ドンゲとポー

瀬木慎一


 ドンゲとポー。これほどぴったりとした取り合わせは、他に見当たらない。画家はだれも自分の人生的テーマをもつが、ドンゲにおいては、それがポーである。
 こう言うと、ドンゲがポーの追随者であるか、さもなければ、その挿絵画家でもあるようにきこえかねないが、それはまったく違う。
 ドンゲとポーの関係は、文字どおり、空隙のない一体性にある。彼女がポーを描くのは、とりも直さず、自分を描くことであり、従って、自分を純粋に描くことが、同時にポー的であると見えても、すこしも不自然ではないほどに一体的なのである。
 彼女におけるポーは、従って、趣好の問題ではない。趣好の問題ならば、そこに生まれるものは、文学の絵解きでしかないだろう。ポーとの一体性は、彼女という一人の人間にとって、もつとも基本的な人間的感性に根ざす事柄に属し、その点では、彼女ほど、いささかもポー的であろうとする意図なしに、ポー的になりうる人間は類例がない。
 時代と環境を大きく隔てたこの微妙な照応は、なんともふしぎであるが、そのようなことが現実に加納であるのは、恐らく、彼女が、人生のある過程で、いつかポーがかつて見たと同じ世界を見てしまったことにあるとおもえる。
 したがって、ドンゲにおけるポーとは、自己投影の鏡であり、世界認識の表象にほかならない。
 ドンゲのデリケートな多感な線は、ポーのように、世界の崩壊を鋭く感受した稀有な人間によって、はじめて描きうるものであり、その透明な、薄明な、あるいは暗黒な空虚空間は、同じく存在の非存在を深く認識したものによってのみ、生み出しうるものだろう。 世界と存在の本質について、なにかを見てしまった人間は、もはや自分の認識した蔵を忠実に伝達するだけであり、絵を描くことに、いささかも説明を加える必要はない。 ドンゲの版的イメージは、その結果として、驚くべきほど確定的であり、見るものにけっして説明をもとめず、ある種の確証を提示するだけである。すべてが、存在がまさしくそのようなものとしてあるかのような確かさをもって、顕現する。一見して、極度に静謐で、無言な画面だが、それはなにものにも置きかえられない強固なリアリティを以って迫ってくる。 先達、ポーの世界について話し合ったとき、彼女がそこに能の幽明と共通する雰囲気を鋭くかぎあっていたのが、なんとも印象的だった。こういうポーの見方をすることができる人間は、恐ろしい。 とは言え、時空の関係がまつたく定かでないままに、そこに異様な鮮明さを伴って、存在の原像が描出されているドンゲの芸術は、ポー的であり、また能的である以上に、彼女自身のものである。女、鴉、建物、街灯といった、なんの変哲もない一個の硬質の素材を通してかもし出される妖しいまでに毒をふくんだ華麗なそのイメージ、その魅力に、なにをおいてもまずとりつかれないものは、人間としてどうかしている。

小林ドンゲ銅版画集『ポーに捧ぐ』より



小林ドンゲの銅版画(作品の紹介)



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