ビュラン魔

瀬木慎一


 今から20年近い以前のことである。パリとロンドンへ、日本の現代版画を450点持っていって、展示したことがある。その頃は、まだ、日本の版画はよく知られていなかったので、いずれも興味をもって見られたが、そのなかで、人々が一様に驚いた表情をしたのが、小林ドンゲの銅版画だった。当時、日本人で銅版画を作る人が数少ないところへ、ビュランによって、ヨーロッパの作家顔まけの仕事をし、しかも女性というのだから、われらが驚いたのも、無理はない。
 ビュランは言うまでもなく、銅版画の一種であるが、エッチングとはまったく性質を異にする。発生史的に言うと、ヨーロッパの版画は、ビュランに始まって、エッチングやメゾチントに移行していったと見てよく、その意味では、版画の原始的形態と言うことができよう。もちろん、それは、デューラー以後も、
17世紀のベルギー、18世紀のフランスで発展したが、ニードル()のさばきが容易なエッチングと違って、グレィヴァ(ナイフ) の扱いに多くの制約があるために、多くの作家によって敬遠されて、近代においては、多分に、古典的な特殊な技術と見られてきた。
 実際に、ビュランは、自由の利かない技術である。グレィヴァに加える圧力の強弱によって、溝に細大、深浅の差が生じるだけで、濃淡は表現し難く、線は直線に適して、変化を出しにくい。例えば、デューラーは、ビュランの最大の作家であり、多くの傑作を生んでいるが、そのかれも、最後には、エッチングをビュランのなかに取り入れて、折衷をはかっているほどである。 エッチングの全盛時代には、それは、もっぱら複製版画の技術として用いられて、わき道へ追いやられている。そしてこのような歴史的、技術的な結果として、今日でも、ビュランに携わる人は、極めて少ない。日本では、エッチングをやる人さえ少なかったくらいだから、ビュランの作者は皆無と言ってよく、戦後間もなく、小林ドンゲがビュランをはじめようと思ったときにも、教えてくれる人が全然なかったのが実情であった。
 制作に大変時間がかかる、とドンゲは言う。周知のように、深夜族である彼女は、家族が寝しずまった後、独り、銅板に向かって、自家製のグレィヴァをしきりに動かし、無数の線を刻みつけて、朝を迎える。こういう仕事の型は、ビュランという技術そのものが必要とするもののようである。まったく背景も小道具もない灰色の空間に、黒の線だけによって、形象が刻みこまれ、濃密なエロスが生まれ、激烈なドラマが生じる彼女の画面は、夜の魔術が生む驚異であり、衝撃である。 それを白昼の光のしたで、いったん分析的に見ると、すべてが、単純で明確な線による輪郭に還元されて、量感の表現がないに等しいことに、改めて驚く。強い線は、ビュランであり、この上もなく強く引かれ、ただ、やむをえぬデリケートな線のみは最低限度、エッチングを利用して、この上もなくデリケートに引かれ、表現に変化と振幅を与えているが、基本的には、ビュランによる硬質の構成であり、エモーションや装飾の入りこむ余地はない。 ビュランは、若さと力のいる仕事だと、ドンゲは言う。事実、眼がよくなければ、的確な線は引けないし、力がなければ、強い線は彫れない。彼女の彫る強い線は、溝がすこぶる太く深く、インクが盛り上がるほどだ、と言う。
 彼女は過去の巨匠のなかでは、デューラーをもつとも尊敬しているかれは、木版、ビュラン、エッチングとさまざまな技術を利用、開拓したが、なんと言っても、ビュランの仕事がすばらしい、と言う。それは「メランコリア」のような特異な主題が彼女を魅了するためかとおもったが、けっしてそればかりではなく、ビュランの線それ自体が感動的なのだ、と言う。たしかに、1515年あたりを頂点とするこの巨匠の力量は、「アダムとイヴ」、「騎士と死」、「メランコリア」、「どくろのある紋章盾」、「小室の聖ヒロニムス」、「大運命神」などの諸作品にいかんなく示されている。言うまでもなく、それらは、皆、ビュランであ
る。

 なにも、ドンゲをデューラーに比較する必要はないが、彼女のビュランへの専念と徹底を敬意をもってわたしは見守る。とりわけ、今回は、サロメという、本来、妖艶な色彩にみちみちた世界と取りくんでいる。それを一切彩色なしに、線だけで、しかも、腐蝕した柔らかい線を極力抑えて、彫刻したきびしい線によって、反対極から描出しようというのだから、とてつもない野心的な試みである。
 日本人にしては珍しい、などと今更言う必要もない。ビュランによるこの強靭な孤独の制作は、もっと高く評価されるべきだ、とわたしはおもっている。孤独だということは、それだけその作家が独自だということであり、この芸術論理は、今回の仕事で、前にも増して鮮明になった。

小林ドンゲ銅版画集『火の処女・サロメ』より



小林ドンゲの銅版画(作品の紹介)



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