尼野和三さんのこと

魚津章夫


 尼野和三さんのことは今日、日本の美術界で知る人は少ないでしょう。私の若い時代の版画界では、たいへんな高い評価を受けていた版画家です。当時の国際版画展でも次々に受賞していたのです。経歴や肩書きで評価しない外国人にあれだけ高く評価されたのですから、ほんとうに実力があったのでしょう。私と同県人で気心が通じていたためか、当時、豊島園のすぐ近くの石神井川べりにアトリエがあって、しばしばお邪魔をして、お話を拝聴していたものです。全身仕事の鬼のような熱心な方でしたが、お話がはじまると興奮さめやらず、それこそ、熱弁が止まりませんでした。そして、ついついいつも長居をしてしまうのでした。尼野さんはどんな時もメモ帳をもっていて、気がついたときにはすばやくそれを描き留められていました。それが、あの尽きることのない創意工夫に満ちた版画の仕事の源泉になっているのでしょう。
 あるとき、電車に同席して、足もとを見ましたら、傘の先で、雨のしずくが落ちて、そのしずくで、床に形をドロ−イングされていたのには驚きました。四六時中、絵のことで頭がいっぱいの日常生活ではなかったかとおもわれるのです。 
 尼野さんは1971年に家族とともにニユ−ヨ−クに移住されました。おそらく日本の美術界とも決別する覚悟ではなかったかと思われるのです。私は家族で日本を発たれるとき、羽田空港まで見送りに行きました。おそらく、美術関係者では私ひとりであったはずです。尼野さんは生真面目で純粋な、そして直情一徹な人でした。内なる声の衝動にできるだけ忠実に従われたのでしょう。尼野さんの熱弁も、お書きになっている文章も熱意はひしひしと伝わるのですが、理路整然としたものではなく、また自己流の造語がふんだんに出てくるので、なかなかすぐに理解できるものではありませんでした。尼野さんの抽象の版画の作品もそのような混沌としたところがあり、その内容の高さや意図する意味が一般の人には伝わりにくいところがあったかもしれません。
 尼野さんが若いころ、郷里富山県の高岡市で、棟方志功に出会い、木版画の不思議な魅力にとり憑かれて、上京、棟方志功の呪縛から脱皮、白黒具象から色彩の抽象の木版画へとたえず自己変革の連続でありました。さらに相次ぐ公募展での受賞、国際展での受賞などと世間的には評価がなされ、ひとつの立場が確立されたようでしたが、そのすぐあとで、あらゆる版画団体からの脱退、そして、日本の画壇を捨てて、渡米されたのでした。この熱血漢の尼野さんを、このように激しく突き動かしていたものはいったい何だったのでしょう。私は戦後版画史のなかでも、抽象による木版画においては、尼野さんの抽象木版を最大級の評価をしています。西洋の抽象画から影響を受けて、先駆者である恩地
孝四郎さんをはじめとして、山口源、吉田政次さんなども抽象木版の仕事をなさっていて、それぞれすばらしい業績を残され、今日では抽象の木版画もめずらしくありませんが、日本人の体質が色濃く滲みでた密度のある尼野さんの抽象木版画は、そのなかでも、ひときわ光彩を放つ仕事であるようにおもわれるのです。
 とくに1960年代後半のものから1970年にかけての雲形定規を使った作品などは絶頂を極めた充実したものでした。外国人がこぞって、称賛を惜しまなかったことが今更ながらよくわかるような気がします。しかしそれらの作品は今どこを捜してもまとまって見ることができません。
今日、全国に公立の美術館がたくさん開設されるという時代にあって、それぞれ多額の予算が使われているにもかかわらず、国際的にもあれだけ評価された尼野さんの木版画のような優れた仕事をきちんと評価し、回顧展のひとつも開催すべきだという動きが起こらないのも不思議なことです。

(写真はニュヨークのアトリエで 1973年 魚津章夫撮影)                                           『実業之冨山1999年』1999年10月号初出

                 『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎刊)より

尼野和三の木版画

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