私の名画100選(西洋絵画編) 魚津章夫

 私が最初にヨーロッパの美術館を訪ねたのは1973 年で、その年の春はロンドンのナショナルギャラリー、パリのルーブル美術館、印象派美術館、マドリッドのプラド美術館などを見て回った。そして暮れには再びルーブルを見て、ニューヨークに飛び、ニューヨークの近代美術館やメトロポリタン美術館、グッケンハイム美術館なども見学した。しかしこの頃は普通の観光客と同じような意識で、はじめて見る数々の西洋絵画の名画に圧倒され、鮮烈な印象を受けつつもあまり問題意識をもって見ていたわけではなかったようだ。1980年ごろから頻繁にパリに出かけることになり、今度は計画的に十分に下調べや準備をしてフランス以外の西洋絵画の発祥の要所であるイタリア、ベルギー、オランダ、スペイン、ドイツなどの各都市の美術館を1990年ぐらいまで約10年間見て訪ね歩いた。その間、雑誌『実業乃富山』に「名画をたずねて」という連載記事を100回(8年4ヶ月)書き続けることになった。ここに紹介する『私の名画100選』はその記事を再録したものである。私は学者ではないので細かい史実にはこだわらなかった。これらは実際にこの目で確認した印象と書物で西洋絵画について学習したまとめのようなものである。いわば私が美術活動するための肥しのようなものかもしれない。またこの時のいきさつを『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎刊)の中で「ヨーロッパ美術館行脚」として記述してあるので、併せてお読みいただければ有難い。






楽園追放

マサッチオ 1401~1428

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会(フィレンツェ)

フレスコ 208×83



フィレンツェのアルノ川のほとりの少し入ったさびれた広場に面して、ひっそり建っている古びた教会がある。サンタ・マリア・デル・カルミネ教会である。その薄暗い教会の袖廊の一角に、ロープで仕切られ、電燈が灯された礼拝堂があり、正面と両側面には、びっしりと壁画が描かれている。じつは、この壁画こそ、ルネサンス絵画の発祥というか、近代絵画への道を切り開いた有名なブランカッチ礼拝堂なのである。書物の知識での想像よりもはるかに狭い空間であり、壁面である。こういう大きさや、色彩や質感の印象の違いにとまどうことはよくあることだ。
祭壇に向かって、正面と両側面には
12図の壁画が描かれているのだが、最初にマゾリーノという画家が描きはじめ、マサッチオが引き継いだが完成せず、フィリピーノ・リッピが描き加えたそうだ。誰がどう描いたかについては、いろいろ論議がなされている。
「楽園追放」はそのうち左上段の小さな方のひとつである。確実にマサッチオの作である。禁断の知恵の木の実をたべて楽園を追われる旧約聖書のアダムとイブの物語である。上方には天使が右手に剣を持ち、左手で行く道を指し示してアダムとイブを追い立てている。アダムは恥ずかしさと悲しさのために手で顔をおおい、イブは裸体であることに気付いて、胸と恥部を隠し、天に向かって泣きあえいで、二人とも重い足をひきずっている。光が右から左に当たっていて、その明暗は、ふたりの歎き悲しむ表情をいっそう効果的に浮き上がらせている。体は丸みをおびていて、二人の間や背後には空気がただよっているような空間がみられる。
マサッチオはここの壁画で、絵画の表現の方法において、大革命をやってのけた。彼は聖書の物語を図像化するのに、彼の眼で見た現実の具体的な人間そのままを描いた。それは人間というものは丸みをもった、温かい生き物であるという実感を描こうとしたのであった。そのことはまた、人間とはどういうものかを、画家自身が考え、自覚したことを示している。マサッチオは自分の眼を信じて、自分で考えはじめたのであった。
そういう実感を表現するために彼はブルネルスキーの幾何学遠近法を絵画の中にもちこんだ。画像を単純にして、繊細な優美さのかわりに、どっしりした重々しいかたちにした。それは二次元の平面のなかに三次元の空間をもちこんだものであった。こういう現実の生々しい表現は当時のひとたちをびっくりさせた。フィレンツェの画家たちもこの革新的な絵を参考にするために、方々から集まってきた。あのミケランジェロもこれらの絵を学ぶために毎日かよった。まさに当時の美術学校のようであったといわれている。

マサッチオまでの壁画は建築の一部であって、つまり絵画というのは教会の空いた壁の空間を埋めるためのもので、信者たちが集会に集まる時に遠くからでも見えるように輪郭線がはっきり見える絵でなければならなかった。マサッチオはこういう常識をうち破った。






受胎告知

フラ・アンジェリコ 1387?~1455年)

サン・マルコ修道院美術館 (フィレンツェ)



フレスコ 216×321 1438~43年





なんと美しい絵なのであろうか。神が住んでいる天国とは、こんなにも優しく、豊かで清澄なのであろうか。この絵の前に立てば、だれしも、この祈りに満ちた瞑想的な気分にひたり、やがてこの画家の偉大さに畏敬を感ずるようになるであろう。
フィレンツェのサン・マルコ寺院のフラ・アンジェリコ美術館にこの受胎告知の壁画がある。美術館といっても修道院の僧院がそのまま美術館になったものだ。
1438年にこの修道院は建築家のミケロッツォによって再建されることになったが、50歳を過ぎたフラ・アンジェリコがこつ然とこの修道院に現れ、1445年のローマに発つまで再建工事に併行して、この修道院の回廊の壁面や僧房の壁面につぎつぎと一連の絵を描いていった。
フラ・アンジェリコはフィレンツェの隣村のヴィッチオで生まれた。マサッチオとは同年の同郷である。身分の低い出であったが、
20歳の時にフィエーゾレのトミニカン派の修道僧になった。本名はフラ・ジョバンニ・ダ・フェーゾレと言ったがアンジェリコ(天使のような僧)と呼ばれていたくらいだから、たいへん敬虔な信仰者であった。
 彼は聖書の物語を絵で表すという仕事は天命であると深く信じきっていた。彼の生活は、祈りをするか、絵を描くか、病人を見舞って看病するかの毎日であった。
ある時、エウゲニウス
4世は彼をフィレンツェの大司教に任じようとしたが、自分にはそういう資格がないと公言して辞退した。それほど無欲で謙虚な人間であった。ヴァザーーリによれば、一度着想した画想は神の教示であり、絵のかたちを変えたり、補筆をするようなことはなく、最初の着想どおりに完成したと述べている。また常に祈りながら涙して筆をとっていたとも言われている。
「受胎告知」という主題の絵はキリスト教美術のなかでも、しばしば描かれる図像ではあるが、このフラ・アンジェリコのものはいささか様子がちがっている。精霊を象徴する鳩や、大天使ガブリエルがふつう手に持っている棒、マリアが持っているはずの本など、説話的な象徴物がことごとく姿を消している。とにかくすっきりと簡略化されているのである。これは、ひとつには、フレスコ画であるために、技術の性質を考えて、できるだけ画面の整理と簡略化をはかったためか、あるいは、新しい試み、つまり、マサッチオ的な遠近法や、明暗の効果を高めるために、おもいきって画面を単純化したのにちがいない。ともあれ、この極端な省略が、見事に、端正で、明晰で、しかも上品なかたちをつくりあげることになった。しかし、なんといってもフラ・アンジェリコの魅力は、この画面からかもし出す、精神的に深い内面性にある。しかもそれが美しい明るい色彩によってこころよくやわらげられている。
フラ・アンジェリコは、マサッチオには絵画の方法を学んだが、生きた現実のありのままの人間を表現することはしなかった。そのためには自分自身も神に近づく修行をしたのだ。この「受胎告知」はそのような執念をそのまま今日に伝えている。この絵は壁面に描かれたフレスコ画であるから、この僧院に来なくては味わえない。






キリストの洗礼

ピエロ・デルラ・フランチェスカ (1415/20~92)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)




テンペラ・187×116






 
紀元前6世紀ごろピタゴラスとその弟子たちは、世界は数によってつくられているという奇妙な思想を展開した。それは天に浮かぶ星の運行や、自然の移り変る背後には人間の眼に見えない真理があるのだと考えた。たとえば音階というのも楽器の弦の長さによってきまるということも発見した。このように移り変る現象の世界よりも数という抽象的な比例や調和がこの世界を成立させている根源的なものであると考えたのだ。
ロンドンのナショナルギャラリーにピエロ・デルラ・フランチェスカの「キリストの洗礼」という絵がある。この美術館のなかで私がもっとも好きな絵のひとつだ。

キリストがヨハネから洗礼を受けて、精霊を現した図である。薄明るい光に照らされて三人の天使に見守られた静寂で厳粛な光景は、この世とは思えない静かな世界に誘いこむ。構図は単純だ。色彩もさほど多くない。人物の動作も少ない。にもかかわらず、深みのある不思議な作品なのだ。
この絵の魅力に誘われて、何度もこの美術館を訪れ、この絵の前に立ったが、その都度、印象がちがう。その日の天候によるのか、照明の関係なのか、自分自身の精神状態によるのかわからない。おそらくその秘密は色彩にあるのではあるまいか。
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世紀ごろには絵画のための色は15色ぐらい使われていたそうである。ピエロの時代はそれよりも1世紀以上も前だから、もっと少なかったかもしれない。19世紀には100色ぐらいになり、現代では1,500万色使えるそうだ。ピエロの不思議な色は、色の数や種類ではない。彼は対象の固有の色に隣り合っている物の反射として加わる副次的な色についての法則を理解していた。彼はそのために白色を少し混ぜ合わせることによって微妙な調和をつくり出していたのだ。こういうやり方はすでに後のレオナルド・ダ・ビンチよりも先に行っていた。
ピエロ以前の中世の画家たちは、光に対してはほとんど注意をはらわなかった。マサッチオという画家がはじめて、物の丸みをつけて明暗を表現することに成功したが、ピエロはさらに色彩で奥行きをつけ、神秘的な光を表現することの奇蹟を行った。
 
ピエロ・デルラ・フランチェスカは1416年ごろイタリアのトスカーナ地方の小さな町に生まれたが、しばらくローマやフィレンツェにいたことがあるがほぼその地で過ごした。彼は当代きっての数学者であった。ユークリッドの幾何学は完全に把握しており、「算術概論」「透視画法論」「五つの多面体小論」という本も著述している。したがって遠近法は自家薬籠中のものであった。
ピエロの時代は中世のキリスト教の闇の世界からようやく現実の世界に眼を向け、自分の立っている場から物を観察しはじめた。その時、自然がいかに不思議なものであったか、あらためて気付いたのだ。この世は変化するが、なおかつ、不変の真理が自然の背後に隠されていることも自ら悟った。そしてあの古代のビタゴラスたちがたどりついた調和と神秘の世界は数によって成り立っていることを画面の上で確かめたのだ。画家が科学的な眼で物を見た最初のひとりである。






死せるキリスト

アンドレア・マンテーニャ 1430年ごろ~1506

ブレラ美術館 (ミラノ





キャンバス・テンペラ 66×81 11480年頃





 ミラノのブレラ美術館ではマンテーニャの「死せるキリスト」の印象がきわめて強烈である。実物はさほど大きくはないのだが、見た後に残る残像が巨大なのだ。構図がまた奇想天外に大胆である。どうしてこのような発想ができたものであろうか。 もともとこの画家の絵は下から仰ぎ見るような構図が多いのであるが、この絵では、手前の少し上段から見下す方向をとっているものの、典型的な短縮法を用いている。しかしながら、この構図は厳密な幾何学的な遠近法ではない。数学的に正確な遠近法で描くとすれば、足がもっと大きくなり、顔はさらに小さくなるのである。それに、この美術館の作品の展示の仕方が傑作なのだ。よく見ると額の上よりも下が高くなるように底辺部が補足されている。
つまり、見る人に「この額の下の方を持ち上げますからこの短縮法の効果をよくご覧下さい」と言っている。
 構図もさることながら、この絵の色調がまた特異なのである。色彩は極度に押さえ込まれていて、目の細かいキャンバスにたんねんに塗りこまれた絵の具は艶のない、乾いた、沈んだ色調なのである。古代の彫像を研究したマンテーニャはまったく色彩を使わないで、その彫塑性を強調した作品がしばしばあるが、この作品ではわずかながら色彩をほどこしている。これがまた、この悲劇的な主題をいっそう効果を強めている。さらに光の投影の仕方は見事で、やや硬質な鋭い線をきわだたせていて迫力ある画像をつくりあげている。
 
神聖なキリストの死という厳粛な主題をこのようにあらゆる神性をはぎとってふつうの人間の死体として、即物的に表現した画家がそれまであったろうか。この絵からは情緒だとか、やさしさだとかは少しも感じられない。あるのは厳然とした死という事実だけだ。足の裏の釘の傷あとと手のそれのみによってすべてを暗示させる想像力もまたすごいものだ。
学説によっては、隅にあるマリアやヨハネさえも後代に描き加えられたものだといわれている。
かのミレーもルーブルのマンテーニャの「聖セバスティアヌスの殉教」の絵を見て、自分も、セバスティアヌスのように矢を射られたように感じられたと、この画家の筆力のすごさを告白している。このような迫真のリアリズムにはまったく驚嘆させられる。こういう画家こそ達人というものであろうか。マンテーニャは1430年ごろ北イタリアのパドヴァの近くの小村に生まれた。10歳ごろ、当時徒弟が137名もいたといわれるスクアルチォーネの養子になり、7年間その工房で働いた。18歳には独立して仕事をはじめるが、1453年にはあのヴェネッィア最大の画家一族のヤコポ・ベルリーニの娘ニコローサと結婚する。そのころバドヴァではドナテルロが活躍していて、彼からは厳格な遠近法の原理や、空間のなかにしっかりした肉体を配置する方法や劇的な迫力で人体を描写することを学んだらしい。
マンテーニャは、マサッチオの達成した仕事、つまり、遠近法や、光のとらえ方を、ピエロ・ディラ・フランチェスカとは、まったく対照的な方向に発展させたのであった。彼は神秘とか理想よりも真実を追究することに徹したのである。ちなみに、この絵はこの春日本にやってくる。






サン・ロマーノの戦い

パウロ・ウッチェロ 1397~1475年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)




板・テンペラ 182×319 1455~60年頃





 パウロ・ウッチェロのこの絵は3枚の連作のうちのひとつである。他の2枚はフィレンツェのウフィツイとパリのルーブルにある。このロンドンのものが色彩がいちばん鮮明であるが、いずれもこの同じ美術館にあるこの画家のゴチック風の華麗な幻想画、「竜を退治する聖ゲオルゲウス」と比べると何かゴツゴツして暗い印象をうける。
1432
年フィレンツェ軍がシェナ軍と戦って勝利をおさめた場面である。傭兵隊長のニッコロ・ダ・トレンチーノがフィレンツェ軍を指揮している。おそらく戦勝を記念してメディチ家が依頼したものであろう。したがってこの絵はパラッツオ・メディチの一室の一室に3点並んで掛かっていたものだ。ちょうど腰羽目板の上部に掛けられるように考慮されているのだが、この絵のひとつでもかなり大きなものだ。天井まで届くほどであったというから、この3点が連なれば、壮大な壁画のような迫力があったにちがいない。
ウッチェロは、本名をパオロ・ディ・ドノといったが、フィレンツェの理髪師兼外科医の息子として育った。のちに鳥がとても好きであったので、「川鳥飼いのパオロ」、すなわちパウロ・ウッチェロと呼ばれるようになったそうである。
10歳のときにかの有名な洗礼堂のコンクールでブルネルスキーと競争して勝利したあのギベルティの弟子となった。
その後、ヴェネツィアでモザイクなどの仕事をしていたが、やがて画家になり、この「戦闘図」を描いたのは
60歳のころといわれている。
ウッチェロといえばアルベルティの「絵画論」などに誘発をうけて発見した遠近法に感動したあまり、つぎつぎと自分の絵にこれを適用させるために熱中しすぎたので、奥さんが心配して、もうお休みになってはどうかと声をかけた時も、ほとんど顔さえあげず、「遠近法ってなんとすばらしいものだろう」と答えたという有名な伝説が残っている。この「戦闘図」でも倒れた馬や、死にかかった兵士、折れた槍などの配置や、重なり合う線の効果によって、奥の方に視線を向かわせるような意図がなされている。絵が立体写真のように浮き上らせようとしたのであろう。各事物が描かれたというよりは彫られたような、型押しで浮かせたような硬い感じを受ける。にもかかわらず、オックスフオードの「夜の狩猟」のような見事な遠近法の典型のようには見えない。部分的な適用に集中したためであろうか、あるいは、あまりにも計算しつくされた形のために、きちんと決まりすぎていて、現実感がうすらいでしまったためだろうか。色彩の使い方は、さらに現実ばなれしていて、この絵が戦闘場面であるのに、緊迫感よりも、すこしユーモラスな、そして、幻想的な、いわゆるゴチックの色彩のこころよささえ感じる。

ウッチェロは、当時の科学理論の信奉者であった。それにもとずいて形体を意図的に幾何学的法則で様式化させようとした。すなわち<科学的絵画>をつくろうと思ったのだ。

しかし、こうした計算されたきびしい輪郭線の形体に、さらに光とか影とか背景などの効果で、やわらかい丸みのある画面をつくることはまだできなかった。






聖母子と二人の天使

フラ・フイリッポ・リッピ 1406年ごろ~1469年)

ウフィーツィ美術館 (フィレンツェ)




板・テンペラ 92×63 1466年頃





 この絵のイエスの顔や、天使の顔はけっしてかわいいとはいえないが、横向きのマリアはとてもチャーミングである。数ある聖母子像の名画のなかでもこの「聖母子と二人の天使」はもっとも魅力的なもののひとつである。同じ聖母でも、このウフィーツィ美術館の最初の部屋にあるチマーブエやジオットの聖母にくらべると、この頃のフィレンツェの絵画は、中世的な絵画を脱皮して、どのような絵画をめざしていたかという革新の意味が歴然とわかるのである。
とくにこの絵の画家フイリッポ・リッピは修道院で神に仕える画家であったが、敬虔なるフラ・アンジェリコとはまったく正反対の現世に執着の強いタイプの人であった。この絵も聖画というよりは、自分の恋人でも描いたような、いわば現代の美人画といった類のもののようだ。それもそのはず、じつはこの画家は「きわめて情熱的で、気に入った女の人を見ると、あらゆるものを投げ出して彼女を得ようとする」奔放なところがあって、「もしそれに成功しなかったときには、彼女の肖像画を描くことによって、その燃えるような恋心を鎮めた」と伝えられている。
しかも彼は、実際に、サンタ・マルガリータ修道院で祭壇画を描くことになった時、その修道院の尼僧のなかからクレアチア・ブーティという美しい修道女をたちまちに見つけ出し、自分がこれから描こうとする絵のモデルにどうしてもなってくれるよう頼みこんだ。それだけではあきたらず、つい、彼女を誘惑して駆け落ちまですることになったそうである。やがてどうにか正式に結婚の許可を得るが、その間に生まれた子供が、後にボッティチェルリの弟子となり、大画家となったフイリッピーノ・リッピなのであった。はたしてこの絵のマリアがそのクレアチアがモデルであったかどうかわからないが、このようなエピソードからもリツピという画家は、およそ修道僧としての信仰生活には向かない気質の持ち主であったようだ。
しかし、彼のそのような情熱こそ、現実の日常場面にありそうなやさしい聖母子像のスタイルをつくりあげた原動力であったにちがいない。そのことは、これまで信仰のための礼拝の対象であった絵が、画家の現実的な意識の変化によって、純粋に絵画としての人々の目を楽しませる絵になりつつあったともいえる。

フイリッポ・リッピはフィレンツェの肉屋の親方を父として生まれたが、幼少にして、近くのカラメル会修道院に預けられた。
15歳で修道士として誓いをたて、21歳にはこの修道院の画家として記録されている。とりわけカルミネ修道院のマサッチオの壁画に感激して、しばしば見学に通っていたというから、マサッチオのいわゆる人物像の量感のとらえ方や光の処理の仕方などは十分に吸収して、さらにフラ・アンジェリコの色彩なども学んだにちがいない。
この「聖母子と二人の天使」はリツピの自筆による最後の作品である。もうここでは、リツピ独自のゆるがぬ様式を完成している。とくに人なつっこい目の表現のしかたや、輪郭線を強調したリズミカルな画像は甘美な情緒をかもし出している。こうした線的効果による抒情性は、やがて弟子のボッティチェルリに受けつがれてさらに開花するのである。






サンドロ・ボッティチェルリ 1444年ごろ~1510年)

ウフィーツィ美術館 (フィレンツェ)





テンペラ・板 208×314 1478年頃







ボッティチェルリの「春」が生まれ変った。
1981年から修復にかかり、1年後には、すっかり洗いあげられてぴかぴかになった。色鮮やかな効果がことさらにめだったのは、まだ修復されていないもうひとつの傑作「ヴィーナスの誕生」と隣り合わせに並べてあるからだ。500年経た「ヴィーナスの誕生」は古色蒼然としていて、なにか灰色のヴェールに包まれているようで、この状態でこれまでたくさんの人々に感動を与え、魅了してきたものの実物であるとは信じられない。それに比べて「春」はまことに鮮明な色彩である。大地には色とりどりの花が咲き乱れ、頭上には果実が熟していて、まさに百花繚乱である。
実際にある研究家がこの花の数を数えたら
500近くあったそうだ。この樹々や草花の暗い緑色を背景に、美しい女神たちが輪舞している。それは照明のスポットを浴びたように背景から浮きあがっている。この明るい色と暗い色の対比する効果は見事である。さらにその画面には、死を象徴するおそろしい西風の神ゼフュロスがニンフのクロリスを追っている。ニンフが触れられたので口から花を吹き出して花の女神フローラに変身しようとしている。隣りは花をまいて、すでに変身しまったフローラ。先導者の神々の使者マーキューリー。輪舞する三美神。中央のヴィーナスとなぜか目かくしをして矢を放つキューピット。これらは今、描きあげられたばかりの生々しさで輝いている。
この「春」は「ヴィーナスの誕生」と共にボッティチェルリの代表作であるばかりか、このルネサンスの宝庫と呼ばれるウフィーツィ美術館にあってももっとも人気のある花形スターなのだ。この絵が何を表したものかについては、さまざまの説があって、ポリツィアーノの『ジオストラ(騎馬試合)』という題名の詩のジュリアーノとシモネッタの恋の詩から想を得たというのが定説になっているようだ。

ボッティチェルリは
1444年ごろ、フィレンツェで皮なめし職人の家で生まれた。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアノ・ティ・フィリペピであったが、彼を教育した兄のあだ名がボッティチェルリ(小さな樽)であったので自然にそう呼ばれるようになったそうだ。ボッティチェルリはいつも病気がちで、そのため、神経質で、不安定な気質であった。最初は体力のあまりいらない製本屋の徒弟になったが、しだいに図工としての才能を発揮し出した。そして、フラ・フィリッポ・リッピに入門することになった。
ボッティチェルリは「最も偉大なる線の詩人」だといわれている。彼の描く女性の顔は憂いに満ちていて、どちらかというと病的な優美さがある。体の形体や顔の輪郭、衣服をかたちづくっている線はなめらかでリズミカルである。病弱な彼の気質がそうさせたのか、当時の画家が現そうとした宗教的な神聖さや荘厳さよりも、個人的な感情、すなわち、うるおいのある表情や、やさしさ、そして、愛情を表現することに強い関心をもっていたにちがいない。そのために現実の存在感よりも優美さを優先させ、流れるような描線を重要視し、さらに光の方向や明暗の効果的な表現によっていっそう全体の調和をはかろうとしたものであった。






最後の晩餐

レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452~1519年)

サンタ・マリア・デルレ・グラツィエ教会 (ミラノ)




テンペラ 420×910 1495~97年





 
ドヤドヤと日本人の観光客の集団が入ってきて、いっせいに上段の壁面に向かってパチパチと写真をとりはじめた。こういう光景は、ヨーロッパいたるところの観光地ではめずらしくないのだが、ここはミラノのサンタ・マリア・グラーツェ修道院である。その壁にはやや薄汚れた模様が見える。写真を撮り終えた集団は、もう安心したのか注意深く見ようとしない。じつはこの壁こそ、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「最後の晩餐」なのである。すっかり黒ずんだ画面、ひび割れ、おびただしい剥落、しかも修復中であるらしく、まさにガランとした工事現場なのである。こういう状態ではただ遺跡を確認するようなもので、もう名画を鑑賞するという条件をすでに失ってしまっているようだ。
あらかじめある程度の予備知識をもっていなければどうにもならない。自分の知識を土台にして、イマジネーションを働かせ、想像で当時のすばらしさを再現するしかないのだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンスの芸術家の典型であり、万能の天才であるとか、ヨーロッパの絵画の頂点を極めた画家であるといわれている。

彼は自分の眼で見たもの以外信じようとしなかった。徹底的に人間と自然を観察した。そのために30体以上の死体を解剖した。波と水の流れの法則も調べた。昆虫や鳥の飛ぶ様子を注意深く観察して、人間も飛ぶことができるのではないかと、飛ぶ道具をつくろうとした。岩や雲のかたち、木や植物の成長を支配する法則を探った。それらがすべて彼の絵の基礎となっている。この徹底した観察と実験の精神は、画家としてばかりでなく、建築家、著述家、あらゆる方面の科学者としてもすぐれたものにした。彼のこの鋭い観察にもとずくデッサンが600点以上も残されているが、あまりにも慎重な性格のためか、完成された絵画の作品はたったの12点にすぎない。
この「最後の晩餐」は「モナ・リザ」と共にレオナルドの代表的な名作のひとつである。

キリストが
12人の弟子たちと食事をしている時に「あなたがたのひとりが私を裏切ろうとしている」と語ったとき、一瞬、弟子たちの間に、おどろきと、ろうばいが起こった劇的な場面である。レオナルドはこの絵でも革新的な絵のつくり方をしている。キリストと弟子たちの配列について、レオナルド以前の画家たちが描いていた方式、弟子たちを単純にテーブルに並べて、キリストだけをめだつように列からはみ出す方法から、中央にキリストを置き、12人の弟子を3人づつ4つのグループにわけ、さらに全員の手の形を変え、動作の表情を極度に大きくして、キリストが静の中心で、波状的に動きを大きくして、この舞台の劇的な効果を高めようとしたものであった。こうしてレオナルドは絵の中に動きとドラマをもちこんだ。さらにこの絵を描くのにこれまでの壁画にはフレスコ画で描かれているのが普通であったが、レオナルドは、発色のあざやかなテンペラ絵の具で描きあげる実験を試みた。その色彩の輝きに当時の人たちはびっくりしたであろうが、今は大戦の爆撃や、湿気によってその絵の具も剥落がひどく、無残にも激しい傷みで瀕死の状態なのである。






システィナ礼拝堂天井画

ミケランジェロ・ブナロッティ 1475~1564年)

ヴァチカン美術館 (ローマ)




フレスコ 41.2×13.2m 1508~1512年





 ヴァチカン美術館の複雑な順路を通って、奥まったシスティナ礼拝堂に入ったとたん異様な迫力に圧倒された。これはもう絵画というよりも、狂気と執念が生んだ巨大な宇宙空間である。長さが40m、幅13mの半円形の天井いっぱいにびっしりと(天地創造)からの9場面がフレスコ画で描かれているのだ。さらに正面にはあの〝最後の審判〟の大画面がある。側壁上方部を含めて約300人の人物を1000平方mに描きこまれている。右側の壁面は現在修復中であるが、観客の驚きと興奮のざわめきが、この礼拝堂特有の音響となり、いっそう異様な効果を高めている。 ミケランジェロはこの天井画を法王から命ぜられたとき、何度も辞退したそうである。自分は彫刻家であって、画家ではないともいった。この仕事を引き受ければ、もともと彫刻家であるミケランジェロがきっと失敗するにちがいないと、建築家ブラマンテの策略で法王にすすめたとも言われている。が、ともかく着工することになった。彼は何もかも一人でやらねば気がすまなかった。旧約聖書の天地創造をテーマに決めて、ひとつひとつの細かい人物のデッサンを描き、下絵をつくり、天井の壁に写さねばならなかった。実際に足場をつくり着工したのが1508年で、彼は寝食を忘れ、人さの交際も避けて、それに没頭することになった。靴はいたまま仕事をしたり、寝たりしたので足にくっついてしまった。いつも天井を見上げて作業を続けていたので首が曲がってしまい、手紙を受け取っても、上を持ち上げて、反り返ってよまなければならなかった。それは肉体的な努力だけでも気が遠くなるほどのものであった。準備の日数も加えれば、約4年半、15121031日にやっと完成した。さらに正面の〝最後の審判〟は、この天井画の完成後20数年を経て依頼され、1535年から6年余りかけて完成された。その時にはミケランジェロはすでに65歳になっていた。ゲーテはこの天井画を見て、「システィナの礼拝堂を見ないで一人の人間が何をなし得るか考えることはできない」と感嘆している。
ミケランジェロは
13歳の時、フィレンツェで有名なギルランダイオの工房に徒弟として入った。画家としての基礎的な技術をここで十分に習得した。その後、ジオット、マサッチオ、ドナテルロそして、あのギリシャ・ローマの巨匠たちの古代彫刻の美しい肉体の秘密を、実際に死体を解剖して、その人体構造を探究した。間もなく、フィレイツェでも有数の卓越した芸術家として認められるようになった。フィレンツェ市が彼をたたえて、市議会の会議室にレオナルドと二人に依頼したことや、ユリウスⅡ世がローマに呼んで、教皇の御廟をつくる計画を頼んだこと、そして、サン・ピエトロ大聖堂の造営計画、次々と権力者はこの高名な芸術家の名を自分たちのために結びつけたがった。
しかし、当のミケランジェロは情熱的で、激しやすく、これらのパトロンたちの顔色を見てうまく処してゆく人間ではなかった。仕事に夢中になりすぎて構想はふくらみ、途中で手に負えなくなったり、誇り高く、時には神のような超人ぶりを見せたので、人々に畏怖の念すら抱かせることもあつたと伝えられている。






グランドゥーカ(大公)の聖母

ラファエロ・サンツィオ 1483~1520

ガルレリア・パラティーナ ピッティ王宮絵画館〕(フィレンツェ)




板・油彩 84×54.5 1505年頃





 ルネサンスの至宝、ラファエロの代表作品が11点も所蔵されているのが、フィレンツェのピッティ宮にあるガルレリア・パラティーナである。当時ラファエロルロの作品1点を手に入れるのにヨーロッパの王侯たちが国力をあげて競っていたというから、これだけのコレクションはまさに驚異的なものなのだ。
1984
年、私のフィレンツェ滞在中に、幸運にも、このピッティ宮でパラティーナのコレクションに加えて、フィレンツェ中の美術館から集められた22点の作品に、科学的に調査分析された最新の研究成果をパネルで構成されたすばらしい展覧会に偶然にも遭遇できるということは、はるか東方の一島国人にとっては、夢のような話なのである。
会場に足を踏み入れて、最初の部屋のあの「大公の聖母」の前に立ったとき、おもわず「わぁ、これはすごい」と、その甘美な色彩と優美さに感嘆させられてしまった。名画というのはこういう一瞬の衝撃が勝負なのではないのだろうか。それにつけても私たちが現実に関係している現代美術というのは何なのだろう。イズムのイズム。錯綜する理論。難解な批評家の解説。
「大公の聖母」という絵はハプスブルグ家のフェルナンドⅢ世がこよなく愛した絵である。旅に出るときもたえず持ち歩いたということでこの名称がつけられたともいわれている。この絵は何の説明もいらない。単純にして明快なのだ。何にも描いてない深い緑色のバックから浮かび出てくる優しいマドンナ。愛らしいキリストを抱くしぐさ。自然な着衣のかたち、輝く色彩の魅力、これらすべて非の打ちどころのない、きわめて単純で、均衡のとれた構成なのである。ラファエロはこのような優しいマドンナ像をたくさん描いたので、「マドンナの画家」と愛称されていた。
ラファエロは友人にあてた手紙のなかで、「一人の美しい婦人を描くためには多くの美しい婦人をみなければならない。そして君に手伝ってもらって最上の美人を選らばなければならない。しかし、判定者も美人もいなかったならば、私は自分の頭のなかのある理想を用いなければならない」とユーモラスに書き送っている。つまり、ラファエロは、現実にあるがままに写しとるのみではなく、現実的世界を理想化して、もっとも美しいとおもわれる形態を追求すべきだといっている。現実を抽象化して理想美に近づこうとすれば、現実のリアリティを失いがちだが、ラファエロの優美さには生命力が満ちている。

「大公の聖母子」は1505年頃の制作である。ラファエロの生地ウンブリア地方のウルビノからフィレンツェにちょうどその前年で、たかだか23歳の若者であった。フィレンツェではレオナルドとミケランジェロが競い合っていた。レオナルドはその時31歳、ミケランジェロは8歳も年長であった。ラファエロはレオナルドのような知的な厳しさや、ミケランジェロのすざまじい精力はなかったが、彼らのよいところを吸収して総合した。美貌の持ち主で、温和なその人柄は誰からも愛されたが、あまりにも多忙な仕事のためか若干27歳の若さでこの世をさった。






聖母子

ジョヴァンニ・ベルニーニ (1430~1516)

ボルゲー美術館 (ローマ)




板・油彩 50×41 1508年





 ローマのボルケーゼ美術館にあるこの「聖母子」は小さな作品である。壮大な祭壇画のモニュメントや痛々しいキリストの受難像などのおびただしい量の宗教画がびっしりと展示されているなかで、このほほえましい「聖母子」に出会ったとき、ほっと心やすまる思いであった。やさしい聖母の下向きの表情やキリストの可愛いしぐさなどは思わずほおづりのしたくなるほどのものであるが、画面全体は静寂さにつつまれている。あのリッピが自分の恋人をモデルにしたであろう世俗化された聖母子像よりもさらにやさしく、おだやかなものだ。「マドンナの画家」と呼ばれるラファエロよりも数十年前に、すでにこのような魅力的な「聖母子」が描かれていたのだ。
この絵の抒情的なおだやかさというものは、やはりこの画家の生まれもった温和で詩的な資質によるものであるにちがいないが、なんといっても、この画家の色彩の使い方が、きわだってその効果を高めているのである。柔らかな光が満ちた空気のなかに豊かな色彩が融けこんで、奥の方からかすかに滲み出てくるような色調の表わし方は、いかにこの画家が自然に対して愛情深くしかも鋭い感覚で、それを情緒的にとらえる能力にすぐれていたかを十分に証明している。そして色彩というものをただ形体を説明するための補助的な役割として使うというよりも、色彩それ自体がわれわれに直接的に言葉を発しているようでもある。

このジョバンニ・ベルリーニという画家は最初に強い印象をもって注目したのは、じつはイタリアではなく、ロンドンナショナルギャラリーにある「レオナルド・ロレダーノ」というヴェネツィア総督を描いた肖像画であった。その絵はこの「聖母子」とは対極にあるような、きびしいレアリストとしての絵であった。それは知的で精悍な政治家の内面的な性格まで現した見事な絵であった。そしてその後イタリアのいろいろの美術館で見た大作の祭壇画やキリストの受難図の傑作もその迫力には驚かされたが、いずれも力が入りすぎていて、きびしさや痛々しさがことさらに強調されすぎているようでもあった。

この作品は
1508年に描かれたものである。すでに80歳を過ぎた晩年のもので、もう、すっかり、名をなし、功を遂げた巨匠の肩の力を抜いた、この画家の野心とか飾りのない本然の姿を見せた秀作であると思う。
15
世紀のヴェネツィアには、ベルリーニ家とヴィヴァリーニ家という勢力を二分する二つの大工房があった。ベルリーニ家の頭首ヤコポ・ベルリーニにはジェンテーレとジォヴァンニの二人の息子があって、この二人の息子によってベルリーニ家は隆盛をきわめた。兄のジェンテーレも偉大な画家であったが、この弟のジョヴァンニによってヴェネツィアのルネサンスが確立されたといわれている。フィレンツェの画家たちは遠近法や解剖学など、自然を科学的に見ることによって、主に人間を中心として、物の輪郭とか立体的な形を視覚的に追求したものであったが、このジョヴァンニ・ベルニーニに始まるヴェネツィア派の画家たちはもつと自然に目を向けて、光の美しさや、色調の微妙な変化を描写することに優れていた。






三人の哲学者

ジォルジョーネ (1476-8~1510)

ウィーン美術史美術館 (ウィーン)




キャンバス・油彩 183×144.5  15057年






 
ジォルジョーネの代表作「嵐」を見るために、胸をときめかせてヴェネツィアのアカデミア美術館を訪ねたのだが、不幸にもその絵は他の美術館に貸し出したものか、あるいは修復のためなのかどこにも飾ってなかった。何度も行けない美術館でこのような目にあった時ほどくやしいことはない。
この「三人の哲学者」という絵はウィーンにある。この絵と「嵐」、そしてドレスデンの「眠れるヴィーナス」の三点はジォルジョーネの特質が顕著にあらわれたものとしてとりわけ有名である。この絵は一見して非常に安定していて、何かゆったりとした気分にさせる。夕暮れなのか日の出なのかわからないが、正面からあたっているやや明るい光や岩陰の不気味な湿った暗い部分なども、色彩が大気にしみ込んでいくような微妙な調子の光と影の表し方がなされている。

この絵のタイトルからして、いかにも知的な興味のそそるものであるが、事実、頭巾をかぶり古代風のマントをつけた白い髭の老人が手にコンパスと日蝕の図が描かれた羊皮紙をもつ壮年の男、もうひとり、ビザンチン風の着衣にコンパスと計測器を持って自然を観測する青年のとりあわせは奇妙で何か不思議な暗示を与えてやまない。したがって、この絵は何を描いたものかについてもさまざまな説があって一定しない。おそらく東方の三博士
(マギの礼拝)ではないかというのが有力であるらしいが、他には占星術師であるとか、古代の哲学者、あるいは人生の三世代の寓意であると説明する人たちもいる。
この時代の絵としては、まず主題がわからないということは異例なことであって、画家の個人的な着想を主題にすることはけっしてなかった。その意味で、「嵐」にしてもこの絵にしても最初から主題を決めて描いたのではなく、ひとつの絵の中にその画家の密やかな個人的な意味づけをしようとした最初の画家であったといわれている。

またジォルジョーネは下絵をきちんとつくってキャンバスに写して、丁寧に色を塗り重ねるというやり方をとらなかった。直接キャンバスに絵筆で描いたものだ。つまり、素描された輪郭線に着色するのではなく、色彩がそのまま空間を構成してゆくのである。

何よりも自然を愛したこの画家は自然に注意を向けて、人間は宇宙の中心ではなく、宇宙の単なるひとつの要素であると考えていた。この人間と自然が渾然一体となっているありさまを、フィレンツェの画家たちのように人間中心の科学的なとらえ方ではなく、感覚と想像力によって形式と内容を統一することができた。それこそ、まさしく近代思想と近代感情を予期するものであった。

ジォルジョーネはトレヴィーゾ領のカステルフランコという処に
1478年に生まれた。本名はジォルジョだが体格が立派で、おおらかな性格だったので、偉大を表す語尾「ョーネ」をつけてジォルジョーネと呼ばれるようになった。制作する活動期はほぼ10年間であった。
音楽が好きで楽器を持ってサロンに出入りして、みんなを喜ばせているうちに、ある女性に恋をした。その女性がペストにかかっていたので、ジォルジョーネも感染して、わずかのうちに死にみまわれた。その生涯はたったの
34年間であった。






ピエタ

ティツィアーノ・ヴェチェルリォ (1489~1576)

アカデミア美術館 (ヴェネツィア)




キャンバス・油彩 351×389  1576





 
アドリア海に面したヴェネツィアは、たえず太陽が水に照り輝く明るい水の都である。湿気を含んだ空気はその太陽の位置によって風物をさまざまな色に変化させる。こうした微妙な変化でヴェネツィアの画家たちは自らの色彩に対して敏感にならざるを得なかった。15世紀にジォヴァンニ・ベルリーニが色彩の豊かないわゆるヴェネツィア派の画風を確立したが、ジョルジョーネはさらに光と色を調和させ魅惑的な抒情の世界を描いた。そしてティツィアーノによって最高潮に達し、ルネサンスの最盛期にフィレンツェに次ぐ美術史上の重要な位置を占めるようになったのであった。 ヴェネツィア派絵画の殿堂アカデミア美術館にあるティツィアーノのこの「ピエタ」は99歳の絶筆の作品であるといわれている。どういうわけかこの作品をはじめて見た時、これがあの人間の内面まで克明に描き上げた肖像画や、あるいは、ほんとうの血液がかよっていると思われるほどの官能的な肉体の裸体画を描いたその人の作品であろうかと疑ったものであった。フィレンツェ派のあの美しい線描による絵を見慣れた目には、この荒々しい筆触や、暗い色調はもはや高齢のために筆力が衰えてしまった稚拙な絵としか見えなかったのである。
ヴェネツィアの画家たちは、これまでの板の上にテンペラ絵具で描いた方法からキャンバス
(麻布)に油彩で描く方法をとりはじめていた。それはジョルジョーネがはじめてティツィアーノがやはり開花させたのだといわれている。こういう素材や技術の革新は、当時としてはほんの一歩の前進であったかもしれないが、時代を経てみると、おどろくほどの変化を促進しているものだ。板は重量やその大きさに制約され、移動や保存にも不便であった。
麻布はその点、下地つくりから制作までの職人的なしんぼうのいる工程はかなり簡素化され、巻いて輸送もできるので、すこぶる便利なものであった。そういう機能的な面においても大きな変革であったが、画家の表現においても重要な意味をもっていた。つまり、完全な下絵をつくって、そのとおりに板に写すことから、直接キャンバスに色彩を筆触でもって置くという方法をとりはじめたのだ。それは画家が感じとった印象を即興的にキャンバスに写すことであって、線で形体をつくるのではなく、色彩で形体を構成することであった。
光と色に深い関心をもっていたヴェネツィアの画家たちにとって格好なものであった。この「ピエタ」の荒々しい筆触はティツィアーノにとってまさにこのキャンバスと油彩の使いこなしの究極の成果であったのだ。この絵は光の関係を考慮に入れないと理解できない。かのヴァザーリもティツィアーノの晩年の作品を評して「近くからでは、よく鑑賞ができなくて、遠く離れて見ると完璧に見える」と言っている。

このような光と色彩の織り成す効果は、やがてルーベンス、ベラスケス、レンブラントや近代の印象派にいたるまで多大な影響を与えた。ティツィアーノが光と色をとらえたのも、生涯おそろしくたくさんの作品を描くことができたのも、パトロンに頼らないで、大きな作品を描いたり、すばやくいろいろな人物の肖像画を描けたのもこの時代の技術革新と無縁ではなかった。






書斎の青年像

ロレンツォ・ロット (1480~1556)

アカデミア美術館 (ヴェネツィア )




キャンバス・油彩 370×300  1523~ 24





 この絵はヴェネツィアのアカデミア美術館で、私がもっとも心をひかれたもののひとつだ。ジョルジョーネやティツィアーノに続いて、ヴェネツィアでは、いっそうきらめく光と動きのある劇的な構図で大作を描いたティントレットや豪華絢爛たる色彩で、しかも均衡と調和の世界をくりひろげたヴェロネーゼは、まさに16世紀に栄華をきわめたヴェネツィアの公共の建築物につぎつぎと大規模な絵を飾りたてた。そういう栄光を讃えた絵画は、どちらかというと、おおらかで、自由な気風にあふれたものであるが、このロレンツォ・ロットの肖像画はどうだろう。富める歓楽とはうらはらに、まことに、どこかうら寂しい悲劇的な絵に感じられるのだ。
ロレンツォ・ロットの絵は日本では一般にはほとんど紹介されていないし、参考文献すら和訳のものがまったくないにひとしい。主だった作品としてはルーブルに
2点ほどあり、ロンドンには、すばらしい「ルクレティア」の肖像画がある。そしてウィーンの「カーテンの前の青年像」は小品ではあるが、珠玉のような名品である。その力量には随所で感心させられたものであるが、これまでは、ヴェネツィア派の腕のたつひとりの画家としか見ていなかったようだ。ところがこの美術館のこの絵を見て、はじめてこの画家の実体が見え出してきた。要するにこの画家は天才で詩人なのだと。
「書斎の青年像」と呼ばれるこの絵は、ひとりの若い青年学者が自分の書斎で、ふと、読書を止めて、何か思索にふけっているところである。顔はすこし痩せていて、聡明そうなまなざしは、どこか遠くを見ている。きゃしゃで細い手は、いかにも感性の鋭そうな気質を感じさせる。こういう人間の精神や性格的な描写はきわめて的確に表現されている。机の上にはなにげなく置かれた布、意味ありげな折られた紙片、撒き散らされた花弁の数々、そして不気味なトカゲの這っている様子、このこの薄暗い陰気な書斎や、その道具でさえ、何か不吉な予感さえ感じさせる。

肖像画というものは、もともと、貴族や金持ちの商人たちを高貴に見せたり、美しく見せたりするために依頼されるものだ。ところが、この肖像画は、そういう類のものではない。ひとりの貧しい青年学者のありのままの姿である。現世で名声を博するような画家のほとんどは、パトロンの目をこころよく喜ばせる術を心得ている者たちである。それは現代でも変りはない。ところが、ある種の画家たち、たとえば、このロットのような画家はそういうパトロンたちに気に入られようとすることよりも、日常的な何でもない様相のなかに真実を追究し、あるがままの現実を見きわめようとした。つまり、自分のために絵を描いたのだ。こういう誠実な画家の多くは、そのために悲劇的な人生を送ることが常であった。

ロットについては、あまり詳しい経歴が知られていない。多分、ヴェネツィアで生まれたといわれているが、ローマをはじめ、イタリアの田舎から田舎へと渡り歩きながら、その土地の有力者の注文を受けて生活をしていた。周囲の無理解と、不運と生活上の困難に悩みながら、不幸な生涯を送った。ある時には、ロレートのサンタ・ガーザ
(貧民救済)の施設に生活困窮者として身を寄せていたともいわれている。






アルノルフィニ夫妻の肖像

ヤン・ファン・アイク (1390年ごろ~1441)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー
(ロンドン)




板・油彩 81.6×59.7  1434





このあまりにも有名な「アルノルフィニ夫妻の肖像」は以外と小さな作品である。高さ80㎝のこの板絵は、それでも、ヤン・ファン・アイクの描いた肖像画のうちでは、いちばん大きいものだ。この画家の現存する作品は約30点といわれているが、そのうち肖像画が9点で、制作年が記されているものは5点である。この美術館には、他に2点の肖像画がある。光のとぼしい北方では、南のイタリアのモザイク壁画から出発した絵画とは別に細密な写本芸術が盛んであった。ヤン・ファン・アイクも彩色写本の細密画師から画家となった。
キラキラ輝く、真ちゅうのシャンデリア、飾りのついた凸面鏡の写面、寝台や椅子のカーテンやカバー、床面のじゅうたんや服装や帽子、どれもこれも、微細な細部はもとより、その材質感まで、徹底した写実である。あまりにも細密に描かれたこの絵の前では、思わず、接近して、触れるようにして、隅から隅まで、見ずにはおれない。画面はすべて均質で、遠くから見ても、近づいても、まったく焦点を失うことはない。印象派以後の単純化された絵を見なれている私たちには鮮烈な驚きである。
また日本の大和絵であるとか、水墨画や、琳派や浮世絵などの省略された象徴性とは、まったく対極にある。もっとも西洋的な絵画の見本のようなものである。徹底した細部への関心もさることながら、この絵の色彩の使い方やその効果は見事なものだ。

男の身に着けている黒衣や褐色のビロードの袖なし着と、女の裏白のグリーンのドレス・水色のブラウスの袖などの配色はバックの椅子や寝台の赤と呼応して、すばらしい効果をあげている。
この絵のモデルは、男はルッカ出身の呉服商であり、金融業のジョバンニ・ダリーコ・アルノルフィニで、女はパリ生まれのルッカ人ジォバンナ・チュナーミであることがわかっている。中央にラテン語で「ヤン・ファン・アイクここにありき」とサインされていることから、あるいは、一本のローソクの灯ったシャンデリア、椅子の背の木彫のマルガリータ、さらに犬や木靴、窓辺の果実などの象徴的な意味の解明から、美術史家のパノフスキーは、この絵は、ご両人の婚儀の場で、この画家が立ち合ったことの記録であると述べている。

ヤン・ファン・アイクは、
1390年ごろ、現在オランダ領になっているマーセイクか、その近くに生まれたと推定されている。兄のフーベルトもすぐれた画家で、ハーグの宮廷画家になった。今日では、この二人が油彩画の創始者だといわれている。それまでの画家たちは、絵具の顔料をとかす媒材に卵を使ったテンペラという手法で、絵を描いていたが、アイク兄弟は、その代わりに、リンシード(亜麻仁)油を使うことに気付いた。それによって、もっとゆっくりと作業ができるようになり、塗り重ねができたり、正確な作業ができるようになった。
さらに透明な上塗りができる光沢のある特別な絵具を開発して、キラキラする光や、空気の微妙な変化、色彩の透明な輝き、物の質感など、絵画の表現方法に大きな飛躍をもたらした。この絵は肖像画としては最高の傑作で、近代肖像画の開拓者と呼ばれるようになった。






最後の審判

ヒエロニムス・ボッス (1453年ごろ~1516)

ウィーン美術大学付属美術館 (ウィーン)




板・油彩 163×127.5  1510年以後





 
人間の頭脳が生み出した、美術史の中でも、もっとも奇妙な絵、もっとも想像力の豊かな絵、あのマドリッドのプラド美術館にあるボッスの「悦楽の園」を憧れと感動をもって見たのは1972年の夏、今から15年も前のことであった。あの図像解釈の大家であるパノフスキーでさえ、まったくお手上げであると言わしめた複雑怪奇な絵は、現実のことがらを忠実に写しとるだけではなく、その画家の写実能力を一歩すすめて、想像力を増殖させることによって、実際にありえない不思議な世界も、まるでほんとうにある世界のように見せることができるようになった。今日ではシュールレアリスムの始祖とも呼ばれているが、このように評価が高まったのはごく近年のことなのである。
今度、ウィーンの美術大学の中にあるわりと小さな美術館で見た「最後の審判」も、怪奇きわまる地獄の様相をあらわした絵で、プラドの「地獄図」にも劣らぬ壮大な構想のものである。この絵も祭壇画で、いわゆる観音びらきになっていて、外側のパネルには、グリザイユ
(ねずみ色の単色画法)で、二人の聖人の図が描かれている。左は聖ヤコブ、右は聖パボオンである。こういうグリザイユの単色画は日本の水墨画とはまったくちがった、また油彩画のどぎつい色彩の宗教画の中にあって、この静まりかえった灰色の画面は、ひときわ印象深く、魅力的に感じられる。この二つのパネルが開らかられると、中央には、おそろしい地獄図が現れる。
この図はまさに呪われた者、悪しき者たちを責める拷問のための工場である。「悪魔のメーカー」と呼ばれたボッス独特の混成怪物、ひきがえるのような悪魔たち、昆虫のようなもの、武具や不思議な機械仕掛けになっている怪物のすべてが、呪われた者たちへの責め苦の道具になっている。当時フランドル地方で、たくさんの人たちに読まれていた「キリストにならう」には、次のような一節が記されていた。「人は罪を犯した五感を特に罰せられる。怠け者は燃える棹に刺し通されるだろう。美食の人は恐ろしい飢えと乾きに苦しめられるだろう。淫行の人や、快楽を追った人は燃える瀝青と臭い硫黄との中に沈められるであろう。また妬んだ人は、余りの苦しみに狂犬のように吼えたけるであろう。

ボッスはこの言葉以上に衝撃的な奇想で、罪人たちの驚きや、恐怖をありありと、視覚的に展開して見せた。ふつう最後の審判の図は、神によって審判が下され、死者は復活して、祝福されるものと、呪われるものと分けて描かれているが、この絵はほとんど祝福されて救われるものがない。すべてが呪われたものたちがうごめく、廃墟と怪奇に満ちた悪夢のような風景である。

この画家は、本名をヒエロニムス・ファン・アーケンといったが、生地がスヘルトーヘンボスであったので、自作には好んでボッスとサインを入れた。生前の伝記的事実はほとんど定かではかい。ボッスの時代は宗教改革の起こる直前の中世の暗黒時代の最後であった。そういう終末的な不安がこのような特異な画家を生み出したのであろうか。この絵はボッスの真筆ではなく、コピーであるという有力な学説もあるそうであるが、それにしても、人間のつくり出した創意、想像力とはすごいものだと思う。






村の婚礼

ピーテル・ブリューゲル (1525ごろ~1569)

ウィーン美術史美術館 (ウィーン)




板・油彩 114×163 1567~8年







ウィーンの美術史美術館のブリューゲルの部屋は、その量と質において圧巻である。もちろんブリューゲルを語る場合はここを訪ねることなしにはその資格を得られまい。この大きな部屋に12点もの代表作が展示されている。そのほとんどが板絵であるために、破損を恐れてか、門外不出であるおそらく、今後も、ここから持ち出せる可能性はないという。
この部屋の左側の壁面の中央に、「村の婚礼」という、フランドルの農家の平凡な結婚式の様子を描いた絵が掛かっている。そのとなりの「雪の中の狩人」も私の好きな絵であるが、騒々しい祝宴と、静かできびしい冬の景色の二つのとり合わせは、対照的でちょっとおもしろい。
「村の婚礼」は一見なんの変哲もない絵であるが、もっともブリーゲルの本領を発揮した絵であると思う。しばらくこの絵を見ていると、まるでその結婚式に自分も参加しているように、その画面に引き込まれてゆく。村人たちの談笑やざわざわした騒音までも聞こえてくるようだ。ただ見えるものをありのままに細部までも克明に描きこむというフランドル派のリアリズムというよりも、現実のある生活の場面を、土臭い農村の、野暮ったい農民たちのあるがままの姿を、実際、目の前にあるように重々しく迫ってくるような実在感がすごいのだ。近いところの人物は大きく、遠くのテーブルに座している村人たちは小さく描かれ、みごとな透視図法であるが、20人ちかくもの群集をひとつの画面に描きこむということも、この時代の絵としてはめずらしい。
しかもやや省略された描法のなかにも、ひとりの表情の観察はじつに細かいのである。たくさんの人物が描かれているわりには、画面全体がゆったりしていて、前景の大きく描かれている食事を運んでいる二人の動作は、全体の動きのリズムを決定していて、どの部分もこれに呼応して調和がとれている。
この「村の婚礼」という絵は1567年ごろ描かれたものだといわれている。しかも代表作のほとんどはこの時代あたりに集中している。
1567年といえば、あのおそるべき冷酷なアルバ公がスペインからネーデルランドに派遣されて「血の法廷」を開き、残虐な弾圧を行った年である。勃興するネーデルランド経済社会、それを植民地支配しようとするスペイン。さまざまな宗教改革思想が渦巻き、宗教裁判と迫害が日常茶飯事となっている不安と恐怖の時代であった。こういう時代に、これまで絵の主題になりそうもない農民たちの風俗をなんのためにこの画家は黙々と描いていたのであろうか。
ブリーゲルの眼はたえず農民の日常生活に向けられていた。そのために彼も農民の出身であるといわれたこともあったが、彼は当時の著名な人文主義者たちとも親交があり、自らも深い学識を身につけた文化人であった。彼の視線は鋭い。陽気ではあるが、その素朴な絵のなかにおどろくべき、人間模様と機知の観察がある。こういう時代に、宗教から、時の権力から離れて、自由な精神で、自分に忠実に生き、人間社会や事物の本質を見すえ、注文ではない絵を描き続けるということは、想像以上にたいへんなことであったにちがいない。






メランコリア

アルブレヒト・デューラー (1471~1528)

パリ国立国会図書館 (パリ)





エングレーヴィング
23.8×18.6  1514







ドイツの最大の画家はなんといってもデューラーである。ウィーンのアルベティーナ美術館にある水彩画「野草」や「野うさぎ」を見れば、この画家はいかに自然を鋭く観察していたかがよくわかる。そして、その自然を忠実に再現することにおいては誰も彼にかなうものはいなかったにちがいない。しかし、研究熱心なデューラーは、ただ自然を丹念に写しとるだけでは真の美しさを表現できないことをイタリアの画家たちから教わった。そして彼はこの難問解明のために全生涯をかけることになった。

デューラーは、油彩画以外に
2000点の素描と105点の銅版画、200点の木版画を残している。デューラーは線描家であった。あらゆる自然現象を線に置き換える天才であった。それゆえに、デューラーの素描や版画はもっともデューラーの本領を発揮したものであるといえるかもしれない。 この「メランコリア Ⅰ」は銅版画で、直接銅の版面に線を刻み込むエングレービングという技法で制作されている。その線は、あいまいさや、ごまかしのない、透明で、純粋でしかも厳格なものである。15世紀から金銀細工師の工房でつつましくはじまった銅版画にデューラーによって、はじめて線の交差や、濃淡で光を表現することも可能になり、銅版画を単に書物の挿画や、工芸的な装飾から芸術の域まで高められたのであった。
「メランコリア
Ⅰ」は謎の多い作品である。たとえば、右上に窓のはめこみなのか、壁の彫刻なのか四次の方陣が描かれている。そしてこの配列された数字には驚くべき魔法が潜んでいる。各行、各列、各対角線の数の和がすべて32になってしまう。さらに中心から対称な位置にある数の和はいつも17になる。また四隅の四個の数の和、中央の四個の和もすべて32となる不思議な数列なのである。
一説にはルネサンスの占星術師が、土星の発する光の破壊的な影響力をやわらげる星の魔除けとしていたと解釈されているが、この画面の不可解さはこればかりではない。

砂時計、紐のついたベル、天秤、梯子、木の葉の冠、コンパス、部厚い本、鍵束、財布、鋸、鉋、定規、水準尺、釘、釘枝、ふいご、インキ壷、金槌、こんろ、火箸、球体、多面体、砥石、子供、犬など複雑なこれらの配置はいったい何のためにこの絵の小道具として使われているのかわからない。

しかし、この絵は、謎解きのためのものではない。細部の秘密は別にして、画面全体をしばらく鑑賞するならば、中央の思索にふけっている女性のまなざしを中心にして、すべての小道具が響きあっており、われわれに何かを語りかけてくる。あるものは測る道具であったり、あるものは、幾何学の器具であったりして、この女性は、おそらく、芸術家か、知的な、創造的な仕事に従事するものの象徴として登場しているのであろうと予測ができる。

ちなみに、わが国の銅版画の巨匠長谷川潔は自作の「卓上の人形」
(1960年作)で、このデューラーの「メランコリア Ⅰ」の魔法陣をそのまま画面の中央に大きく盗用している。おそらく、銅版画の神様であるデューラーに対するオマージュであるとともに、長谷川潔自身、この画の主人公の如く、世界の真理を探究する者としての共感の表れであろうか。






聖エラスムスと聖マウリティウス


グリューネヴァルト (1470年ごろ~1528)
ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク (ミュンヘン)



(菩提樹材) 油彩  226.1×175.9   1521





デューラーが新時代の輝かしい幕開けとみるならば、グリューネヴァルトは滅びゆく中世の最後のゴチック精神を貫いた画家であった。そのもっともドイツの画家らしいあの最大傑作のコルマールにある「イーゼンハイムの祭壇画」は残念ながら、私はまだ見ていない。グリューネヴァルトの現存する作品は非常に少ない。ほとんどが宗教画で、絵画が12(近年では14点ともいわれている)、素描が39点だけである。このうち私が見たのは油彩画のミュンヘンの2点とフランクフルトの「ヘラー祭壇画」の二点にすぎない。
グリューネヴァルトは、長い間忘れさられていた。やっと再評価されたのが、今から50年ほど前なのである。もともとこの画家は、本名グマティス・ゴットハルト・ナイトハルトであったが、今日呼ばれているグリューネヴァルトという名は、17世紀の美術史家によって誤って伝えられたものだ。したがって、あの「イーゼンハイムの祭壇画」もデューラーのものであるとか、その弟子のハンス・バルドンクの作とみなされていたそうだ。 このミュンヘンの「聖エラスムスと聖マウリティウス」は、イーゼンハイムほどの強烈な個性を表出させたものではないが、絵画としては、非のうちどころのない明快な傑作のひとつである。なんでもない肖像画のようであるが、この絵もグリューネヴァルトらしく、すこしひねってある。当時、グリューネヴァルトはハルレのマインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルグに仕える宮廷画家であった。この主君が、ウィッテンベルグ大学に対抗して、ハルレに神学校をつくって、ロッテルダムのエラスムスを招聘しようとした。
この絵の主題は、その神学校の旧保護聖人マウリティウス
(黒人の意味)が聖エラスムスを出迎えるという設定である。その聖エラスムスの顔が、実は、この絵の依頼者であるアルブレヒトにすげ替えられているのだ。 こういう絵のなかに寄進者を描きこむということは、めずらしくはなかったが、この場合、あまりにもそれが露骨なのだ。主題はたしかに、聖エラスムスに対する畏敬の念を表すということにちがいはなかったが、実際は、この主君の肖像画を描くはめになってしまった。宮廷画家のグリューネヴァルトとしては、そういう立場にあって、もっとも世俗と妥協した作品であるにちがいない。
それにしても、この描写力は、なんとすばらしいものであろうか。聖エラスムスが身につけている冠や法衣の豪奢な飾りは、念には念を入れて、細部にわたって、描きこめられている。ドイツ的で、表現主義的な絵画の代表とみなされるグリューネヴァルトの絵としては、構図のとり方があまりにも明快すぎて、調和を重んずるイタリア絵画にいちばん近いもののひとつであろう。エラスムスは、この招聘には結局、応じなかった。そして、神学校は廃止された。モデルに使った銀製の聖マウリティウスの大胸像は、後に同じ主君によって鋳つぶされ、貨幣になってしまったそうだ。
グリューネヴァルトは、まもなくこの宮廷を追われ、おそらく農民戦争に身を投じた。やがて、フランクフルト・アム・マインで製図工や薬と顔料の売人として暮らした。1572年には一介の噴水、水車建造師として、ハルレに現れたが、一年後には友人の家で、孤独な最後を迎えている。






ヴィーナス

ルーカス・クラナッハ (1472~1553)

シュテーデル美術館 (フランクフルト・アム・マイン)




板・油彩 37×24  1532







黒い背景に乳白色の肌をあらわにした流れるような輪郭のシェルエット。まだすこしあどけないが、手や足をS字型にくねらせたコケティッシュなポーズ。目は切れながで、ややつり上がっていて、どことなくいたずらっぽい誘惑的な目付き。胸の上方についた小さめの乳房。こういう官能的な女性像は典型的なクラナッハの女たちであった。よほど評判がよかったのか、当時のクラナッハは宮廷画家であったから、その宮廷や上流社会の需要に応ええるためにこの同じパターンの「つやもの」と呼ばれる女性像をたくさん制作している。
現存するだけでも、この種のものとしては、「エバァ」のシリーズが
31点、「ヴィーナス」は32点も残っていて、この類のものを合わせると98点も現存するそうだ。まさに驚異的なベストセラーであった。そのために、二人の息子と10数人の職人画家が、こういう同じバリエーションの絵を量産するために、たえずそれに従事していたというから、まさにクラナッハ大工房であった。
このフランクフルトのシュテーデル美術館にある「ヴィーナス」はそのなかでも代表作のひとつである。ちょうど中世を支配していた厳格な性のモラルがややゆるみはじめた世相を反映してか、なにか退廃的な臭いを感じさせる。このクラナッハの一連のヴィーナスや他の人物像を見るときに、われわれ日本人にない異様な人間像に出会ったような衝撃を受ける。日本の仏画や、やまと絵や鎌倉時代の肖像画、あるいは浮世絵にみる淡白な人間像とは違って、爬虫類が進化して人間になったような、なにかぬめっとした不気味な印象を受けるのである。とくに初期の風景を背景としたクラナッハの人間像には、植物も動物も人間も一体化して、深い森の中に生物として共存して棲息しているような原生的な雰囲気が漂っている。

ウィーンにある「鹿狩り」という絵などは、私がそれまで知っていたクラナッハとはちがっていて、プリミティフな感性がみずみずしく生きずいているので、たいへん感動したことを記憶している。この「ヴィーナス」にしてもそういうなごりがまだ色濃く残っているが、さすがに技量は、細部まで完璧になり、洗練されたものとなっている。

ルーカス・クラナッハは
1472年にザックセンの、フランケンのクローナハという町に生まれている。父ハンスから画家としての技術を習得して、修業時代は、いくつかのドナウ河に沿った諸都市を遍歴していて、1500年にはウィーンに移った。その後、数年後には、さらにヴィッテンベルグに移り、ザクセン選帝侯の宮廷画家となっている。よほど世渡りがうまかったのか、画家としても人気を博し、一方、行政や、経営にも卓越した手腕を発揮して高い地位につき、ついには市長に選出され、三期もこの要職をつとめた。実業面でも、印刷所や本屋や薬局なども経営していて、その薬局も砂糖や香辛料、ワインやロウまで売り、ほとんとその専売権をとりつけていたので、巨額の財産を築いていた。 宗教改革家のルターは、新約聖書の訳書はもとより、その他の著作やパンフレット類のものまで、そのほとんどをクラナッハ印刷所で印刷していた。そのルターとの親交を示す肖像画なども残されており、その友情は、終生変わることはなかったと言われている。






アレキサンダー大王の戦い

アルブレヒト・アルトドルファー (1480年ごろ~1538)

ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク美術館 (ミュンヘン)




油彩(板に貼った羊皮紙)   158.4×120.3  1529







 ミュンヘンのアルテピナコテーク美術館が誇る代表的な名作。バイエルン大公ウィルヘルム4世が居城の一室を飾るために8人の画家たちに依頼したが、この絵はその中のひとつ。
クルティウス・ルークスの「アレキサンドロス大王史」などの伝説にもとづいた題材で、紀元前、マケドニアのアレキサンダー大王がイッソスの戦いでペルシャ帝国を打ち破った模様を描いたものである。史実によると、その時のペルシャ軍は
60万、ギリシャ軍は、わずか騎兵5千、歩兵が4万であった。大王は、戦況不利とみるや自軍の背後を左旋回をして、反対の海側に抜け、すばやく敵軍を突く大胆な戦法をとり、ダリウスに一騎打ちを挑んだ。意表をつかれたダリウスは逃げ惑い、ペルシャ軍は敗走した。その死者、歩兵10万、騎兵が1万であったという。この絵では、敗走するペルシャ軍は、冷ややかな三日月の光を背に受けて、暗い闇の中に敗走してゆく。逆に勝利する大王軍は、旭日の輝かしい光に照らし出されている。槍や甲冑で装備した幾万という兵士が、壮大な戦闘をくりひろげているが、空に浮かぶ異様な雲や、青みがかった、静まりかえった自然の光景は、この地上における壮絶な戦いも、歴史の中のひとつの出来事であり、全宇宙の中の一断片にすぎないという巨視的な観点からの展望をとらえている。それにしても、この微細な表現の技術はなんと見事なものであろうか。まずはこの細密な描写でわれわれの度肝を抜いてしまう。
この画家アルトドルファーは画家の工房で育った画家ではなかった。つまり、入念な地塗りをしたり、色を層にして、色を重ねてねり上げてゆく伝統的な方法をとらなかった。画面に太筆で、直接に、時には乾ききらないうちに下塗りの段階で、光と陰影を加筆して、下描きし、その上に、ごく細い筆で素描風に絵具を加え、描きこんでいった。それは、描線は単なる輪郭線だけではなくて、フォルムの動きや、画家の主観的な感情を表出するのにむいていた。これは、これまでの伝統への挑戦であり、また、それを無視することであった。こういう描法は、風景を描いても、画家の揺れ動く心情を移入することができたので、イタリアにおけるように、風景を単なる画面の一部しかなかったものが、現実の風景それ自体が、独立した、詩情豊かな主題となりえることができた。その意味で、絵画の中に風景画というものが登場する重要な出発であった。この絵にしても、人物の表情を大きくとらえたものがほとんどない。人間たちと風景が融合して、「視覚化した宇宙=自然の風景画」と見てよい。

アルブレヒト・アルトドルファーは
1480年ごろレーゲンスブルグに生まれた。1505年には画家=師匠としての市民権を得、1519年以来、市参事会員となり、1526年には、市の公的な建築家となり、城壁や塔の造営にもかかわっている。1528年には市長職にも選出されているが、この「アレキサンダー大王の戦い」の注文の仕事のために辞退したともいわれている。アルトドルファーは、現実と理想をどう結びつけるかというデューラーの課題を継承して、幻想的な神秘性と、細密描写という成熟した技術によって、非現実的なものを現実ヴィジョンに置き換えることのできた画家であった。







大使たち

ハンス・ホルバイン()  (1497/98~1543)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)


板・油彩  207×209  1533

 



ホルバイン()はデューラーよりも26歳年下であった。デューラーが没した1528年、暴徒たちによって、スイスやドイツの各地で、美術品がたくさん破壊された。北方の画家たちは、まさに深刻な芸術の危機に直面していたのである。そもそもこの重大な危機をもたらしたのは、宗教改革であった。新教徒の人たちは、教会にある聖像は、カトリックの偶像崇拝であると、これを拒絶した。こういう時代におけるドイツの最大の画家はこのホルバインであった。アウグスブルグに生まれ、バーゼルに移り住んでいた彼は、ますます危機を孕んでゆくドイツ芸術を見捨てて、ロッテルダムのエラスムスの推薦状を持ってイギリスに向かった。そしてついに、ヘンリー8世の宮廷画家となった。この最大の肖像画家ともいえるホルバインの名作2点がロンドンのナショナル・ギャラリーにある。
そのひとつは「ミラノ公のクリスティーナ」である。この絵は
3時間で写生されたという伝説が残っているが、その青味がかった無地の背景に黒い毛皮のコートにすっぽり包まれて、白い顔と手だけが浮き上がっている。まだ当時16歳のデンマークのクリスティーナの肖像は、なにかぞくっと身震いするような異様な美しさを感じさせる。見えるものをあるがままに、細部まで綿密に描くことに徹していたホルバインにしては、この絵はちょっとちがう。急いで仕上げたためか、あるいは、もう円熟期にあって、細部にこだわらなくなったためか、単純明快な、そして、あやしい輝きに満ちたすばらしい肖像画なのである。ルーブルの「エラスムス」やローマにある「ヘンリー8世」そしてウィーンの「ジェイン・シーモア」はたしかに肖像画としては最高のものにちがいないが、私には「クリスティーナ」は、とくに魅力ある作品として印象深い。
もうひとつの名作は、有名な「大使たち」である。まず、この絵のカーテンやテーブルクロスそしてウェストミングスターの床を模倣したといわれるモザイク装飾の床、毛氈、天文学研究の用具、地球儀、賛美歌集と楽器などの細密巧緻な描写力には驚いてしまう。そのひとつひとつの質感の表し方などは、あのファン・アイクにも匹敵するすばらしい出来映えなのである。しかもこの風変わりな道具類には、それぞれ意味づけがなされていて、当時の学問や技芸が象徴されているそうだ。とくに前景に描かれている斜めに細長く平たい奇妙な物体がある。ちょっと見たくらいでは何だかわからない。これは光学的な原理によって正確に歪められた人間の頭蓋骨なのである。まず見る人は二人の人物や道具類がいかにたぐいまれなる表現力で描かれているか感嘆しつつこの絵を見つめるが、この奇妙な物体だけが、何ものかわからない。やがてわからないうちに未練がましく振り返って、最後の一瞥をこの絵に視線を投げかけた時に、はじめてこの物体の正体がわかるように仕組まれているのだそうである。ある学者によれば、この頭蓋骨は死と虚栄を意味していて、いかに権勢を誇っていても、いかに知識があっても、所詮、人間は必ず死んでゆくという寓意をあらわしているのだとも言っている。ホルバインは当時としては、最新の表現方法を取り入れて、この絵を描いたのであろう。






ピエタ

フラ・バルトロメオ・デッラ・ポールタ (1475~1517)

ガルレリア・パラティーナ 〔ピッティ宮・王室絵画館〕 (フィレンツェ)


板・油彩  1516年ごろ








この画家の作品はルーブルに
2点あって、たびたび見ているはずなのにこれまでたいした関心を持つにいたらなかった。フィレンツェに来て、この「ピエタ」に出会ってはじめて強く興味をもちはじめたのである。
ピッティ宮のガルレリア・パラティーナのすごく豪華なジュピターの部屋は、二段、三段とびっしり壁面に絵が掛けられている。こうした装飾過剰とも見える雰囲気のなかで、この絵に出合った時には、いやがうえにも、視線が引きずり込まれるような強烈な印象をもった。ひときわ目を引いたのは、この絵が特別に華麗できらびやかなためではない。どちらかというと地味で重々しい絵なのである。そしてこの絵は非常に単純で簡素に見えたのだ。少しも細部にこだわることがなく、雄大で力強い。

中央のキリストは十字架から降ろされ、もはや苦しみから逃れているが、まだ冷たい死体のようには見えない。やや緊張ぎみのヨハネに支えられており、聖母は手をとって最後の別れの接吻のために身をかがめている。マグダラのマリアはキリストの両足を抱え込んで身をのり出している。深い闇を背景に、この四人が浮かび上がるように悲しみのドラマが展開されている。褐色がかった暗闇に、衣服や肌の色彩、濃い赤、オレンジ、ブルーなどの配色は、なんともいえないこの悲しみの峻厳な効果をいっそう高めている

まずこの重厚な色彩効果に注意を引き付けられるが、それにもまして、この絵の安定した構図と動きのリズムがなんともこころよく私の目をよろこばしてくれる。細部を省略した形のとらえ方は完璧である。その素描力は相当の腕前の持ち主であるにちがいない。とくに四人をそれぞれ頭上に描かれた円形は、画面における形のつりあいや、動きの方向を示していて、この絵を見終わっても暗い画面に配列されたこの円形が妙にちらついて放れない。実は、この絵のマグダラのマリアの上方には、ペトロとパウロが描いてあったが、今は消されて無い。また、中央にかすかにある十字架の柱は後世になって付け加えられたものだといわれている。しかし、こうして見ると、なにひとつ無駄がないほど、完璧に見える。

もうひとつ特徴的なのは明暗の調子である。そのデリケートな調子のつけ方は、背景から浮かび上がる人物との間に、あるいは、人物の肉付けの仕方に、いわゆるレオナルドの影響であろうか、フスマート
(ぼかし法)でやわらげられていて、この絵を穏やかで均整のとれたものにしている。
フラ・バルトロメオはドミニコ会の修道画家であった。
1475年にフィレンツェの近郊のソッフィニャニーノに生まれ、12歳の時からコシモ・ロッセルリに師事した。若い頃、あのサヴォナローナの説教を聞き、心酔し、そして、彼が処刑されるのをまのあたりに見た。そのあまりにもの衝撃に、その後、修道院に引きこもり、しばらくの間は、まったく絵を描くことはできなかった。
この絵はバルトロメオの最晩年のものであるが、この頃にはフィレンツェ絵画には盛期から衰退へ向かっており、すでに社会不安を反映してかマニエリズムの傾向が現れはじめている。空間と塊量の均衡、色彩の形態への完全な融和、構図における古典的な尺度など、バルトロメオは人文主義の理想追求に忠実であったフィレンツェ絵画の最後を飾る画家のひとりであった。







ピエタ

アンドレア・デル・サルト (1486~1530)

ウィーン美術史美術館 (ウィーン)


板・油彩  99×120    1519/20





 
ある時までは、さほど気にならなかった画家でも、突然輝き出してくることがあるものだ。やはりルーブルではさほど印象に残らなかったこの画家も、ロンドンにある「ある彫刻家の肖像」というすばらしい小品を見て、すっかり魅了されてしまった。そしてこのウィーンにある「ピエタ」によって私のなかでは欠くことのできない愛すべき画家のひとりとなったのである。
この聖母の慈愛に満ちた、悲しみをこらえた優しい眼差しは、この画家の資質のすべてを物語っているように思われる。この視線の向け方や、眼の表情のつくり方は独特なものがあって、人物の形態それ自体は、色彩や光の表現によって、やわらかくボカされているが、この視線だけは、その人物の精神のすべてを集約したような強いものをもっている。この絵全体の雰囲気は構成が安定していて、しかも微妙な調和が得られているものの、どこか哀愁をおびたメランコリーな感じさえ与えている。とくにうすいピンク色の着色の効果は、いっそうこの絵をやるせないものにしている。

アンドレア・デル・サルトは、
1486年にフィレンツェで生まれている。本名はアンドレア・ダニョーロであったが、裁縫師(サルト)の家に生まれたので、アンドレア・デル・サルトと呼ばれるようになった。ピエーロ・ディラ・コジモおよびラッファエッソーノ・デル・カルポの弟子となったが、1507年ごろにはすでに独立した親方となって工房を構えている。彼はとくにレオナルド・ダ・ビンチに傾倒したが、ラファエロやミケランジェロの構図上の原理や表現上の意図を自分なりに消化して、それらをうまく融合させている。
妻のルクレツィアは悪妻で、虚栄心が高く、いつもそれに手をやいていたそうである。アンドレアは、生粋のフィレンツェ人で、趣味においても、より好みがはげしく、おそらく、非常に感性の鋭い、感覚人間で上品で気高く、しかし、どこか弱さをもっている都会人であったように感じられる。フィレンツェでは「錯誤なきアンドレア」と呼ばれたほど、素描力の確かさには定評があった。しかし、逆に「皮相的で魂がない」という一段低い評価も後世にはなされている。

1516
年に、レオナルド・ダ・ビンチはフランスに向かった。ちょうどその頃、フランソワⅠ世がアンドレアの絵を2点購入している。この時、この絵を仲介したイタリアの商人は買値の4倍の値段で王に送ったと記録されている。そして、それが機縁で、フランスに招かれることになった。ルーブルにある「慈愛(ラ・シャリテ)」は、その滞在中に描き上げた1点である。このフランスから帰った頃には、フィレンツェではもうすでに非常に不安な社会情勢にあって、芸術的環境も変化しつつあり、アンドレアの弟子であるポントルモやロツソ・フォレンティーノが人気を博していて、新しい美意識の絵画、つまりマニエリストたちの絵画が受け入れられるようになっていた。
アンドレア・デル・サルトは、線と量塊の調和による理想的な形態の美を追求したフィレンツェ派の最後の正統派の画家であった。しかし、彼の並はずれた感受性と独自性は、すでにその枠からはみ出していた。マニエリズムの首長のポントルモもこの師からの影響は大きい。すでに、この最後の巨匠のうちにはマニエリズムが準備されていたのである。






ゼウスとイオ

コレッジオ (1489ごろ~1534)

ウィーン美術史美術館 (ウィーン)


キャンバス・油彩 163×714  1531






 
もくもくと煙る黒い雲が、すっぽりと美しい裸の婦人を包み込んでいる。婦人はその雲に身をまかせて、恍惚の表情をあらわにしている。雲の中央に男の顔らしきものが見える。
おそろしくリアルで、現実にこのようなことがありえるかのように幻想的にこの情景をなまめかしく官能的に描き上げている。これはギリシャ神話のゼウスの愛の物語「ゼウスとイオ」を主題にしたものだ。オリンポスの神ゼウスが、今、川から上がってきたばかりのイオがあまりにも美しいので、見とれてしまい、妻ヘラに不貞の事実を隠すために、雲に変身して、イオに近づき、自分の思いどおりにしてしまった。イオはゼウスの抱擁に身をまかせてうっとりしている場面である。

この絵はマントヴァ公フェデリーコ・ゴンザーガがボローニャで戴冠式をあげたドイツ皇帝カール
5世へ献上するために描かせた〝神々の愛のシリーズ〟の中の1点である。ローマのボルゲーゼ美術館にある〝ダナエ〟もそのひとつであるが、そのほかベルリン王立美術館にはこの絵と、となりに同じシリーズの他の1点〝ガメニデス〟が並んで展示されている。それだけでもかなりの迫力があるのに、さらにパルミジャーノの〝弓を引くエロース〟も続いているので、三点の連続した縦に長いこれらの大作はひときわ目立っている。
コレッジオは、不思議なエロスを感じさせる画家だ。同時代の美しい裸婦を描いていたヴェネツィアのジョルジョーネやティツィアーノに比べても、はるかに官能的な匂いが濃厚なのである。

そのヴェネツィアの画家たちのやわらかな艶のある色彩の使い方を学んだにしても、動きのある構成や、繊細な光と影が織り成す人体フォルムは、やはりこの画家独特の人間像をつくりあげている。とりわけ、この画家の最晩年のものであるこの作品はそのような特質が顕著に現された完成度の高い、おそらく頂点をなすもののひとつであるにちがいない。

コレッジオは本名をアントニオ・アレグリと呼び、モデナ近い寒村のコレッジオで生まれた。これまで
1494年に生まれたというのが定説であったが、近年には1489年ごろとする説が有力である。
コレッジオの絵はボローニャやマントヴァにおけるマンテーニャの周辺の画家たちから多大の影響を受けた。また、ラファエロやティツィアーノから造形的な静謐さを学び、さらにミケランジェロに至るイタリア絵画の当時の新しい手法を次々と修得している。

1918
年ごろからパルマで注文を受けたサン・パオロ修道院の部屋の天井やサン・ジョバンニエヴァンジュリスタ聖堂の円蓋装飾は、それらの成果を結集したものである。生前のコレッジオはあまり高く評価されていなかったが、死後1世紀ほどたって、多くの画家たちから驚異の目で見られ、また、たくさんの継承者たちをつくった。
 どちらかというと、芸術の盛んな中心からはいつも隔たったところでの活動が多かったが、彼のつくろうとしていた絵画は、決して、時代遅れのローカルなものではなかった。むしろ、光と色で事物の均衡をつくりだすことや視線をある方向に導き出す手法の発見は次のバロツク絵画にも大きく影響を与え、その先駆者の一人となった。






「婦人の肖像」

ヤコポ・ダ・ポントルモ 1494~1557年)

シュテーデル美術館(フランクフルト・アム・マイン)


板・油彩   89.7 ×70.5





 
フランクフルト(アム・マイン)のシュテーデル美術館には、ボッティチェルリのシモネッタ、B・ヴェネトのルクレツィア・ボルジア、ベラスケスのボルハ枢機卿、そしてティシュバイのゲーテなど、すばらしい肖像画が目じろ押しに収蔵されている。中でもポントルモの「夫人の肖像」は周辺の絵、あるいは、それらの肖像画とはまったくちがった、異彩を放つものとして、特にきわだった印象を与える。
まず、画面の中央部からひろがっている真紅の色面のドレスがきわめて鮮烈で、いやがうえにもわれわれの視線をとりこにしてしまう。それに長い袖のビロードの濃いグリーンが、それをいっそうあでやかに輝かしている。この絵の全体は、細かい描写が少なく、色面の配列として単純化されたものとして見えるので、古くさいこの時代の絵としては、いかにも斬新に感ぜられ、現代の絵画としてもそのまま通用しそうな新鮮さなのである。

この燃えるような真紅のドレスに包まれている婦人の顔は、当然想定されるべきようなロマンティックで、情熱的な快活な婦人の表情ではなくて、逆にどちらかというと沈着で、冷静な、まるで蝋人形のように無表情なのである。その視線も何かうつろで焦点が定まっていない。師アンドレア・デル・サルトの眼の表情のつくり方も特徴的で、どこか哀愁をおびたものであるが、この画家のものはそれよりもっと誇張されたものである。

 この絵ではなく、他のデッサンや作品に見られるポントルモ特有の誇張された目の表情を見るたびに、私はいつもグレコの描いた、あがめるような情熱的な眼や、青木繁の描いたと同じような眼を連想してしまう。あの青木繁の時おり見せるうつろな眼の描き方はきっとこの画家か、グレコに影響を受けたものにちがいないと、今でも信じて疑わない。
ポントルモは
1494年にトスカナ地方のポントルモ村に生まれた。本名はヤコポ・カルッチと言った。11歳ごろにフィレンツェに出てピエロ・ディ・コジモやアンドレア・デル・サルトの弟子になった。早くから才能を発揮して、たちまち脚光を浴びるようになったが、何しろ空想的な孤独な男で、ある時には屍体愛好家のかどによって告発されたり、また自分の家には特別な部屋をつくって自分がそこへ入るときには、昇り梯子をつたって上がり、部屋に入ったら、梯子を上げてしまって、誰も入れないようにしてしまったという奇行のエピソードも残っている。とにかく気むずかしい厭世家であったことはまちがいないようだ。
また残された日記には、自分の調理した食事のことや、断食日のこと、健康上のことこまかなこと、交友関係のことなどいろいろ記載されているが、こと女性に関することはいっさい語られていないのと、生涯独身生活で、料理する賄婦も置かなかったので、おそらく性的倒錯者であったにちがいないと疑いをもつ学者もいるという。結局晩年は貧乏と死に対する不安のために、やはり気の毒な末路を迎えたようである。

この絵にはマニエリズムを特徴づける極端に引き伸ばされたポーズや、複雑に入り組んだ構図は見られないが、奇抜な色彩や画面の単純化によって、ポントルモらしい、言い知れぬ不安感をただよわせており、人間の心理的内面までくい込んでゆくような見事な肖像画となっている。








エテロの娘らを救うモーゼ

ロッソ・フィオレンテーノ 1494~1540年)

ウフィーツィ美術館 (フィレンツェ)


キャンバス 油彩 160 ×117






 平穏で豊かな時代には、人間は事物を客観的にながめることができ、調和と秩序を知らずのうちにたっとび享受しているものなのであろうか。人間嫌いでゆううつな性向のポントルモはこの調和と秩序の世界にあきたらず、しだいに自分の感情を強く押し出し、古典主義の時代から一歩踏み出した。
それは、ちょうどイタリアが商業的にも退潮し、あるいは宗教的な革命によって国家は衰退に向かい、強国スペイン、フランス、ドイツによって侵略を受けたが、とりわけ
1527年のローマの略奪、さらには1530年のフィレンツェの包囲といった苦境のどん底にあった時代なのであった。そういう社会的な緊張が精神的な土壌となって、ポントルモのような不安で悲劇的な人間像をつくりあげていったのかもしれない。
ロッソ・フィオレンテーノは本名をジャン・バティスタ・ディ・ヤコポといったが、ポントルモと同じ
1494年にフィレンツェに生まれた。ロッソはポントルモよりもっと気質は激しく、攻撃的で、さらに主観的な傾向が強かった。そして、この二人によって、フィレンツェのマニエリスムが形成されることになった。
ロッソの代表作であり、もっとも有名なもののひとつであるこの「エテロの娘らを救うモーゼ」はタイトルのとおり、旧約聖書の出エジプト記の一場面で、モーゼはある日、ミデアンの井戸のそばで祭司エテロの
7人の娘たちが羊飼いたちに襲われたので、それを助け、やがてその娘のひとりテッポラを妻にしたという話を主題にしている。
なによりもこの絵が初期マニエリスムの代表作として注目されているのは、色や形が強烈で奇異であるということや、それにもかかわらずけっして装飾的な美しさを失っていないということにもあるが、とりわけ、この絵の画面の空間の処理の仕方があまりにも革命的であったためである。ある美術史家はこの点を「この絵では空間は透視画法による短縮法も建築物あるいは他の限定もいっさい用いず、いかなる表示もなく、驚くほどの力強い空間の効果を上げている」と指摘している。

つまり、この絵は画面を三つの層に分けて、人体の組み合わせによって、空間を効果的に表現しようとしたものなのである。主役はもちろん真ん中の殴りかかっているモーゼであるが、特別に目立つように大きく描いてあるわけではない。前景にあたるのはそのモーゼと倒れている男たちで、羊のいる階段までになっており、中景は横あいからマントをひるがえして襲いかかっている男と驚いて手を広げている少女で、後景は赤褐色の手すりの後方に逃げる他の娘たちとなっている。

このジグザグに配置された人体の構成はきわめて意図的で、計算されたものだ。この三つの層は画面と平行しているので、人体に比べて空間は平面的になっている。それがいっそう対比的で逆説的に激しい動きや緊張感をこの絵に与えている。こういう綿密で意図的な画面構成の組み方は、あの寸分の隙のないプーサンや、セザンヌの構図、そしてキュビズム以降の自立的絵画の源流がすでにここにあるような気がする。ロッソはポトルモ以上の既成の絵画に対する反逆児であったが、ローマ却掠後は、ポントルモとは逆に、フランスに赴き、フランソワ一世のためにフォンテンブロォを飾る宮廷画家となった。








凸面鏡に写した自画像

フランチェスコ・パルミジャニーノ 1503~1540年)

ウイーン美術史美術館 (ウイーン


板絵・油彩 直径24






 
この「凸面鏡の自画像」は直径24㎝の小さなものである。ウイーンのマリア・テレジア広場にあるあの広壮な外観で威容を誇る美術館の大作がひしめく部屋の一角に、ガラスのケースの中につつましく納まっている。うっかりすると見過ごしてしまうから注意を要する。じつは私もつい見落としてしまったので、翌日あらためてこれを確認するためにさらにもう一度、出直してこの美術館に足を運ぶことになってしまった。
マニエリスムといえば、必ずこの絵が図版として紹介されるほど有名な絵である。マニエリスムというのは
1520年ごろから1620年ごろまでにイタリアにおきたひとつの芸術的な様式で、それまでの古典的な秩序ある簡潔な調和のとれた様式に対して、それを否定するかのような、形態を歪めたり、不自然な色彩を用いたり、あるいは洗練と抽象を強めた非現実的な傾向の絵画などをさしていう。
 この絵のパルミジャニーノはポントルモやロッソとともにこのマニエリスムを代表する画家となっている。パルミジャニーノはパルマ出身であるが、ポントルモやロッソよりも10才若く、コレッジオの弟子となり、その影響を強く受けている。その画風は繊細優美で肖像画などにはすばらしい出来映えのものがある。このウイーンの美術館には「弓を削るエロース」や「パウロの回心」など6点あって、この画家を理解するには重要なコレクションとなっている。
この絵の画面は円形で凸面になっている。ヴァザーリはこの絵について次のように記している。「画家は技の巧みなところを極みまで試してみようと、ある日、床屋の半ば盛り上がった鏡に自分を映して自画像を描きはじめた。この鏡の凸面には天井の桟なども丸く見え、ドアや建物のすべてが奇妙な具合に後ろに退いてゆくような珍奇さが映し出された。彼はその面白みのために、これらすべてを写し出そうと考えた。そこで彼は木の丸枝を半ば盛り上がるように割って、その鏡と同じ大きさにし、そのすばらしい技術をもって、鏡の中に見た一切のものを忠実に写した。とりわけ彼自らの顔はまさに彼そっくりで、信じがたいほどであり、だれも賛嘆せずにはおれないほどのものである」。

まず、驚くのは巨大な手が前面に伸びていることだ。この異様さは、背後にある端麗な美青年の顔がじっとこちらを凝視している静けさとあいまって、いっそう不気味な様子を漂わせている。この凸面上の歪みは、レンズあるいは自分の見ている眼の歪みをそのままむき出しにして見せたものである。きわめて現実の情景をリアルに克明に描き込んだものであるが、出来上がったものは虚像なのである。

この実像と虚像のトリックに見る者は次の思考を余儀なくされる。われわれが現実に見ている真実とは本当であろうか。ここ描かれている巨大な画家の右手は、実は左手である。時代の変化に対する危機意識は、何が真実であるかに疑問をもたざるを得なかったのであろう。

この美青年も、やはり晩年は悲惨であった。ローマの劫掠後は、故郷に帰り、怪しげな錬金術にとりつかれ、美しい容貌も「髭をはやし、髪をぼさぼさにし、まるで野蛮人のよう」に醜く変貌し、投獄され、
37歳の若さで短い生涯を終えた。






愛のアレゴリー

アーニョロ・ブロンズィーノ 1503~1572年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)


板・油彩  146 ×116






 
この絵は、ギリシャ・ローマ神話の愛の女神ヴィーナスが翼のある少年、つまり、キューピットはヴィーナスの息子であるが、この表現のしかたは母と子の情愛というよりも、いささかエロティックなものになっている。右側に可愛い子供がいるが、様子がとてもとても楽しげだ。そして、そのうしろには怪しく美しい少女が顔をのぞかせている。ところがその下半身は不気味な蛇のような尾になっている。これはいずれも(快楽)あるいは(欺瞞)を意味しているのだそうだ。恋愛は楽しいがその一面、醜く、厭わしいということか。
左側には怒りで髪を掻きむしっている老婆がいる。これは<嫉妬>である。その上の方の青い幕を上げている二人のうち、右の男は<時>を象徴する砂時計を載せている<時の翁>。左の女は<真理>を現しているという。この幕を上げることによって、この恋愛劇が白日のもとにさらされ、時の流れによって、恋は快楽だけではなく、<嫉妬>も<欺瞞>もつきものなのだよという教訓を示そうとしたものだ。絵のなかには、この絵のように、ひとつひとつ隠された意味があって、その寓意や象徴を解読することによってはじめて、主題がはっきりするものがある。そのようなもののよき例としてこの絵がよく用いられる。

この「愛のアレゴリー」は実物を見るとすばらしくきれいな絵だ。そしてかなり大きい。画面はつややかで、宝石を磨きあげたような肌合いのなめらかさがあって、あまりにもきれいすぎてやや冷たい感じを与える。実物はこのようにすばらしくきれいな絵であるのに、すこしがっかりした。というのは私の頭の中で期待していたこの絵は、もっと美しいはずであると確信していたからである。この絵にかぎって、印刷された図版のほうが、はるかにきれいで美しい。よくテレビで登場する人物など本物に出会って、画面の方がきれいで、実物は、やせ細って小さかったりしてとまどうことがあるが、コピーがきれいだということもあるのだ。実物はバカに大きくて、薄っぺらに見えた。

この絵の画家ブロンズィーノは
1503年にフィレンツェの在に生まれた。やがてポントルモの弟子となり、師との競作もある。1540年にはフィレンツェのコジモ一世の公認肖像画家として任命された。パルミジャニーノとは同年生まれで、ポントルモとロッソとは10年の隔たりがある。つまり、ポトルモらはマニエリスムの第1世代でこのブロンズィーノたちは第2世代にあたる。
1世代は革命的で劇場的で、豊富な想像力と大胆な創意がうかがえるが、第2世代では、やや人工的で、洗練された優雅さや冷ややかで厳格な表現が目立ってくるが、ある定式に固執するような傾向も現れてくる。 ローマ掠奪、そしてフィレンツェの陥落後は、イタリアの各地に封建的公国が誕生して、その公国の小宮廷を中心に高尚で優美な宮廷文化が開花していた。宗教改革の影響が遅れていたフィレンツェでは、まだこの宮廷文化が盛んで、コジモ大公を中心に華やいでいた。
このような基盤にある宮廷芸術はきわめて閉鎖的で、特殊な宮廷人好みの優美さと晦渋さに満ちたものであった。ブロンズィーノはこのような宮廷マニエリスムの代表画家であった。






奴隷を救う聖マルコ

ヤコポ・ロブスティ、ティントレット 1518~1594年)

アカデミア美術館 (ヴェネツィア)


キャンバス・油彩   415× 541








 
この「奴隷を救う聖マルコ」はティントレットの記念すべき作品だといわれている。30歳ごろのもので、ある美術史家は「ヴェネツィア派マニエリスムの最初の力強い創造物」ともいっている。マニエリスムが中部イタリアから各地に波及してゆくことになったが、ヴェネツィアにはその影響が及ぶのは遅かった。ヴェネツィアはティツィアーノのひとり舞台で、その安定した形と魅惑的な色彩主義に他の画家たちもこれを追随していた。しかし、まもなく、ひとりの偉大なマニエリストが現れた。それがこの画家ティントレットであった。
ティントレットは
1518年にヴェネツィアに生まれた。父親が染物屋(ティントーレ)であったので、本名はヤコポ・ロブスティであったがティントレットと呼ばれた。20歳ごろまでティツィアーノの門で学んだが、一説によると、あまりにもすごい腕前であったので、師から妬まれ、追い出されたともいわれている。ティントレットは、まず、この巨大な存在である師匠と同じ土俵の中で、自分の地位を確保しなければならないように運命づけられていた。
ティツィアーノは王侯貴族をひざまずかせるほどの注文を受け、権勢を誇っていたから、ティントレットは、師の注文の及ばない中産階級や商人たちの注文を拾って、すばやく、多量に描きこなさなければならなかった。また、ティツィアーノののびのびした魅惑的な楽しい絵に対して、なんとか自分の独自性を発揮しなければならなかった。彼自身も、形や色の上での簡素な美しさだけでは満足できなかった。もっと激しい感動を欲していたのである。ティントレットは寡黙で社交嫌いで、ひたすら絵を描いていたが、画家としては自由で激しい天性をもっていた。

この絵の主題は、ヴェネツィアに伝わるひとつの伝説である。聖マルコは、ご存知のように、
4人の福音書の記述者のひとりで、ヴェネツィアの守護神とされている。伝説というのは、ヴェネツィアでキリスト教を信じるひとりの奴隷が、主人から死刑を宣告されて、広場にひきずり出されようとしていた。そこへ突然聖マルコが舞い降りてきて、この奴隷を救ったというのである。
この絵で注目されるのは、画面上部の天から舞い降りてくる聖マルコで、極端な短縮法で描かれている。刑史や見物人たちはこれを見て驚いている。この画面の構成上の消失点は聖マルコの頭の方になるが、中心からはずれたところにある。この不思議な空間の現し方が、何か不安定なドラマチックな場面をつくり上げている。

ちょうどこの絵が描かれる
10年前の1543年にコペルニクスが「天体の回転について」という論文を発表した。この新理論によって、地球は宇宙の中心ではなくて、万物の価値基準ではなくなった。人間もまたその中心の座標を失って、底なしの宇宙空間に放り出された。まさにこの絵は、そういう時代を反映しているかのようである。
ティントレットは熱心なカトリック信者であったという。彼は渦巻くような空間表現と、激しいコントラストの光の表現によって聖書の物語を感動的で劇的なものに描き改めた。当時イタリアをおおっていた宗教的危機に対して対抗改革派の望んでいたものであった。ティントレットのアトリエには「ミケランジェロの造形とティツィアーノの色彩」というモットーが貼り付けられていたという。






受胎告知

エル・グレコ 1541~1614年)

プラド美術館 (マドリード)


油彩・キャンバス   315 ×174






 
グレコの最高傑作のひとつであるこの「受胎告知」は、プラド美術館に寄託されているものであるが、1986年に国立西洋美術館で開催された「エル・グレコ展」に出品され、日本にやってきたこともある。
グレコは私の絵の趣向のうちでもいつも行ったり来たりする境界線のような気にかかる画家である。あのルネサンスの巨匠たちの傑作の森にいる間は、いつもこの画家の歪曲された人物像や形態のつくり方にもの足りなさを感じるものの、逆に近代の絵をさかのぼってゆくと、燦然と輝く、この巨大なグレコに突き当たる。おそらく、現代絵画を理解するためのセザンヌのごとく、近代絵画への移行におけるグレコの存在は、セザンヌと同じような意味をもった画家のひとりではなかろうか。

このグレコは約
2世紀もの間、理解されず軽蔑され続け、ある場合には、「きまぐれな」「常軌を逸した」画家として、また極端な冷笑として、「バラバラなデッサンと味気のない色彩による蔑むべき馬鹿な絵」として酷評されたこともあった。そして、やっと評価をされたのは20世紀に入ってからで、1902年のプラド美術館での「エル・グレコ展」以後であった。その後、1982年にもスペインとアメリカを巡回する大規模なグレコ展が開催され、そして先に日本で行われた企画展もなかなか充実した質の高い展覧会であった。今日ではかつてないほどの評価を受けることになっている。
この絵の「受胎告知」は、
1596年に、マドリードのドニア・マリア・デ・アラゴン修道院教会堂を飾る祭壇画のために依頼されたもので、実際に絵が納められたのが、1600年の7月であると記録に残っている。もともとは祭壇画衝立として、この絵を中心に約8点によって構成されていたと推定されているが、ナポレオン戦争やその他の事情によって、バラバラに移動してしまったそうである。
グレコの絵はなによりもその色彩の鮮烈さと光の効果に注目しなければならない。この絵では、すべての光は精霊を象徴する鳩から発せられていて、その光に照らされた空間から天井に向かってマリアも大天使ガブリエルも吸い上げられてゆきそうな、ドラマチックな上昇効果をつくっている。

また色彩は暖色を押さえ、緑や青やグレイはこの光の効果をいっそう神秘的なものにしている。「グレコの神秘的な啓示の表現は、人間の姿によってではなく、光のこの振動によって実現されている」と評されるように、この絵はグレコの特徴を十分に発揮した典型的なもののひとつである。

グレコは幼少の時代をクレタ島で過ごし、ビザンティン美術の影響下で絵画を学んだ。
1565年からヴェネツィアに移り、そこで、ティツィアーノやティントレット、そしてパッサーノの絵から光や色彩の最新の知識を身につけた。そして、ローマ滞在によって、マニエリストたちの、歪んだ形の表現、幻想的な構図、色彩の奇抜な使用法などの手法を学んだ。そして、スペインでは聖テレジアの神秘思想に接し、ついに対抗宗教改革時代に極端に高揚したスペイン精神のもっとも純粋な代弁者となった。グレコはビザンティン、ヴェネツィア、ローマ、そしてスペインの芸術的経験をひとりで吸収したが、単にそれらの現実を解釈する方法を学んだばかりではなく、神秘的な内容を啓示する造形言語をつくることに成功した。






レヴィ家の晩餐

パオロ・ヴェロネーゼ 1528~1588年)

アカデミア美術館 (ヴェネツィア)


油彩・キャンバス  1280 ×550






 
ルーブル美術館の2階のグランドギャラリーの中ほどから入った小部屋の右側には、あのレオナルドの「モナ・リザ」が掛かっているが、この部屋に入った正面には壁面いっぱいに巨大な名画が飾られている。現在フランスにある最も大きな絵で、それはヴェロネーゼの「カナの婚礼」という絵である。
このあまりにも巨大な絵は幅
9.9メートル、高さ6.6メートルもあって、その面積はなんと約66平方メートルにもなる。皮肉なことに、小さな「モナ・リザ」の前にはいつも黒山のように人が群がっているのに、すぐそばのこの絵の前はいつも空いているのもおかしな現象だ。
このおどろくべき巨大な絵よりももっと大きな絵がヴェネツィアのアカデミア美術館にある同じ画家ヴェロネーゼの「レヴィ家の晩餐」である。こちらの方は幅
12.8メートル、高さ5.5メートルあってはるかにしのいでいる。これら二つの作品は、いずれもナポレオンのイタリア侵攻の戦利品としてフランスにもたらされたものであるが、「カナの婚礼」の方は他の作品と交換という条件でフランスに残り、この「レヴィ家の晩餐」の方はイタリアに変換された。
この絵は
1573年聖ジョバンニ・エ・パオロ修道院食道のためにかかれた「最後の晩餐」の絵であるが、まことに壮大なもので、明るく輝きのある色彩の豊かさは当時の華やかなヴェネツィアの貴族たちにいかにも好まれそうな豪華絢爛たるものである。最後の晩餐図といっても、よく見ると、あのレオナルドのものなどとはちょっと様子が違っていて、宴席には、イエスと使徒だけではなく、いろいろな人物が参加している。実はこの絵の内容が福音書の記述とは余りにも違っているというので、告発され、宗教裁判所で異端の疑いをかけられたというのである。たとえば、この絵の宴席にはドイツ人らしき兵隊がおり、また道化師や、犬やオウムなどの動物までも登場している。また使徒にしてもその振る舞いは行儀が悪く、つまようじで歯をつついている者などもいて、召し使いが鼻血を流している様子なども描かれていたそうだ。
ヴェロネーゼはこの異端審問の法廷で、キリストの脇にはなぜ黒人を配したのかという審問に対しては、「その位置の色彩の調和のためには、どうしても周囲に対照的な黒っぽい色調が必要であったから」という返答しかなかったし、また衣装や装身具が奇異でおかしいのではないかと批判する人に対しては、「画家は詩人や狂人と同様、思いつくまま、表現する自由があるのだ」と応答したという。イエズス会の審問官たちもこの回答にはいかんともしがたく、結局、召使の鼻血をぬぐうことと、絵の題名を「レヴィ家の晩餐」と変えることで、無罪放免され、その後も何事もなかったかのように同じような絵の制作を続けたという。絵を描くことにいかにすべてを優先させていたか、いかにも純粋な芸術家らしエピソードである。

ヴェロネーゼは北イタリアのベローナに生まれ、本名をパオロ・カリアリと言ったが、故郷の貴族の名をちゃっかり借用して、勝手に名乗っていた。ヴェネツィア派の最盛期がかげりはじめた頃に色彩の魔術師として、澄みきった清らかな絵として貴族や富豪たちに好まれ、収入も多く豊かな生活をしていたが、かなりの浪費ぐせがあり、最後は熱病にかかって頓死したという。






キリストの埋葬

ミケランジェロ・メリジ・ダ・カラヴァッジオ(1571~1610年)

ヴァチカン美術館 (ローマ)


油彩・キャンバス  300.4×203.2





 
このカラヴァッジオというすごい画家との出会いは、私のこれまでの西洋絵画というおぼろげな全体像を一瞬のうちに、別のイメージに塗り変えてしまったほど衝撃的なものであった。そしてローマの町中をこの画家の絵を次から次と探し歩いたのであった。あのファン・アイクとかマンテーニァなどの北方の画家たちに見られる迫真のリアリズムは、まさにわれわれがたえず馴染んでいる東洋的な絵とはまったく対極的なもので、このカラヴァッジオの絵にいたっては、その現実描写は、触覚や嗅覚までも刺激され、描かれた物や人間の体臭までも匂ってくるような強烈なものなのである。
この「キリストの埋葬」という絵はヴァチカン美術館の収蔵品であるが、昨年、日本にもやってきた。このあまりにも見事な名作であるが故に歴代の大画家たちによって、デッサンや版画、油絵など
44点以上も、模写されて残っており、あのセザンヌさえもこれを熱心に模写している。
この絵の主題は、十字架から降ろされたキリストが、墓室に運ばれる悲しみの一瞬をとらえたものである。生気のないキリストの表情はとりわけ痛ましい。傷口に手を触れているヨハネ、手をひろげてみんなを抱えるようにして悲しみを表す聖母、両手をあげて神の導きをあがなうかのようなエジブトのマリア、そして、ニコデモは脚を抱えるようにしてこちらを向いている。すべての人物は頑丈な平石の上に載っている。この平石は、図像学的にはキリスト教会の創立の象徴を意味しているそうである。

この劇的なシーンをカラヴァッジオは、背景を真っ暗にして、スポットライトで光をあてたように明暗の効果を最大限に発揮させるよう、いらないものを闇に消して、必要最小限度のものを浮き上がらせて観る者の注意を集中させるべく効果的な舞台をつくりあげている。しかも、おやっと思わせるのは、登場人物は特別な高貴そうな人ではなく、普通の平凡な庶民的な泥臭い人間たちである。当時、それによって、これは浮浪者たちの親方の葬式ではないかと悪口を言われたそうである。

おそらくこの画家は、外面を美しく装った貴族たちよりも、民衆の中にこそ真実があるのだということを言いたかったのであろう。ここにわれわれは絵画というものは、単に、きれいで美しいものが感動を与えるばかりか、真実もまた感動を与えてくれるものであることを発見した。

カラヴァッジオは、
1571年北イタリアのミラノの近く、カラヴァッジオに生まれた。5歳の時に建築家の父を失くし、20歳ごろにローマに出た。豊かな芸術的天分に恵まれていて、驚くべき早熟であったが、激しい気性の持ち主で、15日間絵を描くと次の半月は剣を帯びて町を徘徊したという。そのうち、ある広場で喧嘩となり、とうとう殺人まで犯してしまった。それから逃亡生活がはじまり、ナポリやマルタ島などを流浪し、やっと4年後の恩赦のでる寸前に、ローマへの帰途マラリアで倒れた。
カラヴァッジオは伝統的な画法にとらわれず、自分の眼で現実を捕らえ直そうとした。死体までも実際のモデルに使ったといわれるほど、徹底したものであった。この新しいリアリズムは伝統的な図像を一変させ、ナポリ、スペイン、オランダなどに多大な影響を与えたのである。






主よ、何処へ行き給う

アンニバーレ・カラッチ 1560~1609年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)


油彩・板絵  77.4× 56.3 1601~1602






 カルラッチは非常に重要な画家であるにもかかわらず、私のこの画家への関心はいちじるしく乏しかった。ローマではあまりにもカラヴァッジオに強烈な衝撃を受けていたので、このアンニバーレ・カラッチの最大の仕事、パラッツォ・ファルネーゼの数部屋のフレスコ画を見逃してしまった。またボローニャにも滞在しながらもこの画家の絵を何ら探索することなく、この町を去った。
カラッチはバロックの最大の師であるといわれている。ここでとりあげた画家はアンニバーレであるが、兄のアゴスティーノ、従兄弟のルドヴィゴと共にカラッチ一族として、カラヴァジオとは別の方法で、新しい絵画様式をつくりあげた。彼らは
1585年頃に「インカミナーティ(出立)」というアカデミーをボローニャに設立した。そこでは古代ギリシャ・ローマを手本とし、盛期メネサンスのあらゆる造形方法を習得することによって、カラヴァジオがなした光の明暗で、ドラマチックに、聖書の物語を現実的に描き出すことで、従来の伝統的な手法や価値を打破するというラジカルなやり方とは異なり、現実の世界や人間や事物との直接的な交渉や観察を重要視しつつ、古典的な理想の形を追求しようとしたものであった。それによって彼らはラファエロ以後の絵画の復興者、改革者と呼ばれるほどの評価を受け、影響を及ぼした。 この「クォ・ヴァディス(主よ、何処へ行き給う?)」は比較的小さな絵であるがアンニバーレの特徴がよく表れている秀作である。
キリストが十字架で処刑され、埋葬されてから何年も後に、ペテロがローマに通じているアッピァ街道で、幻影を見て、キリストに出合った。「主よどこへ行かれるのですか」とペテロがキリストに尋ねたところ、キリストがペテロのかわりに再び十字架にかけられたためにローマに行くのだと答えられた。ペテロは殉教を避けて今ローマから逃れてきたところであった。

この絵は一見して非常に調和のとれた安定した絵であることがわかる。キリストの堂々とした肉体は角ばった十字架と対比的になっており、驚くペテロとキリストの関係、そして、十字架とペテロの黄色いマントとの斜線の平行関係、さらに神殿の列柱と画面の緑の樹木、そして奥の建物を配置した画面構成は意識的に調和と安定をひき出すためにかなり練り上げられたものである。

さらに色彩の相互関係、バランス、動きのある人物と静かなる風景と建築、その空間のとり方などは寸分の隙もない均衡した画面なのである。こういう調和とか安定感は、自然をただ忠実に写しとるだけでは得られない。人間の想像力によって創り出されたものだ。こういう絵は、やはり、感情で受けとめるよりも、知性をもって鑑賞することが必要なのであろう。

アンニバーレ・カラッチは
1560年ボローニャに生まれた。末期マニエリズム下の環境にあって、コレッジオやヴェネローゼを研究、アカデミーの設立を経て、1595年にローマに出た。枢機卿オドアルド・ファルネーゼの館の大様式の壁画を完成し、このローマに永住した。
晩年、憂うつ症に陥り、
1606年以降は制作を放棄、没後、本人の遺志によって、ラファエロの墓の傍に葬られた。その簡素で調和のとれた平面的な空間構成や効果的な人物の挿入は、プーサンに対して、また彼を通じて、絵画上の動作表現全体に深い影響を与えた。







女官たち(ラス・メニーナス)

                      ディエゴ・ベラスケス 1599~1660年)

プラド美術館 (マドリード)


油彩・キャンバス  318× 276 1656






 
ベラスケスの「セビリアの水売り」の手で触りたくなるような見事な質感の<壷>の表現を一目見ておきたいと、ロンドンのウエリントン美術館に朝一番に出かけて行った。ところが運悪く朝日がこの絵の真ん中にまともに当たっている時間帯で、見づらくてくやしいおもいをしたことがある。その若い頃の写実の極限をゆくような絵と比べれば、パレットの色をかなり単純化した3メートルもある大作、このあまりにも有名な「女官たち(ラス・メニーナス)」は、マドリードのプラド美術館で、この絵一枚のために特別な照明をあてて、一室がとられている。
絵を見る観客の後方には大きな鏡が掛かっていて、振り返ると、その絵の中に自分がいるという仕掛けになっている。大作であるばかりかこの絵は、なにかゆったりとしていて、ごく自然にこの絵の世界に引き込まれてゆくような、あるいは最初からこの絵の中に自分がいたような錯覚を覚える。私は後に、同じような気持ちにさせられた経験がある。

それは、ウィーンのブリューゲルの「村の婚礼」の前に立った時、実際に絵の婚礼の場にいるような、歓談のざわめきが聞こえてきて、その絵に共感して、これぞ、ほんとうのリアリズムだと感嘆したものだ。私たちが、一見、こうした自然な生活の一断面のように素直に入れる絵には、おうおうにして、並々ならぬ工夫が隠されている。この絵の場合も、ベラスケスの長年の研究の成果が結集されている。この偉大な絵のために、ゴヤは銅版画で模写しているし、ピカソはこの絵を主題にして、
58点もの連作シリーズを創っいるほどだ。
構図は窓、柱、扉口、鏡、装飾画、天井、キャンバスと格子のような垂直線と水平線によって組合わされている。人物配置にしても、中央の王女の三角形を中心にピラミッド型に配されて、安定を保っている。また、憎いことに、鏡のトリックで、この絵に入りきれない国王夫妻を写すことによって、もうひとつの虚構空間を設定して、二重の奥行きをもつ複雑な空間構成を達成している。そういう綿密な計算によって意図的にほどこされる技巧のほかに、この絵は登場人物や、画家自身の自画像についてもエピソードのつきない絵である。

ベラスケスはこの絵のなかで(光と空気の革命)と呼ばれる絵画上の革新を達成しているといわれている。それは対象と対象の間に介在する空気を描出することに成功した。つまり、ベラスケスは、光と色彩を表現することを通じて、光は形態と色彩を包み、混然と融合させることによって、空気そのものを描き現すことを実現したのであった。それは線と輪郭線を中心としたいわゆる線遠近法を主としたルネサンス以来の絵画を光と色を主とする空気遠近法の絵画に転換したのであった。さらにベラスケスは知的で絶え間のない技術の研鑽によって、「マチエールと輝く色彩の震えによって形態を捉える筆触を主体とする様式に到達した」。これは
2世紀後の印象主義の手法を予告するものであった。
ベラスケスは
1599年セビリアに生まれ、フランシスコ・パチューコに絵を学んで、後にその娘と結婚。義父の伝手で国王フェリペ4世の宮廷画家となった。単なる宮廷画家というよりも、フェリペ4世の最も信頼する友人として幾多の重要な役割を兼務して、画家としては異例の栄達を遂げた。







棺架に横たわる聖ボナヴェントゥーラ

フランシスコ・デ・スルバラン 1598~1664

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  250×222  1629年頃





 
スルバランといえばあのプラドにある「壷を描いた静物」は小さい作品であるけれどもこの画家の他のどの作品よりも印象深くて美しい。暗い背景に浮かび出た単純明快な壷の形とその質感は見事なものであるが、静謐な沈黙は何か魂をゆすぶるものがある。ところがこの画家の静物画は以外にも少なく、たしかなもので5点ぐらいしかない。そのほとんどは宗教的なテーマで教会の祭壇画や修道院の装飾画である。
在世中に認められていても、永い間忘れられていて、何十年、何百年たってはじめて、世に認められ脚光をあびる芸術家たちがいる。たとえば、バッハであるとかフェルメールもその代表的なものであるが、スルバランもそのひとりである。スペイン絵画の場合はほとんど注文主は教会であるとか修道院であったので、巨匠たちの絵も一般に公開されることもなく、
19世紀になるまで、その場所に収蔵されたままであった。
ところが、ナポレオンの独立戦争によって、あるいは還俗令による修道院の閉鎖などによって、たくさんのスペインの名画がフランスに略奪されたり、買い取られたりして次々に世に出ることになった。
とくにフランス王ルイ・フィリップはこのチャンスに莫大なコレクションを形成し、それはやがて1838年から1848年にかけてルーブルで一堂に公開されることになった。その時、スペインギャラリーで公開されたのは
400点以上にもなったそうである。
もちろんスルバランはその時までまったく無名であったが、この
400点のうち80点はスルバランの作品であったので、たちまちフランスの美術界で関心がもたれ、きわめて重要な画家のひとりとなった。おそらくこの公開展示の影響であろうか、近代絵画のパイオニアとなったクールベもマネもセザンヌも、この画家の絵のいくつかを手本にしている。しかしながらこの莫大なコレクションも、今はほとんどルーブルにはない。返還されたり、再び売却ちれたりして散逸してしまった。
この「棺架に横たわる聖ボナヴェントゥーラ」は宗教画としての本領を発揮した代表作であるが、これは、その後、あらためてルーブルが買い求めた作品である。フランシスコ会のサン・ブェナベントゥーラ付属教会の装飾のためのもので、最初は
1628年にエレーラという画家に聖ボナヴェントゥーラの生涯の6つの場面を描くように依頼されたが、途中で8枚に変更され、そのうち4枚をスルバランが描くことになってしまった。この絵はその最後のものだそうだ。
リヨン第二公会議中に倒れた聖ボナヴェントゥーラの遺骸の周りには公会議のメンバー、フランシスコ会の会員や世俗の高位者たちがとり囲んでこの聖人の死を悲しんでいる。スルバランの絵は一見、カチッと固くて、どことなく形体がぎこちないように見える。暗い背景と光の明暗の表し方はカラヴァジオ風で、克明に描かれた布の模様などはフランドルのプリミティーブ絵画を思いおこさせる。

スルバランはルネサンス的な調和のとれた解剖学的な正確さよりも、どちらかというとそれを意識的に無視して、遂にゴチックの方に近づいた。それによって不思議な神秘性を獲得した。この絵はスペイン絵画ではめずらしい集団肖像画であるが、グレコの「オルガス伯の埋葬」、ベラスケスの「ブレダ開城」と並び称される名作である。






乞食の少年

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 1617~1682

ルーブル美術館 (パリ)




油彩・キャンバス  134×54  1645~54







ムリーリョの聖母像はどれもこれも優しく親しみやすい。絵の全体が柔らかで、色彩は厚塗りではあるが、霧のように深く、銀灰色に薄くぼかされていて、すべてが流れるような曲線のリズムで抑揚がつけられているので甘くて優美である。ムリーリョは「無原罪のお宿り」という聖母像を30点近くも描いている。聖母が三日月の上に乗って、天使たちと共に黄金色に輝く光の中を天から舞い降りてくるという図像である。
そこに描かれた聖母はマリアではない。マリアがその体にキリストを宿しているのではなく、マリアの母であるアンナがマリアを宿したのである。マリアはキリストの托身のためにその器として運命づけられていた。そのマリアだけは神の恩籠によって人類の中でただひとり原罪の汚れをまぬがれていた。つまり、情欲なしに宿されたというのである。

油彩画の同じモチーフのものを
30点も描くというのはたいへんな数量で、当時この図像がいかに人気があったかを示している。ムリーリョはスペインのラファエロと呼ばれているのも、こういう優しい聖母像の典型をつくりあげたからであろう。また当時のスペインにあっては、新教のプロテスタントの攻勢に対して、反宗教改革の最大の拠点であり、ジィスイットの本国であったので、カトリックの聖母信仰を守るためにはどうしてもこういう聖像をたくさんつくらねばならない社会情勢にあったことにもよるのだろう。
ムリーリョのこうした優しい聖母像もたしかに魅力的なものではあるが、ムリーリョはまた別の、いわゆるスペイン的な現実直視のもうひとつの眼差しがあった。私にはどちらかというと、いつもこちらの方に関心がそそがれる。ミュンヘンのアルテビナコテークにある「メロンと葡萄を食べる少年たち」を含む
5点の風俗画やルーブルの「乞食の少年」がそれである。 ルーブルの南西の端、パビョン・ド・ワロールの二階、つまり、順路の一番奥になるスペイン絵画展示室にたどりつくと、この「乞食の少年」の絵がすぐに目に入る。この絵はきわめて単純化されていて、ひとりの乞食の少年が窓から差し込む暖かい陽光に当たって、無心に蚤をとっているという図である。窓と壁以外には壷がひとつあって、土の上には籠から果物がのぞいているのと、えびがいくつか散らかっているだけである。壷と壁の質感がしっとりとしてすばらしい。
この少年の現実は悲惨なものではあるが、この画家の少年に対する眼差しには優しさを感じさせる。それはもちろん少年の表情やしぐさにもよるのだろうが、光の表現の仕方であるとか、色彩の柔らかい調子などがあいまって、そういう印象をかもし出しているのである。ムリーリョ自身も
10才ごろに孤児となったということ、あるいは、後に、聖カリガー施療院の慈善組合組織にも参加して、貧しい人々の教育活動にあたっていたというから、本来、宗教心あつく、心やさしい画家であったにちがいない。
この作品はまだ多感な若い時代の、画家としてデビューしたごく初期の作品であるといわれている。この頃のスペインは凋落傾向にあり、特にムリーリョが生涯過ごしたセルビアは、混乱の極みにあって、街にはパンを求めてさ迷う浮浪者であふれ、行き倒れの惨めな死体がころがっており、暴動がおこり、疾病が蔓延し、盗賊なども出没していたという。






えび足の少年

ホセ・デ・リベーラ 1590~1652年)

ルーブル美術館 (パリ)





油彩・キャンバス  164×93.5cm  1642年頃







リベーラの「えび足の少年」は、一度見ると忘れられない印象深い絵である。杖をかつぐポーズがどことなく兵隊が鉄砲をかついで胸を張っているような姿勢に見えるので、この足の不自由な乞食少年の現実の悲惨さや卑屈さを感じさせるどころか、むしろ、くったくのない笑みを浮かべているので、ユーモラスな明るささえ感じられる。顔の表情などは、鋭い観察力で、見事な写実で描かれている。あまりにも特徴が克明にとらえられているので、いささかグロテスクにさえ見える生々しさだ。背景のほとんどが空であることも、この少年の印象を深めている理由のひとつかもしれない。 リベーラはスペインのバレンシアの南ハーティパという小さな町に生まれた。幼少の時に母は亡くなり、父は再婚した。父は彼を学者にするためにバレンシアに留学させたが、当人は学問よりも絵に関心をもって、画家フランシスコ・リベルタのところに身を寄せて見習い弟子となった。そこで師から自然主義的な技術を徹底的に学んだ。
リベーラはまもなくローマに出たが、着いた時には一文もなく、他の学生からパンをもらってやっと食いつないでいたらしい。みんなからは「イル・スパニョレット(小さなスペイン人)」と呼ばれていたそうだ。

ある時、リベーラが宮殿のフレスコ画を模写しているのをある枢機卿が見て、気の毒に思い、この才能ある青年画家を自宅に連れて行って、長期に滞在させて絵を描かそうとしたが、そのすすめを断って、再び、街路にさまよって、気ままに絵を描く生活に戻ったといわれている。

25
歳の時に彼はナポリに行った。彼はここでは非常な幸運に恵まれた。裕福な画家でもあり画商でもある人物に見込まれて、その娘と結婚するようすすめられた。彼はそれを了承すると、この義父は、たちまち、画商の能力を発揮して、リベーラの才能を方々に宣伝して、たくさんの注文を受け、助手を雇って、工房を経営するまでになった。
その上、ナポリの総督であるオルーナ公は、リベーラの「聖バルトロメオ」を見てえらく感動して、彼を宮廷画家に任命して、俸給を払って、たくさんの絵を描かせることになった。次の後任の総督もリベーラを大切に扱い、宮殿の中に住居まで与え優遇した。彼はここで、一日
6時間だけを制作にあて、あとは著名な友人たちを招いて悠々と歓談して暮らしていた。
ナポリはカラヴァッジオが最も影響を与えたところであった。もともと少年時代の師リベルタからは、物のかたちを正確に写したり、質感を忠実に表現したりすることを叩きこまれていたが、決定的に影響を受けたのがカラヴァッジオの明暗、つまり光の表し方であった。リベーラはローマで学んだカラッチ兄弟などの古典主義的な構成法取り入れて独自のリアリズムを達成して、ナポリ派の代表画家となり、カラヴァッジオの最も重要な後継者となった。そしてこのリベーラを通じて、カラヴァッジオ様式は、その後のスペイン絵画にはかりしれない影響を与えることになったのである。

フェリーペ
4世の庶子ドン・ファンに肖像画を依頼され、アトリエに出入りする娘たちとの目に余る無謀さに歎き、寿命を縮めてこの世を去ったというのも彼らしい。きっと真面目な画家だったのだろう。この絵の子供が手に持っている紙片の文字は「どうか、我に施しを与えたまえ」と記してある。






農民の家族

ル・ナン兄弟 1590~1652年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  113.3×159cm  1642年頃






 
ルーブル美術館のグラント・ギャラリーの入口から両壁面にフランスの古典絵画がびっしりと並べ掛けてある。巨大で壮大なものやフランス王室を飾りたてた華麗なもの、そして、洗練されたもの、すべてがここに集約されている。その中でもひときわ異彩を放っているのがこのル・ナン兄弟の「農民画」である。うす汚く、地味なこれらの絵の中の真摯なまなざしに心を留めるためには、この大通りを何度か入ったり、来たりしなければならないだろう。もっともこのル・ナン兄弟の7点の絵画が認められてルーブル入りしたのは、1869年から1915年の間でやっと20世紀に入ってからなのである。この「農民の家族」といわれる作品は一連の農民画の中でも最も優れている。
 ル・ナン兄弟というのはアントアーヌ・ル・ナン、ルイ・ルナン、マチュ・ルナンの三兄弟のことで、三人ともフランスの北西部に生まれた。共に画家となって、パリに出ている。彼らの著名の入っている絵は15点ほどしか現存しないが、そのどの絵にもただ「ル・ナン」とだけ記されているので、果たしてどの兄弟のものであるのか、今となっては識別が困難であるらしい。あるいは兄弟が共同制作したことも考えられる。この「農民の家族」にしても、ルーブルのカタログを作成したブリエールという研究者は、ルイの作品にちがいないとしていた。しかし、1978年の「ル・ナン兄弟大回顧展」では、ティクリェとの共作とされている。
それにしても、この「農民の家族」という絵は、なんという存在感のある絵なのだろう。あのブリューゲルの描く農民はなんとなくユーモラスで愉快で騒々しい感じがするのに、この農民の家族はまったくその反対で、家の中は静まりかえっており、中央の笛を吹く少年や左奥に見える暖炉がかすかに音を発しているものの、その音もなんだかもの悲しそうに聞こえる。

色彩も黄褐色を基調としているが、それがまた粗末な衣服を着たこの農民の家族の貧しさをいっそう強調している。またこの老夫婦の眼は刺すような鋭い視線でこちらを見ている。じっと我慢をして生活の苦しさを訴えているのだろう。学者によっては、この絵は在俗の市民団体の慈善行為を描いたものであるという説があるそうだが、一連の農民画を見ても、これは画家自身が何らかの貧しい農民たちの日常生活に関係していて、その実感を忠実に描いたものにちがいない。

フランスは
16世紀末、うち続く宗教的内乱を収拾して、アンリ4世のもとにフランス統一の基礎を固め、その後、絶対王政として権力の集中をはかり、華々しい繁栄を内外に誇示することとなった。この時代をフランスでは「偉大なる世紀」と呼んでいる。
しかし、このような発展の陰には、国王や領主貴族、聖職者たちによって、二重三重の税を取りたてられ、じっと耐え忍んでいるこの絵のような農民たちが珍しくなかったのではないだろうか。

ル・ナン兄弟は現実を美化することなく、観察したものを忠実に描こうとした。人物ばかりではなく、室内の隅々まで、物は物として、一個の存在物として描き上げている。このような自然主義的アプローチは、やがて、シャルダンやミレー、そしてコロー、クールベまでつながっていくのである。






大工聖ヨセフ

ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥール 1593~1652年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  97.8×64.8cm  1645年頃




 静かな夜、深い闇の中に、一本のろうそくの焔が、ゆらめく光りとなって、あたりを照らし出す。その光りの当たる部分に親子らしき姿が浮かびあがっている。ひとりは少年で光りを発しているそのろうそくを持っていて、顔の表情は清らかで、視線はまっすぐ彼方をみすえている。これはイエスである。また、腰をかがめて、ひたすら道具を使って、黙々と労働にいそしんでいるのは、イエスの父、大工の聖ヨセフである。ヨセフの顔のしわやきらりと光る眼光、道具の質感、そして特に注意をひくのはイエスの左手で、光りが手の血肉を透かしている表現などはおそるべき写実的描写力の力量をうかがわせている。
 この絵は一方ではそのような見事な写実を達成しているものの絵全体からいえば、逆に必要のないものはすべて闇の中に消し去ってしまっていて、無駄なものはいっさいない。すなわち、最小限の物の形で、最大の最大の宗教的真実を語っているところにこの絵のすごさがある。また宗教画といっても、この絵には、いわゆる宗教画らしい付属物は何ひとつ描かれていない。イエスにしても、聖ヨセフにしても、ふつうの庶民の大工の親子として描かれている。それでも、イエスの清らかなる表情や、聖ヨセフの労働で鍛えたたくましさや誠実さは、このひとつの光源によって照らし出されている。やがてその光はこの世の真実や宇宙全体の秩序までも解明してゆくような不思議な神秘に満たされており、深い精神的な感動を呼び起こさずにはおかない。
この絵の画家ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールは、
1593年ロレーヌ地方のウィック・シュル・セイユのパン屋の息子として生まれた。生前はけっして無名ではなかった。ロレーヌ地方ではかなり高名で、ロレーヌ公も彼の作品を非常に高額なお金を出して購入している。
また彼は
1963年には、「国王(ルイ13)公認画家」としての称号を得ている。というのは彼がパリに赴いてルイ13世に《聖セバスティヌス(現存せず)》を献上した際、国王はあまりにもすばらしいこの絵に感服して、これまで自分の部屋に飾ってあった他のすべての作品を取り除かせて、ラ・トゥールのその絵だけを残しておくように命じたというエビソードが残っている。
しかしこういう事実らしきことも最近になって判明したもので、驚いたことに、この画家の存在は、死後
2世紀半という長い間、まったく忘れ去られていたのである。ラ・トゥールの生きた時代のロレーヌ地方は絶えず戦乱に巻き込まれており、そのため、かなりの作品が戦火で失われたであろうし、飢餓や疫病などもあいつぎ、ひとつの町が消滅してしまったくらいだから、ラ・トゥールの死後、作品は方々に散逸してしまったのであろう。
ある場合には彼の作品をベェラスケスやフェルメールのものとされていたこともあった。

そして、やっと
20世紀になって、しかも1930年代になって、はじめて、その存在がクローズアップされることになった。この「大工聖ヨセフ」も1948年に個人からルーブルに寄贈されたものだ。
この絵のように闇の中にろうそくの光りや、ランプの光りなどの人工的な光りを効果的に利用したラ・トゥールの後期の絵を「夜の絵画」と呼んでいる。極端な光りの明暗を利用した手法はカラヴァジオ的ではあるが、この画家は、さらにきびしい造形で画面を簡潔にして、深い宗教的精神を表現することに成功した。






男の肖像

フィリップ・ド・シャンパーニュ 1602~1674年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  91.0×72.0cm  1650






 
まだ西洋絵画について、19世紀の近代から印象派以後のわずかな知識しか持ち合わせのなかった20年も前の若い頃、はじめてルーブルを訪ねて、このシャンバーニュの一連の肖像画の前に立って、そのあまりにも見事な写実的表現に度肝を抜かれて、一瞬その場に釘付けにさせられた鮮明な記憶が今なおのこっている。その後何度もルーブルに足を運ぶことになったが、その時はいつも、フランドルやドイツルネサンスの部屋が閉まっていて、しかもまだヨーロッパの各地の美術館を訪ね歩く前であったから、なおのことその細密描写の筆力に感嘆させられるのであろう。
この「男の肖像」という絵は、シャンパーニュの肖像画の中でも最もすぐれたもののひとつである。この画家はブリュッセルで生まれたが、ある時期にイタリアで絵の勉強をしたいと希望をもって、とりあえず、バリに赴いた。そこでプッサンの仲介で、当時リュクサンブール宮殿の装飾に従事していたニコラ・デュシェーヌという画家を知り、その指導をうけながら、リュクサンブールの仕事も手伝うようになった。この幸運の出会いによって、デュシェーヌの絶大な信頼を得ることになり、いったんは故郷に帰ったものの、再び呼び戻され、
1628年デュシェーヌの死後には、その娘と結婚することになり、デュシェーヌの後を継ぐことになってしまった。すなわち、デュシェーヌの仕えていた王太后マリード・メディシス付きの宮廷画家の地位もひき続き任命されたのである。
それから彼の持ち前の力量によって、たちまちのうちに国王のルイ
13世や宰相リュシュリュー、王妃アンヌ・ドートリッシュ、宰相マザランなど次々にその寵を受けることになった。とくにリュシュリューは「自分をこれ以上見事に描くものは誰もいない」と激賞した。そのリュシュリューの肖像画などは、ルーブルの同じ壁面に飾ってあるが、いずれも豪奢な衣装をつけた威厳のある姿で、いかにも宮廷好みの華やかなものである。
ところがこの「男の肖像」は同じ画家のものでありながら、そういう豪華さは少しもない。逆に服装はほとんど黒一色で、背景も濃い灰色で埋められており、全体の色調は地味で暗い。画面構成もまったく簡素に整理されており、何の飾りもない。窓枠の中から顔と手だけが光りが当たって浮かびあがり、そこだけに注意が集中するように仕向けられている。しかしその顔の表情と手は、おそろしく細かい描写がなされていて、とくに眼の表情や皮膚の質感などは見事で、その観察の鋭さには感服させられる。

このようにシャンパーニュの宮廷画家としての豪奢な肖像画が、ある時期を期して一転してこの「男の肖像」のような厳正で静謐な画風になぜ変ったかはたいへん興味をひくことではあるが、それはポール・ロワイヤル修道院のジャンセニストとの接触から始まったといわれている。彼の娘たちをこの修道院に入れたり、弾圧を受けた指導者をかくまったりしているので、彼自身もかなりこの教団に深入りしていたと思われる。

この「男の肖像」もそのジャンセニズムの神学者のひとりであったにちがいない。いかにも謹厳そうで知的な精神力がにじみ出ている。イタリアで絵画の勉強をするつもりでパリに寄り、そこでのひとつの出会いが
17世紀フランス古典主義の最大の画家のひとりを生む結果となった。






アルカディアの牧人たち

ニコラ・プッサン 1594~1665年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  85.0×121.0cm  1638~39






 
正直に言って、プッサンの絵は最初、決まりきった定型のたいくつな絵だと自分で決めこんでいたためにルーブルでもいつも素通りしていたものだ。現代美術の渦中に身を置いていたので、プッサンの絵などはいちばん打破しなければならないアカデミックな絵画の見本のようなものとして、けっして近寄ってはならないという潜在意識がそうさせていたのかもしれない。
ある時、このプッサンこそフランス的な知性と明晰な精神の持ち主であり、現代美術のひとつの潮流にも密接な関係があるのだと知った時、はじめて、この画家の絵を注意深く見るようになったと告白しなければならない。
「アルカディアの牧人たち」というこの絵はまさにそのプッサンの代表作であるばかりかフランス古典主義絵画の到達した模範例ともいえるもっとも有名なもののひとつである。
ルーブルにはこれを含めて
38点あり、そのコレクションはまことに充実したものであるが、そのうち31点はルイ14世によって収集されたものだ。この絵も1683年に購入されている。
この絵の構図は極めて簡潔に整理されていて、人物の配置や空間の設定は完璧なバランスを保っている。それで、一見して、非常に静かで安定した瞑想的な雰囲気をもっている。プッサンの絵のつくり方の基本的な考えは、水平、垂直の二つの要素の組み合わせでいかに調和と均衡を保つか、あるいはその二つの要素でリズミカルな関係をどのように調整するかにあるようだ。

この絵では、中央部を石墓で閉ざして、銘文を読みながら指を指す牧人たちの指を中心として、4人の人物を墓の前にしっかりと組み合わせて構図の安定を図っている。こういう基本的な形態から、あるいは細部いいたるまで、底知れぬ緻密な計算にもとづいて画面が構築されている。絵の構想段階では実際に小さな蝋人形をいくつもつくって、もっとも適切なポーズになるよう形を与えた。さらにその人形に衣をまとわせ、衣装の襞のでき方をそれによって観察した。また模型の舞台装置をつくり、人形たちを実際に配置して、光と影の関係や、全体のバランスや調和を操作した。
この絵は死の哲学を表現したものだといわれている。墓に書いてある文字は「われまたアルカディアにありき」と記されているが、要するに死というものは避けることができないもので、アルカディアのような桃源郷にあっても厳然と死はあるものだということを示したものだそうだ。

プッサンは
1594年ノルマンディ地方に生まれたが、パリに出て修行し、30歳ごろにローマに赴った。以来、パリに2年ほど帰ったが、生涯イタリアで過ごした。プッサンは非常に勤勉で、寸暇を惜しんで制作と研究に励んだ。当時のローマはバロツク全盛時代であったが、プッサンはむしろ、ラファエロや古代に関心をもっていた。
彼は古代の彫刻、石碑、浮彫りから髪型、衣服、サンダルにいたるまで古典古代を研究するかたわら、歴史、神話、幾何学、遠近法、解剖学などあらゆる研究を積み重ねた。その知性によって、イタリアに居ながらフランスを代表する様式をつくりあげた。「自然にもとづいて、プッサンの仕事をふたたびやることだ」という有名なセザンヌの言葉があるが、プッサンの仕事を知らないで、セザンヌもスーラも理解できない。






落日の港

クロード・ロラン 1600~1682年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  103.0×113.7cm  1639








いま、まさに太陽が海の向こうに沈まんとしている。落日の夕日の輝きは黄金色の光を放ち、空を染め、海の水面や波の波紋に反射して、光が満ちあふれている。港には船が停泊し、古代風な建物が立ち並び、岸辺には人の群れがみられる。それは、まばゆいばかりの逆光のおりなす夢のような世界が展開されている。こういう港湾の風景はロラン独特のもので、彼はこれによって、詩的風景画の一典型を創り上げ、歴史に名を残した。
風景画が独立した主題をもって描かれるようになったのは、やっと
17世紀になってからである。それ以前の画家たち(フランドル、ドイツ、イタリアの画家たち)も風景には深い関心をもって、スケッチや写生をすることがあったが、それはいずれも聖書や古代神話の主題の絵の背景やある一部分として用いるための下絵としてのものであった。このロランにしても実際の風景をそのまま画面に写し換えたわけではなかった。同時期にオランダで発達した風景画のように現実のありのままの風景というよりも、頭で空想した「構成された風景画」であった。したがって、ロランはまだ聖書や神話の主題の方を重要視していて、しかも彼の好みの情景を大切にしていた。
彼は尊敬するプッサンとともにローマ近郊の風景(カンパーニャ)をこよなく愛していて、しばしば二人で散策して、湖や丘や森などの実際の風景を写生した。「構成された風景」といっても、そのひとつひとつの部分は、そのような現実の風景を熱心に、きわめて正確に観察したたくさんのスケッチに基づくものなのである。特に光に対する微妙な変化の対応などは自然の緻密な観察と深い研究の成果であるといわれている。

この「落日の港」の風景も現実にはこのような風景があるのではなく、古代の建物にしても、落日の太陽にしても、停泊する船にしても、彼の詩的な物語を語るための、どうしても必要な道具立ての一つなのである。

ロランは本名をクロード・ジュレと言い、ナンシーの丘の近くのシャマーニュに生まれた。ロランというのは彼がロレーヌ地方の出身であったためにそう呼ばれるようになった。
12歳の頃に両親を失って、孤児となり、その後、まもなくローマに赴き、菓子職人の見習いになった。やがて、風景画家であるアゴスチーノ・タッシの家に奉公することになり、そこで一生懸命努力して、コックから内弟子になった。
ロランはほとんど無学であったが、たいへんな勤勉な努力家で、結婚もしないで(娘が一人あった)ただひたすら風景画を描くことに専心した。それが報いられて、
1630年ごろには、その風景画家として立派な名声を確立していた。当時の教皇や高位聖職者・外交官、裕福な愛好家、さらにスペイン王やヨーロッパ各地の君主、名家からたくさんの注文を受けるようになった。とくにイギリスではおおいに好まれ、裕福な家では、自分の所有地内に彼の絵をモデルにして、自家用の美しい自然の庭をつくることが流行したほどであったといわれている。
このあまりにも高い人気によって、偽作がたくさん出回るようになったので、ロランは完成した油彩画の正確なデータを記録しておくために、自筆のペン・チョーク、淡彩などでカタログのような画帖をつくり、これを偽作を見きわめるための「真実の書」と名付けて保存していたという。この実物は現在も大英博物館に保管されている。






笑う少年

フラシス・ハルス 1585~1666年)

マウリッツハイス王立美術館 (デン・ハーグ)


円形の板に油彩 直径29.5cm  1620~25年頃







 
この6月にオランダのハーレムにあるハルス美術館で、空前絶後のハルス大展覧会を見た。約13ヶ国からよりすぐった代表作品を集めたもので、ワシントン・ナショナルギャラリーとロンドンのローヤル・アカデミィーを巡回して最後にこの本拠地であるハルス美術館で展示された。ハーレムの町は、今なおハルスの生きた時代をしのばせる美しい町で、ハルスが晩年過ごしたといわれる養老院、つまりこのこのハルス美術館の周辺は古き良き時代のすばらしい風情を残している。
この大展覧会では、やはり、最後の集団肖像画「養老院の女幹事」とその対をなす「養老院の幹事たち」の2点はぐっと心に迫ってくるものがある。この画家の長い生涯に経験したつかの間の栄光や失望、そして苦しみや悲しみを乗り越え、すべての野心や虚飾をとりはらって、人間の真実の魂を、必要最小限度のテクニックで描き上げたものとして、非常に感動的な作品である。しかしこれだけたくさんの軍人や名士たちの肖像画の大作を見せられると、さすがにすこしうんざりするところもあった。そういう大作のひしめく中で、この「笑う少年」は直径30cmにも満たない小さい作品であるけれども、ハルスのもっともハルスらしい才能を発揮したすばらしい作品のひとつである。
「笑う少年」は
1984年にマウリッツハイスコレクションとして日本で展示されたこともある。この作品は、注文を受けて、ていねいに仕上げた大作の肖像画と違って、自由に、気楽に身辺のさまざまな人たちを描いたもので、一見、なんでもないいたずらっぽい少年の顔であるが、粗いタッチの筆づかいや、その筆触による無数の色彩のアクセントはまことに的確で、そのひとつひとつは寸分の狂いもなく、あるべきところにリズミカルに配色されている。ハルスにとってはほんのわずかの絵具と一本の筆があれば、おそらく、絹の輝きや、ビロードの質感や、人間の肌の色合いを、いともたやすく描き分けることができたし、なんでもない一瞬の顔の表情をすばやく描きとめることもできた。東洋の水墨画のあるものや、あの北斎漫画にみられる筆力のようなものであろう。バッハやモーツアルトもほんの少しの音の組み合わせでたちまちのうちに私たちを魅了してしまう曲をつくることができるのもそうした魔術的な天性の才能なのであろうか。
ハルスは
17世紀オランダの国民的大画家のひとりではあるが、実際は1580年頃フランドルのアントワープで生まれている。まだハーレムに移る前にはあの有名な、当時の画家たちを書物にして紹介したオランダ派のヴァザーリ、カレル・ヴァン・マンデルの私塾で画家の修行をしたこともある。1610年に結婚し、一年後には長男が生まれたが、1615年にその妻を亡くした。1617年に再婚し、10人の子供を得て、猛烈に仕事をして、その大家族を支え、一時期には大きな工房をもっていたが、決して暮らしの方は豊ではなかった。72歳の時には、パン屋や靴屋までに多額の借金があって、ついに家財道具と絵画5点を差し押さえられた。その時、残った全財産はテーブル一つ、たんす一つ、マットレス3枚、それに古毛布少々であった。80歳を過ぎた頃には、老齢のため、市の市団長に生活の援助を申し出て、年金が支払われるようになった。ハルスが亡くなった後、未亡人も極貧状態に陥って、やはり、市から生活保護を受けねばならなかった。






夜警

レンブラント・ファン・レイン 1606~1669年)

アムステルダム王立美術館 (アムステルダム)


油彩・キャンバス  363×437cm  1642







 
オランダ17世紀絵画のモニュメントはなんといってもこのレンブラントの「夜警」であろう。縦363cm、横437cmのこの大作はアムステルダム王立美術館の2階のメイン通路(栄誉廊)の正面にでんと飾られている。実際はもっと大きかったが、1715年にタウン・ホールに移されたために、無残にも画家の了解も得ずに、壁面の大きさにあわせて、上下左右とも30cmも切断された。
実は、この夜警というタイトルも後年つけられたもので、このホールは泥炭炉で暖房していたので、その煙のために全体が厚いススで覆われてしまった。そこで
18世紀の人たちはこの暗い画面を見て、夜陰の逆襲を描いたものだと思いこみ、真昼を描いたこの絵に「夜警」という奇妙な題名をつけるようになったのである。また後の修復者が、この絵の損傷の防止のためと、その時代の色調の趣味に合わせたワニスをたっぷりとかけすぎたためにますます暗い色調になってしまった。第2次世界大戦後1947年に大修復がなされ、洗浄修理したところ、見違えるように明るく鮮やかな色彩が現れてきたので、新聞はこぞって「昼の警備」と命名し直したという。
そして、今日この絵が私たちに圧倒的に訴えてくる要因のひとつはその色彩の効果にある。この絵全体の基調はレンブラント特有の明暗による光の表現であるが、画面中央の隊長と中尉の服装、つまり、黄色と赤と黒との対比はことのほかこの絵に激しいリズムをつくりあげている。とくに中央から左に鶏と財布を提げて隊員たちの間を通り抜けようとしている少女はいったい何だろう。この少女の輝く黄色の衣装は、この絵では色彩の構成上、きわめて重要な役割を演じていて、ますます画面を重層的にドラマチックに盛り上げている。

当時の集団肖像画のほとんどは、各自それぞれを平等に扱うために、できるだけ並列的に描くのがならわしであった。レンブラントはこの絵を依頼された時にはそういうやり方には満足せず、この自警団の本質は何かという問題まで突っ込み、いま、まさに出動しようとするあわただしい臨場感を出すために、どうしてもこの集団の動きを表現しなければならなかった。そのために従来の人物の配列の仕方を全く無視して、人物の大きさや、ポーズをこの動きを表現する絵画的方法に従属させることにした。光の扱い方や、色彩の効果もすべてそのために念入りに考慮されたものであった。このことを当時の美術史家ホーホストラーテンは次ぎのように記している。

「レンブラントは依頼主が求めた単なる個人集合体としての表現よりも、画家としての彼自身の願望を考慮しすぎたというのが多数の意見であった。しかしながらどう欠点で批判されたにせよ、この作品は他のすべての肩を並べている作品よりも長く後世に残るであろう。絵画的構成にみるその卓抜さ、その動性の極めて動的なこと、および力強さは、一部の人たちの評価を借りれば、市民軍ホールでこの作品の傍で飾られた絵は皆、トランブカードのように見えたほとであった。」
しかし、依頼者の大部分は自分の肖像の扱い方に不満であったし、常識にとらわれた一般の人たちには不評であった。そのため、肖像画の依頼はすっかり、少なくなり、妻サスキアの死も重なり、この作品を境として、レンブラントはきびしい後半生を迎えることとなる。






デレフト眺望

ヤン・フェルメール 1632~1675年)

マウリツホイス美術館 (デン・ハーグ)




油彩・キャンバス  98.5×118.5cm  1658









プルーストの大著「失われた時を求めて」の中で「黄色い小さな壁が実に見事に描かれていて、それだけをじっと眺めているとすばらしい支那の美術品のように自足した美を備えている」という記事に心をひかれた老文学者が、病気で絶対安静の身をおして、展覧会に出かけて行って、その絵をじっと眺め、自分の仕事もこのようにうるおいのあるものにしなければと、次第に気を失うのをこらえ、ついにその場に倒れて死ぬというシーンがある。

まさに美しいものの魅力にとりつかれた者は自分の生命と交換しても惜しくはないのだという美の魔力というか美への献身が、告白されている。

このプルーストに「世界でいちばん美しい絵である」と言わしめたフェルメールの<デレフト眺望>はデン・ハーグにある小さな宮殿、マウリツホイス美術館にある。この老文学者のごとく私もこの絵をなんとか自分の目で確かめてみたいと、この美術館に出かけて、実物と対峙することになった。ちょうどこの絵の前に長椅子があるので、かなり長い間座して絵全体を見たり、それからこの絵に近寄って、部分を細部にわたって、何度も見入った。

その絵は小さな運河の流れる静かなデレフトの街並みで、夏の終わりであろうか、さっと降った驟雨があがって、その直後に明るい陽が雲間からさしこんできて、雨雲と晴れ間が移り変わった瞬間を、まだ湿気と涼気がたっぷり吸い込んだみずみずしい情景を写しとったものだ。私はこの絵を見た時、あのロンドンナショナル・ギャラリーにあるホッペマの「並木道」をすぐに連想したが、この絵はそれよりもっと詩的で、運河の水面がかすかにふるえるようなさざ波の表現やレンガの赤や青、教会の尖塔に反射する黄金色などの織り成す色彩の快い調和はもっともっと魅惑的であった。

問題の「黄金の小さな壁」に近寄って見た。それは中央より右側の城門の尖塔の立つすぐ横の奥になる。その部分には陽が当たりまさに黄金色に輝いている。それもざらざらして盛り上がっているような触角的な材質感を示している。そしてその前方の周辺には、光の反射によって生ずる小さな珠が点在しており、その光の一瞬の輝きはこころにくいばかりの描写である。この光の拡散したハイライトはフェルメールのもっとも得意とした技術のひとつであろう。アムステルダムの「牛乳を注ぐ女」のパンの上に当たる光の表現などはその究極の見事なものであるが、他の作品でもいたるところにこの描法がなされており、非常に純度の高い色彩の調和や、永遠不変を思わせる堅固な構図とともに、フェルメール独特の甘味な抒情をかもし出している。

フェルメールの生涯については、ほんのわずかしか知られていない。遺された作品も
40点にも満たない。非常に丹念な描き方であるので筆の遅い画家だったのかも知れない。絵に著名することもめったになかった。そんなに売れた様子もなかったから、自分の作品を大切に売り惜しんでいたのかもしれない。1663年に結婚して、その年に聖ルカ・ギルドの会員になり、やがてその会長を数年勤めたこともある。子供が11人もあって、たえずお金に困っていて、大きな負債を残して死んだ。そのために残っていた作品21点が競売で処分されることになった。あまりにも寡作であったためか、その後、200年間もすっかり忘れさられた。






キリストの十字架降下

ペーテル・パウル・ルーベンス 1577~1640年)

アントワープ市大聖堂 (アントワープ)


油彩・キャンバス  420×310cm  1614









ルーベンスといえば私のまわりの美術専門家や愛好家のなかでも大画家であると認めつつもあまり好きな人がいないようである。あの詩人ボードレールでさえも、「ルーベンス、退廃(たいはい)。ルーベンス、反宗教者」「ルーベンス、つまらなさ。ルーベンス、通俗性の泉」「スーベンスは大袈裟な表現を代表するが、これは愚劣さと相容れぬものではない。ルーベンスは繻子の服を着た下司だ」―― と書き残している。あまりにも明るく健康的な肥った女性ばかり登場するので、なにか陰のある詩的雰囲気に欠けるためなのかもしれない。肉感的な天使をはじめとするさまざまな女性の量産に「フランドルの肉屋」と悪口されているのは、きっと現代の美人像が当時とあまりにもかけ離れてしまったためなのかもしれない。
ところが、
17世紀フランドル(現ベルギー)では「ルーベンスこそ、画家たちの王であり、王たちの画家である」と称されるほど大人気を博していた。なにしろルーベンスの筆力はすごいものだ。自分の愛する息子を描いたあのすばらしい素描を見るならば、あるいはひとつひとつの油彩画を注意深く、裸体や衣紋、樹や花や動物、そして風景などと細部にわたって見るならば、その流麗、闊達な筆さばきはまったく見事なものだ。こういう技術は訓練と努力で培ったものにちがいないが、ルーベンスの場合はそれ以上の天与の才能、ハルスやゴヤやレンブラント、ベラスケスにも共通な天才的な能力を感じさせるのである。
この「キリストの十字架降下」はあの悲しい物語「フランダースの犬」のネロ少年とパトラッシュが最後にこの絵を見ながら凍え死んでゆくというドラマチックな舞台となったアントワープの大聖堂にある。「キリストの昇架」の方もここに移されているので、その二つが対をなして、ルーベンスの名作の頂点をなすものだ。ルーベンスというよりも
17世紀バロック絵画の典型であるといってもよいのだろう。
ルーベンスの時代はアントワープが陥落してからスペインの摂政の治世となり、再び活況を取り戻し、カトリック教会と宮廷の保護のもとに諸芸術が開花する舞台ができあがっていた。ルーベンスはイタリア絵画を吸収していたので、そのような権力者の大聖堂とか宮殿とか人々が集まる場を豪奢、壮麗に飾り立て、諸王の栄光をたたえるような大きな絵を描くことにおいてはフランドルの画家の中では抜きん出ていた。もちろん地元と貴族や修道会の人たちからは絶賛をあびて、その名声は全ヨーロッパに轟き、スペイン、フランス、イタリアからも注文が殺到した。

ルーベンスは大邸宅に住み(これは現在も再建されて残っている)、大きなアトリエには外光を取り入れ、滑車や滑り溝を使って大型の絵を自由に運べるよう設備され、統率力があって人望が篤く、弟子もたくさん集まってきて、多量の注文をこなした。

ルーベンスは毎日
4時に起きて、教会のミサに出席し、朝食後すぐにアトリエに入って制作をはじめ、制作中も古典を朗読させ、さらに手紙を口述させ、同時に来客も応接するという超過密スケジュールで仕事をこなしていた。おそらく画家のなかで彼ほど家庭生活において、社交生活において恵まれた画家はいなかったであろう。さまざまな人々から尊敬と愛顧を受け、53歳の時には17歳の美しい少女と2度目の結婚をして晩年は静かに田舎で隠棲した。






自画像

ヴァン・ダイク 1599~1641年)

アルテ・ピナコテーク美術館 (ミュンヘン)


油彩・キャンバス  81×69cm  1622









この絵はミュンヘンのアルテ・ピナコテークにある。ヴァン・ダイクの20歳ごろに描いた自画像である。ヴァン・ダイクはシャンパーニュやベラスケス、ハルスなどとともに肖像画家としては卓越している。この自画像を見るならば、この画家の本質がすべてわかるような気がする。いかにも美青年で、伏し目がちなまなざしには、内気で、デリケートな知的な雰囲気が読み取れる。学生時代から仲間の間では「旦那」と呼ばれていたそうであるから、もうすでに自分の才能を自覚していて、優しさの中にも気位の高さとややナルシズム的香気がただよっている。身体もあまり丈夫な方ではなく、肺の持病を持っていた。
この自画像は後年の名作、ルーブルやロンドンのチャールズⅠ世の肖像画のような大作ではないが、この画家の持ち前の気質と才能をいかんなく発揮したものとして、やや独断的ではあるが、この画家の代表作として推したい。この自画像をミュンヘンで見る前に、実はもうひとつ、最初の自画像といわれる名品をウィーン大学の美術館で見た。それは小さな作品で額縁がばかに幅のある大きなものに入っていたので、特別に印象が深かったのと、その絵が
14歳時に描かれたものであることを知って、びっくりしたものだ。その完成度はもはや大家のもので、おそるべき早熟な天才児であったといわねばならない。
ヴァン・ダイクは
15歳の時には独立したアトリエを持っていて、19歳の時に画家組合にすでに登録されている。そして、その頃からルーベンスの助手として働いていて、その偉大な師から、あらゆるものを吸収した。ルーベンスの畢生の大作、21点に及ぶ「マリー・ド・メディシスの生涯」の連作もこの助手の協力によるところが大であるといわれている。にもかかわらず、この師弟はあらゆる面で対照的な特質の持ち主であった。壮麗でダイナミックなルーベンスを男性的とみるならば、繊細で上品で抑制的なヴァン・ダイクは女性的であるといってよいであろう。早熟と晩成、円満なる調和的人格と神経質で感傷的で不安定な人格など、ことごとく対立したものであった。
ルーべンスのもとでの数年の間に才能を開花させたあと
1620年にイギリスのジェームスⅠ世に招かれてイギリスに渡り、その後、イタリアに5年間ほど滞在した。ジェノヴァではヴァン・ダイクの上品な画風が大いに好まれ、貴族階級の人々から次々と肖像画の注文を受けた。このイタリアでは、ヴェネツィア派のティツィアーノやヴェネローゼの影響を受けて、生来の繊細で上品な画風に加えて、人物のとらえ方や色調、あるいは質感の出し方などすべての点で磨きをかけた。
いったんは郷里のアントワープに帰ったが、
33歳の時にチャールズⅠ世に招かれて、再びイギリスに渡ることになった。そこでは宮廷画家として貴族の称号と200ポンドの年金が供され8年間滞在することになったが、その滞在中に200枚以上の肖像画を描き、豪華な暮らしぶりであった。あまりにも注文が多いので、依頼者の顔を自分の手で描きあげると、すぐに帰ってもらい、手などの他の部分は他の職業モデルを使って描くという始末であった。そのために多少顔と手が違和感をもつこともあったが、それでもあらゆる上流家庭から歓迎された。肖像画というのは当時、宗教画や物語画に比べて低く見られていたが、ヴァン・ダイクの優雅さは当時の貴族たちの理想を満足させるのに十分であった。この肖像画の数々により18世紀イギリス絵画興隆の礎となつた。






シテール島の巡礼

ジァン・アントワーヌ・ヴァトー 1684~1721年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  129×194cm  1717

 





従来、「シテール島への船出」という題名で親しまれたヴァトーの名作。シテールというのは地中海にある実際の島で、伝説によると海の水の泡から誕生した愛と美の女神ビーナスが流れ着いた島である。独身者がこの島を巡礼すれば、必ず良き伴侶が得られるというビーナス信仰の愛の島なである。画面の右側に立っているのはビーナスの胸像と石柱に巻かれたキューピットの矢筒がそれを暗示している。そこから両面の左に向かって8組の若い男女が、最初は座って静かに愛を語り合い、だんだんと左に行くにしたがって、それぞれの組は立ち上がり、中央の奥の方に見えなくなり、最後にはこの島を離れるために船に乗ろうとしている。果たして、愛が成就して立ち去ろうとしているのであろうか。あるいは愛のはじまりではなくて、愛の終わりで、愛の夢から醒めてゆく情景であろうか。見方によっては、この若い男女はそれぞれ服装は異なって、別々のカップルのように描いてはあるが、じつはある男女の愛の進行を心理的に表現したものであるという解釈もある。つまり、ひとつの画面に、時間の経過を取り入れて展開された絵であるという。ヴァトーはこの絵を描きはじめてから完成するまで5年間を費やしている。この絵はアカデミーの入会作品として提出されたものであった。
ヴァトーはフランドルに近いヴァランシェンヌに屋根職人の息子として生まれた。
18歳の時にパリに出て、最初は貧乏で、奉納画や土産物を売る画商の職人として、模写絵を売って生活をしていた。そのうち画商のマリエットを通じて、クロード・ジロという芝居絵を描く画家を知り、彼から舞台絵などの手法を学んだ。ヴァトーの方が技術が勝るようになって、ジロは絵を絶ち、銅版画に専念するようになったといわれている。次いでクロード・オードランⅢ世に学んだ。オードランはリュクサンブル宮殿の執事であったので、ヴァトーはここでたくさんの絵画コレクションを見て、研究、模写した。その中でもルーベンスの21点の連作「マリー・ド・メディシス」には圧倒的な感銘を受けた。そして夥しい量の模写をした。ヴァトーのスケッチブックはこれらの速写の人物像の断片でいっぱいだった。
このスケッチブックこそヴァトーの宝の箱で、必要に応じてこれをキャンバスに写し換えた。

この「シテール島の巡礼」もその中から生まれた。
1712年にアカデミーのローマ賞2席に選ばれ、イタリア留学を経験することなしに異例の抜擢でアカデミーの準会員となった。準会員というのはアカデミーの入会作品を提出する資格を認められた者のことで、準会員になると入会作品のために課題を与えられ、1年ほどの制作期間の間に提出して審査を受けなければならない。ヴァトーは特例として、課題も自由であり、提出までに5年もの期日をかけている。その提出作品がこの「シテール島の巡礼」である。
ヴァトーは若くして肺結核にかかり、いつも病弱で、死の恐怖におびえながら生きていた。内気で、人づき合いも下手で、終生自分の家というもの持たず、独身で通した。愛人がいたという記録もない。たえず孤独であった。このことは逆に誇り高く、デリケートで、夢のような世界に憧れ、美しいものははかないという人生の悲哀をだれよりも知っていたのかもしれない。そして、
36歳でこの世を去った。ヴァトーはこの絵のような庭園で戯れる上流人たちの「雅宴画」というジャンルを創始した。そしてその影響はフランス18世紀の100年の間続いた。






煙草容れのある静物

ジァン・パブティスト・シメオン・シャルダン 1699~1779年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  32.5×42cm  1737








ルーブルにあるシャルダンの小さな静物画「銅の貯水器」と「煙草容れのある静物」はすばらしい。フランス18世紀ロココ絵画、宮廷好みの華麗な絵画の全盛期にあって、このような地味で誠実味あふれる絵は特別な光彩を放っている。家庭的な情景を描いた風俗画にはロココの華やいだ雰囲気は残っているものの、これらの静物画には強烈な効果や意味ありげなものは何ひとつない。「銅の貯水器」の堂々たる存在感には圧倒されるが、もうひとつの「煙草容れのある静物」は見れば見るほど味わい深い作品である。
画面にはすべて画家自身が愛用していたと思われる水差しであるとか蓋の付いた茶碗、銀の高杯、そして紫檀の煙草容れが、多分、アトリエの片隅のテーブルの上に置かれている。一見なんでもない無造作な配置のようであるが、その安定感というか、画面構成のバランスと秩序が見事に調和されている。おそらく想像以上に緻密な計算がなされているにちがいない。とくに斜めに置かれたパイプの線がにくいほど画面をひきしめている。

ひとつひとつの物の材質感も、厚く塗り上げられた絵具でまさに実体そのもののようにリアルである。じっと見ると物自体が、存在を誇示してわれわれに何かを語りかけてくるような気がする。このシャルダンの静物画は、静物画といっても
15世紀フランドルの画家たちの描いた物の細密な描き方と違っているし、オランダの写実的な静物画とも違っている。息苦しくなるような精緻な物の描写というよりも、物の形のとらえ方がかなり簡略化されていて、全体を見渡せば、その造形の確かさに、ある種の快さを目に感じさせる。
シャルダンは非常に遅筆であって、自分の仕事ぶりを誰にも見せず秘めやかに描いていたという。人々は魔法のような技法を持っていると驚き、その秘密を知りたがったが、本人は「絵具で描けと誰が教えたかね。絵具を使うかもしれないが、描くには心で描くのだよ」と言っていた。

シャルダンは1699年にビリヤード台を専門に造る家具師の息子としてパリに生まれた。生粋の職人であった父は、息子の絵の才能を認めていたが、アカデミーをめざした芸術家としての教育ではなく、堅実な職業人として身を立てるべく聖ルカ組合に登録した。早くから自活し、歴史画家ピェール・ジャック・カーズに学び、カルル・ヴァンローの監督のもとにフォンテンブロー宮のフレスコ画の修復にもたずさわり、さまざまな仕事をこなして技術を磨いた。1728年に若い画家たちの野外展に「赤えい」と「食卓」の2点を出品して、これによって認められ、王立アカデミーの会員になった。
 シャルダンは幸いにも最初の妻は商人の娘であったので、宮廷に寵を求める必要なく、貴族階級にも迎合するような絵を描く必要がなかったので、自分のアトリエでじっくり仕事ができた。毎年、サロンには欠かさず出品し、アカデミーでは財務官などの役職もこなしていた。後年にはルーブル宮に住居が与えられ、エカテリーナ2世が彼の絵を5点所有し、ルイ15世が謁見を許した画家2人のうちの一人であったというから、職人上がりの画家としては異例の出世であったのかもしれない。
シャルダンは現実を直視し、厳しい造形と深い色調によって、なにげない日常の片隅に詩を見つけた。厳格な画面の構成力はやがてセザンヌからキュビズムへと導く。






ぶらんこ

ジァン・オノレ・フラゴナール 1732~1806年)

ウォーレス・コレクション (ロンドン)


油彩・キャンバス  81×64cm  1767






 
ロンドンのW1のマンチェスター・スクエアにあるハートフォードハウス、いわゆるウォーレス・コレクションはこじんまりした気持ちのよい美術館である。はじめて私が訪ねた時に、その見張り番のひとりがとても日本びいきで、いろいろ話かけてきたり、日本の歌を口笛で吹いてくれたりして、親しみをもって接してくれたので、なおさら好感がもてたのかもしれない。
 この美術館のウォーレス・コレクションというのは個人コレクションとしてはヨーロッパでも最初のもので、そのはじまりは古く、ハートフォード侯爵家の秘蔵のものに加えてハートフォード4世が熱心に集め、さらにその代理人であった庶子リチャード・ウォーレスに受け継がれ、彼の厳しい眼によって厳選された良質の作品が収集された。とくに18世紀のフランス絵画のコレクションはすばらしい。ちょうどナショナルギャラリーの欠落した部分を補うかのような充実したもので、ブーシェ22点、グルーズ21点、パテル14点、ランクレ11点、フラゴナール9点、ワトー9点、ナティエ、ルブランなど数点、その分野だけでも百数十点にもおよんでいる。ここにとりあげたフラゴナールの「ぶらんこ」はこの美術館の看板となっている名作のひとつである。
ロココの絵画といえば、どれもこれもフランスの上流の貴婦人たちの肖像や風俗画で、われわれの世界とはあまりにもかけ離れた夢幻の出来事のようで、みんな同じように見えて、最初はなかなか入り込めない。おそらく日本の浮世絵なども、専門家でない一般の外国人が見れば同じような美人画や風景画で、ある画家の特性や差異を見分けるまでにはかなり熱中して時間をかけなければならないのかもしれない。
そういう類型的な「雅宴画」と呼ばれるもののなかで、なんといっても注目をひくのは、やはりその分野を創始したワトーの作品であろう。しかし、この美術館ではフラゴナールの「ぶらんこ」は特別印象深く輝いている。もともとこの絵の原題は<ぶらんこの幸福な偶然>といって、ある男爵が自分と愛人をモデルにして主題の内容も自分で指定して、ドワイアンという歴史画家に制作を依頼した。ところがその内容を聞いてびっくり、それを断った。そして、フラゴナールを紹介した。
 なるほどこの絵はシリアスな画家を拒絶させるには十分なユーモラスなものであった。ぶらんこをゆすっているのが僧侶でああるというのがミソで、ちょうどぶらんこが手前にきて夫人の両足がよく見える位置に男爵が隠れ、待っている。キューピットは何も見なかったよと人指し指を口にあてている仕ぐさもおもしろい。ピンクのスリッパが空中に飛んでいるのも効果的で、男爵の胸につけた青のブローチと夫人のピンクのブローチは、やがてこの絵の内容が社交会で大いに話題になって、そのブローチが大流行になつたというから、この絵の依頼主のねらいは図に当たったというべきであろう。
フラゴナールは南仏のグラスの生まれであるが、イタリアやネーデルランドに赴き、イタリア・バロックの手法やレンブラント、ルーベンスを学んだ。とくにこの画家のデッサンはすばらしい。彼自身は伝統や形式にとらわれないで自由奔放に制作した。すばやいタッチでとらえた軽快な表現は天才的なもので、それは次にやってくるロマン主義の到来を予告するものだ。彼の生涯はフランス革命とともに終えた。






当世風結婚

ウィリアム・ホガース 1697~1764年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)


油彩・キャンバス  69×89cm  1743







 
この絵はホガースのイギリス社会の世相を風刺した連作絵画「当世風結婚」という6枚シリーズのうち第2番目の図である。実際にあった事件からヒントを得たもので、当時の没落貴族の息子と新興の成金商人の娘との政略結婚で、両親たちの貪欲と虚栄のためにこの夫婦はやがて破滅するという悲劇の物語。この第2図は「怠惰な朝」というタイトルがついている。親の契約によって結婚させられた若い夫婦のある生活の一場面である。暖炉の上にあるロココ風の時計はすでに120分をさしている。退屈な妻は一晩中トランプ遊びをしていたのであろうか。もう、疲れ果てて椅子にどっかり座り、大きなあくびをしている。足元にはトランプ遊びの本が転がっており、隣の部屋にはトランブが散乱しているので、そのことを暗示している。
一方、夫の方はやはり椅子にぐったりともたれて、しらけきった倦怠に放心状態である。
おそらく夜通しの賭博か夜会から帰宅したところであろう。それとも子犬がその夫のポケットから夫人の帽子らしきものを引き出して匂いをかいでいるのを見ると、この時間まで愛人といっしょだったのかもしれない。もうこの夫婦には愛情の結びつきはとっくになくなっている。それは暖炉の上に掛けられた絵の中で、鼻の欠けてしまったローマ皇帝の肖像や弦のない弓を捨てて笛を吹くキューピットによって象徴されているし、床に転がっている楽器の楽譜、そして隣の部屋のシャンデリアのろうそくも燃え尽きて、もう消えようとしている様子などはずてこの二人の結婚生活が破綻しかけていることを意味している。あまりにもだらしない二人の生活を見て、この家の執事はあきれ果てている。手にはたくさんの請求書を持っているが、領収書はたった一枚しかない。もう天を仰いで、神に助けを乞うばかりである。しかし、隣室の壁に掛かった4人の要人の像はじっとこの生活を見すえている。
ホガースはイギリス最初の国民的画家である。
17世紀のイギリスは社会的変動期で二つの革命を経験した。そういう混乱した社会状態の中では自国の独自の画家を生み出すことはできなかった。それまでチャールズ1世はヴァン・ダイクを招いたり、他にもイタリアから何人かの画家を招いてたくさんの肖像画を描かせたりしていた。しかし市民階級が政治的、経済的に力を持つようになって、宮廷風のバロックやロココの優雅さと、イギリス市民のピューリタン的な厳格な倫理や個人主義とは相容れないものになりつつあった。そこでそういう現世的な志向の強い市民たちに関心を向けさせる新しい絵画を創ったのはホガースであった。
彼は「徳は報いられ、悪は仕返しされる」という教訓的な絵をたくさん描いた。一般の市民でも絵の内容がどんなものでおるか、どんな教訓が描かれているか誰にでもすぐにわかるものでなければならなかった。そこで彼は舞台で演じられる劇作のようにすればよいというアイデアを思いついた。それから演劇のような連作の絵をたくさん発表した。そして、その中で当時の社会の世相を痛烈に風刺した。絵による物語の展開や、登場する人物の群像の構成やこまかい道具の使い方など彼の天性の才能を十分に発揮させた。若い頃、版画の工房で修行したこともあるので、その連作を銅版画として刊行し、たくさんの愛好家を得た。このように彼は新しい時代の先駆者であったが、同時代の知識人や鑑識者たちには正当な評価を受けなかったようだ。






タールトン将軍の肖像

ショシュア・レノルズ 1723~1792年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)



油彩・キャンバス  236.2×145.4cm  1782







 
ホガースによってはじめてイギリスに国民的画家が誕生したが、その一代後に圧倒的に上流階級に受け入れられた画家はショシュア・レノルズであった。レノルズは1723年にデヴォンシャーのリンプトンに生まれた。父はかつてオックスフォード大学の研究員で、その後中学校の校長をしていたので、きわめて知的水準の高い環境に育った。ロンドンに出て3 年間学び、故郷で6年間独立した肖像画家として研鑽をつんだが、さらにイタリアに留学して、ローマでラファエロ、ミケランジェロ、コレッジオ、ティツィアーノなどの古典美術を徹底的に学んだ。それによって、立派な画家になるためには、このイタリアルネサンスの巨匠たちの作品をくわしく研究し、模倣することがもっとも大切なことであると深く確信するようになった。彼は学識豊かであったので、画家であるとともに学者といってもよかった。ロンドンに帰って、たちまちのうちに名声をあげて、ジョンソン博士やギャリック・ゴールドスミスなどの知識人たちの仲間となった。1786年にローヤル・アカデミーが創設されると、その初代会長に選ばれた。レノルズが今日まで歴史に名をとどめているひとつには、このローヤル・アカデミーでの連続15回の講演と、その講演集の内容、つまり、彼のそれまで学んだ芸術についての考えを理論としてまとめたことの功績によるところが大きい。それは新古典主義のもっとも典型的な理論であったからでもあった。
レノルズによれば、芸術は自然の模倣でなければならないが、その自然は普遍的な、理想的な自然でなければならない。芸術の目的は鑑賞者を道徳的に高めることであって、趣味とは感受性というよりもその芸術の善と悪を区別する能力であり、その正しい趣味を習得するためにもっともたいせつなことは理性と哲学とたえず参照し、確認しなければならないというのである。その具体的な方法として、イタリアルネサンスの巨匠たちの絵画や版画から、あるいは古代の彫刻から、理想化された人間の形態や高い精神性などを注意深く学んで、それを歴史画として表現することがもっとも芸術性の高い絵画なのだと主張した。これがつまり彼の言う有名なグランド・マナー(荘厳様式)と呼ばれるものであった。

レノルズは数々の栄誉を受けた。
1769年にはナイトに叙され、オックスフォード大学からは名誉博士号を授与され、1772年には生地で市長にまで任ぜられている。レノルズによってイギリスの画家たちは、画家はそれまで職人として一段低い身分としてみられていたが、画家であってもレノルズのように尊敬すべき地位になれるのだという希望を与え、また事実、画家の地位を向上させることに成功した。
しかし、レノルズの講演集の理論は、当時の大陸の美術家たちの理論を熱心に学んだもので、必ずしも新しいものではなかったが、イギリスやアメリカの画家たちには多大な影響を与えることになった。それはあまりにもアカデミックな絵画の訓練の主唱であったために、結果的にはイギリス美術を保守的にして、創造的な進展を妨げることにもなった。また彼の書いた理想的な理論と実際描かれた作品は必ずしもその理論どおりに実現しているわけではなかった。技術的に難があるためか、生前中にもすでにひびが入って、色彩も変化して十分な保存ができないものが多かったといわれている。この肖像画はアメリカ独立戦争で英雄となった将軍の肖像画で、そのポーズは古代ギリシャ彫刻からとられている。






ロバート・アンドリュース夫妻像

トマス・ゲインズバラ 1727~1788年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)


油彩・キャンバス  69.8×119.4cm  1748~50年頃







 
まだロココ的な優雅さが色濃く残っているとはいうもののいかにもイギリス的な肖像画である。このモデルのロバート・アンドリュースはゲインズバラの故郷の近くの領主で、典型的なジェントリーであった。この絵はこのアンドリュース夫妻の婚礼記念の肖像画で、のどかな田園風景の中で、狩りの途中、ひと休みしているところである。夫人の方は青い絹のドレスを着て、ロココ風の椅子に座っているが、どことなくぎこちない。背景のゆったりした、しかも非常にリアリティのある風景の中でのことだけに、この椅子や人物だけがセットされたような浮き上がった感じを与えている。それがまたこの絵が特別に印象深く、我々の目をひくゆえんでもある。
レノルズとゲインズバラはあらゆる面で対照的であった。レノルズは学者のように勉学を通して、過去の偉大な画家たちから多くを学んだ画家であった。彼のまわりにはいつも都会の文化人との交流があった。ゲインズバラは静かな田舎が好きであり、一度も海外に出てイタリアの巨匠たちの絵を学ぼうとは思わなかった。彼の師は自然であり、自然の中で育った画家であった。そして交友する人たちも知識人ではなく、気心の知れた音楽家たちと交わり、ささやかに室内楽を楽しんでいた。

レノルズの素描はどこかぎこちなさがあったが、ゲインズバラは天性の素描家であった。二人の描く肖像画も、レノルズは重厚で、古典的で、注文主の知的な面や心理的な印象を優先させていたが、ゲインズバラは北国人らしく、繊細な抒情的な感受性を持つものであった。このように二人は全く性格の異なるライバルであったが、レノルズは自分のあり方を主張しながらもゲインズバラの天性の才能を高く評価していた。

しかし、私たちの目から見れば、レノルズもゲインズバラもイギリス風の肖像画家で、貴族の紳士や淑女の肖像がやたらに多く、どちらもそんなに代わり映えのしない絵のように見える。どちらかというと我々にはイギリス肖像画はなじみが薄い。当時のイギリス上流階級では、画家に要求するのは、自分たちの社会的地位を誇示するような肖像画しか興味がなかったのであろう。そういう仕事が、この卓越した二人の画家に集中した。二人ともこの肖像画の注文に追いまくられた。ゲインズバラは生涯に
700点もの肖像画を制作している。
レノルズはできれば神話や歴史的なものを主題とした野心的な絵が描きたかった。ゲインズバラは田舎の樹々や丘や野原の中で、ゆっくりと風景画を描きたいと思っていたが、共にその時間をとることができなかった。しかし、ゲインズバラの晩年
10年間は、少しずつこの風景画を描くようになった。彼の個人的な興味で描くこのような風景画はほとんど買い手がつかなかったというが、この風景画にこそ彼の真髄があるようだ。そしてそれは、やがて現れてくる19世紀のイギリスの風景画家カンスタブルの出現を予見させるものがあった。1768年には、ゲインズバラはロイヤル・アカデミーの4人の創立会員のうちのひとりに選ばれた。評議員にまでなったが、ある時、展覧会の自分の作品の展示方法が気に入らず、退会することになり、その後いっさい出品せず、生涯、自宅を会場にして、個展を開いて発表したという。また、当時、肖像画の衣服や背景などを弟子や専門家に描かせるのが普通であったが、ゲインズバラは、いっさい自分で描き上げた。






ホラティウス兄弟の誓い

ジャック・ルイ・ダビッド 1748~1825年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  330×425cm  1784









 
この絵は新古典主義を表明する典型的な作品である。ダビッドはローマ賞を受賞して5年間ローマに留学した。ここで古代の彫刻や建築に触れ、「古代の模倣こそ、偉大さや、追随を許さぬ境地に到達する唯一の方法である」という新古典主義の理論を学んだ。
この絵はルイ
16世の依頼で、ダンジヴェリエ伯爵によって注文された。内容は「気高く、倫理精神にあふれ、観る者の魂を高揚させるような力強い作品を描いてほしい」という希望であった。
 ダビッドは古代ローマの物語からひとつのエピソードを主題に選んだ。さっそく多くの弟子たちや従者をつれてローマに戻って、この絵の制作にとりかかった。ダビッドは構想を立て、計画的に規則正しく仕事をした。弟子たちにも手伝わせたが、それでも11ヶ月費やして、ようやく完成させた。画面の中で父親の右脚が気に入らず20回も描き直したが、それでもまだ満足しなかった。
1785年に彼のアトリエであるビァツア・デル・ポポロで初公開された。ローマ中の人たちがこの作品を見ようと押しかけてきた。多くの人たちは感動のあまり、献花を持ち込んでこの絵の前は絨毯のように花がいっぱいになったという。その後、ダビッドがこの絵を持ってパリに戻った時も、歓呼で迎えられ、大反響を呼びおこした。パリではすでにロココ風のヴァトーのような絵画はあまりにも装飾的なものとして、またもう時代遅れなものとしてあきられつつあった。そこでこの絵がもっとも革新的な絵として脚光を浴びたわけである。
この絵のテーマはローマ建国時代の物語である。ローマが隣国アルバと争っていたが、勝敗がつかず、双方の代表戦士によって決戦することになった。選抜されたのはローマからはホラティウス家の三兄弟、アルバ側はクリァトゥス三兄弟であった。兄弟は父親に宣誓し、祖国に命を捧げる決心をした。結果はホラティウスのひとりが生き残ってローマが勝利することになる。ところが妹のカミーユがクリァトゥス兄弟のひとりと婚約していたので、その悲しみのあまり、泣き叫んでローマ市民に訴える。それに激怒して兄が妹を刺し殺すという、悲惨な結末になる。

ダビッドはこの情念の物語を高貴な美徳として描き出した。この絵はヴァトーのようなふるえるタッチで甘美に描かれたものではなくて、描線に力点をおいて色彩をややひかえめにしている。そのため、画面はひきしまり、無駄なものは消し去り、まさに舞台劇の一場面のように人物を配置している。重厚な円柱を背景に二つの三角形構図をとり、父と子たちの英雄的な力強いひとつの部分と女たちの動揺した悲しみの部分を対比させ、勇気とやさしさ、死と愛などの精神的な暗示までも、緊張感あふれる構図として非常に静かに安定した画面をつくりあげている。

この絵によってダビッドは、フランスの絵画史上、決定的な地位を確立した。ダビッドはギリシャやローマの彫刻を徹底的に研究して、男性的な英雄的な理想の美を描くことに成功した。軟弱ともいえるロココに対するそのような打倒精神はフランス革命の精神であった。

ダビッドはやがて革命政府の御用画家となり、革命の意義を宣伝する絵を描くことになるが、ロベスピェールの失脚によって、その情熱を失う。しかし、ナポレオンに出会い、また熱烈な支持者となるが、ワーテルローでナポレオンが敗れるとブリュッセルに亡命し、そこで余生を送ることになった。






坐するイネス・モワテッシュ夫人

ジャン・オーギュスト・ドメニク・アングル 1780~1867年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)


油彩・キャンバス  120×92cm  1856






 
アングルの晩年の見事な肖像画である。ふくよかで豊満な美しい夫人。バラの花模様のついたリヨン産の豪奢な絹のドレス。やわらかい腕と「ひとで形」のきわめて印象深い手の形。ゆったりとしたネックレスの線。アメジストの腕飾り。伊万里の壷。この絵を見た瞬間、どんな人でも「美しい絵だね」と感嘆せずにはおかない魅惑的な絵である。まったく何の疑問も説明もいらない素直に見られる美しい絵である。このドレスの絵模様だけでも鑑賞に値するに十分な装飾性をもっている。
これは非常に丹念に描き込んでいるようだけれども、実際に近寄ってみると、筆のタッチだけがバラバラに見えて、何が描かれているのかわからない。それほど粗い筆触で描かれている。それがすこし離れて見ると、すべてがあるべきところにそのタッチが寸分の狂いもなく打たれていて、はっきりとした形を形成している。これこそ目の至福というものだろうか。ピカソもこの絵の美しさに感動して、
2点も女の肖像画を描いている。この画家の78歳のの自画像はいかにも謹厳で、無骨な風貌をしているが、いったいどこにこのような洗練された美的感覚が潜在しているのか不思議なくらいである。
このモワテッシュ夫人の肖像画は最初に依頼された時には断っている。ところがちょうどその頃、ヘルクラネウム出土の有名なアルカディアの女神像のコピーを
2点大切に持っていた。そのうちの1点のポーズがこのモワテッシュ夫人の肖像に適用すればおもしろいと思ってこの仕事をつい引き受けてしまった。それは1844年であったが、これが非常に困難な仕事となり、この絵と苦闘することとなった。最初はモワテッシュ夫人を坐らせ、娘のカトリーヌを膝の上に抱いているポーズを描くことにしたが、気難しい娘はなかなか思うようなモデルを果たしてくれない。そこで、娘をあきらめ、描き直してもうまくゆかず、そのまま放置状態にあった。
ところが
7年経た1851年に夫人から依頼してあった絵がまだ完成していないかという丁寧な催促を受けて、これは悪かったと思い、今度は全く別の画布に立っている夫人をさっと描き上げて、それを渡すことにした。しかし、坐している夫人像はそれから完成させるのにさらに5間も要し、1856年になってしまった。結局この絵のために12年も費やしたわけである。おかげでモワテッシュ夫人の肖像画は2枚実現し、立像の方は現在ワシントンにある。見た印象は非常に平明で単純であるけれども、12年もかけて凝りに凝った作品であるだけに、その背後には、綿密に計算された秘術が隠されている。
アングルはダビッドの弟子であり、ラファエロに私淑していた。幼年のころからデッサンにはすばらしい才能を示し、ローマ賞を得て、ローマ、フィレンツェで前後
18年間に渡って滞在して、古典古代の様式を研究した。台頭するドラクロアを主唱者とするロマン派に対立するアカデミーの総師であり、新古典主義の指導者として「デッサンとは芸術の誠実さである」という有名な言葉とともに西欧美術全体に大きな影響を及ぼした。しかし、古典を通じたアングルの「理想美」の追求は、それだけでは満足ではなく、抽象的な形態美よりも、生々しい現実の中に「美」を求めるレアリストでもあった。新古典主義が主張する理想の形態美を決しておろそかにしなかったが、彼の作品をじっくり直視すれば多分にロマン派的性格が共存していることが強く感じられる。






  「裸のマハ」「着衣のマハ」

フランシスコ・デ・ゴヤ 1746~1828年)

プラド美術館 (マドリード)





油彩・キャンバス  97×189cm2点同寸)1790年頃 下 1800年頃










 
あまりにも有名なゴヤの「マハ」の2点。20年も前にプラドで見たが、昨年6月にロンドン・ナショナル・ギャラリーで特別展示されていたのをたっぷりと鑑賞できた。このモデルをめぐっては、とりわけ興味をそそるエピソードがある。裸のモデルはアルバ侯爵夫人であるとの噂が流れた。それを聞いて、当の侯爵が立腹し、貴族の名誉にかけても、この恥辱を晴らそうと、ことの真実を確かめるためにゴヤのアトリエに出向いた。ところがたしかに裸の夫人の絵がかかっているはずのものがきちんと着物を着ている姿の絵がかかっているではないか。事前に察したゴヤが前の晩、徹夜で同じモデルの着衣の方を描き上げて、取り替えていたのである。
スペインのこの時代はカトリック教会が強大な力を持っていたので、裸の女を描くということはたいへんなことであった。もし見つかれば、多大な罰金や追放をもって罰せられた。それまでスペインの画家で、裸の女性を描いていたのはベラスケスの「ヴィーナス」が唯一であるが、それも現実のヌードではなく、女神として描いており、しかも背中を見せて、顔は鏡を使って見せるというきわめて控えめのものであった。それでさえ、異例の事件であった。ゴヤのものはもっと生身のリアルなヌードである。このヌードのまなざしからは挑発的なエロスさえ感じさせる。それこそ見つかればただではすまない。

 実際にはこの絵が描かれたのはアルバ侯爵夫人が亡くなった後であることが判明し、まったくのつくり話ということになるが、ゴヤの死後20年ぐらいからこのデマが流れ、ごく最近までスキャンダラスな事件としてたえず話題となっていたのであるから、ゴヤの腕前がいかにすごいものであったか、またこの絵がスペインではいかに罪深いものであったかが察しられる。この絵はゴヤの時代の宰相ゴドイの邸館の裸体画ばかりを集めた禁制の私室から発見されたらしい。その時、事実、異端審問官からゴヤに呼び出しがかかり、事情聴取を受けている記録が残っている。またこの同じ部屋にはベラスケスの「ヴィーナス」がかかっていたというから、今回、ロンドン・ナショナル・ギャラリーでこの二つのマハと再会したわけである。
ゴヤは画家としてはおそろしい巨人である。内面に狂気のエネルギーを充満させている。それにゴヤは卓越した技量を持っていた。そしておそろしく多作な画家であった。肖像画だけでも
500点前後描いており、発見された素描は900点以上もある。ゴヤはスペインの小さな貧しい村に生まれたが、マドリードへ出て、あるいはローマにも訪ねて絵の修行をつんだ。42歳までは大聖堂の穹窿壁画のフレスコ画や王宮用のタピリトリーの下絵を描く仕事で、普通の画家以上の下積みの仕事をこなしていた。
1789
年にカルロス4世によって宮廷画家に任命され、国王や王妃、貴族や政治家などの肖像を一生描き続けることになった。画家としては最高の地位を確保したわけである。ところが1792年に重病にかかった。梅毒の一種らしいが、病気は数ヶ月で回復したが、突然聴力を失ってしまった。それ以来、彼の絵は一変した。1819年、苦しみや絶望を経験して「聾者の家」と呼ばれた家に引きこもり、いわゆる「暗い絵」という14面に及ぶ壁画を描いている。それは幻覚にとらわれたおそろしい幻想の世界であった。ゴヤは不幸な出来事を境にして、自分の内面の真実に従った。自分の個人的な世界観と自分だけのための絵を描きはじめたのである。






メデュース号の筏

テオドール・ジェリコー 1791~1824年)

ルーブル美術館 (パリ)



油彩・キャンバス  491×716cm  1819








 
32
歳という若さで没したジェリコーというのはすごい画家だ。あの<(幼児殺しの)狂女>という絵を見れば、この画家の天才的なすごさがよくわかる。この狂女の表情のリアリティもさることながら精神の錯乱した深層までもえぐり出すこの力量にはまったく舌を巻く。アングルがラファエロの化身であるとすれば、ジェリコーはカラヴァジオの化身であるかもしれない。しかしなんといってもジェリコーの傑作は「メデュース号の筏」だ。これはこの画家の代表作であるばかりか、フランス・ロマン主義のマニフェストでもある。
ルーブルの
19世紀のフランス絵画の部屋ではグロやドラクロアの大作とともに並ぶこの絵の前に立って見れば、いかにこの絵が壮大で迫力のあるものかよくわかる。画面はドラマティックである。嵐の中の荒波の上に浮かんだ筏の上には裸で死に瀕している者や、ボロをまとい、疲れきった者、救いを求めて布を振っている者など、20人の陰惨な光景が展開されている。左方向から強い光が当たって、その明暗の対照はいっそうそのドラマ性を高めている。色彩も暗い色調で土色が主体である。数箇所の不気味な赤色がこの場面の陰惨さをさらに強めている。
この絵は実際に起こった事件を主題にしたものだ。「メデュース号」は植民者をアフリカのセネガルに輸送するフリゲート艦であったが、艦長の未経験から嵐の最中に難破した。役人たちは三つの救命艇に分乗して難を逃れたが、残りの
150人は長さ20メートル、幅7メートルの筏に積み込まれた。筏は救命艇に見捨てられ、漂流し、13日後、艦船アルゴル号がこの筏を発見した時、135人はすでに渇きと飢えで死に絶えていた。当局はこの事件をもみ消そうとしたが、二人の生存者がこの手記を出版してセンセーションを巻き起こした。その書かれた内容は恐るべきものであった。極限状態における人間の狂乱、自殺、殺人、人喰いの凄惨な事件であった。この未熟な艦長を人選した特権的な貴族に非難が集中して政治問題にまで発展した。この事件を知ったジェリコーは、自分の画題はこれだと直感した。世の中は変動して、画家たちもこの時代に何を描けばよいのか困っている時であった。
この生々しい事件は、現実的で、話題性があり、しかも人間にひそむ永遠のテーマが含まれていた。これこそ現在の自分にふさわしいテーマだと思った。

青年ジェリコーは頭を剃って、アトリエに閉じこもった。筏に登場する人物はすべて実物のモデルを使って描かれた。実際に生き残った証人から、事情を聞いた。そして、その証人もモデルとなった。また大きな筏を造った船大工も見つけ出し、アトリエでその模型まで作らせた。屍体さえも実際の瀕死者の本物を見て観察した。おびただしい量の、しかもあらゆる場面を想定した構図のデッサンや下絵を描いた。このころ弟子であった若きドラクロアもモデルとなって登場している。この絵の制作のために
18ヶ月も費やしている。
 1819年、この絵が完成してサロンに展示された。当時のサロンの多くの作品は神話や歴史に題材を求め、古典を模倣し、「理想美」を追求したものであった。ところが、この「メデュース号の筏」は現実に起こった生々しい事件がテーマであったので、人々に強烈な衝撃を与えた。「真実」こそ本当の美であると主張したかったのであろう。この現実観察の鋭さや、新鮮な題材む、ダイナミックで自由な筆勢はフランス・ロマン主義の発端の役割を果たすことになった。






サルダナパールの死

ウジェーヌ・ドラクロワ 1798~1863年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  395×495cm  1827







 
画面を見てみよう。実物は縦4メートル、横5メートルもある超大作。その大きな画面の上方から右下にかけて強い光があてられ、そこに現れてくる情景は恐ろしい事件が起った殺りくの場面である。裸の女性たちが身をよじり、もがいている。右下には今まさに短刀で刺されようとしている女性が描かれている。中央にある寝台は赤い布に覆われて画面いっぱいに拡がっている。とくに赤い布を被った黒人が赤いロープで馬の首を引いているのが不気味に目立っている。不思議なことに寝台の上の王が肘をついてこの光景を冷静に見下しているのが印象深い。この場面には、直接肉体が切られた傷跡は描かれていないが、全体を赤色で描くことによって、いかにもこの場面が残虐で、一面血で染められ、炎で燃え上がっているような強烈な情念を訴えかけてくる。
古代アッシリアの専制君主サルダナパールは快楽をむさぼり、残忍で放埓な性向の持ち主であった。栄華をきわめていたが、ある時、民衆の反乱にあって、宮殿を取り囲まれ、絶対絶命となった。そこで王は命令を下した。自分がこれまで愛した女性や側近たちや馬や犬までも王の快楽に尽くしたすべての者たちを生き残してはならぬと。奴隷に殺されることをまぬがれた女たちや役人も最後は自分で首をくくって死ぬか、薪に火を放って、その中に身を投ずるかであった。おそらく最後はこの王も毒杯をあおって、死に果てるであろう。

 地獄絵のような、この絵の主題はバイロンの「サルダナパール」からインスピレーションを得た。オリエント(東方趣味)の燃えるような情念の渦巻くこのドラマは、ドラクロワにこれまで誰も見なかったような人間の深層をえぐる美の世界を提供した。この絵はドラクロア自身「残殺図第2号」と呼んでいた。第1の虐殺はもちろん「キオス島の虐殺」である。
 この「サルダナパールの死」が発表されたとき、やはりあまりにも強烈な色彩と、異様な題材のために人々をあきれさせ、憤慨する者さえいた。ソステーヌ・ド・ロシェフーコー子爵などはドクロワに対して、もしこのような絵を描くならば、政府からは一切絵の注文をしないだろうと忠告した。しかしドラクロワは、それが彼の生活を支えるためには重大なことであったが、「たとえ天地がひっくり返っても」自分の主張を曲げないと断言した。
彼は「絵は素描よりも色だ。知識よりも想像力だ」と言っている。ドラクロワ自身、多感で複雑な性格の持ち主であった。画像の性格な輪郭よりも色彩とか動きや物の厚みを重要視した。ギリシャ・ローマを模範とした理性的で、静かな古典主義たちの絵に対して、彼はルーベンスを圧倒的に尊敬していた。文学的な霊感や詩的な想像力を重要視していたのだ。場合によっては肉付法や衣襞表現さえ無視して激しいタッチの筆触表現を使った。
そのために色彩にはことのほか神経を使った。隣接する色彩の効果、科学的に証明された補色関係も使いこなした。

このような激情的な絵を描いたにもかかわらず、ドラクロワは並はずれた勤勉な画家であった。決して感情に流されることなく、あらゆるジャンルに関心をもって、豊かな知識を持ち、ユーゴやショパンなど少ないが深い交友があって、アングルなどのように弟子をとることもなく、孤独な画家であった。生涯に
9000点もの作品を残している。彼は真のロマン主義の天才であった。そしてこの絵はそのロマン主義の頂点を示す絵である。






ニュートン

ウィリアム・ブレイク 1757~1827年)

テイト・ギャラリー (ロンドン)


紙・色彩銅版画  46×60cm  1795







 
荒野であろうか。いや、多分深海の岩に腰をかけて憑かれたようにコンパスで白い布の上になにやら図形を描いている。異様な人間の姿をしているが「ニュートン」というタイトルからして物理学者のニュートンなのであろう。全世界はコンパスで解明できるであろうというこの科学者を象徴させて、人生は科学的な計測なんかでは解決できないのだと言いたかったのではないだろうか。
この絵の画家ウィリアム・ブレイクはこの世の世界を事実と現実に基づいて論理的に説明されるのを極度に嫌っていた。彼は見える世界よりも自分の想像力の方がはるかに真実に近いものであると信じて疑わなかった。森や野の豊かな自然をたちまちのうちに工場に変えてゆく光景をまのあたりに見て、イギリスの産業革命や機械文明を人類の敵なのだと否定的に見ていた。まさに今日の公害や環境問題などの行く末を予言していたのかもしれない。

ブレイクの描く人間はいつも筋骨隆々とした原始人を思わせるような裸の人間であり、顔を見ると理智的な神の化身のような不思議な人間を登場させている。この原型はミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画のなかのキリストの祖先たちの一人アラピスの姿からヒントを得たものといわれている。またこの絵で使われているコンパスは
13世紀以来ずっと幾何学の象徴として図像化され、おそらくブレイクは中世の写本からこれを学んだであろうという推測もある。
この絵は色彩銅版画にペンで描き込み、さらに手彩色をしたものである。ブレイクは
15歳の時から版画彫版師のもとに弟子入りしていた。この最初の経験から独立したタブローの大作を描くことよりも本の装飾や挿画を版画で制作することに関心が向けられた。ある時期には版画商として三年間店を構え、経営をしたこともあった。その仕事を通じて、東方の宗教絵本やアッシリア彫刻の画集や中世の装飾本などがめまぐるしく彼の目の前を通過していった。また彼自身、すぐれた詩人でもあった。そのことから自作の詩に銅版画でそれにふさわしい挿画を作ることに苦心した。
彼が若い頃修得したのは複製版画であった。いかに原画に忠実に精巧に彫版できるかの技術を習得することであった。ブレイクは自作の詩に挿画をはじめるようになって、この正確な技術だけでは自分のイメージを十分に表現することができず、新しい創意工夫をもって、いろいろな技術革新を試みている。
この「ニュートン」という作品はそのなかでももっとも手のこんだ色彩版画であり、彩色法もそれまでの水彩を用いていたのとは異なり、ニカワを混ぜることによって濃密な色を出すことができるようになり、モノタイプやあるいは一品絵画ともいうべき効果をあげることに成功している。
この「ニュートン」は理性を信奉するあまり想像力を失った人間にもっと精神を開放しなければならないという教訓を教えているのであろうか。これとは対になっている「ネブカトネザル」という作品は逆に感覚に頼りすぎて動物化してしまうという、人間の動物的な側面を強調して、まったく対立する2点を一対としているのがおもしろい。
ブレイクは日本では白樺派あたりからかなり紹介されてきたが、イギリス本国では、あまりにも独創的な絵の世界に没入していたために生前はごく少数の人たちにしか理解されていなかった。しかし、今ではロマン主義時代の天才として、イギリス芸術家のなかで、もっとも偉大な芸術家として評価されるようになった。






戦艦テメレール号

ジョセフ・ターナー 1775~1851年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)



油彩・キャンバス  91×122cm  1838






 ある夏の夕暮れ、この絵の画家ターナーは定期船でテムズ河をマーゲイトからロンドンに向かっていた。船の手すりにもたれて、ぼんやりと移り変わる風景を眺めていたが、ある光景に出会った。それは、あのトラファルガーの海戦でネルスン提督の仇を討って勇名をはたせた戦艦テメレール号が老朽化したためにスクラップにされるため、解体場に引かれてゆく途次であった。燃えるような夕日に照らされた98門の砲を備えたこの老戦艦を見たターナーは、〝これは絵になる〟と思った。すぐにポケットからスケツチ帖を取り出し、すばやく何枚ものこの大きな帆船を描きとめた。この絵が完成されて、ロイヤル・アカデミーで発表した時、大好評を博した。もちろん、この絵のすばらしさによって感動を与えたわけではあるが、イギリス人の英雄的な海軍の象徴として愛国心に強く訴えたからでもあった。
川の水面は静まりかえっている。その水面にゆっくりと銀白色の巨大な帆船が浮かんでいる。おそらくいくつかの戦いによって船体には損傷を残しているであろう。霧で深く覆われているので、ぼんやりしているが、白鳥のように誇り高くゆっくりと進んでいる。ところが、その前にもうもうと煙をあげてこれを牽引している黒いタグ・ボートが小さいがにくらしいくらい力強い。この対比は全体の静かな画面の中ではいっそう印象を強調させている。老朽化した巨大な帆船と小さいがスピードと馬力のある近代的蒸気船は、勇退するものとこれから新しい時代を迎えようとするものの、まさに新・旧の交替を意味するがごとく暗示的である。この光景が赤い夕日の光で照らされているのが、過去の栄光が消えうせるがごとくもの悲しい。この霧のような光と色彩のハーモニーはターナー独特のものだ。
もともとロンドンの下町に生まれたターナーはテムズ川の水と船に魅せられて、すべてのインスピレーションはそこから生まれている。最初はピクチュウアレスク趣味の形を正確に描いていた。そのうち、ヴェネツィアへの旅などによって光がすべてのものを柔らかく包む美しい風景を見て、形態の束縛から逃れ、すべてを光の中に溶け込ませ、光を純粋な色として扱う強烈な表現をとるようになった。同時代の偉大な画家カンスタブルは自然に没入して、見えるものから細部にわたって、ありのままの自分の眼で見た実感をそのまま描くという態度をとったが、ターナーは、自然を相手としながらも画家の主観的感動や理念の方をより重要視した。この独創的な表現のために、場合によっては、「形の不明確な絵」「粗雑で無秩序な絵」「何の真実もない絵」として非難された。

ターナーはロンドンの下町で理髪店の息子として生まれた。はやくから絵の才能を父親は見抜き、風景画家のところに弟子入りさせたり、ロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学させたりした。しかし普通の学校すら出ていなかったので、一般教養に乏しかったこともあって、そのコンプレックスのためか、競争心が旺盛で人一倍名誉と地位を欲しがった。
30歳でロイヤル・アカデミーの会員となり、異例の出世で成功したが、彼の性格は無骨で、社交を嫌い、身なりかまわず、その上すごいケチであったと言われている。私生活でも気むずかしく、秘密主義で、ほんの身近な人にしか親しく話しをしなかった。晩年は名声も富も得るが、独りひっそりと風変わりな老人として淋しく死んだ。自宅には約300点の油絵と20,000点の水彩画が遺されていた。






干し草車

ジョン・カンスタブル 1776~1837年)

ロンドン・ナショナル・ギャラリー (ロンドン)


油彩・キャンバス  130.2×186.4cm  1821







 
イギリスの風景画を代表する偉大な名作。恥ずかしいことにこの名画の前を幾度となく通りながら、ある時期まではまったく安っぽい複製画を見るように何の関心も払わずにこの絵の前を通過していた。偏見というものは恐ろしいものだ。ところが、ある時、この絵の前に立ち止まって、注意深く観察した時に、この絵のあらゆる部分が輝き出してきた。
青空をのぞかせている白い雲、うっそうと生え繁る樹々、遠くまで連なる牧草地、ゆるやかに流れる小川、そして水面に反射する光、どれもこれもが自然の霊気を発しているように迫ってくる。この大自然の舞台の中に人間や動物が融け込むように暮らしを営んでいる。

 向こう岸の牧草地には豆粒のように小さく農作業をする人々が描かれ、左にはこの土地にすっかり馴染んだ農家が一軒あって、農婦が洗い物をしている。川の中には2頭の馬に牽かれた干し草車がザブザブと入り込む。荷台では2人の男が何やら言い合っている。こちらから犬が一匹その干し草車を見ている。川の右手には鴨が2匹いて、誰かが茂みに隠れ、それを狙っている。夏の昼下がり、ありふれた牧歌的な田園風景である。ところがこのひとつひとつを細かく観察すると、これがひとりの人間の精神と肉体によって描かれた仕業であるのかと驚異の目でもって見直さねばならないほどのすばらしい描写力なのである。
この絵はカンスタブル
45歳の時の絵である。そらんじるくらい熟知した故郷の風景ではあるが、何度もスケッチをし、実寸大の油彩による習作まで下絵として描き、5ヶ月もかけて綿密に仕上げた作品である。はじめ<風景・昼>と名付けられ、ロイヤル・アカデミー展に出品された。もちろん好評を得たが、その後フランスの画商に買い取られ、3年後にパリのサロン展に出品され、金メダルを獲得した。展示前に若きドラクロアがこの作品を見てあまりにも鮮明な色彩効果に驚いて、自分が出品しようとしていた「キオス島の虐殺」をすっかり塗り直したといわれている。
カンスタブルはフランスでは認められ、大きな反響を呼ぶが、自分の国では長い間、まったく無視されていた。はじめて自作の風景画が売れたのは
39歳になってからであった。サフォークの製粉業者の息子に生まれ、20歳の時に商売を覚えるためにロンドンに出たが、ある風景画家に出会い、画家を志すようになった。26歳の頃にはアカデミー展に出品するようになったが、故郷にアトリエを持つようになってからは、ほとんど自分の生まれ育った土地の風景を描くようになった。その頃「他人の作品に追随し、真実の追究を二の次にすることに退屈」した。これからは「自然から学ぶ骨の折れる研究」に入るのだと強い決意を表明している。
カンスタブルは同時代の好敵手ターナーのようにロマン的な色彩の幻想によって自然を変形させてドラマチックに見せるという立場をとらなかった。あくまでも自然に忠実であり、自然をこよなく愛していた。自然をじっと凝視してその営みを観察した。自然こそ美の霊感を与えてくれるすべての源泉であった。自分の住む美しい故郷の自然こそ自分を画家に育てあげたのだと確信をもって述べている。実生活でもつらい闘いを強いられた。おさななじみと恋をしたが、売れない画家では娘をやれぬと反対され、
7年間も辛抱しなければならなかった。やっと幸福をつかみ、7人の子を得たが、その愛する妻にも12年間の生活の後、病気で先立たれ、暗い晩年を送ることになった。







孤独な木
別名「朝日をうけた村の風景」

カスパール・フリードリヒ 1774~1840年)

ベルリン王立近代美術館 (ベルリン)


油彩・キャンバス  55×71cm  1823







 この絵は所蔵されているベルリンの王立近代美術館で見たわけではない。1985年、東京国立近代美術館で開催された「19世紀ドイツ絵画の名作展」に出品されていたものだ。
1978年にかなり大規模な「フリードリヒとその周辺」という展覧会が日本で行われたが、残念ながらその時は見逃してしまった。今さらながらこの好機を逃して残念でならない。やはり、ドレスデンに行くべきなのであろう。
しかし、この「孤独の木」もフリードリヒの代表作である。こういう古典的なリアリズムの絵画はフランス的な洗練された近代絵画やアブストラクトの現代絵画に慣らされた我々の眼には古風で淋しい暗い絵として映るかもしれない。しかし、イギリスのカンスタブルにしても、じっくり画面を見るならば奥の深いつきることのない魅力で満たされている。
画面の中央にオークの古い巨樹が立っている。その根本に羊飼いの一人が寄りかかって休んでいる。羊たちはうっそうとした草原に点在して草を食べている。それらは雄大な田園風景の中ではまったく小さな生き物でしかない。遠景の山々はかすかに霧で紫色に輝いており、うすい雲でおおわれた大空のどこからか明るい光が巨大なオークの木をシルエットのごとく浮かび上がらせている。この樹は何百年もの風雪に耐えたものであろう。枝は雷によって砕かれ、傷を負った古武士のように悠然と立っている。その古木にも今年も新緑の葉が生え繁っている。

フリードリヒは、この古い巨樹の風景に何を感じとったのであろうか。人生の労苦に耐え忍び、生きながらえてきた自分を重ね合わせて見たのかもしれない。あるいはこのような広大な自然の中では人間はいかに小さな弱い存在であるか。自然は永遠であり、人間もその中に同化され、神の摂理によって動かされているものでしかないのだということを自然の観察を通して自覚したのかもしれない。ともかくフリードリヒは
1774年、バルト海の沿岸にある小さな町に生まれた。厳格なプロテスタントで実業家としてもかなり成功をおさめた父のきびしいしつけの教育を受けた。9人の兄弟姉妹がいたが、1781年に母を亡くし、1782年と1791年に2人の姉妹を亡くした。さらに彼の人生に決定的な影響を与えたのは弟の死であった。スケート遊びの最中に事故が起こり、弟が兄を助けようとして溺死した。重なる悲劇とこのショッキングな出来事で極端に内向的となり、暗い陰鬱な少年時代を送らねばならなかった。20歳の時にコペンハーゲンに出て、アカデミーで絵を学ぶが目立った学生ではなく、ほとんど独学であった。ベルリンに少し居て、ドレスデンに移り、生涯その地を拠点に活動することになる。
ドレスデンでの生活は苦しく、さまざまな仕事で生計を立てた。やがてドレスデンのロマン派と称するグループとも交流し、アカデミーにも定期的に出品するようになった。
1805年にコンクールではじめて1等賞となりゲーテの支持を得た。ところが1803年ごろに重い憂鬱症にかかり、のどを切って自殺を図った。命はとりとめたが、ますます孤独な生涯を送るようになった。
しかし画家としての名声は広まり、注文は殺到した。
40代半ばで20歳も年下の女性と結婚し、しばらくは幸せな生涯を送るが、1835年に重度の脳卒中で倒れた。油絵を描くことが困難となり、水彩画とセビア画を描いていたものの1840年にはほとんど忘れられて死んだ。






モルトフォンテーヌの思い出

ジャン・パティスト・カミーユ・コロー 1796~1875年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  65×89cm  1864

 





コローの絵はルーブルにもオルセーにも展示されていて、その点数が多いのに驚く。近代フランス絵画としては特別に優遇されているような印象を受ける。とにかくルーブルには125点もコレクションされている。その様式は古典主義、ロマン主義、写実主義にかかわる要素をあわせ持っており、印象派の画家たちに強い影響を与えたから、フランスでは我々が感じる以上に重要視されているのであろう。
この「モルトフォンテーヌの思い出」はルーブルに展示されていて、そんなに大きくはないが魅力的な絵だ。まさにコローの風景画のいちばんよい見本のような絵ともいえる。春の朝、湖のある広大な田園の岸辺の一角に夢のような幻想的な光景が描かれている。右側には大きな樹木がうっそうと画面いっぱいに枝を広げている。左側にはかすかに湖が見え、うすい霞がたちこめていて、一本の潅木が立っている。その周辺には野花がいっぱい咲き、ひとりの娘と二人の子供が花を摘んでいる。やわらかい光が画面全体を包んでいて、その光も奥の方からぼんやりとさしており、樹や人の形をシルエットのように浮かび上がらせている。人物も粗いタッチで描かれており、すべてが、光と影が作り出す塊としてとらえられ、それに構成もしっかりしていて快く調和が保たれている。絵の舞台は現実の場面というよりは、神話的な世界のように配置されていて、幻夢的な効果を高めている。

この光と影のハーモニーは、コロー独特の色彩の苦心によって成立している。コローの色彩は光が空気中の水分に反射して拡散する微妙なやわらかい変化を表現するために工夫されたものだ。絵具の塗り方は薄い絵具の層を何度も塗り重ねて、下の色が表面に浮かんで見えるように何層も重ねた。また薄塗りを重ねるばかりではなく、光の当たった部分などは厚い絵具のタッチで強調している。また暗い色には鉛白を混ぜて影の強弱を微妙に薄めて、自然のみずみずしい生命を蘇らせている。とにかくコローの風景画は抒情的で静寂だ。この画家の温和でやさしい性格を見るようだ。

コローはパリで服飾店を経営する豊かな両親に育てられた。家業を継ごうという修業もしたが、希望をあきらめきれず、
26歳の時に両親の許可を得て、画家として出発した。年に1500ルーブルの年金をもらい、父親の別荘で絵を描いていたので経済的には心配のないものであった。3回のイタリア旅行で、明るい風景をみて、光の美しさに感動した。それ以来、各地を旅行し、戸外で直接、自然を写生するようになった。コローはどの派にも属さず、弟子もとらず、生涯を独身で通した。
仕事は真面目にコツコツとこなし、
3000点の油彩画と600点のデッサンを残している。
その上、爆発的に人気の出たコローの風景画を手本として模写する画家がたくさん出始め、偽作も多く出回ることになった。おおらかなコローはよい模写があると、自分でサインを入れたとも言われ、「コローは
3000点の油彩画を制作したが、そのうち5000点はアメリカにある」という冗談まで言われるようになった。それでもコローが本当に認められたのは60歳になってからであった。貧乏で盲目の悲惨な状態のドーミエには家を買って与え、ミレーの死が伝えられると、自分が死の床にあるのにミレーの遺族にお金を送ったという温厚な慈愛に満ちた画家としての美談が伝えられている。






落穂ひろい

ジャン・フランソワ・ミレー 1814~1875年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  83.5×111cm   1864






 
なんといってもミレーの代表作はこの「落穂ひろい」であろう。「晩鐘」とともに小学校の教室の壁面にいつも貼ってあって、名画の見本のようなものとして、今でも鮮明に記憶に残っている。ところが実物をじっくり見たのはごく最近で、オルセーに移ってからだ。ルーブルでは非常にわかりにくいところの3階の部屋にあったので、初回はそれなりに注意して見たものの、いつもこの部屋に行く時には疲れ果て、めんどうになって省略したり、あるいはただ確認だけして、通過していたようだ。
オルセーではミレーの作品が一室に集められ、この美術館の中心的な役割を果たしている。
その中でもやはり、この「落穂ひろい」が一番人気がある作品にちがいない。最後の作品の「春」も風景画ではあるが鬼気迫るものがあって、すごい作品だと思う。またパステル画の「ひな菊の束」はミレーのみずみずしい自然の生命の呼吸を嗅ぎわける感傷的な感性がみなぎっていて、この画家の本性をかいま見るようで、すばらしい作品である。

ミレーは長い間サロンからも一般の人々からも無視されてきたが、ある時期からはにわかに名声を得て熱狂的に愛好されたかと思うとまた再び忘れ去られてしまうという賛同者と反対者の大きな揺れ動きの中にある画家であった。フランスよりもアメリカで圧倒的に愛好されたが、日本でも早くから紹介され、最近になって、
山梨県立美術館にまとまったコレクションが収蔵されたこともあって、異常に人気のある画家のひとりとなっている。
この「落穂ひろい」は
1856年の冬、生活は極端に窮乏していて、それに激烈な頭痛に襲われ、精神的にも肉体的にもどん底の状態のなかで制作された。一時は自殺さえ考えたという。落穂ひろいとは、刈り取りの終わった畑にまだ落ちこぼれている麦の穂粒をひとつひとつ拾う農作業のことで、とくに貧しい農民が行うつらい労働であった。ミレーはこの場面を旧約聖書のあの美しいルツの物語からヒントを得た。
もともと農民出身であったミレーは、花の都のパリで生活苦のために最初の妻を亡くし、周囲の無理解や無味乾燥な都会生活に失望して、自分は売らんがための似顔絵のような肖像画を描くよりも、自分が育った田園やそこで働く農民の生活の真実の姿を描くべきではないかという自覚を持つようになった。そして、パリを離れ、郊外のバルビゾンに移住して、そこで生活を営み、農民と同じ視点に立って、農村生活の実態を観察した。

この絵ははやくから着想されていたようで、最初のスケッチは身をかがめている一人の農婦が描かれ、
2作目の習作には二人の農婦と背景には麦束を積んだ荷馬車が加えられ、3作目の習作には三人の農婦が登場する。さらにこの三人の農婦のポーズがいろいろ修正されて、やっとこの最終的な構図として完成された。
そしてサロンに出品されたが、当初は酷評であった。「農婦はボロを着た案山子である。貧困を誇張し、むりやり荘厳さを装い、野望をもち、傲慢不遜である。表現は平板で、粗雑、着彩も肉付けも貧弱」などと評された。しかし、一方では「収穫の風景の生気、色付けの調子のよさ、人物の感動的な威厳などこれまでのミレーのうちで最もすぐれている」などの好評もあった。

苦境の時期に次々に制作されたこの「落穂ひろい」をはじめとする
9点の傑作がパリ万国博に展示され、決定的な地位と名声を得ることになる。それはミレーが57歳の時であった。






クリスパンとスカパン

オノレ・ドーミエ 1808~1879年)

ルーブル美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  60.5×82cm   1864年頃







 
そのほとんどは風刺漫画であるためか、誰でもドーミエという名前とその漫画の絵をよく知ってはいるもののまだまだ画家として低く見過ごしているのではないだろうか。あまりにも多量の安価な風刺新聞の挿画が今でもパリのセーヌ通りの版画屋に頻出していて、純粋な画家というよりも、イラストレーターというイメージが強すぎるためなのかもしれない。しかし、同時代のドラクロアにしてもコローやミレーも彼の才能を高く評価していた。
ドーミエは無類のデッサン家であった。これはもう天性のものであろう。ボードレールも「ドラクロアに劣らず、立派に描ける画家は二人しかいない。その一人は風刺画家のドーミエであり、もう一人はラファエロの猛烈な礼賛者であり、偉大な画家であるアングルである」と確信をもって記している。ドーミエは風刺画を描くことになったのも、絵だけでは食べてゆけず、この分野であれば、わずかでも確実な収入が得られるからであった。
16歳ではじめて発表するが、次第に過激な風刺で鋭く現実の矛盾を洞察して、公衆に強く訴えるようになる。場合によっては刑務所に収監されたり、刑を宣告され罰金を課せられたりしたが、それにもひるまず、むしろ情熱をもって風刺画を描き続けた。その量は4000点以上にも達した。
それでもドーミエの生活はけっして楽なものではなかった。
34歳の時にフランコノーに借りた借金を50フランは返却したものの全部返しきらず、家具類を競売に付されたこともあった。50歳ごろになって、やはり画家としての仕事を後世に残したかったのか、多量のリトグラフのかたわら油彩画も描くようになった。この油彩画「クリスパンとスカパン」は56歳ごろの作品である。ドーミエの油彩画はあまり大きなものはない。これも小さな作品ではあるが強烈なパンチのきいた傑作のひとつだ。要所だけを強調して、あとは大胆に省略する手法で、一見、未完成のようにも見える。
この作品はモリエールの喜劇「クリスパンと悪だくみ」をテーマにしたものだ。悪賢い従僕のスカパンが仲間と悪だくみのひそひそ話しをしている。舞台照明のように下からライトをこの二人の顔のあたりだけを浮き上がらせている。その陰影は最小限度のタッチで、輪郭線はわずかしか描かれていない。耳うちしているスカパンの首筋、仲間の顔の口もと、眉と目、そして耳の形など、心にくいばかりの心理的なドラマを演出している。

歪曲したり、大胆に単純化するドーミエの手法の根底には無数のデッサンとリトグラフの集積がバックボーンになっているのだろう。あるいはもともと物の立体的なとらえ方にも特別な才能があったのではないだろうか。単純な表現で存在感あふれる量感の表し方などは、ミレーやゴッホにも受け継がれているように思われる。

この作品を描いた
1864年には、数年前「ル・シャリバリ」誌から一度不採用の宣告を受けて休止していたが、再び契約して、この年に70点のリトグラフの制作をしている。そして、数年後には、パリを去り、コローが提供してくれたヴァルモンドワの家へ移ったが、次第に視力を失いはじめ、69歳の時にはほとんど失明状態となり、両眼の手術は失敗し、1879年、脳溢血で倒れ、3日後に心臓麻痺を起こして亡くなった。リトグラフで描いた4000点を越す風刺画も彼の死後47年経ってデルティユという人が10巻に及ぶカタログレゾネを出版して、広く一般に知られ、その価格は不動のものとなった。






オルナンの埋葬

ギュスターブ・クールベ 1819~1877年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  315×668cm  184950






 
クールベの巨大な2点、「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」はルーブルから今はオルセーに移されている。とくに前者は1850年末のサロンに出品して酷評を受けた。さらにそれ以上の問題作を1855年のパリ万国博覧会に出品しようと意気込んで「画家のアトリエ」という作品を描き上げた。ところが出品予定の11点は審査をパスしたものの、やはりそれらの2点の大作は落選した。
これを不満として、この万博展の向こうを張って、すぐ隣のモンテーニュ通りにプレハブの小屋を建て、ひとりだけの大個展を開いた。入口には「リアリスト、ギュスターブ・クールベ。
40点の作品展。入場料は1フラン」と表示されていた。そして、展覧会カタログには「今の時代の風俗、思想、断面を私自身の目で見て翻訳すること、一言で言えば生きた芸術を作ること、これが私の目的である」と自分の意図をはっきりと掲げた。これこそクールベのなした美術の革命であった。おそらく、それ以後たえず美術史を塗り替えていくことになる幾多のスキャンダルやマニフェストはここから始まるのかもしれない。
実際にこの「オルナンの埋葬」の絵の前に立って、その巨大さにはさすがに驚かされるが、なぜ当時の人たちが大騒ぎをして拒絶したのかわからないというのが実感であろう。今の現代美術ではもっと刺激的な実験と展示が次々と現れてくるのだから。しかし、当時の保守的なサロンの画家たちにはこのような絵を認めるわけにはゆかなかった。例えば、大きさもこれと匹敵するビッドの「ナポレオン
1世の戴冠式」の絵と比べてみれば、同じ絵でもいかにその目的が違っているかはっきりわかるはずである。神話の中の情景や歴史上の偉大な人物をいかに威厳をもたせ、理想的に描くか、が当時の画家としてはもっとも重要なことであった。
クールベはアカデミーで学んだわけでもなく、特定の画家に師事したわけでもなかった。田舎出のまったく独学の貧乏画家であった。クールベの眼には理念や教養主義的な気どった鼻持ちならない画家たちはどうしても打破しなければならない大きな壁であったのかもしれない。

この絵は
1849年の夏、10年住んだパリから故郷オルナンに帰って画室を借り、この大作にとりかかり4ヶ月で仕上げた。47人のモデルはすべて実在の人物で、町長とか司祭、判事などで、自分の母や妹までも描きこんでいる。
クールベは「私は天使を描くことはできない。なぜなら、私は天使を見たことないから」と言って、ただ眼に見える現実の物を再現することこそ絵画の力なのだと主張した。しかし、それは単に物の姿かたちを正確に表現するだけではなかった。クールベは自分の生きている現実の世界をそのまま描きたかったのだ。つまり、理想よりも真実を表現したかったのである。
ここに描かれた町長や司祭の顔はけっして威厳ある立派な顔ではない。むしろ、あまりにも現実に即して、あるがままの田舎の葬儀の光景を描いたために当時の絵の常識からははみ出していたのだ。

パリのサロンに出品してさんざんな悪評受けてしまった。みんなの眼には「暗い絵」「汚らわしい絵」に見えたのである。そのために、モデルになってくれた人たちからも、この絵のために、恥じさらしだ、クールベのために笑い者になった、と郷里の人たちからもながく嫌われることになった。






オランピア

エドゥワール・マネ(1832~1883年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  130×190cm  1863






 
マネが都会的なダンディなセンス、特にすばらしい色彩感覚の持ち主であることをおもいしらされたのは、まだルーブル付属の印象派美術館に飾ってあったパステル画「青いソファの上のマネ夫人」を見た時であった。やわらかいビロードのソファがブルーで画面の半分ほども描きこんであって、その質感は見事なもので、ほんとうに触ってみたくなるような美しいものであった。そればかりではない。「ナナ」という油彩画でも、下着姿の白いタッチの効果はこれまたなんとも魅惑的で洗練されたもので、何度もしげしげ見入ったものである。
マネは実際に光が放つ明るい色彩の美しい輝きをキャンバスにそのまま描きたかったのであろう。それを追求するうちに自分の独自の技術を発見することになった。これまでのアカデミックな方法で色彩の純色を失わない輪郭線と、色彩による対比によって画面に立体感をもたせる方法を見つけ出したのである。その革新の代表作がこの「オランピア」である。マネ自身もこの作品は最大の傑作であると自信をもって
1865年のサロンに出品した。
ところが展示されるや、批評家や一般の観客からもひどい酷評を受けることになった。「この黄色い腹をしたオダリスク、どこで拾ってきたかもわからないモデルは、一体、何者だろう」とか「インド産のゴムでできた雌のゴリラ」とか「出産を間近に控えたご夫人と良家の子女はよろしく避けて通るべき作品」などと「卑しく、恥知らずな」作品として新聞などでこっぴどくたたかれた。

しかし、それが話題となって、展示された絵の前は、いつもいっぱいの人々で群がることになった。あまりにもひどいので、この絵は損傷を防ぐため、いちばん奥の部屋で、しかも扉の上の暗い壁に移され、絶えず
2人の監視員に見張られることになった。それでもこの絵を一目見ようとたくさんの人々が押しかけた。
今、私たちがこの絵の前に立ってみても、なぜ当時の人たちが、この絵に罵倒を浴びせかけたり、ステッキで殴りかけたりするほど非難しなければならなかったかを理解することはむずかしいかもしれない。それまで絵に描かれた裸婦というのは、神話や宗教の中のビーナスやイヴ、あるいは妖精などの姿として、それがいかにも別世界の出来事のように理想化して描かれたものであった。ところが、このマネの「オランピア」は、そのモデルが実際に身近にいる街の女性であり、しかもそれが娼婦らしいと観客は見てとったのである。

それもそのはず、このモデルはマネのお気に入りのモデルで
21歳のパリジェンヌであった。マネはこのモデルを生々しく描写して、昔の名作、ティッツィアーノの「ウルビノのビーナス」の構図を借用して、その中に写し換えた。しかも、その絵の描き方は、陰影や肉付けによる立体空間の表現の仕方ではなく、マネの革新的な技術、明るい色彩の対比による平面的な絵の描き方であったのである。それが当時の人たちに、ショックを与え、混乱させた。
マネは裕福な家庭に育ち、非のうちどころのない紳士で、優雅で都会的な人間であった。マネは近代絵画に革命をもたらした画家であると評価されているが、マネ自身は決して革命家になろうとは思わなかった。ただ、マネはこれまでの技術にとらわれないで、自分の見た世界を率直に、思いのまま描きたいと思った。そのことが皮肉にも通常のサロンで評価され、公的な栄誉を受けるどころか失意とスキャンダルに満ちた人生を送ることになった。






オペラ座のオーケストラ

エドガー・ドガ(1834~1917年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  56×46cm  186869年頃






 
バスーンを吹く男を中心にオーケストラの楽員が描かれている。一見なんでもない絵のようだが、ドガの絵の中ではたいへん重要な絵なのである。ドガは私にとってある時期までは非常に馴染みにくい画家のひとりであった。それでもパリやロンドンを中心にかなりの作品を見たつもりでいる。バレエの踊り子の絵などは、あまりにも有名であるせいか単なる通俗的な風俗画としか見えなかった。たしかにドガは分類しがたい画家なのだろう。ドガは頭脳で描く画家であった。それを理解するためには絵の見方を養う必要があったし、いくらかの知識が必要であった。
この絵はバスルーン奏者のディヂレ・ディオーが注文したものだ。ドガは普通の肖像画のようにただひとりの肖像を描くことをしなかった。オーケストラの現場で、知人の何人かを音楽家にしたてて集団肖像画として描き上げた。これはドガの機知であって、従来の絵に対する反抗でもあった。ドガは当時の前衛的な画家たち、つまり、印象派の画家たちにはたいへん好意的であった。自らそのグループ展にも出品している。しかしドガは印象派の画家たちとは違っていた。ドガは直接戸外で絵を描くことをしなかったし、筆触分割の技法も使わなかった。

印象派の画家たちはほとんど独学であったが、ドガは正規の美術学校で伝統的な教育を受けている。またイタリアに留学してルネサンスの巨匠の絵を研究した。ドガは誰よりもアングルを尊敬していた。画家を志した頃、アングルに直接会っている。その時アングルから「なんでもいいから、できるだけたくさんの線をひきなさい。記憶に頼っても、実物を見てもよいから、できるだけ線をひきなさい」と忠告されたという。ドガはそれを忠実に実行した。そして無類のデッサン家となった。この絵にはそういうしっかりした伝統的な技術が色濃く残っている。
この絵を注意深く観察すると、いくつかの新しい画面づくりの工夫がみられる。ドガはバレエや芝居が好きでしばしばオペラ座に通い、そこの常連になっていたが、華やかな舞台から次第にバレエの練習場や客席やオーケストラに関心を示すようになっている。この絵はそういう裏方を絵の主題とした最初のもので、ドガの眼はこの絵以後、パリの街の片隅のありふれた生活の断面をとらえてゆくことになる。しかもこの絵の空間のとらえ方は統一された遠近法によって描かれていない。前景、中景、後景と積み上げられている。東洋画の手法である。
さらに注意してみると両側の画面の端にいる人物がキャンバスの大きさで断ち切られている。写真の枠組みのようにカットされている。ドガは伝統的なしっかりとした絵の描き方を身につけていたが、たえずそれを乗り越えようとしていた。生活の中の一瞬の場面を切り取って、画面に写すために可能なかぎりの画面構成を考えようとした。そのためにカメラの技術を利用しているし、日本の浮世絵も研究している。

ドガは
1917年、83歳で亡くなった。晩年は視力が衰えて、ほとんど盲目状態であった。人との交際も避けて、ひっそりとアトリエにこもり、とりつかれたように仕事をした。そしてあの輝くようなパステル画や、手の感触だけで創った彫刻が生まれた。若い頃からドガは無口で気難しく、超然としていた。裕福な家庭に育ったので作品を売る必要がなかった。一生独身であったが、遺された大量の遺作は1917年、公開され、4回にわたって競売に付された。それによって、ドガの創作の秘密が明らかになった。






印象・日の出

クロード・モネ(1840~1926年)

マルモッタン美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  50×65cm  1872






 
ヴェネツィアのアカデミア美術館でのことである。モネのヴェネツィア滞在中に描いた風景画が数点展示されている部屋がある。いずれも海面にきらきら輝く光の反映をあの筆触のタッチで見事に描き上げた絵である。その絵を見て次の部屋へ移る廊下の壁面に、その時はポロックの絵がこれも数点展示されていた。まったく異質なとりあわせである。
このポロックの絵の前から向こうのモネの絵を見ると、あの粗い筆触のタッチで描かれた色彩が紫がかった微妙な色調に混合され、見事に美しい風景となって現れている。まるで立体めがねをかけたようにすっきり見えてくる。印象派の絵というのはこのように距離をおいて見るべきなのだろう。逆にポロックの絵はまるで違う。いくら近づいても離れてもキャンバスにたらし込まれたペイントは変わらない。ただ色彩という物質があるだけだ。近代と現代の本質的な違いのひとつの例をこの両者の比較でかいま見たような気がした。

モネはアトリエで制作しないで、戸外で実際の自然を現場で描くことに執拗にしてこだわった。自然のおりなす新鮮な光景、とくに瞬間的に移り変わる光の美しさをそのまま描きとめたかったのだ。モネはこう言っている。「私が盲目に生まれ落ち、ある日突然、目が見えるようになったのならどんなにすばらしかったかと思う。そうなれば、目の前に存在する事物が何なのかということを知らずに描けるからだ。だから君たちが戸外に描きに出るときは、目にする木とか畑とかいったものの形にとらわれてはいけない。そういうことは忘れて、ただ、ここに四角いブルーがある、あそこには矩形のピンクがあり、黄色の線が、という具合に感じ、そのままをキャンバスに描きなさい。新鮮な印象をそのまま塗り込めばいいのです」。

モネは瞬間の印象を正確に捕らえるために、独創的で新鮮な描き方をした。スピードのあるタッチで、一筆、一筆、厚みのある色面を並置するように描いていく。一部を拡大すると抽象画のようである。緑色に見えるものを緑で描くよりは、青と黄との細かいタッチを並べるほうが効果的に輝くことを発見した。影は褐色や黒色ではなく、青や緑や紫の混合であり、光の量や質が変われば、色彩がたちまち変ってしまうことを体験と感覚によって理解した。いわゆる印象派の画家たちの基本的な主張を自ら生涯を通して体現していったのであった。

この「印象・日の出」という作品は、モネの独創的な手法を見つけ出したごく初期の作品で、何か水墨画の筆づかいを見るような自由でのびやかな作風である。第
1回印象派グループ展に出品されて、批評家から「何たる自由、何と悠々たる技法か、作り初めの壁紙の方があの海景よりは完成している」と悪評された。もともと「日の出」という題名であったが、あまりにも単純な題名であったので、カタログ編集者からもっとよい題名に直してほしいという要望に応えて「では印象とつけ加えたまえ」といってそのとおりの題名となった。この印象という言葉を引用してジャーナリストが「印象派の画家たちの展覧会」と題した前述のような悪評を書き、印象派が誕生することになった。この歴史的な絵をモネの美術館、マルモッタン美術館で、じっくり拝見させてもらったが、そのすぐあと、盗難に遭ったというニュースが伝えられた。






桟敷席

ピエール・オーギュスト・ルノアール(1841~1919年)

コートールド美術研究所美術館 (ロンドン)


油彩・キャンバス  80×64cm  1874






 ルノアールのすべての絵の中でもこの「桟敷席」は私のもっとも好きな絵のひとつだ。この絵は現在、ロンドンのコートールド美術研究所のコレクションとして所蔵されている。コートールド美術研究所というのは、実業家サミュエル・コートールドが収集した印象派・後期印象派のコレクションをロンドン大学に寄贈し、美術研究所のために基金を援助することによって設立された。最近、このコレクションを展示する美術館が移転したが、以前はロンドン大学の構内にあって、入口もまったく目立たない小さな看板ひとつの地味なもので、展示室も質素なところであった。ところがそのコレクションは、特に印象派・後期印象派の名作がずらりと揃っていて、それはすばらしいもので、何度となくそこに通ったものだ。
この「桟敷席」はルノアールのすばらしい感性がほとばしるように見事に発揮されたエレガントな作品である。貴婦人と思われる女性を大きくクローズアップして、後ろに紳士を配しているが、モデルになったのはモンマルトルのモデル女と弟エドモン・ルノアールであった。実際のモデル女は貴婦人というよりも、官能的であったが、決して理知的な女性ではなかったらしい。この絵にしても、よく見ると、劇場
のボックス席にはいるものの熱心に観劇しているわけではなく、着飾ってちらちら周囲を気にしているようだし、後ろの紳士にいたってはオペラグラスで反対側の席の女性を物色している様子なのだ。あまり行儀のよい光景ではない。
モデルはどうであったにしても、ここに描き上げられた夫人像は魅惑的である。いっぱい見開いた瞳、着飾ったネツクレスや豪華な衣装はほんとうに触ってみたくなるような質感で、われわれの目を楽しませてくれる。さらにこの絵を魅力あるものにしてくれているのは黒色の効果である。画面をひきしめ色彩の輝きを強めている。この時期の作品には黒色を非常に重要視している。「黒は色彩の中の女王である」と断言している。

ルノアールは自分が幸福と感じた時のみ絵を描き、自分にとって、本当に喜びを与えてくれるような主題を慎重に選んでいた。ある時、ルノアールは女性の乳房を褒めたたえ、「神様がこんなに美しいものを創らなかったならば、自分はけっして画家にはならなかったであろう」とも言っていた。また「自分が好む絵というのは、風景なら、その中を散歩したくなる作品だし、人物ならば、手をのばして愛撫したくなるような裸婦だ」とも言っている。

ルノアールはフランスの中央山地地方のリモージュに生まれたが、子供の頃、両親とともにパリに出て、13歳の時から陶器の絵付け職人として働いた。やがてグレールのアトリエで絵を学ぶことになり、モネやシスレーやバジルなどの印象派の画家と知り合うようになった。そして、印象派の第1回展にこの「桟敷席」が出品された。この展覧会自体は酷評されたが、ルノアールのこの作品は注目を集めたらしい。もうこの絵では印象派の他の画家たちが追求していた光の追及、つまり、物や人体に反射する光を色の斑点に置き換えて、空気の中に溶け込ませるという技術はすっかりマスターしてしまっている。しかし、やがて、この自然の明るい光をいっそう追求するうちに、物や人体の形が次第に光の中に消えてしまうという矛盾に気が付き、苦闘することになる。






リンゴとオレンジのある静物

ポール・セザンヌ(1839~1906年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  74×93cm  18951900







 昔の印象派美術館で、あるいは現在のオルセー美術館で、この絵を見るたびに、この絵の放つエネルギーに圧倒されると同時に、普通の静物画と異なるとまどいで、首をかしげ、何でこのような不思議な構図の絵を描いたのが理解に苦しんだものだ。
オランダの画家たちの静物画やスペインのスルバランの、あるいはフランス・ロココのシャルダンの静謐な静物画とはまるで雰囲気が違っていて、画面は燃えるような暖色の色彩で彩られている。そればかりか、リンゴの載った果物皿は上から見たものであるし、他の脚のついた果物皿は真横から見たもので、しかも左に傾いている。果物はどれもこぼれ落ちそうな不安定さであり、その下のテーブルクロスもジグザグな形をして、滝のようにずり落ちそうになっている。さらにテーブルはいったいどういう形をしているのだろう。普通の常識では考えられないような風変わりな静物画であることに気がつく。

ある時、セザンヌは「ひとつのリンゴでパリを驚かせてやりたい」と言っている。セザンヌは生涯に
800余点の油絵と約350点の水彩画とほぼ同数のデッサンを遺している。そのうち静物画は200点も描いているというから、いかにして静物画を重要視していたかがわかる。リンゴや机や椅子は動くことがないので、自由に自分の意志で配置ができたから、絵の構図をつくるのにもっとも適していたのかもしれない。
しかし、この「リンゴとオレンヂのある静物」を見た瞬間、われわれを驚かす衝撃はいったい何なのだろう。現代美術の新しい概念に慣らされているわれわれでさえそうなのだから、当時の人たちは本当に困惑したにちがいない。まったく正確なデッサンのできない下手くそな画家であるとみなしただろう。セザンヌは印象派の画家たちの主張には共感を得ていたが、何か欠けていると思った。「印象派から美術館に展示されているような堅固な絵をつくりたい」「自然を対象にしてプッサンのようなものを描きたい」と言って、自分の絵画課題に挑戦していった。
印象派が光と色彩の変化の魅力にとりつかれて、自然の断片に自分の気持ちを投影するあまり、形態や画面構成を無視してしまっているように思われたのだ。そこで過去の巨匠たちが描いたあの調和と均衡に満ちた絵を、明るい色調をそこなわないで取り戻さなければならないと考えていた。そのために静物画は単にリンゴやオレンヂをただそれらしく描くことを目的にしたのではなかった。リンゴもオレンヂも物の形として考察して、ひとつのキャンバスという平面の中に三次元の実体をどう写し換えるか、それが問題であった。

セザンヌはひとつひとつの物体をマッスに分解して、色面で幾何学的に構成し直すことをはじめていた。しかも色彩の暖色や寒色によって、立体感を現すことができることも発見した。そればかりではなく、ルネサンス以来、絵画構成の根本と考えられてきたひとつの視点から見た構図法の遠近法を無視して、いくつかの視点から見た実体を一つの画面の中で組み合わせて再構成することを思いついていた。

 印象派によって見すごされてきた堅固な形態を回復するためには、眼に見える現実を正確に写し換えるのではなく、もっとリアリティをもたせるために、対象をデフォルメして、現実をいったん頭で解釈して画面で再構成する必要があった。この精神はやがてキュビストたちに受け継がれ、さらにセザンヌの様々な他の試みも理解されるようになり、今日では現代美術の父と呼ばれている。






アルルの寝台

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890年)

国立ゴッホ美術館 (アムステルダム)


油彩・キャンバス  72×90cm  1888






 
なんでもない質素な部屋である。風景画というよりは静物画といってよいのかもしれない。しかし、この頃のゴッホの生活と心情を重ね合わせると、孤独で恐ろしく悲劇的な絵に見えてくる。この絵は18889月頃に描かれている。アルルの〝黄色い家〟を芸術コロニーにしようと、家具をそろえて仲間を呼び集める夢を抱いていた時であった。間もなくやってくるはずのゴーギャンにこの絵の構想を次ぎのように書いて送っている。
「‥‥のほかに、やはり部屋の装飾のために、僕の寝室を描いた
30号の油絵を仕上げました。君もご存知のあの白木の家具もいっしょです。まるでスーラーの絵のように単純で何もないこの室内を描くのは、たいへん楽しい仕事でした。色面は平坦ですが、大きなタッチでたっぷり塗られています。壁は薄い紫色、床は褪せたような粗い赤茶、椅子と寝台はクローム・イエロー、枕と敷布は薄緑がかったレモン色、毛布は血のような赤、化粧テーブルはオレンヂ、洗面器は青、窓枠は緑です。僕はご覧のおりこれらさまざまな色によって、絶対的な休息を表現しようとしました。白い部分といえば、黒い枠に囲まれた鏡の面だけです。君が来られたら、この作品も他のものといっしょに見て頂きたいと思います。
そしてそれについてお話ししましょう。というのも、僕はまるで夢遊病者のように仕事をしているので、時々自分で何をしているのか、自分でもわからなくなるからです‥‥」。

そして、
11月にゴーギャンがやって来た。その2ヶ月後にあの悲劇の〝耳切り事件〟が起こる。強度の精神錯乱によって、サン・レミの精神病院に入って療養することになるが、この時期から、ピストル自殺を図るまでの2年間に200点以上の油絵を完成させている。「星月夜」や「糸杉」などのリボン状の燃えるような激しいタッチと強烈な色彩の傑作の数々が生まれる。ゴッホはその病院で、この「寝台」を2度も描き直している。直したというよりも懐かしむように模写して残したのかもしれない。
1990
年にゴッホ没後200年記念展がオランダで開催され、この「寝台」3点が同時に展示されたのを見た。最初のものと次のものはほぼ同じ大きさで、最後のものは少し小さい。それは松方コレクションのひとつであったが、今はオルセーに所蔵されている。構成はほとんど同じで、色彩はかなり変化している。それは並べてみればはっきりわかるが、一点ずつ見たのでは正確に指摘できないであろう。それに加えて、クレラ・ミュラーの会場では248点にも及ぶデッサンが展示され、その中にも手紙に描いたスケツチとしてこの「寝台」が2点あった。すべて室内の家具類や鏡や、壁にかかっている絵も同じようである。
ゴッホの絵というのは粗いタッチで、いかにも速い筆運びのように見えるが、実は、最初はかなり正確に描写して、その印象を基にして、綿密に構成され、練り上げられたもののようである。同じこの「寝台」をいくつも見ると、これは頭の中でかなり整理され、暗記するほど脳裏に焼き付けられたものであることがよくわかる。しかも自分で説明しているようにきわめて鮮明な意図がうかがわれる。この頃からの多作を心配して弟テオが絵の質が低下するのではないかと手紙で忠告しているが、ゴッホは「仕事は速いということは真剣ではないということにはならない。それは制作する自信と経験による」と答えている。その自信とは遺された
1600点のデッサンが物語っている。ゴッホは無類のデッサン家であった。






白い馬

ポール・ゴーギャン(1848~1903年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  141×91cm  1898







 
ゴーギャンの絵を見る度に、すこし身構えて注意深くその絵の構成や色彩を確認するようにしている。ゴーギャンは私にとって、まだ危険な画家のひとりで、現代美術を解り難くした犯人のひとりではないかと疑っているのである。命をかけて、絵の革命をなそうとして孤軍奮闘したが、強い主張や遺された証文の魔法によって、意地悪く、いっぱいくわされているのではないかという疑念がそうさせている。そういう疑問の振幅が揺れるごとに逆にゴーギャンの偉大さに圧倒されそうでもある。
ポール・セリジェという若い画家に次のようにアドバイスをした。「この木はどんなふうに見えるかい。緑、それなら、君のパレットの中のいちばん美しい緑で描きなさい。影は青く見えるかい。じゃ、恐れず、思いきり青く描くのだ」また友人のシュネッケルには「自然をあまり率直に描きすぎてはならない。芸術は抽象なのだ。自然を前に夢想し、そこから抽象を引き出すのだ。大切なのはその結果としての創造であり、自然そのものではない」。

この「白い馬」というのは晩年の作品で、今はオルセーにある。ゴーギャンの改革したいろいろの要素を総合した名作のひとつであると思う。この絵を描いた前年には、あのそれこそ超大作の「我々は何処から来たのか、我々は何者なのか、我々は何処へ行くのか」を制作し終えて、自殺未遂を図っている。二度とフランスには帰らないと決意して再びタヒチにやって来たが、貧困と病気(梅毒)との闘い、愛する娘アリーヌの訃報などの心労が重なり、絶望の結果の事であった。

「白い馬」は極限を脱して、回復後間もなくのものである。達観したかのような調和に満ちた絵になっている。それでも絵はなお暗く重々しい。平板な色面によって画面は構成され、安定して緊密である。色彩は純粋な透明な色を拒否するように重々しい複雑ないやらしい色を使いこなしている。西洋文明を拒絶して、もっと深い根源的な美を探るためにやって来た南太平洋の島で体験した土着の自然から不思議な神秘を画面に定着させることに成功した。

  今から見れば、調和した安定した解り易い絵に見える。しかしその時代ではまだ理解されることは少なかった。事実、この絵の注文主はこれをキャンセルした。それは白い馬なのになぜ緑の馬になつているのか理解できなかったからだという。そういえば中心の白い馬はたしかに緑色であるし、上の馬は赤い馬である。川の水はコバルトブルーで、光って反射しているところがオレンジである。どれもこれも現実に見えるはずの色ではなく、非現実的な色を組み合わせている。注文主の素朴な疑問がわかるような気がする。
 印象派の影響から出発したセザンヌやゴッホやゴーギャンは印象派のあまりにも自然そのものを直写し、光の変化にこだわった結果、形態が不明確になり、表相的な現象面のみしか表現させていないことに不満をもっていた。セザンヌは普遍的な形態を重要視し、ゴッホは強烈な色彩で感情を表そうとした。ゴーギャンは形を単純にして、色彩に感情を盛り込み、光の分析によって点描化された手法をもう一度総合して大胆に力強い表現を望んだ。さらに現実の表面ではなく、その奥にある深い神秘的な世界を表そうとした。自然の写実を離れて、記憶や想像力によって、非現実的な抽象の絵画へと飛躍したのであった。この一歩こそゴーギャンの絵の革命であり、その後の美術に大きな影響を与えた。






踊るシャンヌ・アヴリル

トゥールーズ・ロートレック(1864~1901年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  86.5×45cm  1889年頃






 ダンスの一瞬の脚さばきを素早い筆運びで描き上げている。絶妙の素描力である。キャンバスの代わりに使ったボール紙の地肌がそのまま画面となっている。その材質感がまたこの場の雰囲気を生々しくしている。ロートレックは身のまわりのいろいろな素材の中から自分好みのものを選び出し、魔法のように生かし方を知っている天性のデザイン的センスを持っていた。この厚紙の上にテレピン油でうすめた「エッセンス絵具」で一気に筆をすべらせて描く手法も彼独特のものだ。
リトグラフによるポスターなどはグラフィックデザインというよりも芸術の域まで高めている。色彩もまた魅惑的だ。ロートレックは流れるような線を大切にした。エッセンス絵具を使ったのもそのためであるし、色彩による線描の効果を考えていた。ビンクとかブルーとか白い線はパリのモンマルトルの華やかではあるが物悲しい雰囲気を見事にかもし出している。

 さらっと早描きした素描風の絵ではあるが、踊り子の顔の表情や特徴は的確にとらえられている。このモデルはムーラン・ルージュの人気ダンサー、ジャンヌ・アヴリルである。彼女はイタリアの貴族とパリの高級貴族との間に生まれた私生児であった。子供の頃から、わがままな母親の虐待を受け、時には売春を強要されたりして社会の底辺で生い育った。サーカスの曲馬師を経て、ムーラン・ルージュに雇われるが、悲しげな淡い薄緑色の眼や顔立ちは不安な背徳的な魅惑をかもしていた。ロートレックはそういう心のかげりを秘めた彼女に特別に人間的な共感を覚えた。
 ジャンヌは踊りの名手であった。とくにスカートのすそをまくっての脚さばきは見ものであった。周りの売春婦たちは彼女を「気違いジャンヌ」と呼んで近づき難い存在であった。絵画や読書が好きで、客の中でも金持ちよりも芸術家たちの方が話が合った。他の踊り子たちとは違って、白い下着をつけず、色物のタイツをはき、衣装との色合わせにもアカぬけたセンスをもっていた。彼女がムーラン・ルージュを出て、シャンゼリゼの新しいキャバレーに出演することになった時、ロートレックはこの愛すべき踊り子のためにデビューを祝ってポスターをつくってやった。それが世紀の名作ポスター「シャンヌ・アヴリル」の誕生となったのである。このポスターによって、彼女もまたパリの夜の大スターとなった。
 ロートレックは1864年フランス西部アルビの貴族の家に生まれた。14歳の時に2度にわたる事故で、下半身の成長が止まってしまうという不幸に見舞われた。140センチにも満たない小人となり、身体的な不自由さばかりでなく、人々の好奇な目やあざけり、偽善的な憐れみにも耐え、屈折した人生を送るべく運命づけられていた。18歳頃にパリに出て絵画の修行に入り、画塾ではエミール・ベルナールやゴッホなどにも出会う。他の前衛的な芸術家とも親交をもつが、決して最前線に立つことはなかった。
 エッフェル塔がパリの新名所となった頃、モンマルトルに新しいキャバレーができはじめ、酒と踊りで沸き立つ大歓楽街となった。ロートレックはそのモンマルトルにアトリエを借り、夜のいかがわしい世界に浸った。毎夜のごとく、ナイトクラブやダンスホールに通い、役者や女優とつきあい、放蕩三昧生活を送った。それでもたえず、スケツチブックを持って歩き、友人や親しい仲間たちを鋭い眼で観察してこれを描き留めていった。しかし、30歳頃からアルコール中毒で体調をくずし36歳で失意のうちに亡くなった。






サーカス

ジョルジュ・スーラ(1859~1891年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス 185.5×150cm  189091






 
実物はかなり大きい。すべて色彩の点で描かれている。これがスーラの最後の作品で未完である。不思議なのはこの作品は点描が画面からはみ出して額縁までびっしりと埋められている。額縁も絵の一部となっている。その奇異さがオルセーではひときわ目立つ作品のひとつとなっている。スーラの絵というのは人物にしろ風景にしろ静止した静寂さが特徴的なのだが、この絵は動きを表現している。
 サーカスの馬乗りの曲芸であるから、まさにもっとも動きの激しい対象を意図的に選んだのであろう。すこし離れてみると、額縁も含めてちょうどテレビの画面を見ているような気持ちになる。うしろ向きになっているピエロの大きな姿がいっそうそういう感じを強めている。サーカスの舞台は赤と黄色の点が基調で、観客席は黄と紫の点で描かれている。観客席は水平と垂直線によって、人物その他は曲線、円、楕円などで構成されていて、観客席のに対してサーカスを演じる馬や人のを対比させることによって、いっそうダイナミックさをきわだたせている。
 この絵はスーラの突然の死によって未完成に終わっているから、この先、どう展開するかわからないが、友人への手紙には背景はもう完了していると記している。
 スーラは印象派風の筆触で光の微妙な調子の絵を描いていたが、「アニェールの水浴」と2年間もかけて完成させたあの超大作の「グランド・ジャット島の日曜の午後」で飛躍的な発展を遂げた。スーラは印象派の絵に敬意をはらっていたが、感覚や印象を伝えてはいるが、どこか漠然としていて不満であった。もっと古典絵画のように統一的な堅固さをとり戻さなければと常に考えていた。
 スーラは印象派の画家たちのように直接戸外に出て、自然を自分の眼で観察してスケッチをしたが、本番のキャンバスに描く時はアトリエで描いた。たくさんのスケッチを基にして部分の下絵を何枚も描き、実際のキャンバスに描く時は入念に構想を練り、すべて計画どおり巧みに配置して描き込んだ。現実の光景から想像の世界の虚構を創り上げたのである。「グランド・ジャット島」などは30点以上の油彩の習作がつくられている。このような独自な制作方法をとると同時に、スーラは自分の絵の中に科学理論を取り入れた。シュヴルールという人が書いた「色彩の同時的対照に関する研究」という本で、視神経は色彩を隣り合わせに置くと第三の色彩が網膜上につくり出されるということを知り、この理論に忠実に色の点を画面に並べることによってこれを実現した。
 この「サーカス」という絵もその理論を具現化したものだが、額縁まで色の点で描き込んだのは、この絵を飾る壁面やカーテンが絵の色と混合して本来の色と別のものに見えることを警戒したためであった。それほど厳密に色彩の科学を画面に視覚化した。さらにスーラは美学の理論から線の傾きによっていろいろな感情表現ができることも学んだ。この絵の曲線の構成もその理論を適用している。
 スーラは財産があって暮らしには困らなかった。自尊心が強く、極端なはにかみ屋で秘密主義であった。この厳格で勤勉な彼のことをドガは「公証人」とあだ名していた。31歳の時、この「サーカス」をアンデパンダン展に出品中、流感にやられ、髄膜炎で亡くなった。
 実際の制作期間は11年で、ほとんど休みなく色の点を打ち続けて燃え尽きた。あとには秘密の妻と生まれたばかりの男の子が遺された。






灰色と黒の構成(母の肖像)

ジェームス・マックネィル・ホイッスラー(1834~1903年)

オルセー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス 144.1×162.6cm  1871






 
ホイッスラーの絵は数点しか見ていないが、このオルセーの「母の肖像」とロンドンのテイトギャラリーにある「オールド・バッタシー橋」の2点はしみ込むような深い感動を受けたので、とくに鮮明に記憶に残っている。それにしてもこの「母の肖像」はなんというすばらしい作品なのであろう。年老いた母をモデルにしているが、正面を向いた普通の肖像画とは違っているし、美しい若い婦人像であれば素直に美しいと感じてもあたりまえなのだが、この作品はそういう美しさとは異なっている。
 洗練された格調の高いノーブルさをこの画面から受ける。描かれたものは非常にシンプルである。何一つ克明に描かれたものはない。カーテンの模様にしても、母の顔にしても、最小限のスケッチ風タッチで、すべてが整理簡略化されている。画面全体から見れば、ほとんど面と面の構成で、しかも黒と灰色の面で配置されている。この色調がまた渋く、同系色のハーモニーを奏でている。この絵の別名「灰色と黒の構成」そのものズバリである。
 ホイッスラーはアメリカで生まれ、ロシアで少年時代を過ごし、21歳でパリに渡り、ロンドンを拠点として活動した画家である。知的で静かな格調の高い絵を描いていたが、人物は派手な服装で人目をひいた、変わり者であった。1877年、伝統的な芸術を守るロイヤル・アカデミーに対抗するように開設された新進のギャラリーの展覧会にホイッスラーの「黒と金のノックターン‥落ちる花火」(表示価格200ギニー)が出品された。この時、イギリスの美術評論家のジョン・ラスキンが「‥‥伊達男が公衆の面前に絵を投げつけて200ギニーも要求するとは思ってもみなかった」と酷評した。この評にホイッスラーはカンカンに怒り、名誉毀損で告訴した。この裁判で「たった2日で描いた」ものを本当にあのような法外な値段をつけたのかと尋ねられたのでホイッスラーは答えた。「いや、一生のうちに会得するものの代価なのです」と。
 ホイッスラーの絵は簡略化され、最小限の色面とタッチで構成されていたために粗雑な未完成の絵として見られたのかもしれない。ラスキンの支持していた画家たちは細部の仕上げを重要視した細密描写の画家たちだったので、その常識ではホイッスラーの絵画的追及の意味が理解できなかったのだろう。
 ホイッスラーは「芸術はいっさいの夾雑物から独立自立して、目や耳の美的感覚とはまったく無縁の献身、憐れみ、愛、愛国心といった感情的なものと混同すべきではない。こういうものは芸術とは関係がないのだ。私が自分の作品を〝アレンジメント〟や〝ハーモニー〟と名付けるのはこうした理由によっている」と自分の芸術観を語っている。
 絵画はまず視覚体験なのだ。「作品の制作過程をたどれるような痕跡がすっかり消えるまでには、絵はほんとうに完成したとはいえない。完成した絵とは、画家の頭の中に構成された最初のビジョンを完璧に再現したものである」。技を隠すのが真の技である。ホイッスラーのラスキンに対する訴訟は票決ではホイッスラーが勝ったが、裁判費用がかさみ、破産状態に陥った。けっして名誉を回復したわけではなかったが、晩年になって作品の価値が認められるようになった。
 グラスゴー協会が「トーマス・カーライルの肖像」を1000ギニーで買い上げ、フランス政府がリクサンブール美術館に納入する目的でこの「母の肖像」を購入した。さらにレジオン・ドヌール勲章も授けられた。






出現

ギュスターヴ・モロー(1826~1898年)

ギュスターヴ・モロー美術館 (パリ)


油彩・キャンバス 142×103cm  1876年頃






 
パリの9区、トリニテ教会のすぐ近くにモローの個人美術館がある。ふつうの家並の一角にあるので、通り過ぎてしまいそうな目立たないところで、入口のベルを押すと受付の人が扉を開いてくれる。作品が展示されているのは主に3階と4階で、ちょっと珍しいらせん階段を昇ると壁面に一部の隙もないくらい、びっしりと絵が飾られている。もともとこの美術館はモローが死ぬまで住んでいた住居で、生前から自分の画稿やたくさんの作品が散逸することを恐れて、将来、美術館として機能するよう私財を投じて改築してあったものだ。
 モローは博学で勤勉な画家であった。小柄で繊細な神経の持ち主で、内向的で夢想家であったようだ。生涯独身で過ごしたが、母と同居し、親密であった。50歳半ばからはほとんど公的な展覧会には出品せず、もっぱら自宅にこもって、隠者のようにひっそりと自らの美の王国に住んだ。72歳で死去した時には、油彩797点、水彩575点、デッサン7000点にものぼる膨大な作品が遺されていて、これらすべてを分散することなく、総体として保管することを条件に国に寄贈するという遺言がなされていた。
 画家である親友のアンリ・リュップにその遺言の執行人として話したが、一部の人たちには知られているものの公的にはまだ十分に認められていない私個人の美術館を国立で運営することはなかなか許可されなかった。結局、モローの遺産のうち47万フランを当面の運営費として投げ出すことによって、ようやく美術館の開館となった。その初代館長に推されたのはモローの愛弟子ルオーであった。
 この「出現」という絵はその美術館のすべての作品のなかでももっとも有名な代表作のひとつである。もっともこの美術館はあまりにもたくさんの絵を飾り過ぎていることと、モローのあの独特なゴテゴテした絵具のタッチの異様な色彩の強烈さによって、多少ウンザリするような雰囲気の中にあるので、実物を見る前に期待したような印象ではなかった。
 この絵は1876年のサロンに出品されている。その時には、もうひとつの「出現」の水彩画も同時に展示されていたという。画集の図版ではしばしば紹介されているが、どちらかというと水彩画の方がずっと出来がよいように思われる。事実、このサロン展を見たユイスマンスは小説「さかしま」の中でこの水彩画を絶賛し、「いかなる時代にも、水彩画がこれほど絢爛たる華やかさに達したことはない‥‥織物や肉体の豪奢をこれほど奇蹟的にかつ眩惑的に誇示したこともない」と語っている。
 この油彩の方は大きいが、サロメの着ている衣装や背景の人物などはかなり省略されている。不思議なのは画面にレースのような白い線描で描かれた模様である。他の作品の「踊るサロメ」ではそれが裸のサロメの肉体にまで描かれていて、別称刺青のサロメとも呼ばれている。こういう手法は未完成の作品のような印象を与えて、いっそう幻想的な効果を高めている。
主題のサロメの一節は聖書の中に出てくる。踊るサロメが、その踊りの報酬としてヨハネの首を所望するという場面だ。その首が虚空に浮かび上がったという想像を絵にした。「私は自分が手に触れるもの、眼に見えるものも信じない。私は眼に見えないものだけを信じ、心に感じるものだけをひたすら信じる。‥‥‥私には私の内面の感情だけが永遠で、まごうかたなくたしかなものに見えるのだ。」と言って、モローは合理的な実証主義に強く反発していた。






沼の花、悲しげな人間の顔
版画集「ゴヤ讃」より

オディロン・ルドン(1840~1916年)

パリ国立国会図書館 (パリ)


リトグラフ 29×23.8cm   1885






 
これは1885年に制作された版画集『ゴヤ讃』の6枚シリーズの中の一枚である。それぞれにタイトルが付されていて、それらを読み合わせるとひとつの詩のようでもある。このタイトルは「沼の花、悲しげな人間の顔」となっている。ゴヤの晩年のあの幻想的な作品がようやく評価されるようになって、ルドンも大いに啓発されたのであろう。この絵は一見して、奇妙な絵である。いったいどうしてこのような奇態なイメージが想定されるのであろうか。
 暗闇の荒涼とした沼に一本の不思議な花が咲いている。その花は人間の顔をしていて、それが老人のようで、孤独で悲しげな顔だ。ところがその顔自体から光を発していて、不気味な闇の世界をほのかに照らしている。非常に印象深い絵で、一度見ると忘れられないほど強烈なインパクトをもった絵である。
 ルドンはこの頃ずっと、木炭デッサンや石版画で白と黒の暗い絵を描き続けていた。もともとルドンは印象派の絵に対して批判的であった。第4回印象派展を見た感想として次のように述べている。「このような描き方はそれが青天井のもとにある外的事物の表現に適用された場合はきわめて正しいものだ。私にはわれわれの住いの外でおこるものばかりを考慮に入れるというような考えを抱いていては、おのれの心に耳をすまし、思いに沈んでいる人間の顔の下で慄えているいっさいのもの、つまり、あるがままの姿でとらえられた思想は充分に表現されているとは思えない。生の表現はもっとちがった現れ方をする。それは薄暗がりでこそ現れるのだ。考える人は闇を好む。まるで彼らの頭脳が闇の中にその活動領域を見出しでもするかのように、彼らは闇の中を散策し、闇を楽しむのだ」。
 このようにルドンはモネや印象派の画家たちが目を開いて外側の世界を見たのとは逆に、ルドンは目を閉じることによって人間の内面の世界に入り込んで、記憶や無意識の世界を見ようとした。このような印象派の絵に対する批判に至って、闇の世界に執着するようになったことにはルドンの自身の気質と特異な体験があった。
 ルドンは生後二日目には叔父に預けられ、それが地方の農園で、ほとんどいつも独りで過ごさねばならない孤独な幼児期があった。「子供の頃、私は影を探していました。カーテンの下に隠れて、深い不思議な歓びを得たことを覚えている」と言っている。
 白昼の世界のほかに神秘的な闇の世界があることをはやくから感知していた。さらにルドンに決定的に影響を与えたのは、優れた植物学者クラヴォーと、謎の版画家ブレダンとの邂逅であった。クラヴォーからは自然の独特の解釈法を学び、文学にも関心を向けさせた。ブレダンからは物を観察する時、想像力を働かせて架空の異様な主題を見つけるようにしなさいと忠告を受け、エッチングや水彩画法の技法を学んだ。
 ルドンは現在では近代フランス画家では、最も優れた版画家としても評価されているが、最初は特別に版画を追及しようとしたものではなかった。パリの社交界で知り合ったファンタン・ラトールから、その頃描きためていた木炭画が転写紙に石版用クレヨンで転写すれば、その木炭画と同じような複数コピーができることを教わったからであった。
 しかし、この黒と白の表現方法に次第に熱中するようになり、以後20年に渡って、このリトグラフ(石版画)を制作し続けて、奇怪で恐怖に満ちた連作版画集の傑作のいくつかを生み出すことになった。






接吻

グスタフ・クリムト(1862~1918年)

オーストリア美術館 (ウィーン)


油彩・キャンバス 100×180cm  19078







 
クリムトのもっともポピュラーで人気のある代表作。この絵の実物を実際に見たのは、ウィーンの南、すこし小高い丘の上にあるベルヴェデーレ宮殿。今はオーストリア美術館となっている黄金色に輝くバロックの館を訪ねてのことであった。一面が雪景色で、小雪の降る日、この庭園のひとすじの道をとぼとぼ歩いてたどり着いた。3階にはエゴン・シーレやココシュカが展示され、この絵の飾ってあるクリムトの部屋はまさに世紀末のウィーンの爛熟と退廃の妖気につつまれていた。
 画面は予想していたよりもはるかに大きかった。全体は平板な模様で、わずかに男女の顔と手足が具体的な形をしているが、それも最小限の輪郭線によって単純化され、きわめておおざっぱなものであるが、その画面はきらめくような黄金色が基調になっていて、宝石をちりばめたような華麗な模様となっている。まことに絢爛たる色彩の交響楽である。このような洗練された装飾感覚というものはもって生まれた天性のものであろう。
 もっともクリムトは若い頃からウィーンの重要建築物の壁画をつぎつぎに制作しており、壁画装飾については修練を積んで熟知していたし、ビザンティンのラヴェンナであの豪華絢爛たるモザイク美術に触れて、ガラスや大理石を漆喰に埋め合わせ、遠くからでも絵柄がはっきりわかるような単純な画面づくりに強く影響を受けていた。さらに背景に見える金箔にしても実際に金箔を貼ったものではなく、そのように筆で描いたもので、これも日本の障屏画から学んだもののようである。
 いかに単純で華麗な模様のような絵であったにしても、この絵は単なる装飾ではなく、クリムトの本質的テーマがこの絵の中に組み込まれている。楽園のひとかたまりの花園の中で、男は女を抱きしめ、女はどこか恥じらいの表情を見せて、男の愛情を拒むようなしぐさが見えるものの二人の肉体がひとつに溶け合って、恍惚の状態を描いている。このような甘い官能的な悦楽の世界を象徴的なイメージとして優美に描いてはいるものの画面全体から受ける印象はどこか頽廃と耽美にひたる不安な影を漂わせている。この「接吻」というモチーフは他の絵でもしばしば用いており、クリムトにとってはよほど重要な意味をもったテーマであったのだろう。
 クリムトは女性をモデルにした絵をたくさん描いている。その肖像画はどれも魅力的で、たいへん人気があったので、モデル志願の女性がたくさん彼のアトリエに出入りした。アトリエの隣の部屋にはいつもたくさんの女性がたむろしていたので、さながらハーレムのようであったと言われている。クリムト自身も無類の女好きであったらしく、美しい女性を見れば、つけまわし、ある時はウィーンでも有名な美女をヴェネツィアまで追っかけ、自分の恋人になってくれるよう懇願したほどであった。この願いは受け入れられなかったが、クリムトは生涯一度も結婚したことはなかった。  しかし、クリムトには27年間にわたって一心に愛した女性がいた。ウィーンで高級洋装店を営んでいた義妹のエミリー・フレーゲという女性で、彼はその店のドレスのデザインをして、彼女はクリムトのモデルとなり、ほとんど毎年夏になると彼女とその家族とともに保養所アッター湖畔でバカンスを楽しんでいた。
 くりかえしくりかえし執拗とも思えるほど描いた女性の中にクリムトは何を見ていたのであろうか。温厚で友人たちと親しく交際はしていたが、世に知られることを避け、自分の芸術について多くを語らなかった。






生に疲れし人々」

フェルディナント・ホドラー(1853~1918年)

ノイエ・ピナコテーク (ミュンヘン)


油彩・キャンバス 150×295cm  1892






 ホドラーという画家は日本で紹介されることの少ない画家のひとりであろう。ところがこの画家の大展覧会が1975年に国立西洋美術館で紹介されている。もちろん私もこのこの画家の作品をまとまって見たのはその時がはじめてで、この特異な画風に少なからず衝撃を受けた。あの問題作の「夜」という作品は保存状態が悪く、ベルンから移動させることができないという理由で出品されなかったが、他の代表作である「昼」や「調和」は展示されていた。しかし、私にいちばん印象に残っているのはこの「生に疲れし人々」であった。
 それも今から思えば単純な動機で、絵の内容が余りにも深刻で重々しいのと、この絵の形が横にすごく長くて大きい平面的で単純な作品なので、ひときわ目立っていたからでもあった。それから十数年後にミュンヘンのノイエ・ビナコテークでこの絵と再び対面することになった。今度はかなり注意深く観察することができたが、実はミュンヘンのこの絵は、先に日本で見たのとは違っていて、この絵の同じ図柄のものが2点あるということがわかった。ミュンヘンのものは大きく最初に描かれたオリジナルで日本に来たものはそのコピーらしい。それでも二つとも内容はほとんど変らない。
 かなり年輩の男たちが白い壁を背にして、長いひとつの簡素な椅子に坐っている。中央のひとりの男だけがやや体を傾けて、腕をたらし、左肩を落として、衣服も腰の部分以外は露出し、足も素足のままの状態で描かれているが、他の4人は衣服もほとんど同じで、顔をややうなだれて深刻な表情をしている。細やかな顔の表情はそれぞれ異なるが、この男たちの全体をおおざっぱに見てみると、中央の男の変則的なポーズを中心に、衣服や白い髭、そして黒い髭が交互に左右対称となっている。これは同じパターンを繰り返すことによって、強い印象を与えようとする、かなり計算されたこの画家独自の手法なのである。
 ホドラーは芸術の使命は自然の永遠の構造を直視して、その中の本質的な美の要素を引き出し、それを強調して表現することだと言っている。そしてまたこのような態度からホドラーは次のような原理を説明している。
 「私はいろいろな種類の反復をパラレリズムと呼ぶ。私は自然の中にある事物の魅力をしばしば最も強く感じるとすれば、それは常に統一性の印象によってであろう。樹木が天に向かって高くそびえる。樅の繁る森を歩いていると、私は左右に数えきれないほどの円柱として樹木を見ることになる。同じ垂直の線が、何度も私をとり囲む。‥‥‥その統一性の印象を私に規定している原因は、そのパラレリズムである。数多くの垂直線が、たった一つの垂直線、あるいはひとつの平らな平面として作用する」。
 要するにホドラーは自然の構造の骨格を左右対称性や反復作用として形態の調和を重要視している。この絵も死を目前にした絶望的な人間を、5人の男たちのパターンを反復させ、対称的に並べ、圧倒的な迫力でその厳粛な事実を訴えようとした。つまり、彼の主張するパラレリズムの具体的な適用例のひとつといってよい。
 ホドラーはスイスのベルンに生まれ、生涯のほとんどをジュネーヴで過ごした。彼は職人の貧しい家庭に育ち、6人兄弟の長子で、弟妹たちはすべて幼少のうちに結核で死に、指物師であった父親も32歳の時にやはり、肺結核で死去し、料理人や洗濯婦として家計を支えていた母親もホドラー14歳の時に失った。「あたかも死が絶え間なくわれわれの周りを彷徨っていたようであった」と回想している。






マドンナ

エドヴァルト・ムンク(1863~1944年)

オスロムンク美術館 (オスロ)


リトグラフ 150×295cm  18951902






 
ムンクはアル中と神経衰弱のため8ヶ月の療養生活を送り、それ以来これまでの放浪生活にも終止符を打って、晩年は、エーケリーにある自宅にこもって、孤絶した日々を過ごした。194480歳でこの世を去ったが、その自宅には〝私の子供〟と呼んだ20000点に及ぶ作品が遺されていた。そのすべては彼の遺言によってそっくりオスロ市に寄贈され、今はムンク美術館となって、そこに所蔵されている。  おそらく生前にはそんなに作品は売れていなかったのではないかと思われる。したがってムンクの作品を見る場合にオスロに行かなければならない。残念ながら、まだ私はオスロに行っていないので、本当にムンクを理解していないのかもしれない。しかし、幸いにしてムンクは版画をたくさん作っている。
 ムンク自身、油彩画よりも版画の方が売り易く、世に広まると考えて、かなり熱心に制作している。その予想にたがわず、版画展は何度も東京で開催されているのでその都度拝見させていただいている。
 この「マドンナ」という作品は全版画の中でも絶品のひとつであろう。図柄が非常に単純なのだが、受けるイメージは強烈である。豊満な胸、そしてややくねらせるような腰、うつろな眼、すこし開かれた唇など成熟した女性の陶酔した愛の法悦の瞬間を思わせる。とくに長い髪とそれを取り囲む渦巻くような曲線は異様な精神の苦悩を感じさせる。さらにこの絵の中に描き込まれた額縁は何だろう。精子と死相をもつ胎児が装飾模様となっている。
このリトグラフの「マドンナ」の最初の図柄は油彩画であった。その絵は今オスロにあるが、この絵柄は後に同じ油彩画のレプリカとして、あるいはエッチングでも繰り返し描かれている。最初の油彩画には精子と胎児が装飾された本物の額縁がついていたそうだ。それがどこかで紛失してしまったので、このリトグラフには絵の中に組み入れてしまった。この絵のテーマにはどうしても必要だったのだろう。これによって魔性の女、愛と死、受胎の瞬間のエクスタシーの関連が完結する。ムンクはこの「マドンナ」について次のような言葉を記している。

この世のすべてが動きを止める束の間

お前の顔に地上の真のすべてが宿る

熟した果実のように朱いお前の唇が

苦痛の耐えかねるかのように開く

その屍の微笑

今や死の手が生に触れる

鎖はつながれ、今は亡き幾千の種族が

後の世の幾千の世代と結ばれる

ムンクは生まれながら感受性の強い子供であったが、その幼年期から重なる悲運が彼に襲い続けた。5歳の時、母親が結核で亡くなり、その頃から父親が異常な精神状態となり、14歳の時に今度は姉が2年間も闘病の末、死亡。さらに弟もはやくこの世を去り、妹は精神分裂症で入院し、ムンク自身も気管支炎とリューマチ熱に苦しみ、絶えず死と隣り合わせであった。「病気と狂気と死が私のゆりかごの番をする黒い天使であり、生涯私につきまとって離れなかった」と後年に記している。
 ムンクは女性との交際は多かったが、一生結婚しなかった。35歳の頃、ワイン商の娘と出会い、一緒に旅行をし、生涯を共にしたが、強く結婚を迫られ、とっさにその女性が銃をとって発砲し、制止しようとしたムンクの左中指を砕いてしまったという事件を起こしている。
 ムンクは自分の苦難の人生の体験から、人間の奥底の感情、不安や苦悩、狂気や絶望に関するイメージをわれわれに強く訴えた。






眠れるジプシーの女

アンリ・ルソー(1844~1910年)

ニューヨーク近代美術館 (ニューヨーク)


油彩・キャンバス 129.5×200cm  1897







 
ルソーは40歳ごろまでパリ市の入市税関で働いていたので、「税関吏ルソー」と呼ばれていた。あるいは「日曜画家」とか「素朴画家」「本能の画家」というようなまったく素人画家の代名詞のように聞こえてくる。もっとも退職してからも、わずかな年金で細々と15年もただ絵を描くことと趣味のバイオリンをひくこと、あるいはそれらを教えることで、かろうじて生活を支えていたのであった。サロン展ではいつも落選でアンデパンダン展に出品したが、そこでも嘲笑の的となっていた。しかしルソー自身は自分の絵には絶対の自信を持っていた。ルソーは実際に絵をつくる約束事には無頓着であり、子供のような無邪気さで絵を描いているように見える。この「眠れるジプシーの女」という絵はルソーの絵の中でも特異なものかもしれない。しかし、ルソーのもっとも本質的なものが直截に表現された絵であるように思われる。この絵は印象派風の絵の描き方をしていない。ルソーはアカデミーに通ったこともなく、正規の絵画教育を受けていなかったが、美術学校の教授ジュロームを尊敬し、いくらかのアドバイスも受けたことがあった。
 この絵の絵具の塗り方は、印象派のタッチというよりも非常に入念に、なめらかに仕上げられている。手法はきわめてアカデミックなのである。一見、まったく素人画家のように見えて、なかなか計算された絵なのかもしれない。「道に迷った黒人女がマンドリンと水瓶を傍らにして、疲れ果てて眠り込んでいる。そこにライオンが通りかかって、彼女の匂いを嗅いでいるのですが、食べはしません。それは月の光が余りにも詩的なせいなのです」と、ルソーはこの絵の説明をこのように書いて、生まれ故郷のラヴァル市に買わせるように働きかけた。2000フランを1800フランに値下げをして交渉したにもかかわらず、市はこの絵を買わなかった。あまりにもこの主題のジプシー女とライオンの出会いが非現実的なためか、常識人たちには受け入れられなかったのであろう。
 ルソーの絵からはこの画家はいかにも純粋そうな人物が想像される。ところが以外にしたたかな面も見られる。若い頃、勤務先から25フランの切手を盗んだとして1ヶ月の禁固刑を受けている。後年にも銀行詐欺事件を起こしている。あの熱帯密林シリーズのイメージはメキシコの密林から受けたものだと広言していたが、実際にはメキシコに行った事実はなかった。それはパリの植物園に通って得たもので、自分の好きな植物だけを配置して構成したものであった。さらに他の絵に出てくるたくさんの動物も、百貨店発行の『野生動物』と題する本の中から自分の絵に必要な動物の写真を簡単に盗用している。だからといってルソーは安易なデザイナーのようにただ切り貼りをしていたのではない。彼の数少ないデッサンは、どれほど自然の植物や動物を綿密に観察していたかをうかがわせる。ルソーはただ純朴なわれわれが想像している素人日曜画家というよりも、もっとずる賢い人物のように思われてならない。実際に実物の絵を見ると、一見幼稚な絵のようだが、自然の生命の輝きが生き生きと伝わってくるようなリアリティがある。
 このルソーの絵を数少ない人たちが理解しはじめていた。それはルソーの友人である詩人ジャンを通じて知り合ったアポリネールやピカソたちであった。そしてピカソが敬意を表して自分のアトリエで著名な知識人や芸術家たちを集めてパーティを開いて、この偉大な芸術家を紹介した。
 しかしそれは、ルソーが65 歳で死去する前年のことであった。






浴槽の中の裸婦

ピエール・ボナール(1867~1947年)

プチ・パレ美術館 (パリ)


油彩・キャンバス 92×147cm  1936







 ゆったりと手足をのばして浴槽に身を沈めている裸婦。どこからか差し込んでくるやわらかい光と浴槽から出てくるかすかな湯気で、周辺のタイルが宝石のように輝く。黄色や青色や紫色が混じりあって、震えるような幻夢的な世界を表出させている。日常のなんでもないひとときの光景なのだが、ボナールはこのテーマを1925年頃から死ぬまで25年間も何度も挑戦し続けている。
 モデルとなっているのは妻のマルトで、彼女はまた入浴が大好きで、一日のほとんどを浴室で過ごしたともいわれている。マルトはミステリアスな女性であった。小柄で控えめな女性であったが、気難しく、孤独癖が強く、病弱な体質で、所有欲と嫉妬心のエキセントリックな激情によってしばしばボナールを困らせたが、そんな彼女をボナールは深く愛していた。彼女の健康を気づかい、そのために気候のよい南仏に別荘を買い、幾度となく転地したが、たえず二人きりで暮らした。
 マルトというのは本名ではなく、おとぎ話のなかからとくにロマンチックな名前を借用したものだった。ボナールが彼女の本名を知ったのは最初の出会いから30年後のことであったし、ましてや生い立ちや出生についてさえはっきりと知らなかった。そんな厄介な妻でも、彼女が亡くなった時には、ボナールはあまりにも大きな悲しみのために、彼女の部屋に鍵をかけて、自分はすっかり自分自身の中に閉じこもってしまった。
 このマルトの入浴姿を20年も追求し続けたにもかかわらず、「もうこんなにむずかしいモチーフは手掛けるまい。どうしても期待した効果がうまく出てこない。もう半年もやっているが、まだ数ヶ月もかかる」といいながら死の直前までこのテーマと取り組んでいる。一見なんでもないようなこの絵でボナールは何を追及していたのであろうか。
 ボナールは、父親が陸軍省の局長クラスの役人で、なに不自由なく育った。法律を勉強して父親のように役人になるつもりでいたが、同時に好きな美術学校にも通い、ついに画家を志すようになった。その美術学校で知りあったモーリス・ドニなどのナビ派の画家たちと活動することになるが、日本の浮世絵に強い影響を受け、「ナビ・ジャポナール」(日本風ナビ)とあだ名されるくらい、装飾的センスを発揮する。
 ボナールの色彩は印象派の色彩とは異なっている。ボナールは自然の一部をそのまま正確に再現するようなことはしなかった。一度も戸外で写生することもなく、画架を立てたこともなかった。自然を細かく観察したがメモをとるぐらいで、アトリエに帰ってから、自分の感覚の記憶を通してう浮かぶイメージにしたがって描いた。それでも戸外で描くよりもはるかに自然の実相をとらえたリアリティのあるものであった。
 おそらく「浴槽と裸婦」というテーマは、最初の動機は愛妻のマルトというモデルのもつ官能や情趣にひかれて、ポーズや構成に興味をもったのであろうが、そのうち、光の織り成す色彩のハーモニーに関心を深めていったようだ。
 現実の色彩や光にはかならずしもこだわらず、自分の好みの色をさまざまな組み合わせで、満足ゆくまで追求し続けたのだろう。「色彩そのものは形態(フォルム)と同じくらい重要な主張をもつ」と断言している。この「浴槽の中の裸婦」はそのような追求のひとつの到達点であった。その意味で「色彩の魔術師」と呼ばれ、ゴーギャンの色彩についての主張をおしすすめ、極端な色彩の単純化をはかったマチスへの中間的な役割を果たした。






王の悲しみ

アンリ・マティス(1869~1954年)

パリ国立近代美術館 (パリ)


切り紙絵  292×396cm  1952








マティスは私にとっては好きな画家のひとりではあるが、同時に危険な画家のひとりでもある。なるほど、色が明るくて、あかぬけたきれいな色で、単純で明瞭な心やすまる心地よい絵ではあるが、何か大きなものを失ってしまっているように時として考えてしまう。現代とはこういう時代なのだと割り切ってしまう必要があるのだろう。
 1977年、パリのレ・アール地区に突然鉄骨とガラスとチューブでできた何か工事現場そのままのような奇抜な美術館ができた。20世紀を展望できる大殿堂である。その5階にパリ国立近代美術館が移された。その入口の真正面にこのマティスの「王の悲しみ」という、とてつもなく大きい切り紙絵が飾られている。
 マティスは生涯2度病気で手術をしている。その2度の手術は偶然にも芸術上大きな転機となった。最初は21歳の時で、盲腸を手術したが、その時から油絵を描きはじめた。2度目は72歳で、腸閉塞の手術を受け、奇蹟的にも回復した。その後、ベッドと車椅子の生活を続けねばならなかった。晩年の一連の「切り紙絵」はこのような状況の中で生まれた。
 マティスの切り紙絵はまず、数葉の紙を単色のグワッシュで塗る。次に一種類または数種類の色を手塗りして、形を切り抜いて絵の表面にのり付けをする。マティスはベッドの中、あるいは車椅子なので助手がマティスの指示に従って、アトリエの壁面に貼られた大きな台紙の上にピンで留め、配置が決定されるとのり付けしてゆく。マティスが長い棒を持って、ベッドから助手に指図しているスナップ写真はこの作業工程を証明しているが、貴重な記録で、しかもなかなか絵になる一枚である。安易にみえるこういう絵の作り方は、ブラックやピカソのコラージュの手法にヒントを得たものであるが、マティスにとっては、自分の絵画思考の課題をひとつずつ達成した後の結論なのであった。
 「王の悲しみ」は今や少し色あせたようだが、それでも単純な色と形を自在に組み合わせ、その色の鮮やかさは目もくらむばかりで、医者がサングラスをかけたほうがよいと忠告したというエピソードも伝えられている。 「切り紙絵は色彩で描くことを可能にしてくれた。私の手間を省いてくれたのだ。輪郭線を引いてから何かに色を置く(これだと一方が他方を規制することになる)代わりに、いきなり色彩で描くことができるのである」とマティスは切り紙絵について語っている。
 マティスの色は具体的な形に関係しているが、物の固有な色とは関係がない。自分のつくろうとする形と色に、必要だと思ったものを感覚に忠実に選び出し、全体を調整してゆく。その意味で感情を表すために必要な色を重要視する、ブラマンクやゴッホなどとは異なる。
 マティスはまた自分の絵の目的について次のように言明している。「私の夢みる芸術は危なげない均衡のとれた純情で静かな、いわば精神を鎮める鎮静剤のような芸術である。安定のいい、心もちのいいフォート(安楽椅子)のような芸術である」と。また色彩について、「私の使用する色彩は互いに壊しあうことのないように均衡が保たれていなければならない。色彩間の関係は互いに争わず互いに擁護されなければならない」と言っている。
 こうした絵画に対する主張を集大成したのがこの「王の悲しみ」で、マティスが83歳、死ぬ2年前の制作である。まだまだ制作意欲は衰えていなかった。テーマとなっているのは旧約聖書の悩めるサウル王をダビデが音楽を奏でて慰めるというものだが、青色、緑いろ、黄色を見事に融和させたこの絵は、どことなくユーモラスでわれわれを癒してくれる。






見習い職人」(自画像)

ジョルジュ・ルオー(1871~1958年)

パリ国立近代美術館 (パリ)


油彩・キャンバス  66×52cm  1925






 ルオーの絵は日本では今でも非常に人気がある。これほどルオー好きな国も珍しいのではないだろうか。白樺派の文人たちやパリから帰朝した多くの画家たちによって、昭和の初め頃から熱心に紹介されたのが、すっかり定着したのだろう。
 「ルオーの絵を理解したければシャルトルのスタンドグラスを見なければならない」と言った友人の言葉が気になって、シャルトルの大聖堂に出かけたことがあった。その日は日曜日だったので、たくさんの礼拝者があり、荘厳なミサ曲が聖堂いっぱいに鳴り響いていた。みんなを背にして暗闇から壁面の上方を見ると、あの見事なステンドグラスの絵「美しき絵ガラスの聖母」が浮かび上がった。
 青を背景に赤や黄が花のように美しい彩をかもし出していた。ああ、これが有名なシャルトルのブルーなのだなぁと納得してパリに戻った。そして今度はルオーの絵を見た。
 この「見習い職人」という絵はポンピドーのパリ国立近代美術館にある。ルオーの絵のなかでは私にとっていちばん印象に残っている絵である。それほど大きくはないが、シンプルで静かな絵である。太い輪郭線と目鼻立ちや口などの形はほんの少しの陰の面で表し、白やピンクやオレンジ、そして紫色を配して、重厚なドラマ性を演出している。こうした太い輪郭線や色彩の平面としての組合わせはやはりステンドグラスからきているのであろうか。この絵をじっと見ているとその顔がなんとも悲しげな顔に見えてくる。
 ルオーは若い頃、ステンドグラスの見習い職人として修業したことがあった。また後にステンドグラスの修復師として働いたこともあった。それに父親は塗装師で母親や叔母たちも陶磁器の絵師であった。ルオーにはこういう職人としての血が、いやがうえにも脈々と受け継がれていた。
 この絵の副題が<自画像>と記されているのも、若い頃の苦難な修業時代の自分を、あるいはそういう職人たちの社会的な境遇を重想させてこの絵を描いたのであろう。ルオーの絵を特徴づけているのは、なんといってもあの絵具が泥を重ねたような盛り上がったマチェールだ。この絵もかなり塗り重ねられているが、晩年になるともっと荒々しいタッチになる。まるで溶岩が噴出したようにゴツゴツとして見え、額縁にまではみ出して額ごと絵になってしまう。
 不思議なのはルオーの仕事中の写真を見ると、ふつうの画家のようにキャンバスをイーゼルに立てて描いてはいない。画布を直接机の上に置いてそのまま描いている。横には未完の画布がいっぱい積みあげられている。こういうこともステンドグラスの作業から引き継がれているのであろうか。
 ルオーは働きながら、装飾美術学校と国立美術学校に学び、モローの指導を受けた。最初は娼婦や傲慢な裁判官、道化師などの醜悪な人間像を描くが、やがて深い宗教的な主題に入ってゆく。モロー亡き後、モロー美術館の初代館長の職を得て、生活も安定し、社会的にも評価が高まり、認められるようになる。
 191746歳の時に画商ボラールと出会う。当時制作中の770点を生涯かけて完成させる条件ですべて売り渡した。ボラールは自宅にアトリエまでつくって制作をすすめた。ボラールが1939年に交通事故で亡くなったが、遺された作品をめぐってボラールの相続人を相手に訴訟を起こした。絵が未完である以上絵を引き渡すことはできないと。勝訴して800点が返却され、そのうちの350点を焼却した。不満足な作品が世に出ることを恐れたのである。こんなところにも職人魂の一端がうかがわれる。






印象 Ⅲ(コンサート)

ヴァシリー・カンディンスキー(1811~1944年)

レンバッハ美術館 (ミュンヘン)


油彩・キャンバス  77.5×100cm   1911






 カンディンスキーの名品が60点も所蔵されているというので、ミュンヘンのレンバッハ美術館を訪ねた。2階の展示場にはカンディンスキーを中心に、マルク、マッケ、ミュンター、クレーなどが展示され、ドイツ表現主義の「青騎士」たちの代表作がずらりと並んでいる。この美術館は19世紀の肖像画家として成功したレンバッハが自分の邸宅兼アトリエとして建てられたものだが、死後、夫人がミュンヘン市に売却、画家の膨大なコレクションが同時に寄贈され、市立美術館として公開された。
 
当初はレンバッハ自身の作品を中心に19~20世紀初頭の古典的な作品が主に展示されていた。ところが第2次世界大戦によって、爆撃を受け、ほとんど焼失した。戦後12年経って、復元されることになり、それを機会にカンディンスキーの愛人であり、「青騎士」の同士であったガブリエレ・ミュンターが自分の作品25点にカンディンスキーなどの「青騎士」関係の作品300点以上も、寄贈したのであった。レンバッハ美術館はこれを機に「青騎士美術館」に生まれ変り、他の作品や関係資料を収集し、さらにマルクやマッケらの作品も著名なコレクターから寄贈を受け、ますます充実して、ついにドイツ近代絵画を展望できるすばらしい美術館となった。
 カンディンスキーはある日夕暮れにアトリエに帰ったら、1枚のすばらしい絵があることに気付いた。それは何を描いてあるかわからなかったが、目を見張るような美しさであった。近づいて見ると、それは自分の絵で、縦のものが横になっていたのだ。主題にとらわれないでこの絵を見れば、別の新鮮な感動があることを発見した。
 この「印象 Ⅲ(コンサート)」という作品は抽象画がはじまったごく初期のものである。レンバッハ美術館の中ではいちばん印象深い。カンディンスキーはミュンヘンで行われた現代音楽家シェーンベルグのコンサートに行った。その時の感動をそのまま具体的な形によらないで描き上げたものだ。
 カンディンスキーは色彩と音楽をたいへん重要な関係であると考えていた。「ローエングリン」の歌劇を見て、「私にとってバイオリン、ファゴットそして特にすべての楽器は黄昏のひとときがもつあらゆる力を具現していた。私は私のあらゆる色彩を見たように思った。私はそれを目の前にしたのである」と語っている。
 シェーンベルグのコンサート以後、お互いに親密な友情を深め、しばしば文通するようになり、影響しあうようになる。この交友を通じて、シェーンベルグも従来の主調音にとらわれない革命的な無調音楽を創始した。
 カンディンスキーは1886年にモスクワで裕福な茶の商人の息子として生まれた。モスクワ大学では経済と法学を修めて、学者として将来を嘱望されていた。ある時、モスクワで開催で開催された印象派展でモネの「積み藁」の絵を見て、今まで見たこともない色彩の効果に衝撃を受け、自分の一生を絵画追求に賭けることを決意した。そして本格的に絵画の勉強をするためにミュンヘンにやって来た。その時、すでに30歳であった。
 カンディンスキーは、いわゆるボヘミアン的な画家ではなかった。裕福でお金に困ることもなかった。新しい芸術運動を興すのに熱心で、雄弁で、理路整然と文章表現ができた。芸術家にして画家、美術評論家であり、思想家であった。「頭だけで理屈をひねり出す、道を誤った画家」と評されたこともある。しかし、現在では抽象画の創始者としてその評価は決定されている。






パルナソス山へ

パウル・クレー(1879~1940年)

ベルン美術館 (スイス)


油彩・カゼイン塗料 キャンバス  100×126cm  1932






 
クレーの名作「パルナソス山へ」は昨年の夏、東京でお目にかかった。ほとんど小品しか描かなかったクレーのものとしてはかなりの大作である。モザイク調のものであるが、これはまさしく描かれたものなのだ。粗いタッチのいわゆる「分割描法」なのだろうが、スーラーのあの細かい点描で青いヴェールを覆った画面とは違う。すこし遠くから離れてみてもひとつひとつの色面が独立して輝いて見える。
 一見、絵の構成としては単純で、子供が描いたような素朴なものに見える。しかし、この絵は単純なものではない。よく見ると地塗りが矩行で色分けされている。それが複雑な色調として織り組まれていて、深みのある基調を響かせている。あとは雲や山や道が、これ以上省略できないギリギリの簡潔な線で描かれている。そして壁画を見るように全体としてこれを眺めれば、細かい色調がそれぞれ響き合い、色彩の大シンフォニーが奏でられている。
 クレーの絵はどれもこれも、色彩が透明で幻想的な夢のような世界を描いているので、クレーという画家は純真で、天真爛漫な幼児のようなきままで夢想的な人物のように思われるだろうが、実際はわれわれの想像とはまったく違っていたようだ。クレーは生涯9146点の絵を制作したが、そのうち8918点を克明に自分のノート12冊に制作の方法や材料や寸法などの完全な記録を整理していた。
 まだ売れない時代は妻がピアノ教師で家計を支えていたので、台所がアトリエ代わりとなり、子供の育児を引き受け、料理がまた得意であった。その後、美術学校の教師となり、造形理論を教え、その講義用として3000枚以上の草稿を書いたという。緻密な理論構成で、数学的、幾何学的に絵画を分析した。まさに典型的なスイス人特有のきちょうめんな性格で、厳密な理論家であった。
 クレーはまた音楽家でもあった。父は音楽教師、母は歌手で、幼少の頃からヴァイオリンを習い、11歳の時にはベルリン交響楽団のエキストラとして演奏するほどに上達していた。画家の道を選んでからも、妻のピアノに合わせて、しばしば家庭演奏を行い、その名手ぶりを発揮していた。したがって、クレーは幼児期からずっと音楽環境にどっぷり漬かっていたわけである。実はこの「パルナソス山へ」という絵は音楽的な効果を絵の世界に導入しようとしたものなのだ。
 パルナソス山というのはギリシャの実在の山であるが、ギリシャ神話の中では、登場する芸術の女神ミューズと太陽の神アポロンが住むという山の名前である。18世紀の西洋音楽を集大成した理論書に「パルナソスの階梯」という名著がある。クレーはその本のタイトルから盗用したものであった。おそらくその書物に書かれていた西洋音楽の根幹をなすポリフォニー(多声音楽)と、そのポリフォニーを生み出すための作曲技法である対位法の手法を絵画の制作に応用して、「ポリフォニー絵画」というものを創案しようとしたのだろう。つまり地塗りした色面の上に、点で描いた別の色面のパターンをいくつも重ねてお互いの色面が多声音楽のように響き合うシンフォニーのような絵画を目指していたのである。そして遂にその集大成として完成したのがこの絵であった。
 この記念すべき夢のような美しい絵は1934年に描き終えたが、その同じ年にクレーの身の上には悪夢の時代が待ち受けていた。ナチスが第一党となり、10年間教授を勤めていたバウハウスが閉鎖され、翌年クレー自身もドイツを追われ、経済状態も逼迫し、不安な生活を送らねばならなかった。






ル・アーブルの水の祭

ラウル・デュフィ(1877~1953年)

パリ市立近代美術館 (パリ)


油彩・ キャンバス  88×98cm  1925






 
パリ市立近代美術館の1階の入口から入って、左手の中央の階段を上がると、ぱぁと目に入るのは大パノラマの壁面。この美術館が誇るデュフィの大作「電気の精」である。高さ10メートルに全長60メートルにも及ぶ。2×1.2メートルの合板パネル250枚に描かれている。すべての画面がライトで照明されていて、壮観である。
 この壁画制作は1937年に開催されたパリ万国博覧会の「リュミエール(光)館」のためのものであった。この絵の制作のために、資料の調査や研究、そして習作から構想のために1年も費やした。電気の発明や開発の発展過程が一望できるように描かれている。そこに登場する電気関係の哲学者や科学者が1100人も年代順に描かれ、上段の方には、電気のさまざまな利用、溶鉱炉やクレーン、ネオンサインやパリ祭の照明など、人間の英知をたたえる大叙事詩として描かれている。大きさとしては世界最大の絵画としてぜひ必見すべきものかのだろう。
 地下1階に降りると同じデュフィの作品でも、いわゆるふつうの絵画としての名作が並んでいる。その中でも「ル・アーブルの水の祭」が絶品である。海景をテーマとした楽しい作品である。デュフィの絵には苦悩とか憂鬱とか、死の影とか暗いものはほとんどない。自由でのびやかで歓喜にあふれている。
 この絵は生まれ故郷のル・アーブルの港での海軍の海兵式のフェスティバルを想定したものだ。青い海を舞台に帆船や艦船が浮かんで、カラフルな旗がパタパタひらめき、煙や雲がなびいて動きの一瞬をとらえている。粗いタッチで素早く描かれた筆触は、ダイナミックな躍動美を現していて、楽しさを強調している。色彩がまたなんと透明で華やいだ色調なのだろう。またなんと美しい青なのだろう。
 デュフィはこの絵を描くすこし前までは織物のデザイナーとして食を得ていた。もともと天性の装飾的なセンスの持ち主であった。友人アポリネールの「動物誌」のための木版の挿画では見事にその才能を発揮しているし、服飾デザイナーのポール・ポアレが布地の版下をデュフィに依頼したのもそのセンスを高く評価したからであった。デュフィはこの洗練されたセンスに加えて、イタリアの旅行によって、明るい光を発見し、色彩に開眼した。
 この「ル・アーブルの水の祭」の前に「クロード・ロラン頌」という絵を描いている。デュフィは「クロード・ロランは私の神だ」と言ってロランを尊敬し、その絵を描いた。日本の版画家長谷川潔はデュフィと親交を深めていたが、デュフィから「ぜひ、ルーブルの港の落日を描いたロランの<クリュセイスを彼女の父に返すオデッセウス>の絵を観察したまえ」と強くすすめられたという。いったいデュフィはロランの絵から何を学んだのだろう。ロランのその名作ははるか海上の落日が空を染め、海面に照り輝き、船や両側の建物、大石柱などにその黄金色の光を照映させて、美しい雰囲気を漂わせている。
 デュフィはその絵から、色彩で空間と奥行きの感覚をつくり出す雰囲気の手法を発見している。まず主調音階としての色彩を決定して、一つの色調と他の色調とのバァルール(色調の明暗の度合い)色彩を光に置き換えた関係を重要視したのであった。さらに風景画において、ロランから、現実にはない仮想の風景を画面にとり入れることや、主観的な色彩を強調することを学んでいる。
 シチリアでの光の発見と、ロランから学んだ色彩の表現の仕方によって、あのすばらしい純粋な色彩画を開眼したのであった。







アヴィニオンの女たち

パブロ・ピカソ(1881~1973年)

ニューヨーク近代美術館 (ニューヨーク)


油彩・ キャンバス  244×234cm  1907






 
このあまりにも有名な、現代絵画の出発として、あらゆる美術書に紹介されるこの絵を見たのは20数年前、ニューヨーク近代美術館を訪れた時だった。そのころは寺院のご本尊を拝むようなもので、本物をじかに見られたという満足感でいっぱいであった。
 誰しもそうであろうが、何も解説なしでこの絵を見た場合、この絵のタイトルの手がかりだけではさっぱりわからないにちがいない。幸い私の場合、いくらかの知識が入っていたので、その知識どおりに何の疑念もなくこの絵を見ていたようだ。こういうこともおそらくピカソが仕組んだ作戦なのかもしれない。
 事実、この絵を最初に見たピカソの親しい画家や友人たちでさえ、何がなんだかわからず、マチスは「とんだ悪ふざけだ。モダンアートをバカにしている」と言った。親友ブラックは「ふだんの食事を縄とバラフィンに交換しなければならないようなものだ」と言って、要するにこれまでのピカソの心地よい味わいが消えて、まったく味のないロウを食べさせられているようなものだと言うのである。ドランなどは「ある日、俺たちはピカソがきっと大きなキャンバスの後ろで首を吊っているのを見つけるのさ」と言って、この絵をあまりにも常識外れで、不可解な画面を見て、ほとんどみんな強烈なショックを受けている。ところがそれから現在まで、どれほどこの絵がさまざまな角度から解釈されてきたことか。
 それによるとこの絵の目的は一つは主題に、もうひとつは絵の描き方の手法においてこれまでの伝統的な西洋絵画のあり方をすべてひっくり返してしまったといわれている。
 この絵は裸婦の群像であるが、裸婦といえば女性の美しい肉体を理想化して描かれるのが普通であったが、この絵はむしろ、顔や体を変形して、意図的に醜く描いているようにすら見える。ルネサンスの絵やアングルの「トルコ風呂」、セザンヌの「水図」などへ続く理想化された裸婦像をまったく否定してしまった。そこらには感情も抒情もなく、形が大胆に変形されて、奥行きがまったくなく、平面的な空間でしかない。いかにも単純に描かれた抽象的な絵のようだが、この絵が完成するまでは100枚以上の習作とおびただしい数のデッサンがなされ、実際に制作にかかってからも数ヶ月かかっており、何度も何度も試行を重ね、今、見るこの絵でさえ、まだ、未完成であるといわれている。
 タイトルのアヴィニオンというのはバルセロナのいかがわしい通りの名前で、この絵はその悪名高き売春宿の中の娼婦たちを描いている。若い頃、ピカソもそんな売春宿に顔を出していたらしい。おそらく、そこで見る女性の持つ相矛盾する実態を見て、魅惑的で欲望をそそられる存在である反面、性病や男を死に至らしめる恐ろしい魔力をもったものとしての別の面を見て、顔や形を故意に変形させて、醜さをより強調することによって、複雑な心境を表現したかったのだろう。
 しかし、この絵を歴史的な問題作として有名にしたのは、そういう主題よりも、絵画表現の革命にあったとされている。西洋絵画の主たる特徴である伝統的技法、量感を表すための陰影や空間を表す遠近法をまったく無視してしまっており、一つの視点から見たものではなく、人体はたくさんの異なった角度から見られた部分に分解されている。これこそキュビズムへの始まりだといわれている。さらに、この絵に含まれる重層した新しい試みに「いつも燃えていて現代美術の火が吹き出る噴火口」と評されている。






新聞とパイプのある静物

ジョルジュ・ブラック(1882~1963年)

パリ国立近代美術館 (パリ)


油彩・ キャンバス  100×71cm  1912






 
この絵はいったい何なのだろう。絵というものは鉛筆や筆で自分の手で描き、あるある物を忠実に再現したものであるという常識で見る人にとっては、この絵を見た瞬間、この絵をどう理解してよいのか、きっと戸惑うに違いない。
 実際にこの絵は手で描かれている部分はほんのすこしで、木炭でさらさらと軽く描かれているにすぎない。主題となっているテーブルやギターや新聞やパイプはそれらしい断片によって見てとれるが、すべて全体を忠実に再現しているわけではない。
 驚いたことに、新聞は本物の新聞紙の実物が貼られており、テーブルを想像させる木片は、木目を実物そっくりに印刷されたイミテーションの木目の壁紙が貼られている。ブラックは何のためにこのような絵をつくったのだろう。こういう異質な素材をコラージュして表現する方法を美術史的な説明では、ブラックとピカソが分析的キュビズムを追及するうちに、主題となる対象をいろいろな視点から見た小さな断片に分解するあまり、もとの実体が判別できなくなるくらい多面的に抽象化してしまった。そこで明確にそれと認識できる対象を画面に取り戻す必要が起こって再構成する代わりに具体的なイメージを現す日常使われている既成の断片を貼り重ねることで、もっと現実的な空間関係を表現しようとした。すなわち、伝統的な遠近法を使わないで、材料そのものを用いることによって現実を写しとることができた。こういう説明があっても、一般にはなかなかわかりにくい。
 このあたりから画家は画面の中で、ただ物を写すことにより、自己主張しはじめ、見る者を意識して、概念のゲームが始まったのではないだろうか。したがって見る者は絵の意味を読み取ることをより必要になってきたように思われる。この絵でいえば、絵というものは結局のところ、平面なのだから、平面的なものを平面に描くのがいちばんよいのではないかということである。さらに絵はわれわれの見える世界をそっくりそのまま再現するという伝統的な絵のあり方を拒絶して、絵が現実に似ているということが必要であれば、画面に実物そのものを貼ればよいのではないかということである。
 自然主義に対する強烈な皮肉がこめられているが、さらにおもしろいのは、実際の新聞紙を貼りこんで、これが新聞だと提示しておきながら、その新聞でパイプの型に切り抜いて貼り付け、これもパイプに見えるか、と見る者の反応を試すかのように疑問を投げかけている。
 1912年のはじめ、このような方法でピカソが「藤椅子のある静物」という油彩画ではじめてこのような方法を使い始めた。これを「パピエ・コレ」と呼んでいるが、当時、セザンヌに啓発され、ピカソの「アヴィニオンの娘たち」に大きく刺激を受けたブラックが急速にキュビズムの造形の探究にのめり込んで、ピカソと密接な連携を保ちながら次々と新しい絵画的効果を追求していった。
 ブラックの父親はル・アーブルで室内装飾を営んでおり、彼自身もパリに出たのは家業の腕を磨くためでもあった。この本物そっくりの印刷された木目の壁紙を使用するというアイディアもブラックあってこそのものであろう。
 ブラックは絵画の新しさにおいて注目され、話題にもなったが、私生活においてはピカソのような派手なスキャンダルはほとんどなく、静かな理知的な性格で、キュビズムのような厳格な知的な構成においてピカソよりもむしろブラックにむいていたのかもしれない。しかし、こうした先駆的な実験も1907年から第1次世界大戦が始まる1914年までで、大戦後にはピカソもそうであったが、ブラックも急速に古典的世界に復帰してゆく。






余暇、ルイ・ダヴィッドに捧ぐ

フェルナン・レジエ(1881~1955年)

パリ国立近代美術館 (パリ)


油彩・ キャンバス  154×188cm  1948~9






 
快晴の日曜日、家族のみんなで、郊外にピクニックに出かけ、余暇を楽しんでいる。その日の記念写真をそのまま絵に写し換えたもののようである。この絵から感じる特徴は、まず明るく、健康的で力強い。真っ青な空に白い雲がぽっかり浮かび、平穏な平和を象徴するような鳩が4羽飛んでいる。この家族は右側の母親と子供の服装からして、どうやらサーカスの団員の家族のようである。何か楽しく夢を与えてくれるような雰囲気が感じられる。
 画面の人物や自転車や樹木や花までも太い輪郭線でがっちり固められており、陰影や形そのものもシンプルに単純化されている。そのために人物もすべてロボットのようであり、その他の物も工作されたおもちゃのようにも見える。それがまた、原色にちかい明るい色彩の色面の対比の効果によって生々とした喜びに満ちた絵に見せている。
 この絵のタイトルは「余暇、ルイ・ダヴィッドに捧ぐ」となっているが、庶民が余暇を楽しんでいる絵であることは一見した以上の説明したようにすぐわかる。ルイ・ダヴィッドに捧ぐとあるのは、あの19世紀の新古典主義の巨匠ダヴィッドのことである。画面の下の大地に腰をよこたえている女性が右手に紙片を持っているが、そこに「ダヴィッド捧ぐ」と書いてある。
 1948年ダビット生誕200年展でレジエはダヴィッドの名作「マラーの死」を見た。その絵は革命家マラーが24歳の女性に入浴中、浴槽で暗殺された絵である。その絵の中で死体の手にあるメッセージがしっかり握られていた。レジエはそのポーズを自分流に、この「余暇」の絵の中に流用した。このポーズを自分の絵に取り込むことによって、レジエは、当時すでに軽視されていたダヴィッドを賞賛しようとしたのである。ダヴィッドの厳格な共和主義的な精神や明快な画面構成において共感していたのであろう。
レジエのこのような明快で単純化された明るくがっしりとした様式は、第1次世界大戦後から晩年にいたるものに共通している。4年に渡る戦争での従軍体験と、アメリカに渡り、ニューヨークのブロードウエイの点滅するネオンサインの華やかさをまのあたりに見て、その力とエネルギーに圧倒されたのであった。戦争に従軍した時のことを回想して、「太陽に光り輝く大砲の姿は、美の発展について、世界のあらゆる美術館よりも多くのことを教えてくれた」と言って、何よりも機械文明の勝利を確信していた。
 パリ開放の1年後、64歳のレジエは故国に戻った。まだ戦禍も生々しいパリの街並であったが、大通りには人々があふれていた。この庶民の解放された安堵感と、やがて来る未来は働く者の世界であり、労働者はその時代の英雄であると、感じとったのであろう。この絵はそれから4年後に完成した。たくさんのデッサンや、いくつかの小さな油絵の習作を試みながら、じっくりと時間をかけてこの絵の構想がすすめられた。
 レジエはフランスのノルマンジー地方の農家に生まれた。パリに出て、貧乏芸術家の溜まり場であった「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」に住んでいたこともある。そこで知り合った画家たちの影響も受けて、はじめは短い間、事物を円筒や球に還元して量感をとらえ、色や形の対照による、いわゆるキュビストとして活動していたが、第2次世界大戦後は、作風も抽象的なものから、躍動的で、色彩豊かな、「わかりやすい単純なもの」の傾向となり、モニュメンタルな芸術作品として「社会参加」を意図するようになった。






コタンの小路

モーリス・ユトリロ(1883~1955年)

パリ国立近代美術館 (パリ)


油彩・ キャンバス  62×46cm  1911年頃






 
ユトリロもまたルオーのように日本では特別に好まれているようだ。あのモンマルトルの街並みの壁を執拗に描きつづけたこともその起因のひとつだろう。パリはフランス文化のシンボルで、まさに美術の都であった。ロシア人もアメリカ人も日本人も異国人にとっては憧れのパリであった。そのパリらしいイメージをそのものズバリ描き続けたのがユトリロであった。裏街のあの白い壁の建物はそのパリの象徴として異国人に羨望の的と映ったのである。
 たくさん描かれたユトリロのパリの風景の中でもこの「コタンの小路」は圧倒的な人気がある。日本でも数度展示されたことがある。もう20年も前、2月の寒い早朝に、このコタンの小路に行ってみた。日曜日であったので、誰ひとり人はいなかった。この絵の上の方から階段を降りて、振り返ってみると、まさにこのユトリロの絵が再現されたような光景が現れた。ユトリロは何でこのような淋しい奥まった静かな場所を選んだのだろう。まさに袋小路である。
 この絵はみるからに水平線と垂直線で構成されていて、遠近法の焦点も中心に置かれているので、非常に調和のとれた安定した絵である。にもかかわらず、何か冷たい孤独な空虚さがせつせつと伝わってくる。画面のほとんどが固い石垣と壁であり、そのすべての窓の鎧戸が閉ざされていることと、石畳と壁の白と灰色のトーンによってそれを感じさせているのであろうか。
 この絵を描いた頃のことを「白の時代」と呼んでいて、いちばん質の高い絵を次々と生み出していた。しかし、ユトリロにとっては、アルコール中毒の発作が起こり、泥酔で路上に伏したり、居酒屋で暴れたりしたので、時には刑務所に監禁され、精神病院で療養生活を送らねばならない苦境の時代であった。にもかかわらず、この1908年頃から1914年頃までに600点もの作品を描き残している。描き上げた絵はほとんど居酒屋の酒代に消えてしまっていた。どうやら、この絵なども実際の現場で描いたのではなく、観光用の絵ハガキを参考にして描いたらしい。子供時代から遊び回って、脳裏に焼きついたモンマルトル界隈はそれで十分だったのだろう。
 それでもユトリロの描く白い壁はその質感を出すために特別の工夫がなされていた。本物の漆喰の粉を絵具に混ぜて、それに卵の殻や糊を加えることによって、本物の壁をキャンバスに塗り込んだようなものであった。子供の頃はその壁のかけらで遊んだりしていたので、表面をじっと眺めていると、いろいろなイメージが沸いてくるのだと語っている。生活が染み付いたパリの裏街の壁は、とりもなおさず、ユトリロ自身の体の一部のようになっていたのだろう。
 母親のヴァラドンは、職業を転々として画家のモデルとなり、シャバンヌ、ロートレック、ルノワール、ドガなどのモデルを勤めたこともあった。自分でも絵を描き、その大胆で力強いデッサンはドガを驚嘆させた。
 ユトリロを生んだ時、彼女は16歳であった。父親は新聞記者といわれているが、認知したのはミゲル・ユトリロという画家・批評家であった。しかし、本当はわからない。ユトリロを生んだ後、さらに2度結婚している。ロートレックや音楽家のサティなどともロマンスがあった。そのためにユトリロは祖母のもとにひきとられ、小学校も寄宿舎に入り、中学校に入るようになってから、カフェに入り浸りとなって、18歳の時には精神病院でアルコール中毒の治療を受けるまでになっていた。母親のすすめる絵筆を持つことと酒を呑むことが孤独を癒す友達だったのである。






ジャンヌ・エビュテルヌの肖像

アメデォ・モディリアーニ(1884~1920年)

グッケンハイム美術館 (ニューヨーク)


油彩・ キャンバス  100×64.8cm  1918~9







 
モディリアーニはパリでは極貧の状態で暮らしていた。彼の作品のほとんどは肖像画か裸婦である。モデル代もままならぬ貧しい生活であったので、常に身近な人たちの肖像画を描くか画商から用意されたモデルの裸婦を描くしかなかったのだろう。この絵のモデルは自分の恋人ジャンヌ・エビュテルヌである。そのころは毎日のようにジャンヌの肖像を描いていた。
 ジャンヌと知り合ったのはある画塾であった。南アフリカ生まれの女流作家ペアトリス・ステングスとの荒れ狂った生活が破綻して、しばらくしてからであった。ジャンヌはまだ19歳で、画塾では「ノワ・ド・コユ(ヤシの実)と呼ばれて、栗色の髪を三つ編みにして前髪を切りそろえ、薄い青い瞳の透きとおるような白い肌をした愛くるしい画学生であった。モディリアーニは、ひと目で彼女を見そめ、恋に落ちた。そして数ヵ月後には、親に結婚を反対されたジャンヌは家を出て、アトリエを借りて同棲することになった。
 ジャンヌの出現にもかかわらず、生活は相変わらずアルコールや麻薬で荒廃していた。彼女は内気で献身的であり、そのような生活にもじっと耐えていた。しかし、その頃にはすでにモディリアーニの体は病魔にむしばまれていた。血を吐き、咳き込む状態をみるにみかねて、画商のスボルフスキーは南仏に転地療養することをすすめた。フジタやスーチンも誘われて同行している。ジャンヌは転地先ニースで女の子を産んだ。
 それから一年後、モディリアーニはパリに戻った。彼の病状はますます悪くなっていた。1920年のある寒い夜、友人たちとひとりのスペインの画家を訪ねるために、遠い距離を歩きつづけたため、肺炎をひき起こしてしまった。いっそう体調を崩したにもかかわらず、絶望と不安からか、アトリエの掃除や入室も拒絶して、気難しくなり、毎夜のように場末の酒場を飲み歩き、酔っぱらい、悪態をつき、とうとうアトリエで倒れこんでしまい、病床についてしまった。若いジャンヌはどうすることもできず、ただ傍でじっとみつめて介抱するだけであった。
 数日後、この悲惨な光景を友人が発見し、医者を呼び、慈善病院にモディリアーニを運びこんだ。しかし、ついに意識を回復することもなく、35歳という短い生涯を閉じてしまった。死因は結核性大脳皮質炎と記された。その二日後、すでに二人目の子を身ごもっていたジャンヌは病院から2キロ離れた実家の6階から飛び降り、夫の後を追って自殺した。ジャンヌは21歳、1歳の娘がひとり後に残された。
 この絵はニースでの保養中に描かれたものであろうか。やや悲しげな表情が見えるものの、ゆったりとしていて、やがて起こりつつある悲劇の結末の前のほっとした一時期ではなかったろうか。モディリアーニはジャンヌの肖像を24点も描いている。なかでもこの淡い目の青さや、柔らかい黄色のセーター、そして、長い首、音楽的リズムのあるS字型フォルムは何かほのぼのとした安堵感を感じさせる。こよなく愛する女性へのやさしいまなざしに満ちた、最も心を込めて描いた肖像画のひとつであるにちがいない。
 モディリアーニの作品は生存中ほとんど売れなかった。それによる貧困と芸術的才能のおもむくままの自由奔放な生活、酒と麻薬と数々の恋人の慰めに身をゆだね、健康を害して、エコール・ド・パリの悲劇的な天折の画家、呪われた画家としての役割を演ずることとなった。






化粧―鏡の前の女

エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー(1880~1938年)

パリ国立近代美術館 (パリ)


油彩・ キャンバス  100.5×77.5cm  1912







 ドイツ表現主義は「ブリュッケ(橋)」という名称で、1905年にドレスデンで若い芸術家たちによってのろしをあげた。その中心となったのは最年長のエルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナーであった。他にエーリツヒ・ヘッケル、カールシュミット=ロットロフ、それにフリッツ・プライイルが加わった。正規の絵画教育を受けていたのはキルヒナーだけであった。
 キルヒナーはまずデューラーに出会った。この巨匠の木版画に魅せられ、ドイツ版画の再生を願った。その成果として、キルヒナーは2400点もの版画を制作している。さらにフランスのフォーブの画家たちやオセアニアやアフリカの誇張された形の彫刻に興味を持った。ゴッホやゴーギャンやムンクの強烈な色彩を単純なフォルムによって、人間の内面の感情を表現することに重点を置いた。グループ結成以来、積極的に活動を行い、ドイツ国内はもとより、スイスや北欧まで巡回展を開いている。しかし、1913年にはメンバーの意見の対立が起こり、8年間でこの前衛集団は解散している。このドイツ表現主義はとくに版画を通じて、はやくから日本にも紹介されたが、以外にまとまった作品に接する機会が少なかった。
 組織的に展覧会が開催されたのは1984年に世界最大のドイツ表現主義のコレクションといわれるブーフハイム・コレクションが公開され、日本にも巡回されたのが記憶にも新しいところである。私自身はフランクフルトのシュテーデル市立美術館でキルヒナーの油彩と彫刻を初めても見て、何とも言いようのない鮮烈で異様なショックを受けたのであった。
 この「化粧―鏡の前の女」はパリの国立近代美術館にある大作である。キルヒナーの角ばった描写が現れはじめた1912年の作品で、翌年の13年には「ブリュッケ」が解散して、それ以後どの団体にも属さず、その数年集中的に秀作が制作されている。とくにその頃はベルリンを拠点に、その大都会に生きる孤独な人々の生態を描いている。
 この作品では歓楽街の踊り子が鏡に向かって化粧をしているが、この写った顔は疲れ果てて、どこかけだるく色調もくすんだ色あいで、人物も物も鋭角的な線でデフォルメされている。一見して、悪徳と頽廃的な狂気がこの画面から見てとれる。
 1914年に第1次世界大戦が勃発して、キルヒナーは強制的に志願兵として入隊し、砲兵連隊に配属される。この過酷な現実の体験に直面して、神経障害をきたし、除隊を命ぜられ、精神病患者として、タウヌス山中のサナトリウムで静養することになる。1917年にスイスのダヴォスに隠棲するが、そのころは都会文明を主題とする作品から大きく転換して、今度は雄大な自然をヴォリュウム豊かな原色の色彩で描くことになる。
 一時期安定を得たかに思われたが、1937年、キルヒナーの作品はナチスによって、ドイツ中の美術館から押収されて、そのうち32点がドイツ精神に反する〝頽廃美術〟としてさらしものにされた。とくにドイツ表現主義の作品をヒトラーは嫌い、650点もの作品が4年間にわたり、「頽廃美術展」としてミュンヘンを皮切りにドイツ、オーストリアを巡回展示された。この衝撃と、新たに昂じた結核の病苦、さらに経済的苦境が重なり、睡眠薬、モルヒネ、アルコールの依存へと絶望のどん底に落ちていった。そして、ついに極度の神経衰弱にかかり、19387月にダヴォス近くのフラウェンキルヘで自らの生命を絶ち、波乱の多い生涯を閉じることになった。享年58歳であった。この誇り高い、自我の強い画家の晩年をわずかに残った友人たちも救うことができなかった。






夏の午後

ジョルジォ・デ・キリコ(1888~1910年)

個人蔵


油彩・ キャンバス  50×70cm  1972







 未来派が機械時代のダイナミズムに呼応すべく激しい革命的な絵画運動をくりひろげている頃、逆にそれに抵抗するかのように、ひとりのイタリア人画家が不思議な絵画世界を形成していた。それはジョルジォ・デ・キリコであった。彼は第1次世界大戦に従軍したが、ノイローゼとなり、フェラーラの陸軍病院に入院することになった。そこで未来派の画家カルラと出会うことになり、この二人が奇妙な絵を描くので、軍医は二人の同室を許可した。この二人の探究から、いわゆる「形而上絵画」が生まれることになったのである。
 キリコの絵は見た瞬間にわれわれの眼を強力にひきつける不思議な力をもっている。イヴ・タンギーがパリの街でバスに乗っていて、窓越しに見えた店の中の不思議な絵を発見して、あわててバスを降りて、その絵を見直した。そして、あまりにも感動したので、その場で画家になる決心をしたという。また、詩人アンドレ・ブルトンも同じようにやはりバスの中から見えたキリコの絵のために、バスを飛び降りて、その絵を見直したというから、キリコの絵には理屈を越えた直感的に人の心をとらえる強引さをもっている。
 この「夏の午後」という絵はキリコの絵の中でも、もっともキリコらしい、いわゆる一連の「イタリア広場」といわれるメタフィジックな代表的な絵のひとつである。もう20年も前に日本で見た絵であるが、記憶は鮮明である。たしかキリコのはじめての回顧展で、キリコ自身がすべての出品作を選定したので「キリコによるキリコ展」と称された展覧会であった。
 夏の午後、街の広場にギリシャ彫刻のレプリカがぽつんと置いてある。左右にはアーケードのある建物があり、それが極端な遠近法で強調されている。広場には強い日ざしが差し込んでいて、くっきりとした陰が彫刻にも建物にも画面全体に対比させている。時刻は午後2時だそうだ。単純化された形なので、いっそう異様に見える。煙突やアーケードのアーチもその対比を強調するための道具なのだろう。
 この広場の光景は北イタリアのトリノの街の印象だともいわれいてる。彫刻はギリシャ神話のアリアドネである。ふつうにはクレタ島のミノス王の娘で、王宮の奥深くに棲む怪物ミノタウロスを退治しにやってきたアッテカの英雄テセウスに糸玉をやって英雄といっしょに王宮から脱出させた賢い女として紹介されるが、ここでの彫像は「眠れるアリアドネ」である。ゼウスに捨てられて、ナクソス島で眠りつづけるうちにディオッソス神に見出されたとされる王女の眠れる像である。キリコは他の絵の中でもしばしばこの彫像を登場させている。実際にはヴァチカン博物館の有名な古代彫刻に依っているが、よほど気に入ったのか、自分でも石膏でこのコピーを作っている。
 キリコはなんでもない日常の平穏な午後の広場に、この現実ばなれのした古代彫刻を置いた。キリコのいう形而上絵画とは「経験として存在しない超感覚的な様相、つまり、神秘感=謎をあらわす絵画」と言っているが、現実に関係することのない〝物〟を置き換えることによって、なんとも奇怪な時間を静止させた不安と憂愁に満ちた画面をつくりあげた。
 キリコはミュンヘンで幻想神秘の画家ベックリーンとニーチェに強烈な影響を受けている。ニーチェは「悲劇の誕生」の中で「夢の世界の美しい出現ははあらゆる造形芸術の前提である」と述べている。ごく日常的な広場に全く非日常的な「眠れるアリアドネ」を置くことによって、ディオニッソスの出現をキリコ自身もまた夢みたのであろう。






ワイングラスをもった二人の肖像

マルク・シャガール(1887~1985年)

パリ国立近代美術館(パリ)


油彩・ キャンバス  233×136cm  1915~7






 
1985
年の2月にロンドンに滞在中、幸運にもロイヤル・アカデミーでシャガールの大回顧展を見ることに恵まれた。そして、その3月にこの20世紀の大巨匠が97歳で亡くなった。会場はかなりの盛況であったが、それでも日本の美術館のように大挙して、行列をつくって、ながい間待たねばならないのとは違って、ゆっくり、存分に鑑賞することができた。
 油彩の大作をこれだけたくさん見ると、なんといってもシャガールは色彩の画家であることを実感する。緑と赤、そして青や黄色で厚く、補色関係を巧みに利用して、強烈に描くその色彩の効果はまことに豪華絢爛たるものがある。夢幻的な装飾効果のためか、日本でも圧倒的な人気があり、その有名度もピカソに次ぐものではないだろうか。
 シャガールは1887年ロシアの貧しい農家に生まれている。父親は農民であり職人でもあった。母親もとくに教養があるわけではなく、芸術的環境とは無縁であったが、はやくから画家になることを決意していたらしい。最初は生まれ故郷のヴィテブスクの美術学校で、それからペテルスブルグの官立美術学校で学んだ。1910年、23歳の時にパリに出て、その時に光と色彩について開眼した。「ロシアではすべてが暗く、とび色で灰色であった。パリに着いた時、私は色彩のきらめき、光の戯れに驚き、そして今まで手探りで探し求めてきたもの、色彩と絵肌の洗練を見出した」と言っている。
 パリでは「エコール・ド・パリ」と呼ばれる外国からパリに憧れてきたグループの画家たちと交わり、どん欲に自分の絵のためになることを吸収している。ピカソなどにも絶えず対抗意識をもっていたが「彼の最高傑作はモノクロームだ」と言って、ゲルニカを激賞して、自分は色彩では負けないぞ、と自信のほどを誇示することもあった。パリで4年間生活して、ベルリンで個展を依頼されたために、ついでに許婚のいる懐かしい故郷に立ち寄った時に第1次世界大戦が勃発した。それからロシア革命へとベルリンにもパリにも戻ることができず、この故郷で8年間住みつくことになる。この間に、婚約者のベラ・ローゼフェルトと結婚して、一時的には楽しい幸福な生活を送った。「ワイングラスをもった二人の肖像」はちょうどその頃に描いた絵である。
 シャガールの絵は大地にしっかりと足をふまえた人物の絵はほとんど見かけられない。どれもみな空中に浮遊していて、すべてが天国の出来事のようだ。この絵も恋人ベラは川の上をすいすい歩いている。ベラの両肩にシャガール自身が乗って、ワイングラスを持って乾杯している。その上にやがて生まれてくる息子をモデルにした天使が舞い降りている。全体の動きが螺旋状にぐるぐる空に昇ってゆくように感じられ、まさに「天にも昇る心地」の幸福の絶頂を謳いあげている。本人の赤い洋服は、強烈にその幸福感を印象づけているし、紫色のベラのストッキングは魅惑的である。ベラの上に自分が乗っているのは、すべて自分の芸術はこの妻になる女性の両肩にかかっているのだと言いたかったのだろうか。
 シャガールの主題はいつもこのように、いろいろ思いのままに想像させるために、はっきりと明快に提示するのではなく、なんとなくほのめかす象徴性をもっている。シャガールはこの町で帝政ロシアが倒れた後も革命政府に協力し、一時期美術行政に参加したが、新政府の方針が社会主義リアリズムに傾いたので、それをきらい、再びパリに戻った。その後、祖国を去ったロシア系ユダヤ人として、絶えず故郷を追慕する幻想的な独自の絵画世界をつくりあげた。







カタルニア風景(狩人)

ジョアン・ミロ(1893~1983年)

ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)


油彩・ キャンバス  65×100cm  1923~4






 
ミロの作品はわれわれの周辺にあふれている。ミロは90年生涯でおびただしい量の作品を生み出した。おそらく油彩画は2000点制作し、そのほかに500点の彫刻、400点の陶芸作品、さらに500点のデッサンやコラージュ、3500点のリトグラフやエッチングを作っている。リトやエッチングの版画は一種類の図柄につき、50枚や100枚以上も刷るのだから、想像を絶する作品がこの世の中に流布している。これに匹敵するのはピカソ以外にいないのではなかろうか。
 ミロはある時こう記している。「私はイーゼル画を超えたい。私の考えではそれでは目的が小さい。絵というものを通して、常に私の頭の中にある数限りない人々に近づく方法を見つけたい」と、いかにもミロは大衆を意識していたかがわかる。実際に日本がバブル景気の頃、ミロの版画が多量に輸入され、ミロが意図したようにわれわれの周囲にいつもミロが近づいている。
 ミロの絵は明るくて、楽しくて、ユーモラスである。現代建築の壁面装飾にはうってつけなのかもしれない。それらの絵を見るかぎり、ミロという画家の性格は、さぞおおらかで愉快な人物のように想像してしまうのだが、実際はまったく正反対であったらしい。「ミロは市民的、保守的なきまじめさを絵に描いたような人間で、仕事は厳格、女性に関しては堅物であった」と友人のひとりは語っている。
 またこんなエピソードもある。ミロはパリに出てから、当時の前衛画家であったシュールレアリストたちと交友をもつが、多大な影響を受けつつも次第に絵を描くことのみに熱中することになり、アトリエに籠り、自分の絵を人に見せなくなった。上の階に住んでいたエルンストにさえ見られるのを避け、作品のすべてかべに向けて裏返しにしていた。ある夜、エルンストが数人の友人とミロのアトリエになだれ込んで、絵について激論になったが、ミロは何ひとつ語ろうとはしなかった。
 エルンストがミロが今どんな絵を描いているのか見ようとキャンバスを全部調べ、これらの絵の説明を求めようと脅迫的に絞首刑の時にしようするようにロープで輪を作って首に掛け、吊るし上げるようにして強く絞め上げた。それでもミロは黙して何もしゃべらなかった。それほど寡黙であったと伝説化されている。
 その時の記念として、マン・レイがミロがそのロープを背景にした「何も言わなかったら死刑だ」という意味の肖像写真を撮っている。こういう悪ふざけにもミロ自身は大真面目で、本当に恐ろしくなって、3日間家に籠ってしまった。
 この「カタルニア風景(狩人)」という絵はもう20年も前にニューヨークの近代美術館で見たものだ。グッケンハイムにはこれと同じ大きさの「耕地」という作品があって、比較するとおもしろいのだが、この絵の方がずっと抽象化がすすんでいる。シュールレアリストたちからの影響もあって、この頃からミロは日常の現実を描くことを止め、自分の想像力で絵を描きはじめた。「極度の空腹の中で経験した幻覚的なフォルムや感覚にもとづいて絵を描くようになった。アトリエの壁を何時間もじっと見つめて、目の前に浮かんでくるフォルムをスケツチして」謎めいた記号や形をどんどん生み出していった。
 この絵の中に自分の名前の「M」が形となり、それがかもめに呼応している。またイワシ(Sardine)を表す「Sard」の文字が半分描かれており、これがサルダーナ(sardana)カタロニアの踊りの意味も想像させるように、事物と言葉が絵の中に補いあうような意味をもたせているのがおもしろい。






ブロードウェイ・ブギウギ

ピエト・モンドリアン(1872~1944年)

ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク)


油彩・ キャンバス  127×127cm  1942~3







 
モンドリアンの没後のアトリエの写真が記録されている。本人自らによって撮影しておくように指示したものらしい。また生前のそのアトリエでのポートレイト写真も撮られている。モンドリアンにとってこのアトリエは特別の意味をもっていた。アトリエ自体が彼のひとつの作品であったとも言えるし、彼の生き方や、生活のすべてを語っているように思われる。
 アトリエの壁面はすべて白で塗られ、天井や家具でさえ白で塗り上げられている。室内には余分なものは何ひとつなく、机や椅子やテーブルはどれも水平と垂直の木で組み合わされ、それもあるべき所に熟慮されて配置されている。机の上には筆記用具や書類がきちんと整理されており、すこしも乱れた様子がない。白い壁には赤や青や黄色の原色の厚紙があちこちに意図的に掛けられている。アトリエ全体が抽象画であると言ってよい。
 ポートレイトではそのアトリエでダークスーツを正装したモンドリアンがきちんと椅子に坐っていたり、真横から撮ったりしているが、いずれも眼光鋭く、大真面目な写真である。まるで医者が病院の無菌室に居るように見えるし、科学者が実験室に居るようにも見えてくる。こういうスタイルはすでにパリ時代にはじまっていて、このニューヨークのアトリエはそっくりそのまま再現したものであった。
 モンドリアンは私的な所有物は書物でさえほとんど持たず、手紙でも用件がすんだらすぐに廃棄した。その生活態度も苦行者のように自己コントロールをしていたのだろう。レストランで食事をする時も、外の緑の樹々を眺めなくてもすむような席を選んで座った。モンドリアンが純粋抽象に移行する頃次のような感想を述べている。「そう、概して言えば、自然というのはいまいましい。ひどい代物だ。私にはほとんど耐え難いものだ」。
 ハーグの市立美術館で、自然を写実的に再現していた頃のたくさんの絵を見た。そして抽象に移行するあの「樹」の連作を見た。自然の再現から次第に解体して、樹の曲線が直線になり、やがて水平線と垂直線に単純化されてゆく過程が手に取るようによくわかる。
 この世界の調和を保つ基本的な要素は結局「水平」と「垂直」という対立する二つの要素で成り立っているのではないか、自然を再現するために眺めた自然はむしろこの調和を乱す付属物がありすぎて、本質を見失わないためにそれらを削ぎ落とさなければならないと考えたのであろう。故郷オランダとパリを往復するうちにこの考えが確固としたものになり、徐々に純粋な幾何学的抽象主義に到達することになった。
 2次世界大戦の戦火を逃れてロンドンを経て、1940年に渡米し、ニューヨークに移住した。ニューヨークはいくらか戦争の規制があったというものの摩天楼が建ち並び、ブロードウェイ・ストリートでは色とりどりのネオンサインが点滅して、ダイナミツクなエネルギーに満ちていた。70歳を過ぎたモンドリアンであったが、たちまちにその華やかな近代的機械文明の輝きに魅了されてしまった。
 この「ブロードウェイ・ブギウギ」はそのような共感が現れた大作であり、約3年のニューヨーク生活の最後の傑作であった。ここでは長い間モンドリアンの固執してきた黒い線が取り払われ、赤、黄、青の三原色のみで構成され、ニューヨークでの生活の熱狂的な楽しさと自由を謳歌したものとなっている。あの冷たい合理的なアトリエの理知的な苦行者が新たな世界に踏み込んだのだろう。晩年のモンドリアンはジャズ、とりわけブギウギをこよなく愛していたという。






トランクの中の箱

マルセル・デュシャン(1887~1968年)

パリ国立近代美術館(ニューヨーク)


皮鞄・デュシャン作品の複製ミニチュア  40×37×8.2cm  1941






 
これは絵ではない。トランクの中にデュシャンが過去に制作した64点の作品を縮小複製にしてつめこんだ箱なのである。なかなか手のこんだもので、これを1938年から20個つくることを目標にしたが、4年かかっても全部つくりきれなかった。このほかに「グリーンボックス」と呼ばれる同じようなトランクの中に15年の間に書かれたメモやデッサン、写真のドキュメントなどを複製して収めたものも平行して作っている。
 そのうちに戦争が起こり、デュシャンは兵役を逃れてニューヨークに渡るが、その際、自分の作品のミニ美術館ともいえるこの「トランクの箱」をひとつだけ持って行ったそうだ。
この「トランクの中の箱」は300限定で刊行しようとしたが、実際はそんなに売れるわけでもなく、結局生涯作りつづけねばならなかった。
 実はこの「トランクの中の箱」のひとつが偶然にもイタリアのある画商から私に日本で売却してほしいと依頼を受けたことがあった。10万ドルという価格が付されていたが、私の周辺では買い手が見つからず、しばらくして返却した。
 デュシャンは1912年の25歳の時に「階段を降りる裸体」という油絵を描いている。パリのアンデパンダン展やニューヨークの記念すべき國際展「アーモリー・ショー」にその作品を出品した。キュビズムと未来派を合わせもつような絵であったが、過激な斬新さのためか、不評で、とくにアメリカでは「屋根瓦工場が爆発したような絵である」とたいへん酷評を受けた。
 しかしそれがために逆にもっともスキャンダラスな画家として有名になった。それ以来デュシャンはその絵のようなものを数点描いたもののきっぱりと画筆を断ってしまった。その頃からアメリカとフランスを交互に行き来して過ごすようになったが、外見は画家からすっかり足を洗って、ただ趣味のチェスに熱中してうつつをぬかし、定職もないような生活をしているのだった。
 ところが実のところ、その裏では誰にも気付かれないように着々と仕事はすすめられていた。すでに自転車の前輪をとりはずし、それを椅子の上に据えて、くるくる回して見る彫刻のようなものを作っていたり、デパートでコップを掛ける器具を選んで買ってきて、それを作品として提示したり、男性用のトイレの便器を「泉」と名付けてそのまま展覧会に出品したり、巨大なガラスに機械の見取り図のような絵を描いて、それを組み立て、完成する前に砕けてしまい、それがまたミステリィーとなったり、数々の奇怪な「オブジェ」群を制作していたのだった。しかし、ある時期からニューヨークのアトリエでは密やかに「遺作」が作られはじめられていた。デュシャンは1968年に79歳で没するが、20年も誰にも気付かれずに制作しつづけたこの「遺作」を没後発表することを条件に、フィラデルフィア美術館に寄贈するように生前に約束していた。そして没後はじめて、これが公開された。私は実のところデュシャンの作品の実物を見たのは「トランクの箱」と「自転車」の車輪だけである。この二つを見たとしても、これがあの有名なデュシャンが作った今や神話となっている「オブジェ」かとただ確認しているにすぎない。
 おそらくフィラデルフィアには「遺作」をはじめとするたくさんの作品が展示されているはずであるから、デュシャンを語る場合にはそれらを全部見て、その意図、意味をもう一度整理してみなければならない性質の仕事なのだろう。それにしても既製品を提示して、これが芸術品であると言った「レディメイド」の発明はルネサンス以来の人類の芸術形式に爆発的な影響を与えたのであった。


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