<ある風景画>との再会                                                  

                                   魚津章夫

 
 昨年の秋、一枚の風景画と再会した。
富山市の某所に所蔵されていた50号程の絵が私の 手元に届いた。再会というのは私が中学生の頃、生家の離れにあった建物の2階の部屋に掛かっていた絵で、ずっとその部屋で寝起きしていて、この絵と共に生活をしていたのである。その6畳の部屋に入ると、右側に大きな窓があって、2枚の障子戸が入っており、その全面を覆い隠すようにその絵が掛けてあった。部屋の正面には床の間があって、いつも墨絵の掛け物が一幅掛かっており、手前には螺鈿のはめこまれた漆塗の置き台の上に古い鉄兜が一つ置かれていて、右側の棚の上には古銭のコレクションを飾ったケ−スがあった。それ以外には私の簡素な机が一つだけで、その小さな部屋ではその風景画はとてつもなく大きく感じられ、朝、目覚めても、机で勉強していても、たえずこの絵と対峙しなければならなかった。  私が高校を卒業して大学に進学することになって上京し、時折、帰省した時はその絵と対面してはいたが、部屋の様子はすっかり見慣れたものであったから、とりたててこの絵に気を留めるということもなかった。この風景画について、祖母からか、兄たちからか、父の弟に絵かきがひとりいて、東京に出て、郷倉千靱という画家に師事していたが、若くして亡くなった、とそれとなく聞いていた。その絵はその叔父の描いた数少ない遺作のひとつで他にも2,3の花鳥の絵が残っていたようである。戦前のことでその叔父にあたる人の正確な名前すら私は知らなかった。
 
私の父と母は私が4歳の時に亡くなった。母は戦時中蔓延していた腸チフスで病死したが、父はそれを知ることなく2ヵ月後にフィリピンのコレヒド−ル島で戦死した。父36歳、母32歳であった。私は4人兄弟の末子であるが、もうひとり弟がいて、戦時中の乳飲み児で、母を失い、満1歳を迎えることなくこの世を去った。したがって、私ども男ばかりの4人兄弟は祖父母に育てられた。家業は下駄屋で、近くの山林で桐の木を買い、それを祖父と父が製造し、祖母と母はお店に出て販売にあたり、昔はけっこう繁盛していたようである。父母が亡くなった後は祖父と長兄、祖母と兄嫁に家業が引き継がれた。父・清一の兄弟も男ばかりで、二男は、今、お話している画家、三男は31歳で戦死、四男は16歳で病死している。わが子を次々と若くして亡くしてしまった祖母の悲しみと苦労は想像を絶するものであったにちがいない。ただひとり生き残った五男の末弟である浩叔父は京都の祇園で古美術商を営んでいて、私たち兄弟の父親代わりとして献身的に世話をしてくれた。これが祖母にとって唯一の救いとなった。私の兄弟の二男の郁夫兄や三男の康夫兄もこの叔父の援助で大学に通った。 今から思えばこの京都の叔父はなかなか目利きの古美術商であったようだ。学歴はなく、尋常小学校しか出ていなかったが読書家で、ある時期には書店も経営していた。短歌を嗜んだり、晩年にはせっせと絵を描いて楽しんでいた。人物はまたユニ−クで、同業者や収集家、画家や芸術家が頻繁に出入りしていた。あまりにも感受性が鋭いためか若い頃から睡眠薬を常用していたし、いつも酒びたりであった。「蜂の巣の子供たち」という映画をつくった映画監督の清水宏さんとは親友で、いずれ叔父をモデルにした映画をつくりたいという話も聞いていたし、ボ−ドレ−ルの「悪の華」の日本で最初の翻訳者で長谷川利行の評伝を書いた矢野文夫さんなども「あなたの叔父さんは目利きで天才だったね」「もうあんな人は出ないね」と口癖であった。
  私が上京して、大学の2年の頃であったか、その京都の叔父から一通の展覧会の案内状が届いた。日本橋三越での「豊秋半次展」の案内状である。会期中に東京に行けそうにないから代理として私に見てこいというのである。豊秋半次さんは郷里出身の画家で京都在住であったが、郷里に帰るたびに私の生家に立ち寄られ、祖母と話し込んでいかれた。偉い絵かきさんだから、学校で描いた絵を見てもらったらどうかと言って、いつもからかわれた子供の頃の記憶がある。その豊秋さんの展覧会の会場である三越に行った。会場にはちょうど本人ひとりで、よく来てくれたとよろこんで下さったが、途中で老紳士が会場に入ってこられた。日本画家の郷倉千靱さんであった。豊秋さんが「あの魚津君の甥っこさんですよ」と私を紹介して下さった。「あっそうですか、あの魚津君の甥ごさんですか。…………しかし、あの時は魚津君はかわいそうなことになってしまったね」と静かに口をひらかれ、何か昔の思い出話をふたりでひそひそとなさっていました。いくらか漏れ聞こえてくる内容では、かなり深刻な話で、郷倉さんに師事していた私の叔父が自ら命を断った事件の話であるらしいことがなんとなくわかってきた。なかでも自殺する前日には夜通しで尺八を吹いていたと世田谷の下宿の大家さんがこの悲しい出来事を語っていたというところが妙に印象深く耳に残っている。祖母からはこのような話は一切家族の中では話されていなかったが、そういえば、子供の頃、夜尺八を吹いて遊んでいると祖母に蛇が出てくるからやめなさいといってひどく叱られたことがあった。この個展会場での豊秋さんと郷倉さんとの話題はかなりショッキングなものであったが、その時はそういう事実があったらしいことの真相が判明しただけで、そのことについてそれ以上知ろうとは思わなかった。
 
それからかなりの時が経過した。昭和49年頃であったか、『日本美術』という主に日本画を紹介する美術雑誌が発行されていた。その第111号に「思い出のアルバム」という欄があり、そこに豊秋半次さんと私の叔父である魚津利雄の二人が写っている写真が掲載されていて、豊秋さんの「夭折の友へ」というエッセイが寄稿されていた。そのエッセイには次のような事が書かれてあった。
「私は絵をやり始めてから芽の出るのが遅く、なにしろ院展に初入選したのは、すでに40歳近くになっていたのです。そのようなことで、若い頃に思い出に残るような写真など案外少なく、でもこの写真は、本当に絵をやろうと決心した頃の、そして、一緒に絵を志した最も親しい、というより、お互いに信じ合った魚津利雄君との写真であり、私は23歳、魚津君は19歳、共に将来の勉強と希望の夢をふくらませていた頃の若き思い出の
写真なのです。が、絵の道は厳しく、この3年後、魚津君は絵と生活に行きづまり、ある朝突然、世田谷の下宿で睡眠薬で自殺をしたのです。悲嘆にくれる母親の姿を目のあたりに見た私は、魚津君に絵の道を勧めたことが悔やまれ、それこそ生涯になきこの大きな衝動、私は言いしれない責任感のようなものが、一生付きまとい、それが長い不遇時代にも絵を止めることができなかった絆の一つでもありました。だが、魚津君を通じて、院展の鈴木孝之君や、今は亡き馬場不二君など数々の友人を知り、やがて院展に出品するようになり、安田先生膝下で勉強をする運命も開いてくれたとも思っております。」
  冒頭に書いた<ある風景画>との再会はこの悲運の夭折の画家魚津利雄の描いた遺作なのである。こともあろうに豊秋さんの発表されたエッセイの雑誌『日本美術』は私が大学時代の一時期東京の下落合で居候をしていた近藤さんという老人が編集のお手伝いをしていた雑誌であり、この風景画の描かれている場所は私が現在居住している付近あたりから見える田畑の景観なのである。また数年前から私は郷里に帰って、朝日町立ふるさと美術館の仕事のお手伝いをしており、昨年の春に「豊秋半次展」を開催する準備のために院展時代に出品された数々の代表作を各地の所蔵先から借用し、集荷して回って、豊秋さんの画業の成果のひとつひとつを直接私がこの目で拝見することになったのである。何かこれらの不思議なめぐり合わせは神の御心の仕業ではないかと感じられてならないのである。
  <ある風景画>が描かれたのは昭和6年(20歳)前後ではないかと思われる。刈り入れが終わった晩秋のこれから冬を迎えるふるさとの田園風景で、孤愁の漂う寂しい絵である。陰影とボリュ−ム感で重厚さを出して遠近法を用いた油絵のようである。しかしこの絵は油彩にキャンバスではなく和紙に岩絵の具で描かれた日本画なのである。おそらく北陸の片田舎から上京して、あまり目にふれることのなかった油絵というものの名作の数々を初めて見て、強烈な刺激を受けて、新しい時代の日本画をつくろうと洋画の手法を取り入れて描き上げたのだろう。最近、この絵と同じ構図で前景のもみ殻がくすぶっている煙のないものの写真が私の生家から出てきた。おそらく、その絵を初めに描き上げたが、あまりにも構図がきっちり決まりすぎて固くて単調に感ぜられ、何か動きのようなものが欲しかったのだろう。やはり、煙を描き加えたもののほうが静けさがいっそう深まって、ずっといい。このことからも、かなり修正を施して苦心を重ねた力作であることがわかる。やや暗い絵ではあるが「底光りのする」ずっしりとした存在感があり、この若さにしては完成度の高い作品であると思う。
  画家を志して上京して、わずか5年間の修行期間であったが、生活苦と闘いながら、若干23歳で自らの命を断たねばならなかったはりつめた精神状態で、ただいい絵を描くことだけに純粋に命を賭けて、血を吐く思いで、精魂をこめてこの絵を完成させたにちがいない。   30数年ぶりにこの絵と対面して、その裏に隠された悲劇的な事情をも知ることになり、しかも私自身もずっとその間、美術関係の仕事をしてきて、いろいろな画家たちの制作現場に立会い、それぞれの芸術に殉じた苦闘の生涯を目の当り見てきて、あらためてこの絵を見ると、重くて深い複雑な感動を覚えるのである。そしてこの絵にまつわる関係をたぐってみると眼には見えない不思議な力の働きと血の流れが私の体にも通じているように感じられてならないのである。                
                        
         『実業乃冨山』初出



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