堀井英男さんと私
魚津章夫
初めての出会い昭和42年(1967年)のことです。私は当時、「みづゑ」や「美術手帖]を発行していた出版社のなかに事務局のあった版画友の会という版画同好会がありまして、その仕事を手伝うことになりました。新任早々担当になったのが堀井英男さんの個展でした。
その頃、四谷にあった自社ビルのロビ−の壁面を利用して有望な版画家達にその場を開放して、作品を展示して会員の皆さんに観ていただき、その時には各作家を呼んで、愛好家の方々と直接お会いいただき、制作の苦労話や作品の意図などをお聞きする座談会も開催して、すこしでも世の中に優れた版画が広まるよう活動していたのです。これには田中邦三さんという、もうすでに定年退職なさったご高齢の方が、嘱託でこの仕事を情熱をもって、献身的になさっていたのです。それを私が手伝うことになったのです。
ロビ−展は会員に作品を観ていただくこともさることながら、このロビ−は自社の各編集者や外部の美術評論家や著者や画家が毎日、出版物の打合せのためにここを利用していましたから、そういう人たちにいくらかでも目にふれれば、まだ世に認められない画家たちにとっては、なにかチャンスが生まれるかもしれない、その意味で、なによりの場所ではないかというねらいもあったのです。今からおもえばそうそうたる版画家の展覧会をしていました。宮下登喜雄、吹田文明、利根山光人、関野準一郎、尼野和三、森義利、萩原英雄、深沢幸雄、吉田政次、笹島喜平、小野忠重、城所祥、清宮質文、小作青史、小林ドンゲ、日和崎尊夫、相笠昌義、野中ユリさんなど戦後の代表的な版画家たちのほとんどにこの時にお会いし、このうちの何人かは終生お付き合いすることになったのです。
この年、堀井さんは日本版画協会第35回展に初出品、初入選、しかも協会賞のグランプリを受賞なさいました。そして、そのすぐ後に、このロビ−展がなされたのです。まったくの新人でしたから、まとまった作品は見たことがありません。私は一点、一点、壁面に飾りつけて、その作品のすばらしさにおどろきました。アブストラクトのカラ−・エッチングです。仮装シリ−ズの連作で、受賞作もありました。色面はおさまるところにおさまっていて、寸分の隙もないパ−フェクト画面構成で、しかも魅惑的な抒情が漂っているのです。アクァチントで腐蝕された版面はソフトで、すこし乾いた感じの触覚的な色彩のマチエ−ルがなんともいえないのです。対応する色の配置がまた見事なのです。
その時は、このように分析して観ていたわけではありません。ただ直感的にすばらしく、いいなぁ、と、感じたのですが、その後どうしてもこれらの作品が欲しくて、後に買い求め、私の秘蔵の宝物となっているのです。30年近くたった今でもこの展示された作品の配置や印象が鮮明に思い浮かべることができるほどその印象は強烈であったのです。そして、その時、本人を囲んだ座談会がおこなわれ、はじめて、この画家とじかに会うことになったのです。その時に出席した会員の愛好家の皆さんも絶賛の評価でした。余りにも完成度が高すぎて、すこし窮屈で、おもしろ味がないのではないかという意見もありました。私は社の美術雑誌の編集長や編集部員に袖を引くようにして観てもらったのですが、その時は期待したほどの反応を得ることはできませんでした。
私はその頃は、まだまったくの未熟で、入門者のようなもので、池田満寿夫さんのべネツィア・ビエンナ−レの受賞記念展をお手伝いして、はじめてカラ−・エッチングというものをまのあたりに見たばかりですから、人前ではそのような確信ある感想は言えず、しかし、素朴な実感では、ひょっとしたら、池田さんの作品よりは優れているのではないかと内心おもったりしたものです。しかし、池田さんは日の出の勢いで、注目のスタ−です。そのようなことを言っても、だれも信用するわけがありません。
この展覧会が終わった後、すぐ、また私の担当で、今度は京王百貨店の版画サロンでこのロビ−展の出品にその後の新作を加えて個展を開催することになったのでした。これが堀井さんとの初めての出会いでありました。3年連続の新作発表の個展
その後も、堀井さんの新作の発表は注目しておりましたが、毎日現代日本美術展や東京国際版画ビエンナ−レの招待による出品作も、絵の内容が線描が主体の抽象であったためか、大きな会場ではデリケ−トすぎて注目を集めるにはあまりにもエレガントな作品でありました。この頃は本人も後日、不調だったと言っています。私も独立することになって、なによりも小雑誌「Print Art 」の発行に追われていて、しばらく堀井さんと直接お会いすることはありませんでした。
そして、1972年の日本版画協会展に出品された「透視窓72-2」を見て、人間の顔らしきものの群像が画面に現れ、その叫びを感じ、またその見事な空間構成に驚き、これはいけるぞ、とおもったのです。そのすぐ後に「夢のそとで」という黒田三郎さんの詩と堀井さんのカラ−・エッチングのすばらしい詩画集を見て、その確信をさらに深め、新作で、私のギャラリ−で、個展をしませんかという内容の手紙を本人に差し上げたのです。そして、約1年の準備期間をおいて、1974年9月に、はじめての新作発表の個展をすることなったのです。
「閉ざされた部屋」というテ−マで15点が発表されました。透視窓シリ−ズで現れた形がいっそう明確になって、漆黒の闇に浮かぶ、半具象の人体フォルムが不気味に表出され、赤と黒の鮮烈な色彩の対比によって、まさにその時代の現代人の孤独で不安な状況を画面を舞台劇に見立てて、見事に現出させて見せてくれたのです。そして、この展覧会で発表された「閉ざされた部屋」シリ−ズは、その後の堀井さんのスタイルを決定づけたのでした。
この個展の反響は予想以上で、とくに若い版画家たちに強い影響を与えたようでした。さらに翌年、「虚構の部屋」シリ−ズ11点と小品4点の15点の発表がなされました。この展覧会で発表された諸作品は、堀井さんの全版画作品のなかでも最高位に位置づけられる傑作であると私自身は評価しています。画面はいっそう整理され、空間の変容、張りつめた緊張感、緻密な構成、寡黙な静寂さのなかに漂う詩情など、非のうちどころのない作品です。
これだけ大きな画面の色彩銅版画もあまり例がありませんでした。版画というよりも一点もののタブロ−絵画を創るつもりで取り組まれていたようにも思えるのです。そして、さらに翌年3年連続で新作の発表をしつづけたのです。
今度は「二つの間に」のテ−マのものが5点、他が12点、計17点の発表でした。これらも充実した作品群でありました。この3回目の個展終了後に、自分にあるものを全部絞り出してしまったような気がするので、すこし休ませてほしいという申し出があったのです。それにしても40歳という画家の生涯でもっとも気力の充実した時期に、この画家と出会い、それも傑作が生まれる機会に立会い、発表の場所という舞台をつくることにいくらかお役にたてたことに、それだけでも仕事冥利に尽き、ありがたいとおもうのです。
画家との関係はこの機運をつかむことと、受け応えの呼吸が一番大切なようにおもわれました。堀井さんはその後、新作の発表の個展をすこし控えたというものの、その時期のスタイルの総括ともいうべく詩画集『死の淵より』の制作にとりかかり、それを私が1978年に刊行することになるのです。
『実業之冨山』1999年5月号初出