夢二の版画
わたしは長い間、版画関係の仕事に関わってきたが、近代の創作版画の出発である山本鼎とか織田一麿であるとか、長谷川潔、恩地考四郎などの版画作品はかなりの現物を見たり、画集や関係書籍を調べたりして、きわめて関心が高かったが、どういうわけか、同時代の竹久夢二の版画となると無意識のうちにこれを敬遠してきたような気がする。夢二の版画は主に古書店の間で取引がなされており、銀座の画廊や一流の画商によって美術品として扱われていなかったし、創作版画の主流からはかけ離れており、浮世絵の制作工程を継承しようとした渡辺庄三郎の主導の橋口五葉や伊東深水などの新版画の傾向ともすこし異なっているようにおもえて、いつもわたしの意識からは欠落してしまつていたようである。それと夢二の版画は果たしてオリジナル版画なのか複製版画なのかさえもわたしの頭のなかできちんと整理し、解明していなかったことも夢二の版画を避けてきた原因のひとつであったかもしれない。
しかし今度、朝日町立「ふるさと美術館」収蔵の竹久夢二の作品コレクションをじっくり調査する機会に恵まれ、とくに版画作品を一点一点注意深く見ることができた。
夢二が版画を手掛けることになったのは新聞や雑誌の挿絵からであった。最初の夢二の画集「夢二画集・春の巻」は明治42年に洛陽堂から刊行されている。夢二はその画集の後書きで「女学世界、太陽、中学世界、少女世界から、版木をもらった」と記しているので、それらに使用した木版の挿絵を編成したのであろう。もちろん、そればかりではなく、その画集のために新しく制作したものも少なくなかったはずである。夢二はこのために、いちいち薄い和紙に描いた版下絵を木版の彫師にわたして彫版させていた。できるだけ安い彫師を見つけるために遠くまで、探し歩き、しかも、刷りの校正を監督するために、発行所である洛陽堂の近くに下宿するという熱心さであったといわれている。この「夢二画集・春の巻」は爆発的な大ベスト・セラ−となつた。当時これらの活字の文と木版画を組合わせたものをコマ絵と称していた。後に夢二はこれを「草画」と呼び直している。ふつう草画とは南画などにおいて簡略化した水墨画などで使われる名称であるが、夢二は自分の独創性を主張するために、感覚的に「草画」と呼ばせたかったのであろう。「夢二画集・春の巻」につづいて翌年には「夢二画集・夏の巻」「夢二画集・花の巻」「夢二画集・旅の巻」「夢二画集・秋の巻」「夢二画集・冬の巻」と次々と洛陽堂から刊行される。この事実からこの木版によるコマ絵の画集がいかに好評を博していたかがよくわかる。夢二の版画がその当時の版画家たちと顕著に異なっているのは創作的な版画を追求するというよりも、印刷媒体を通じて広く一般に自己の芸術を如何に伝達するか、そのマス・コミニュケ−ションに興味をもっていたようにおもわれる。版画を手掛ける前には「絵はがき」シリ−ズなども刊行しつづけているから、夢二の版画における取り組み方は印刷媒体の複数性に主眼をおいたものといえるだろう。
しかし夢二の版画のなかで注目すべきものは今回調査にあたった「ふるさと美術館」のコレクションには見当たらなかったが、「港屋」から出版した「小春」「治兵衛」などの作品である。後に精力的に作ることになる「婦人グラフ」の挿画のための木版画は伝統的な浮世絵木版画の技術を利用した、輪郭線を主にしたもので、かなり力量のある彫師にほらせているが、「港屋」のものは輪郭線がなく、すべて色面の構成である。この版画の浮世絵とは異なった近代的木版画の表現様式は最初に山本鼎によって試みられ、下絵を忠実に彫師に彫らせ校正してゆくのではなく版木に直接絵を描くごとく彫版されたもので、南薫造や他の作家たちの作品などにもみられ、やがて木版画による創作版画の主流となってゆくが、棟方志功の木版画に代表されるように民芸風な傾向が強くなっていく。夢二の「港屋」版の色面構成の作品は明らかに創作版画家たちが開発した表現様式の手法を取り入れたものであるが、この種の作品は「港屋」版、「柳屋」版に限られ、その数も少ない。また創作版画家たちのものよりも色彩や形は夢二の方が、はるかに洗練されている。先ほど指摘したように「婦人グラフ」の装画の木版画になると、浮世絵的な制作工程をすすめることになるが、夢二の美的感性からすれば、技術が稚拙で、やぼったい創作版画的なものより洗練された技術を利用する方を選択していったのかもしれない。大正の中頃から夢二の刷りを手がけた平井考一の体験談によると、版下を彫ったのは伊上凡骨で、「夢二はガミガミとどなりつけはしなかったが、ちょっとでも納得のゆかないところがあると何べんでも刷り直しをさせられる。夜通しそばについているなどざらで、色の濃度、密度、バランスなどの勘には、へたな職人などとてもついてゆけるものではなかった。色の材料は日本在来の植物性を主とし、鉱物性のものは絶対に使わせない。だが、黄色はやがてフランスのルフラン製のものに使ったが、平井さんの仕事場に積んであるよその仕事にもていねいに目を通し、少しでも目あたらしいところがあると、その方法を根堀り葉堀りたずね、ふっと出て行ったかと思うと、この色は出ないかと、何か古い裂地をもって来たりする。正直いってもういいかげんで勘弁してもらいたいと思うことも何度かあったが、でき上ってみるとやっぱり夢二が我を通したところがよくなっていて、あらためて感心させられた」と夢二の版画にとりくむ研究熱心さを伝えている。いずれにしても、セノウ楽譜の表紙絵の斬新で魅力的な石版画(リトグラフィ)を見ても夢二は版の特性をよく知っており、それらを効果的に表現した。夢二の版画は版画そのものを深く追求するというよりも、印刷を媒体とする、いわゆるグラフイック・ア−トに、その時代のどの画家よりも強い関心をもっていた。その意味で、その当時、もっとも時代の先を見ていた画家であったのかもしれない。