魂の世界を見つめる                                                

                                               魚津章夫

  人間が絵画として表現してきた大きな潮流のひとつに悲劇的でシリアスな画題にうちこんだ画家たちの系譜がある。キリストの受難を主題とした西洋絵画ではずっとそれが主流であったように思う。我々がよく知っているレンブラントなどはその代表格であるだろう。レンブラントは人間の奥底の闇にうごめく精神までも解剖するように光を当てて絵筆であらわに暴いて見せた。人間とは何か、自分を鋭く見つめることでこの執拗な追求を歳を重ねるごとに深めている。生涯描き続けたおびただしい自画像を追っていくと、晩年にはひとりの人間の生き様を刻んだリアルな容姿の変貌に恐ろしいほどの戦慄さえ覚える。人間社会で生きてゆくことの矛盾と葛藤のなかで“何を描くべきか”を真摯な姿勢で絶えず模索をしつづけている藤井武さんもこの系譜に属する画家のひとりである。
藤井さんは温和で優しい人柄であるけれども絵画の追求の足跡を見ると、軽佻浮薄な時代風潮に抗するごとく秘められた情熱と堅固な信念で重くて深い人間の実存の根源を探ろうとしている。この画家の眼は風景、裸婦などの外形的なものから人生の辛酸を重ねる度に厳しく自己の内面に注がれるようになり、近年の「HAZAMA」シリ−ズでは生と死の問題を基調として現象や存在が溶かされたり渦巻いたりしながら不可解な人間の姿態や精神をカオスとして象徴的に描き上げようとしてきた。最近の大作シリ−ズ「ア−ラヤ」ではそれら混沌としたものから対象が次第に明確になって、静謐な深い漆黒の闇の世界から幻のごとく対照的な二つの顔を大きく浮かび上がらせている。それは生と死であり、善と悪であり、美と醜なのだろう。「ア−ラヤ」とは仏教で言う阿頼耶識のことを暗示している。阿頼耶識というのは人間の深層心理で潜在意識のことである。仏教では人間だけではなく、他の動物や植物、無生物にも、あらゆる存在には自己中心的な我執があって、それが迷いを引き起こす根本原因となっている。人間の煩悩もここから発生しており、これを取り除かなければ平安は得られないと教えている。たえず繰り返し戦争を引き起し、残酷な殺戮を重ねている愚かなる人間の悪業をどうすればよいのであろうか。
古くて新しい人類の永遠の難問に藤井さんは生真面目に取り組んで、人間の魂の世界を見つめている。「ア−ラヤ」では悲しき人間の宿命に憂いつつ、心から救いと平安を願って止まないこの画家の深い「祈り」がこめられている。

                                                              2002年12月31日 (藤井武展案内パンフレットより)


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