前田常作さんの版画

                                       魚津章夫

  前田常作さんの版画を初めて私が見ましたのは「人間誕生」というエッチングで、抽象画の銅版画として、めずらしく、とても新鮮な印象を受けました。1963年の制作の作品ですから、おそらく、パリから一時帰国された時におつくりになったもので、たしか、美術家連盟から依頼された作品だとおもいます。そして、これが前田さんの版画の公開された、市販された最初の作品のはずです。また、この作品の刷りには、今やプリンタ−の第一人者となっています木村希八さんが手伝ったとも聞いています。私が版画の仕事にかかわることになったのは、1966年頃からでしたが、私のまわりの版画愛好家の間でも、この作品はすでに評判が高く、たいへん貴重がられていました。
 記録を見ますと、前田さんは、その「人間誕生」の10年前の1953年に、神田の文房堂の主催による「夏期銅版画講習会」で、駒井哲郎さんや浜田知明さんという日本の銅版画の先駆者である、今となっては、二人の大御所から直接指導を受けられていたのです。まだ版画というものが一般に流布されていない時代でしたから、洋画家として、版画をつくろうという意欲のある画家は希であったはずです。この時代の銅版画の習作が5点ほど発見されています。
 また、パリ時代にも、あのミラノの著名な画商シュワルツから依頼を受けて、銅版画の小品を一点制作されていて、こうみてみますと、前田さんはごくはやい時代から版画にたいして興味を持たれ、版画の将来の可能性を見通しておられたことがうかがえるのです。しかし、本当に版画の制作の仕事に取り組まれるのは、1972年からであります。私は前田さんの出身地である
富山県の小さな町の隣町で、ほぼ同郷でしたので、前田さんがフランスから帰朝され、さっそうとして、日本の画壇やジャ−ナリズムに登場され、話題の人気画家として、ご活躍なさっている記事を拝見したりして、特別の、憧れの眼差しで、その動静を見たり聞いたりして、注目いたしておりました。また、ご出品なさった展覧会でもその作品を興味深く拝見させていただいておりました。
 そのような時に、私がある美術関係の出版社の版画の担当になって、はじめにお話した「人間誕生」の銅版画に出会うわけなのですが、その版画の斬新な表現に注目したと同時に、やはり、郷里出身画家ということで、いっそう親近感をもったものです。そして、なにかの集まりの時に直接お会いすることになって、それとなく、版画の制作をおすすめしていたのです。
 そのうちに、しばらくして、わたしが勤務先の出版社の仕事のひとつとして、オリジナル版画集の刊行も手がけることになって、日和崎尊夫木口木版画版画集『薔薇刑』など、数人の版画集を刊行しておりました。その計画路線のなかで、前田さんに10点ぐらいの連作で、シリ−ズの版画集が実現できないものかと本気で考えるようになったのです。そこで私の顧問役である田中邦三さんを連れだって、国立のアトリエまで出かけ交渉にいったものです。そして、そのころ、主に画家のリトグラフを刷っておられた女屋勘左ヱ門さんのところにも、こんどは前田さんをお連れして、いろいろな手順や心得のご指導をお願いしに伺ったりいたしました。
 しかし、この企画は実り
ませんでした。ちょうどそのころは前田さんは絵日記のシリ−ズをお描きになっていた時代で、絵の形や濃淡の色調からみて、版画としてはリトグラフの版種を選ばれたほうがよいのではないかと、その第一人者である女屋さんを紹介したわけですが、なかなか仕事がすすみませんでした。そのうちに、私が独立することになって、その企画も中断しなくてはならなくなったのです。また、前田さんのほうでも作風が変化する時期が来たようで、もうすこしすれば絵の内容がタブロ−(前田さんの場合はアクリル画)と並行して版画としても効果がより発揮できる絵になるので、それまで、待ってほしいといわれました。それで版画を制作していただく話もしばらくは休戦状態でした。

 しかし、すぐに、その機会がやってきました。私が独立して、「Print Art」という版画を紹介する小雑誌を発行して、その発行時に、必ずオリジナルの版画を刊行するという計画を実行することにしたのです。そして、初回は靉嘔さん、次に駒井哲郎、北川民次、菅井汲さんと続けて、5人目に、今度こそは前田さんの版画の制作を実現していただきたいと強くお願いしたのです。今度は、オノサトトシノブさんや靉嘔さんの版画の作品を手がけているプリンタ−の岡部徳三さんに一肌脱いでもらって、シルクスクリ−ンでの版画に挑戦しもらったのでした。その結果、完成したのが「人間波動粒子」という1972年作の版画でした。それこそ、画家と版元と刷師が一体となって実現した作品でありました。その作品は前田さんが言われていたように、絵日記シリ−ズの時代が終わって、まったく新しい画風による点描の時代に入っていたのでした。この版画の実現以来、前田さんの作風は、この点描作品からさらに、次第に、マンダラ図像と、幾何学的な形態が強まってゆくわけですが、それらも版画の仕事を視野に入れて、展開なさっているようにすらおもわれるのです。この「人間波動粒子」以来、前田さんの版画制作の意欲が急に高まり、こんどはそれに付随する印刷や材料などの経費をささえる基盤が必要になってきました。
 こういうこともこの画家の人徳とでもいうのでしょうか、これを解決してくださった支援者がすぐに現れたのです。この方は
富山市で会社を経営なさっておられた社長さんで、もう、すでに10年も前に亡くなられた米屋芳夫さんという方で、前田芸術の理解者で、美術愛好家であると同時に、希に見る有徳人であられました。そして、あっという間に「版友・くろべの会」という版画の頒布組織をつくってくださって、1974年から1980年にかけて、10数点のシルクスクリ−ン、リトグラフ、木版画、銅版画など多様な制作と実験的な試みがなされたのでした。そして、これには、北園プリンテング・スタジオの北園武さん、やがてタマリンド・リトグラフ・ワ−クショップのマスタ−・プリンタ−の資格を取ることになるポテト・プレスの武藤好さんなどの、若いプリンタ−たちもこの版画の刊行に参加、協力してくれたのでした。こうして、前田さんの版画制作の基盤が形成され、その後、コンスタントにその制作が続行されることになったのです。
 1988年には、「西国巡礼」33点の連作シリ−ズの超豪華版画集(新潮社)が完成され、一部180万円のこの版画集があっという間に売り切れたのでした。そして、これまでに制作された版画の作品の総点数も150点以上
にもなって、「前田常作版画作品集」(佼成出版)という版画作品だけの立派な画集が発行されるほどになったのです。                                         

『実業之冨山』1999年8月号初出
『私のめぐりあった版画家たち』(沖積舎刊)より



前田常作の版画(作品の紹介)
   魚津章夫の現代版画コレクション

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