描くという行為
堀井英男
「風景画や静物画に興味がないのですか」とか「油絵は描かないの」など質問が昨今めだって多くなった。版画家という烙印がおされ、くりかえし描かれる人物画?に呆れ返っているのだろうか。私も旅に出ればスケッチもするし、庭の四季おりおりに咲く花にも興に乗れば着彩画にもおさめる。版画の中にも花鳥も登場して画面に情趣をそえることもある。
しかしながら、絵を描くという行為は人生にかかわってくる問題だ。強いていえば社会と私(画家)との間にある問題としてひとりの人間が生きてゆくうえでの矛盾と葛藤と考えたいし、その結果としての絵は、趣味や娯楽をはるかに超えて根源的なところで深く生にかかわってくる。勿論、画家の日常生活は絵の中にかくれてしまうものであるが、稀に絵と画家とが密接な関係にあって切り離しては理解しにくいケースもでてくる。この場合、画家としてのひととなりをよく知り得ることで、はじめて絵の奥に潜むものに気づくということになる。表現した画面よりもその背後に画家の息遣いや、制作までの画家の内奥で醗酵、熟成してゆく過程に私は興味がむかう。晩年のレンブラントが死に向かって生きてゆく鬼気せまる姿にはだれしもが戦慄を覚えることだろう。虚構であるべき画面の自画像が強い実存感をともなって観る者にせまる。また一方ではひとりの人間が役者と演出家とを同時に進行させるという不可能なこともやってのける。己をも客体化し、醒めた目、強靭な意志力など最早それは「単なる画家」の領域にとどまってはいない。
ところで今日の物の氾濫や情報化の社会ではものと人との関係は急速に希薄なものとなり、ものがものとしての本来の姿をますます失い混迷化の一途をたどっているといえよう。人は元来、体験によってものとの出合いがはじまり、行為によりはじめてものの全体を知ることができた。更に五感を働かせてものの奥行きをも知るというよろこびもあった。今日ではものを視覚によって逸早く知ることができるが、そのことによってひとはものの全体を知ったと錯覚している。
私はこれまで版画で社会と人間とのかかわりをテーマに人間をずっと描き続けてきた。時や場、状況によって絵は幻想風であったり、抽象的な傾向になったりもする。そのような絵画の傾向は色彩と形体のあり方に無縁ではなく、常に絵画的意識が強く反映されている。その方法論や一貫したテーマ「人間の問い」は今後も形象されることになろう。
1989年8月