小林ドンゲさんの三つの銅版画集
                                 魚津章夫


 小林ドンゲさんにお会いすることになったのは、やはり、私が、当時、美術雑誌の『みづゑ』や『美術手帖』などを発行していた出版社の中にあった「版画友の会」という同好会の事務局を担当していた時でありました。その活動のひとつとして、本社のロビ−の壁面を利用して、有望な版画家たちの展覧会を企画して、会員のみなさんや美術関係者に見ていただこうという催しのひとつとして、小林ドンゲさんの銅版画の個展が開かれ、その準備や進行を私がさせていただいたのが、はじまりでありました。
 この発端は、私の前任者でありました大先輩の田中邦三さんが、関野準一郎さんの強い推薦があって、この展覧会をやることにしたとおっしゃって、本人から、その作品を預かったら、予想外にすばらしいので、驚いたと感心なさっていました。それが1968年の3月で、1カ月展示して、7月には、新宿の京王百貨店の版画サロンで、さらに内容を充実させて、個展を開催したのでした。これらのドンゲさんの個展としての発表は、おそらく初めてではなかったかと、思います。
 ドンゲさんは、1953年頃に駒井哲郎さんのアトリエを訪ね、その紹介で当時杉並にあった関野さんの銅版画研究所で、はじめて銅版画の講習を受けられていますが、そのメンバ−の中には若き加納光於さんや野中ユリさんなどもいたそうです。1955年に春陽会展と日本版画協会展に初出品されていますが、翌年には日本版画協会展で第1回恩地賞を受賞されていますから、その才能が抜きん出ていたのでしょう。そして、さらに次の年には、詩人の堀口大學さんがご自分の重要な詩集『夕の虹』の挿画に、この新人女流エッチャ−のドンゲさんを抜擢なさったのでした。
 この限定豪華本は、あの『本の手帖』を発行し、詩集や限定挿画本の分野では伝説的な出版人として有名であった森谷均さんの昭森社の刊行で、その時代でしか、できなかつたであろう純白皮装の美装本の、今でも愛書家の中で語り伝えられる名品でありました。この中のトンゲさんの5葉の挿画はまた見事なもので、パリの長谷川潔さんからも「妖にして美しい」と伝えられ、青柳端穂さんも新聞評で、絶賛されていました。この大學さんの期待に応えたドンゲさんもすごいものでしたが、その才能をいち早く見抜かれていた大學さんもまたさすがの慧眼でありました。
 この5つの小作品ではすでにドンゲさんのあらゆる特性が現れ、しかも、すべてが完成されていたようにすらおもえるのです。ところが、その後、6年間の空白期があるのです。結婚や子育てなどもあったのでしょうが、なによりも、当時の美術界の非具象的な風潮が自分の作風に合わなくなり、もう制作を断念しょうかとも考えていた、と、後日、述懐しておられます。その傷心を癒すかのように渡仏するのですが、ル−ブルに通い、古典の名作を丹念に観るうちに、また、尊敬する長谷川潔さんに会い、ようやく自信をとりもどすことになるのです。そして、フランスから帰国して、再び制作をはじめることになり、その2年後に私がかかわることになった、ドンゲさんの個展につながってゆきます。  大學さんの大抜擢もそうなのですが、ここという舞台がきちんと設定されれば、才能のる画家は飛躍的に成長するものだとということを身をもって実感したものです。このドンゲさんの個展からその後のめざましい制作ぶりもそのようなものでした。
 
個展終了後、ドンゲさんとしては大作の、ずっとこのテ−マで作り続けていた雨月物語のシリ−ズの決定版の制作にとりかかりました。そして、これを版画集として刊行しようという計画がもちあがりました。田中邦三さんを介して、あの駒井哲郎さんと安東次男さんの詩画集『人それを呼んで反歌という』を刊行した、当時お茶の水にあったギャラリ−・エスパ−スの竹内宏行さんが、ぜひ、それを刊行させてほしいということになり、制作と装本作業がすすめられました。
 先の個展から、なにかにつけて、ドンゲさんの相談にのるようになっていた私も側面から協力し、彫り込まれた銅版の刷りなども、池田満寿夫さんから特訓を受けて、独立したばかりの林グラフイック・プレスの林建夫さんを紹介し、その刷りをお願いしたりしていたのでした。しかし、完成寸前になって、竹内さんがこれ以上独自ですすめるのが困難になったと、突然、私に相談に来られ、なんとかこれを引き継いで、あなたの会社から発売してくれと懇願されたのです。私もたいへん困って、田中さんや、ドンゲさんとも話合い、私が会社を説得して、美術出版社を窓口にして、発売することになったのでした。
 こんな経緯にもかかわらず、実作6点と扉や奥付の作品そのものはすばらしい出来映えで、まさにドンゲさんの幽しい妖艶さを十分に発揮した傑作でありました。しかし、残念ながら、お任せして出来上がってきた装丁装本はドンゲさんも私もとても満足のゆくものではなかったのです。せっかくお互いに努力してきたのに、この土壇場の、この結果に、私にも悔しい思いがこみあげてきたのでした。
 そこで、ドンゲさんを慰める意味もこめて、次回の版画集は、私とドンゲさんとで、立派な装本のものを作りましょうと約束したのです。そして、それを実現しょうとしたのが二度目の銅版画集『ポ−に捧ぐ』でした。そのころのドンゲさんはますます制作意欲が高まってきた時期でもありました。もともとビュラン彫りは自由の利かない古典的な難しい技術で、極度の神経の集中と慎重さを要することもあって、ドンゲさんの仕事は遅く、そのころから寡作で有名でありましたが、『雨月物語』から2年後の1972年に、この『ポ−に捧ぐ』が完成いたしました。
 ところが、こんどは私自身が独立することになって、完成の途中でこの仕事を、後任者に引き継いでもらうことになってしまうのです。幸いにして、この『ポ−に捧ぐ』は社内ではベテランのブックデザイナ−の和泉不二さんが装本をしてくれることになり、本絹なども使用して、美しい豪華な版画集となって実現したのでした。その後、私が独立してから、小雑誌の発行もあり、忙しくなり、ドンゲさんとはまとまった仕事ができませんでしたが、併設のギャラリ−ではドンゲさんの作品を扱い、頻繁に交渉を保っていたのです。ドンゲさんはドンゲさんで蔵書票の50作という連作の仕事や挿画本の仕事がたくさん入り、引き続きいい仕事をなさっていました。
 そのうちに、挿画などの小品ばかりではなく、大作を作りたいという意欲がたかまってきたのか、田中邦三さんを連れだって、サロメをテ−マにした銅版画集を作りたいが、これまで私と仕事をずっとしてきたこともあって、
それを気づかってくださったのか、私のところで刊行したらどうかと言ってくださったのでした。その時は、資金的に余裕はなかったのですが、おもいきって、やりましょう、今度は装本の材料選びから配色のデザインまで、すべて、ドンゲさんの満足のゆくようにしますからと申し上げて、三度目の銅版画集『火の処女・サロメ』が誕生することになったのです。
 序文は堀口大學さんに書いて頂き、解説に瀬木慎一さんと小川国夫さんが文をそえて下さったのでした。ドンゲさんはこれらの作品で、陰影を使わない、純粋な線の組合せだけで、この冷酷で可憐な妖婦を、この上なく、見事に美しく、ビュランで彫り上げました。このようにして、ドンゲさんの代表作である、すばらしい、3つの銅版画集が生まれたのです。

                      『実業之冨山』1999年9月号初出
               『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎刊)より

小林ドンゲ銅版画 特選

銅版画集『雨月物語』  銅版画集『ポーに捧ぐ』  銅版画集『火の処女 サロメ』


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