満ちた魂の世界を表現。まさに自画自刻・自摺の妙技である。極めて寡作で、しかも複数可能な版画でありながらおそらく二枚と同じ状態の摺り上がりのものがないのではないか。清宮の和紙と水性絵の具とバレンで摺りあげた美しい風合の木版画は日本人の繊細な感性にしか成しえない仕事のひとつである。
ここに取り上げた以外にもたくさんの木版画家が輩出しており、平塚運一、川上澄生、畦地梅太郎、山口源、小野忠重、北岡文雄、吹田文明なども木版画に没入して、それぞれ自分の資質や個性を最大限に発揮した優れた作品を生み出している。まさに世界に類例のない創作木版画の爛熟期でもあった。
現代日本銅版画の起点 浜口陽三 駒井哲郎 浜田知明
日本の銅版画は戦前は西田武雄の日本エッチング研究所、戦後からは関野準一郎の銅版画研究所によって広まっていったが、あらゆる技術を習得して巨匠となったのは長谷川潔である。しかし、それを達成したのはフランスにおいてであった。長谷川潔については昨秋(2000年)、当館で開催された没後20年「長谷川潔展」で代表作を網羅して紹介したので、今回は除外することにした。戦後の銅版画は長谷川潔を別格とすれば、浜口陽三、駒井哲郎、浜田知明が大きく影響を与え、現代版画における銅版画の起点となった。
浜口陽三(1909〜2000) は長谷川潔のマニエ−ル・ノワ−ル技法を改良したカラ−・メゾチント技法を完成した。浜口は1927年に東京美術学校を中退してパリに留学した。第2次世界大戦が勃発したため1939年に一度帰国したが1953年に再び渡仏する。そして2年後にはじめてカラ−・メゾチントの作品を制作している。1957年にはサンパウロ・ビエンナ−レ展では日本人初の版画大賞展を受賞、同年第1回東京国際版画ビエンナ−レ展では国内最高賞の国立近代美術館賞を受賞している。以後次々に国際版画展に受賞して世界的な評価を得る。百科辞典の『エンサイクロペディア・ブリタニカ』の「メゾチントの」の項目では「20世紀半ばの最も有名な孤高とも言うべきこの道の主導主導者・浜口陽三は、パリ在住の日本人作家であるが、彼はカラ−・メゾチントという版画技法を開拓した」と記述されている。
駒井哲郎(1920〜1976) はまだ慶應義塾普通部の15歳の頃から西田武雄が主宰していた日本エッチング研究所に通って銅版画を学んだ。そこで関野準一郎と知り合い、戦前から戦後にかけての日本の銅版画はこの二人から展開されていく。東京美術学校を卒業して父の死、就職、兵役などで制作を一時中断するが戦後1948年には日本版画協会展で受賞。翌年春陽会展で春陽会賞、さらに次の年第1回サンパウロ・ビエンナ−レ展ではコロニ−賞受賞。その次の年もルガノ国際版画展でも棟方志功とともに国際次賞を受賞して新進気鋭の銅版画家として華々しい活躍の時期であった。1954年には私費留学生としてフランスに留学、長谷川潔を訪ねる。パリ国立美術学校のビュラン教室に在籍して西洋版画を学ぶ。1年半で帰国するが、制作活動のかたわら1958年に女子美術大学講師、翌年東京芸術大学講師、やがて助教授、教授、多摩美術大学教授として後進の指導にあたった。その中から中林忠良、清塚紀子、渡辺達正など次世代の版画家たちが輩出する。駒井哲郎は日本ではほとんど制作されることのなかった銅版画のさまざまな技術を習得して、自らの品格ある詩情ゆたかな作品によって戦後の現代版画の礎を築いた。 浜田知明(1917〜 ) は東京美術学校時代に銅版画の試作を数点制作しているが、1950年駒井哲郎が春陽会に銅版画を初出品して、岡鹿之助に激賞されたのを知って銅版画に本格的に取り組んだという。その駒井哲郎や銅版画研究所を開設していた関野準一郎を訪ねて道具を借りたり助言なども受けている。そして、その年から名作「初年兵哀歌」シリ−ズが誕生する。戦争体験での軍隊の機構上の矛盾や人間不信、戦争の残虐さをテ−マとして、そのドラマを銅版画のモノクロ−ムで描いた。戦後、郷里熊本で教師として教壇に立つが、身の回りや社会の人間の傲慢さや愚かさを戯画として描き続けている。日本の戦後における銅版画はこの駒井哲郎と浜田知明の二人を起点として展開されていく。
東京国際版画ビエンナ−レ展の果たした役割
池田満寿夫 加納光於 吉原英雄 野田哲也 横尾忠則 木村光佑 黒崎彰 原健
第二次世界大戦後、急速に美術文化の国際交流が盛んになった。国際版画展はルガノ、シンシナティ、リュブリアナと次々と開催されていったが、日本でも1957年(昭和32年)に第1回東京国際版画ビエンナ−レ展が東京国立近代美術館と読売新聞社の共催で開催された。世界で4番目で外務省と文部省の後援を得たいわば国を挙げての大規模な展覧会であった。第1回目は世界29カ国の代表作家による829点の版画が展示された。日本の出品者では招待作家43名のほかに一般公募が行われ、その入選者の中には、靉嘔、池田満寿夫、加納光於、吉原英雄など従来の日本版画協会とはまったく無縁の次代を担う版画家たちが登場した。この国際版画展には版画家のみならず世界の一流現代画家の版画が各国から参加することになり、世界の現代美術展の様相を色濃くした。これがある面での日本の版画界の閉鎖性を打破するものとなり、1960年代以降の日本の現代版画に決定的な影響を及ぼした。木版画のほかに銅版画、リトグラフ、シルクスクリ−ンなどの版画がぞくぞく出品されて、創作木版画が主流であった時代から多様な表現の可能性を追求した版画制作の時代へと移行していった。この東京国際版画ビエンナ−レ展は1979年の第11回まで開催されたが、その主な受賞者は次の通りである。国内最高賞の東京国立近代美術館賞では第1回の浜口陽三をはじめとして、菅井汲、加納光於、池田満寿夫、日下賢二、靉嘔、永井一正そして国際大賞の野田哲也。京都国立近代美術館賞では黒崎彰、原健が受賞している。文部大臣賞ではもりまなぶ、池田満寿夫、村井正誠、宮下登喜雄、萩原英雄、吉原英雄などである。そして、1950年代から70年代においてはこれらの作家たちのめざましい制作活動が推進力となり、版画界は活況を呈し、この時代こそ熱気ある現代版画の黄金時代であった。
<池田満寿夫旋風>
池田満寿夫(1934〜1997) は第2回、3回、4回と連続に受賞し、その時の外国の審査員であった西ドイツの著名な美術批評家グロ−マンに見出され、またアメリカのリ−バ−マンにも認められて、1965年にはニュ−ヨ−ク近代美術館で日本人ではじめてのワンマン・ショウが開かれた。さらに1966年には第33回ベネチア・ビエンナ−レ展にグランプリを受賞し、まさにシンデレラ・ボ−イとして美術ジャ−ナリズムに池田旋風を巻き起こした。そして地味で職人的な版画の世界のイメ−ジを一変させ、日本の現代美術のトップランナ−としても脚光を浴びた。やがて小説で芥川賞を受賞してスタ−となってゆく。
<版画概念の変容>
1968年の第6回展では野田哲也の写真製版による木版とシルクスクリ−ン併用の作品が国際大賞を受賞した。同展のために制作した横尾忠則のポスタ−との類似性に論議が高まり、またデザイナ−の永井一正の作品も受賞したので、版画とデザインはどう違うのかという論争がなされた。翌年横尾はパリ青年ビェンナ−レの版画部門で大賞を受賞し、第9回東京国際版画ビエンナ−レ展でもオフセットとシルクスクリ−ンの作品で受賞した。写真の応用やオフセット印刷も版画として公認されたわけである。ほぼ同時期に靉嘔や木村光佑など既成概念にとらわれない新しい版画が脚光を浴びた。その後も版による表現の可能性を求める動きが活発化した。
画家の版画と版画工房 オノサト・トシノブ 菅井汲 前田常作 靉嘔 相笠昌義
日本の近代から現代にかけての版画は主に創作版画を主張する版画家たちによって推進されてきた。創作版画の本来の主張は職人との分業による浮世絵木版画とは別の画家自身による個性的な版画をつくることにあり、また版画でしかできない効果の絵をつくることにあって、それには自画・自刻・自摺でなければならないという主張が強かった。さらに版画の地位向上を社会に訴えるためには結束も必要であった。そのために版画専業の版画家たちが閉鎖的に集団化する傾向にあった。ところが第2次世界大戦前後から欧米から帰朝した画家たちやまた留学した画家たちによって海外での版画の実情が伝えられようになり、1950年代になると、国際版画展への出品や東京国際版画展が開催されて国際交流が急速にすすみ、これまでの版画家以外の画家たちや他のジャンルの作家たちによる版画制作が多くなった。また版画が一般に浸透するにつれて、市場が拡大し、自画・自刻・自摺のみでは対応が難しくなり、版画を印刷することを専門とする版画工房の発達がみられるようになる。木版画の場合は自画・自刻・自摺の傾向がとくに顕著であったが、それでも印刷部数が多くなるにつれて創作木版画専門の刷師を必要としたし、浮世絵の復刻版を摺る若い職人を現代版画の摺りに参加させる試みもみられた。しかしこの時代に急速に伸張したのはリトグラフ、シルクスクリ−ン、銅版画の印刷工房であった。戦後のリトグラフの刷師としては女屋勘左衛門が先駆的な役割を果たしている。1950年代から60年代にかけて海老原喜之助、山口薫、小磯良平、麻生三郎、北川民次、鳥海青児、林武、東山魁夷などそうそうたる画家の版画の刷りを手がけている。これに続いて女屋勘三郎を師とした木村希八(木村希八版画工房)が美術家連盟の版画工房を経てフジ美術版画工房において1970年代から片岡球子や加山又造を中心に幅広い画家たちや版画家たちのリトグラフを生み出してゆく。さらにアメリカのタマリンド版画工房で学びマスタ−・プリンタ−の称号を得た高月仁(高月版画工房)、 や石橋泰敏(版画工房・メイ) 、武藤好(ポテトプレス)などが続く。加えて北園武(北園プリンティングスタジオ大磯) 、尾崎正志(プリントハウス・オウム) 、赤川勲(赤川版画工房)、園山晴巳(版画工房アルミィ)、廣島清一(グリ-ン・グラフィックス)などの有能な若手刷師が育ってゆく。リトグラフの大型版画の森仁志(森版画工房) も注目される仕事をした。なによりもこの時代を活気づけたのはシルクスクリ−ンであった。1964年に岡部徳三(岡部版画工房)が靉嘔とオノサト・トシノブの版画をシルクスクリ−ンで刷った。シルク用インクと油絵の具を調合して刷ったこの強烈な色彩の版画は若い版画家たちに衝撃を与えた。その後岡部は前田常作、横尾忠則、元永定正、草間弥生などの作品も手がけている。助田憲亮(助田シルクスクリ-ン工房)や石田了一(石田了一工房)などもこれに続き、現代版画の黄金時代はまたシルクスクリ−ン版画の全盛の時代でもあった。銅版画では1968年に林建夫(林クラフィック・プレス) 、山村素夫・常夫兄弟(山村兄弟版画工房)が池田満寿夫や浜田知明の作品を刷って日本の銅版画工房の草分けとなつた。これらの版画工房の急速な発達によって画家たちの優れた版画が続々と世に出たのである。靉嘔の一連の長大なレインボ−・シリ−ズや前田常作のマンダラ・シリ−ズなどはこの時代の画家と版画工房が生み出した大きな成果であると思う。
独自の版画世界を究める 深澤幸雄 小林ドンゲ 堀井英男 小作青史 日和崎尊夫
東京国際版画ビエンナ−レ展がわが国で開催されるようになり、いっそう国際交流が頻繁になり、従来の版画家たちとは動機も発想も異なる若い版画家たちが出現して、それらの世代が版の表現の可能性を追求して様々な実験を試みた。写真の応用で複製や転写の機能に着目して、現代美術の表現法のひとつとなっていたアッサン・ブラ−ジュ、コラ−ジュなどとも関連しつつ、ポップア−ト的なイメ−ジをつくり上げる傾向が流行となった。1970年代の半ばからはむしろコンセプチュアル・ア−トなどによる版画化が前面に出て目立つようになり現代版画はいよいよ多様化していった。しかし、このような時代に時流におもねることなく自らの資質に適合した版種を発見して、それを最大限に生かすことによって独自の世界を形成していった版画家たちもいた。
深澤幸雄はあらゆる銅版画の技法に精通した現存の大家。力強い造形で独自の色彩銅版画を開拓する。著書『銅版画のテクニック』(1966年刊)は後世の版画家たちに多大な影響を与えた。堀井英男は鮮烈な色彩銅版画で人間の実存を象徴させて虚構の絵画世界を構築した。小作青史は石版石(リトグラフ)
との出会いから描画がはじまり、想像力で生み出した怪奇な生き物を増殖させて幻想の世界を展開する。日和崎尊夫は木口木版画が自己表現の最良の手法であることを発見し、芸術として蘇らせ、日本の現代版画において先駆的な役割を果たした。小林ドンゲは研ぎ澄まされた切れるような美しいビュランの線で、女の妖しさを描き続けて、女流銅版画家の第一人者となっている。
コレクタ−層の形成、版画ジャ−ナルの発生、版画商の増加
1970年代から急速に活況を呈した現代版画は版画家の個々の活躍や国際版画展や国内の大きな規模の展覧会が成果を生み出したものとして記録されるが、この現代版画の黄金時代のダイナミツクなエネルギ−を支えていたのはそれらの社会的基盤となっていた別の側面も大きく作用していたことも見逃してはならない。
<小コレクタ−の会>
1951年に瑛九を中心として「デモクラ−ト協会」が結成された。既成画壇に出品しないことが唯一の条件で、ここには画家、写真家、デザイナ−など多様なア−ティストが集まり、既成の権威や公募展のありかたに強く反発した。久保貞次郎はすでに日本エスペラント学会の出席のため宮崎に行った時に瑛九を知り、この活動を支援することになる。おりしも久保は美術教育運動として美術教師を中心とする「創造美育協会」を組織しており、その会員のセミナ−で、瑛九をはじめ、その仲間たちの版画制作の講習会を開いたり、オ−クションなどで作品を紹介して会員たちに売って若き画家たちを支援した。その画家たちのなかには靉嘔、池田満寿夫、泉茂、磯部行久、オノサト・トシノブ、吉原英雄などがいた。そして、この活動を「小コレクタ−の会」と命名していた。この運動によってこれら美術教師たちや市民の中に版画コレクタ−が芽生えた。
<版画友の会>
美術雑誌『みづゑ』や『美術手帖』を発行していた美術出版社の社主大下正男は1953年に初めて渡欧し、欧州の美術出版事情をつぶさに視察している。その際、パリにも滞在しており、多分そこでいかに西洋の画家たちの版画が画廊の店頭に多く飾られていたか、当時の日本との違いに驚いたに違いない。大下はとくに版画に関心が深かったことと東京国際版画ビエンナ−レが開催されたこともあって、版画頒布組織を着想し、当時もっとも版画に精通していた久保貞次郎と今泉篤男氏を説得して顧問に据えられ、1957年に「版画友の会」を発足した。その事業内容は年に数回の作品頒布会と展覧会の開催や作家を囲む座談会、アトリエ訪問などであった。やがて百貨店の催事の展覧会の企画や「版画サロン」なども運営をした。この版画友の会の会員には久保貞次郎の協力で小コレクタ−の会のメンバ−も包含しており、全国にその影響が波及した。1971年に解散するが、その後、プリントア−トセンタ−や小コレクタ−の会を継承した現代版画センタ−などの別の普及活動として拡大されていった。
<版画ジャ−ナルの発生>
「版画友の会」は1961年に会員の数が200名を越したので機関誌として『版画』と言いう小冊子を発行した。創刊号は池田満寿夫のオリジナル作品で飾られた。この機関誌は8号まで続けられたが、1968年にもっと多くの人たちに供すべきであるということになり、『季刊版画』と誌名を変え、一般雑誌として市販することになった。これまでのような版画家たちの同人誌とは違った版画専門雑誌が誕生したわけである。結局、この雑誌は12号で終刊し、短命であったが版画ジャ−ナリズムの基盤をつくったことと1970年代の現代版画がもっとも活況を呈した時代の版画家たちを大きくクロ−ズアップして、多大な影響を与えた。この終刊の後、『Print Art 』、『Gq』、『版画芸術』、『版画館』、『21プリンツ』など次々に版画雑誌が創刊されていった。
<版画商の増加と現代版画商協同組合の設立>
1970年代に入って版画の市況が急速に伸長した。現代版画商としてはそれまでは東京では渡辺木版美術画舖や養清堂画廊、京都では山田画廊が版画専門として営業していたが、それらもほとんど外人客が主力であった。ところが60年後半から70年代になると進歩的な洋画商が積極的に現代版画を取り扱うことになった。とくに南天子画廊、大阪フォルム画廊、南画廊、ポ−ル・ギャラリ−、シロタ画廊、番町画廊などの活動は美術界に大きな影響を及ぼした。加熱した版画市場に他業種の企業の参入などもあり、版画を扱う業者が加速度的に増加し、市場が混乱しつつあったこともあり、また業界が結束して現代版画をいっそう普及する目的で、当時の全国の同業者に呼びかけ1976年に現代版画商協同組合が設立された。以後、この組合で毎月開催される作品交換会などの活動によって、現代版画が全国に普及する流通面での太いパイプが通じることになった。発足時の役員は次の通りである。
理事長・阿部雄治(養清堂画廊)、専務理事青木治男(南天子画廊)、理事・白田貞夫(シロタ画廊)、魚津章夫(プリントア-トセンタ-)、西岡務(ギャルリ-・ユマニテ)、
山田哲夫(山田画廊)、幹事・松村健(大阪フォルム画廊)、栗田玲子(ガレリア・グラフイカ)。
開館10周年記念「現代版画の黄金時代」展(冨山・朝日町立ふるさと美術館 2001年)図録テキスト
朝日町立ふるさと美術館で企画した展覧会