堀井英男頌
田中清光
追悼展に並べられた作品は、版画もいくらか含まれるが、最晩年のドローイングが中心をなす。それらは1990年から94年(没年)にかけて制作されたものであるが、会場に立ってみて、堀井さんが癌の手術を受けられた後に描かれた作品の多いことに、まず胸を突かれた。ドローイングでは40点中の22点がそれであり、銅版画は13点中の4点ということになる。
ここではドローイングについて述べてみたいが、病気になる前(90年〜94年)の作品から病後(93年〜94年)の作品にかけて、テーマや表現方法などに一貫しているものがある。おそらく銅版画による表出を永年究めてこの画家が、その可能性と同時に桎梏から自由になったところで、未知の表出を切り開こうと水彩表現(ペン、パステル、コラージュ、雲母などが併用される)に着手したときから抱いていた意志的な決意が、持続しつづけていたということの表れであると思われる。病という予期せぬ中断に襲われたにもかかわらず、それを乗り超えてみずからの意志を実現しつづけたのである。
ところでその画の内容ということになると、大病で体力も衰え、予後のなかで患部の痛みも尋常のものではなかったという実情があったと伺っているのだが、病後に描かれた作品に一段と衝迫力と求心力が強まっているのである。それを作品ごとに述べてみたいのだが、いま眼前に個々の作品があるわけではないので、一括した感想を述べておくにとどめる。
一言でいうならば、病後の表現は、内からのはげしいまでの実存的表出が表れていると私には感じられた。それ以前の作品にもむろん、表現の新しい開示をめざすところがあるが、ある程度の関心は画面を造ることの方に用いられている。しかし、病後の作品はそうした意匠をかなぐりすてるほどに、表出すべく内在する奔流が凄まじいまでにあふれ、画面を奥へとかたちづくっていくことをやめない。
水彩表現の色彩の価値、手で直接描いてゆくことをとおしての生命的な筆勢や描線の動き、そして描かれるフォルムたちも、たえざる画家の内面での問いの表象として生まれる。
(私は堀井さんの近年の中国の絵画への深い関心を、こうしたところでも想起してみる。)
まさに生きることの深淵から一回性に担われた生のおそるべき現存のとよめきが、絵筆も絵の具も、それまで彼が獲得してきた絵画的蓄積のすべてを完全燃焼させ、しかもそれをさらに超出して画家をある一点へと向かわせているように見える。
ある一点とは何か。それを凝視(みつ)める画家の眼は、もはや彼の眼のとらえるあらゆる表象のその果てに深深と開かれた、見えない、しかし何よりも激しく渦巻く、いわば<永遠>であり、すべての現象や存在を溶かしこんだ<無>でもあるところを見ているのではあるまいか。
そしてじつは凄いのは、こうした彼の内なる衝迫が、絵画的には画面の質的緊張を一層高め、深みを生み出しているという、画家としての凄愴なまでの高度の表出を成し遂げていることにある。病の身の苦痛を背負いながら仆れるまで描きつづけた堀井さんの気力と意志の力には、敬服のほかない。
堀井英男の創造は死のときまで、少しの弛みもなく、まっしぐらに、しかも高貴な魂を抱えて翔けつづけたのだ。このことが私をいいようのない感動に運んでゆく。
堀井さん、あなたは画家としての極点を生き、仆れられた。その凄絶な最期の創造は、おそらく人間が生と死のはざまで二度とくりかえすことのできない純粋な創造行為として、あなたを天上へと運んだと思われてくるのです。
(1996年2月記・詩人)
― 追悼「堀井英男展」(1996.1.27〜2.3)を見て ―