銅版画と私

小林ドンゲ


銅版画という西欧的な文化とは、ほど遠い下町に生まれ育った私にとって、なぜ銅版画を始めたかという問い以前に、なぜ絵画という得体のしれぬ世界に足を踏み入れたかという問いに答えなければならない。
煩雑な商家育ちの私の幼年期は多少の病気でも、二階の子供部屋の床の中で、独りで寝ていなければならなかった。時折女中が薬やカユ等を持って二階に上がってくるだけであった。夕方周囲が暮れはじめる頃、目覚める室内は、薄暗く幼女の私にとって、おそろしく淋しいおもいであった。
 隣室は両親の寝室で、父の
趣味(御茶屋風のつくり)のその部屋には、半床の間があり、色紙に描かれた美人画が掛けてあった。その画は鏑木清方の『浅妻船』の画で、反り身になった胸にかけられた太鼓をうっている姿であった。長いたもとは、抱きしめれば折れてしまいそうな華奢な美しい胴体を支えているように、両方にひろがり、あおむいた顔は、こわれるように白く、細い鼻の下の唇は前歯がチラと見えるように、ばひらかれ、大きな、きれ長の目は遠く遠く一点をみつめているようだった。その美しさは幼い私に淋しさも、こわさも、わすれさせ、闇がその絵を包んでしまうまで、じっと、その部屋にいたのを今でも思い出す。これらの光景は四十年たった現在でも不思議に明確に甦ってくる。そして清方と言う文学を連体とした絵画があたえた幼児期の影響は私にとっては絵画と言う原点にはじめて立った姿なのかもしれない。そしてそれは今日の私の秋成、アラン・ポー、ルドン、ボッシュ等のなかの深淵に手さぐりをつづける私の姿なのかもしれない。
女子美に入学するまで、ピカソもレンブラントも知らなかった私が、クートーの銅版画『カフカの像』を知ったのはもう二十年も前のことだった。暗緑色や青の大きな油絵の作品群の中にポツンとあった小さな黒一色の絵に私はすいよせられていった。それは動物か昆虫か、何か得体の知れぬ胴体に大きなうつろな瞳を持つ病んだカフカの顔が描かれていた。私にとって、運命的と行ってよい銅版画とのつながりが、黒の世界の不思議のとりこになってしまったはじめてのきっかけが病んだカフカとは。
自分の手で銅版画というものを知りたいと思いつめ、関野凖一郎先生の門を訪ねたのもこの頃のことであった。そして私にとって二十年という銅版画との歩みがはじまった。
デューラーの神技ともいえるビュラン刻の極限。レンブラントの崇高なまでの光と影のオーフォルテ。高貴な紫の黒とマラルメを言わしめたルドンの眼に見えない暗闇の黒の世界。これらの天才は私のたどたどしい銅版画の歩みをどれだけ目覚めさせ、甦らせてくれたであろうか。
銅版という硬質な素材をビュランの鋭利な刃で、引きさき、傷つけ、またウドンゲの糸の如く、か細い線を幾重にもれあい、重なり合って、不思議な明暗を作り出す銅版画。これは私の心にかなった何物にも変えがたい表現法だ。私のビュラン刻は私自身の発見した自由な独自の技法だ。そして、そのために私は私の深海魚のように私の冥府の暗闇を深く静かにしずんでゆく。

    『Print Art』第7号(1972年)より
小林ドンゲの銅版画 特選


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