『実業の冨山』 1999年9月号 初出日和崎尊夫さんのこと
魚津章夫
日和さんと最初に会ったのは1968年の9月ごろであったとおもいます。当時、私が勤務していた四谷の出版社に面会を求めて訪ねてきたのでした。たしか、版画家仲間二人を連れだって、完成したばかりの自家出版「ピエロの見た夢」という版画集を一冊持ってきて、見てほしいというのでした。そのころ私が版画友の会という同好会の仕事を担当しており、そこを母体に出発したばかりの「季刊版画」という雑誌にもかかわっていたのです。
日和さんは1966年の日本版画協会展で新人賞、翌年にはグランプリの協会賞を受賞していたので、名前ぐらいはすでに知っていました。そのグランプリは堀井英男さんが同時にグランプリで、その年は二人の受賞者でした。私自身は、どちらかというと、その時は、堀井さんのカラ−・エッチングの仕事のほうを注目していたのです。もちろん、日和さんの木口木版も、珍しく、とても新鮮な印象を与えておりました。しかし、日和さんとのこの初対面で、その作品以上に特異な、この人物に興味を持ちました。それほど強烈な印象でありました。
体型は小柄でしたが、がっちりしており、目は鋭くて熱っぽく、黒い大きな瞳で、人なつっこい熱血漢という感じでした。神経は繊細で、会話していても、必要以上に気を使い、痛々しい感じすら受けたものです。こういう痛々しい細やかな神経とシャイな印象は、あの駒井哲郎さんと会話したときも、まったく同じような感じを受けましたから、お酒の入る前のこの様子と、入った後の一変した形相なども、どこか、共通点があったのではないでしょうか。
作品もさることながら、私がいつも共感を受けるのは直感的に詩人的なテレパシ−を感じる画家であったようにおもいます。日和さんもそのひとりでした。そしてまた、その時はお互いに28歳という、同じ昭和16年生まれの若者で、戦災孤児の世代と言い合って、青春の真っ盛りであったということも、強い親近感をお互いに感じとったのでした。
持参した「ピエロの見た夢」という版画集は作品を収めるマットも自分の手でカットしたもので、表紙も装丁もすべて手作りの、素朴なものでありました。それだけに制作者の熱意がストレ−トに伝わってきて、その小作品集も興味ぶかく拝見したものです。ところが日和さんの用件は、このような版画集をもう一冊出版したいので、その版元を引き受けてくれないかという売り込みであったのです。ちょうど私が版画友の会の担当になり、新しい企画をたてて、活動を活発にしなければならないとおもい、そのひとつに、オリジナルの版画の出版や版画集の刊行も考えていたので、非常にいいタイミングだったのです。
しかし、まったくの新人でしたから、実績はこれまでなにもありません。社内の上層部は名前さえ知らないのですから、この版画集の出版の企画が普通では通るわけがありません。そこで私は、装丁や印刷の実費にあたる分は作品の提供で賄い、社には実損を与えないということで説得したのです。そして、出版部数の半分は本人に渡し、自分のファンや関係者に自由に売ってお金にかえてもよいという条件で刊行することにしたのです。こうして、木口木版画集「薔薇刑」は世に出たのです。作品が12点入り、定価15,000円で、100部限定で市販されたのでした。さらに、そのほかに、会員のための頒布作品として、「五億の風の詩」という作品を数枚買い上げることにしたのです。
ところが、この出版の条件を決めた数日後に、突然、本人から会社に電話がかかってきて、今、病院から電話をかけているのですが、昨晩、友達のアパ−トの2階から、酒に酔って、逆さに転落し、病院に担ぎ込まれ、しばらく入院することになった。女房に連絡する前に、あんたに電話をしたのです。ほんとうに、すまないのですが、代金の支払いを早めていただくわけにはいかないか、あるいは、前借りをできないものか、会社に交渉して欲しいというのです。私は驚いて、なんとか会社からお金を引き出し、病院に駆けつけたのでした。この最初の出会いの、この度肝を抜かれるような事件から、付き合いがはじまり、それからは、なにかにつけて、たえず日和さんの、今どきめずらしい無頼派的な狂気に満ちた生きざまに巻きこまれつつ、終生、交遊がつづくことになるのです。
そして、50年というけっして長くはない人生を、彼の口ぐせに言う、まさに「パッション」で生命を火花のごとく燃やし尽くして、かずかずの数奇なエピソ−ドを振りまいて、逝ってしまったのでした。彼の亡きあと、知人に託してあった遺品の箱のなかから、ちょうど私が出会ったころのことが記述された日記が発見され、この若き芸術家がその当時、いかに自己の芸術と格闘し、苦悶していたかが赤裸々に書き留められており、それを読んで、暗然たる思いに駆り立てられたのでした。
私と会う前年、1968年10月に郷里高知で営んでいた飲食店を閉じて、家族とともに東京に出て、版画制作一本で、生計をたてようという無謀ともいえる困難な道の第一歩を踏み出したのでした。その直前まで、強度のノイロ−ゼにかかり、不安の幻覚症状が生じ、死をすら覚悟するのですが、その煩悶は東京へ出てからもまだひきずっていたのでした。しかし、そのころ、心のよりどころとして、すがるように読み耽っ
た「老子」や「法華経」から、やっと救いのひかりを見出したのでした。また、その「法華経」のなかにあった「劫(Kalpa カルパ)」という時空を超えた永遠の世界に啓示を受け、以後、1975年、文化庁在外研修員として渡欧するまでの5年間、これを主テ−マに次々と精力的に充実した作品を発表しつづけたのです。 ちょうど、このころが日本の現代版画がもっとも高揚した熱き黄金時代で、私も「版画」、「季刊版画」という版画雑誌に関わり、自らも「Print Art」という版画専門誌を発行するようになって、日和さんと同じように、青春の情熱を燃やし、この時代を共有して生きたのでした。この時期に生まれたその作品のかずかずを、すすんで私の関係する版画誌で紹介し、いくつかの企画展にも出品を促し、美術出版社ロビ−展、私のギャラリ−での個展、そして、私に関係のある、京王百貨店版画サロンや、いくつかの地方の画廊を紹介して、できるだけ、それらの作品の発表の機会をつくるようにつとめたのでした。日和さんもそれに応えてくれたのか、今、振り返ってみれば、親密に交遊したその時期が、生涯の全作品のなかでも、もっとも輝き、エネルギ−に満ちた、集中力のすざましい充実した作品を創ってくれていたのでした。
日和さんは純粋な芸術家が必ず背負うことになる十字架、愛と、生活と、芸術の創造を両立させること難しさに苦悶し、格闘し、それを抱えながら、あの自ら選んだ木片、椿の樹の断面に夢や希望や救いを求めて、誰も犯すことのできない独自の幻想の世界を構築して、自らの生命をそこに封じこめて逝ったのではないでしょうか。日和さんの木口木版は、故郷高知で生育した椿の樹木に、深夜、その重ねられた年輪の木口の断面を、さすり、対話し、呼吸と心臓の鼓動とともに、即興でビュランで彫り込み、イメ−ジを増殖させていったものです。まさに、日和さんだけが発見し、獲得した、全身全霊を打ち込むことのできる世界でありました。
最初の出会いの頃、私のアパ−トで、前の晩から酒を二晩呑みつづけ、泥酔して帰ったあと、私に進呈すると、残していつた「老子」の本と「ウイリアム・ブレイク」の画集が今なお私の書架に収まっているのです。そしてまた、日和さんとの、その後の付き合いで、酒代や生活の糧として持ち込まれた作品と、その都度、買い求めたものも含め、約150点の作品が私のところに遺こされることになったのでした。
(下の写真は筆者と日和崎尊夫さん パリのエフェル塔の前で 1974年)