ヨーロッパ美術館行脚
八重洲ブックセンターの版画コーナーもどうにか定着し、売り上げも順調に伸びたおかげで、経済状態もずっと安定し、すこし、心理的にも余裕ができました。とにかく日本最大の売り場面積をもつ巨大な書店ですから、毎日、本の洪水の中で生活をしているようなものです。どんな豪華画集や美術書も刊行されたら、先ず、日本でいちばん早く、この書店に並んだはずです。誰よりも早く見ることができ、どこの図書館に通っても、次々に入れ替わるあれだけの多種類の美術書に目を通すことはできなかったでしょう。私にとっては大学院で勉強するよりも、もっと生きた情報の集まる意義ある場所でした。そのうちに、この際、本腰を入れて美術史を勉強しておこうと、接客のない時、あらゆる画集や美術専門書に目を通し、必要なものは買い込んで、読破していったのです。これが20年近くも続いたのですから、それこそ、大学院どころではありません。しかし、ある時、これは、いくら画集を見たり、専門書を読んだりしても、絵画の場合は本物の現物を見なければ、何にも意味がないのではないのかということに気が付きました。それまで何度か観光や版画の仕入れや商用でパリを往復していましたから、ルーブル美術館やパリ市内の他の美術館などは、おおよそ見て回っていたのですが、その時は、まだ漫然と見ていたようなものです。そこで、これからは、計画的に目的をもって、ヨーロッパの他の都市の主要な美術館を見て回ろうと考え、準備し始めました。幸運にも、その頃、国立音楽大学理事長であり学長の海老沢敏さんの知遇を得、音楽家の肖像の版画や音楽をテーマとした版画を大学に納入させていただいていたので、その仕入れも兼ねて、1980年頃から、約10年間にわたって、ヨーロッパの美術館行脚の旅に出たのでした。
パリのルーブル美術館は、それまで何度も行っていましたから、絵画部門であれば、何処にどのような絵が掛っているか、だいたいわかるようになっていましたが、最初にどうしても行かなければならないと思ったのは、ロンドンのナショナル・ギャラリーでした。
この美術館はヨーロッパの主要な美術館の中でも比較的近年の19世紀に出来上がった美術館で、学問的に美術史がある程度確立してから、大英帝国の威力で集められたものなのです。したがって、今日定説になっている美術史に沿って、イタリア、ベルギー(フランドル)、オランダ、フランス、ドイツ、スペインと中世末期から、今世紀初頭まで、粒そろいの名作がほぼ完全に網羅され、質が高く、均整がとれたコレクションなのです。
その点、イタリアやドイツなどでは、王様であるとか、時の権力者が自分の好みによって、集められたためかいくらかの地域色があり、偏っている傾向があるのです。それで、私の場合はまず、ロンドンを起点として出発することにしました。何を見るべきかは、その年約1年をかけて、綿密に下調べをして、計画を練り上げました。一回の旅で、20〜30ヶ所の寺院や大小の美術館を見て歩きました。
スニーカーを履き、リュックを担いでの装備でしたが、それでも、毎回のように足にいくつものマメができて、大変な体力の要する激務でありました。どうしても見直す必要のある絵がある場合、連れがあると妥協してしまうので、この旅は必ず独り旅でした。思わぬ事故や危険な体験もしましたが、このようにして、イタリアのフィレンツェ、ローマ、ヴネツィア、ミラノ、北方のベルギー(フランドル)から、オランダ(ネーデルランド)、そしてドイツのフランクフルト、ミュンヘン、オーストリアのウィーン、スペインのマドリッドなど主要な美術館のある都市を旅をして回ったのです。そして、帰りは必ず、ロンドンに舞い戻って、今まで見たものと、ナショナル・ギャラリーの絵の順列に当てはめて見て、絵の内容とか、質的なレベルや傾向を確認していったのです。この時の学習の成果の一部は、雑誌『実業乃富山』昭和62年1月号から平成7年4月号にわたって、8年4ヶ月の100回の連載「名画をたずねて」と題して記述させていただいたのでした。
このヨーロッパの美術館行脚を終えて、率直に感じたのは、やはり、西洋人の油絵などの絵画の文化遺産というのは、たいへんエネルギッシュで、スケールが大きく、宗教や食べ物や風土の違いなのか、その迫力という点では、淡白な日本人の性質では、とてもたちうちのできないものであることがよくわかりました。そのヨーロッパ絵画の中でも、やはり、万能の世紀と呼ばれた盛期ルネサンスのレオナルド・ダビンチやラファエロの時代は人間が絵を描くということについては、人間の能力が最高に発揮された時代であったように思われます。私の好みからいえば、初期ルネサンスのまだ神秘的な霊性を併せもつビエロ・デルラ・フランチェスカやフラ・アンジェリコの時代のものに強く心がひかれたのでした。科学が発達し、写真なども発明されるにしたがって、ある面では、人間の生活に多大な寄与をしているのでしょうが、その反面、逆に使われることの少なくなった能力が次第に劣化してゆくのでしょう。科学が急速に発達した産業革命以後は、印象派や後期印象派などは現代人に大変好まれている絵ですが、私の眼には、人間の絵を描くという能力は、ルネサンス期から見れば、ある面では、急速に低下し、全体的、総合的ではなく、一面的に、分析的に拡散して、観念的になっていったように見えるのです。
じつは、私のこのヨーロッパの美術館行脚のもうひとつの動機は、私の尊敬する画家・版画家である長谷川潔さんのことが、たえず念頭にあったからでした。長谷川さんは大正時代にパリに憧れて、渡仏し、一度も、それ以来日本に帰らないで、20年ほどにパリで亡くなった人です。その長谷川さんが、普通の画家はパリに留学して、その時代の最新の絵画様式を学んで、日本に帰国して、画壇の重要な地位を得るのですが、長谷川さんはまったく、そのような方向ではなく、むしろ、古典的なものに関心の眼を向けられていたのです。それと同時にある時期からは日本の美的感性がいかに優れているかを自覚されるようになり、それらを融合させた独自の様式のすばらしい銅版画をお創りになられました。その長谷川さんが、このヨーロッパのどのような絵に関心を持ち、また、どのようにして、ご自分の様式を創り上げていったのか、そして、ヨーロッパで実際にどのようなレベルで評価されているのか、あるいは、評価されるべきなのか、この眼で確かめて起きたいと思っていたこともあったからでした。
このようなことはすぐに結論づけるわけにはいきませんが、少なくとも、このヨーロッパ美術館行脚によって、イタリア、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、フランス、スペインなどの絵画は、それぞれの独自の特徴があり、それがどのようなものであるか、実際に、この眼でしっかりと確認できたのでした。同時に長谷川潔さんが自覚されていったように、別の観点から見れば、日本の美的感性の素晴らしさというものも、あらためて解ったように思われたのでした。
『私のめぐりあった版画家たち』沖積舎(2000年刊)所収