堀井英男さんの追悼展
                                                     魚津章夫



 
堀井英男さんは1992年に肺ガンに冒されていることが発覚し、直ちに手術がなされ、その後、治療に専念されていましたが1994年10月20日に亡くなられました。しかし、その治療中にも胸の激痛をこらえつつ、アトリエに籠って、制作に没頭されていたのです。
 没後、そのアトリエにはたくさんの描き遺こされたドロ−イング(水彩)の作品がカルトンのなかにきちんと整理されてありました。その数は200点以上もあって、そのうち、50点ぐらいは、治療中の約2年間に集中して制作されたものでありました。後日、奥様の話によれば、あと残された時間のすべてを制作にあてたいと懇願され、家庭的な団欒などできなくて申しわけないといって、制作中はだれもアトリエに入ることを禁じ、ひたすら制作なさっていたのでした。
 私も療養中に仕事の打合せやお見舞に伺いましたときにはそのうちのいくらかはお見せいただいていたのです。亡くなられて一周忌を期して追悼展を開いて差し上げようという声が関係者のなかで高まり、その企画立案を私がすすめることになりました。そこで本来ならば堀井さんが生涯を賭けて制作された色彩銅版画の代表作を展示して、その業績を讃えるべきでありましたが、遺されたたくさんのドロ−イング(水彩)の作品が年代別にきちんと整理されている状態を見て、生前の堀井さんの暗黙の遺志が伝わってきて、この熱い最後のメッセ−ジがこめられたドロ−イング(水彩)の作品を中心にして、追悼展を構成すべきであると構想がか固まったのです。
 
堀井さんの才能を特徴づけるものは優れた素描家であると同時に鋭敏なカラ−リストでもあることです。この画家として最も望まれるこの二つの能力をバランスよく兼ね備えている画家は極めて希なのです。芸大時代に習得した油彩画を脱皮して、銅版画にのめりこんだのもその二つの特性を生かしたかったからにちがいありません。最初は油彩画の構想のためにそのエスキ−スとしてたくさんのドロ−イングを描きためていたのです。
 堀井さんのドロ−イング(水彩)のすばらしさは即興的なスピ−ド感のある魅惑的な描線であります。工程を踏んで塗重ねてゆく油彩画ではそれを生かしきれなかったのでしょう。そのドロ−イング(水彩)の効果をストレ−トに表現したいがために銅版画を始めたのです。銅版画でもこの描線と色面の強調は交互に展開します。それは、ある場合には、抽象の色面の配置と対応するその色の関係をぎりぎりまでつきつめているのです。また、それが次第に描線を強調するようになり、極めてシンプルでいかにも稚拙な線とみえるようなところまで行き着くのです。
 しかし、銅版画には限界があります。堀井さんの色彩による銅版画は二版、つまり、一版は墨版の黒、もう一版は色版で、色は多くても3〜4色しか使えないのです。この極限のなかで色彩の選定がなされなければならないのです。この制約が、逆に銅版画の限界を、おのずから自覚させてゆくのです。平面的な色面の構成はいらないものをけずって、シンプルであればあるほど、版画の表現には適しているのです。そしてまた、版画は段通りをふんで、あいまいさをゆるさない計画性をもって、すすめねばなりません。こういうことこそ版画の特性であって、この制約されたなかで、どれだけ工夫がなされ、効果を発揮しているかの視点から、優れた版画であるかどうか、見極める必要があるのです。
 このぎりぎりの禁欲的な作業をつづけて、限界を感じとったときに、それからのがれて、自由な線をひき、色の微妙な濃淡、即興的な偶然に身をまかせた、ぼかしやにじみ、など駆使して,全感覚を解放する衝動にかられて、堀井さんはドロ−イング(水彩)の制作に向かわれたのではないかと私はおもうのです。
 堀井さんは生涯のほとんどを、色彩銅版画で、その色と形と線で、自分の感覚で感じとった印象を表現してきましたし、そのためにはあらゆる研鑚と努力を惜しみませんでした。また銅版画家としての資質、神経の細やかさであるとか、几帳面さであるとか、そういう資質も並みはずれて、そなわっていました。私は戦後の版画家のなかではこの色彩を使った銅版画としては第一級の版画家であるとおもっています。
 このように堀井さんの色彩の銅版画を最大級に評価したとしても、堀井さんのほんとうの優れた資質や才能は、やはり、全身全霊をうちこんで、最後の命を燃焼させて描いたドロ−イングの作品のなかに現れているのではないかと、そうおもわれてならないのです。堀井さんの最後の一連のトロ−イングの作品のテ−マは「王の肖像」と「中国幻想」のシリ−ズです。「王の肖像」の場合は人の顔らしきものが描かれていて、異様な目らしきものが確認できるのですが、輪郭がはっきりしません。これは堀井さんがいつも使う手法なのでしょう。はっきり物の形を描かないで、時には抽象を強めたり、また、時には具象をつよめたりして、象徴的に、暗示的に表現するのです。つまり、見る人の想像力に半分委ねるのです。見る人は自分の経験や問題意識によって、想像をふくらませるのです。そのほうが、はっきり明確に描いて、決定づけてしまうよりも、もっとリアリティが出てくるという効果があるのです。
 「王の肖像」の顔の場合も、顔が現れてきているのか、崩壊してゆくのかわかりませんが、目の表情と、あとは、筆のタッチの強弱と色の配色や濃淡によって、すべてを表現しているのです。これを読み取るにはかなり高度の絵を見る訓練がなされなければならないかもしれません。いずれにしても、王の顔に託して、自分自身か、あるいは人間の長たる者の孤独や哀しみのなんたるかを訴えているのでしよう。
 また「中国幻想」の場合は抽象的な色の筆のタツチや描線や塗り重ねが複雑に組み合わせてあり、風景らしきものや、そのなかに、不思議な目が現れてきたりします。おそらく、晩年、何度か中国を訪ねた時に、この画家の眼には、このような色合いや空気を、昔の素朴な日本の古い風景や故郷の風景とダブらせて感じとったにちがいありません。そして、この堀井さんが最後に到達した風景と人物が混在した、抽象でもない具象でもないドロ−イング(水彩)のこの絵づくりの方法は、最初に芸大で習得したしっかりした形を捕らえることの技術や安定したバランスの画面構成が基礎になっており、油彩画で学んだ工程を辿って塗重ねてゆく描きかたや、銅版画で、できるだけ、いらないものを削り落とし、簡素化するやり方や、抽象画を試みて、隣接する色面の、あるいは対応する色の関係の重要性と、その厳密な選定などの、様々な絵づくりの試みの成果をふまえて、そのすべてを結集して、しかも、あらんかぎりの気力を振り絞っての、画家としての総決算ではなかったでしょうか。そして堀井さんが本来もっている優れた素描力と天性の色彩感覚がこの最後のドロ−イング(水彩)にいかんなく発揮されているのではないかとおもわれるのです。 
 1996年1月にこの堀井さんの熱いメツセ−ジをこめた最後のドロ−イング(水彩)40点を中心とする追悼展が東京の八重洲ブックセンタ−で開催されました。8日間の会期に900人以上の来観者があり、大きな感動を与えました。初日、開店と同時に美術雑誌の展覧会案内に使われた「王の肖像」の写真を見て、たいへんこの絵に魅せられたので、もしお譲りいただけるものであれば、お金に糸目はつけませんから、という愛好家が現れたり、哀悼で、目頭を押さえる人たちや、若い女性で、感動のあまり、会場に座り込んで、終日、その場を離れられなかったという、この画家の画魂のこもった迫力のある展覧会になったのでした。

                                   『実業之冨山』1999年6月号初出
                                         『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎刊)より

                                        
                               

八重洲ブックセンターで私の企画した六つの展覧会
 

『堀井英男全版画作品集』


告知 「水から生まれる絵ー堀井英男の版画と水彩」展 (八王子市夢美術館)

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