非色の色
瀬木慎一
「
三千年に一度ということだと、ホモ・サピエンスが地球上に出現してから、まだ十度しか、花を開いていないことになる。
植物学では、しかし、うどんげという植物は実際に存在していて、印度に産する
彫刻銅版画(ビュラン)の画家、小林ドンゲは、この不思議な植物の名を本名として、若い時から活躍している。両親がこの名を与えるに際して、いかなる期待を抱いたかは知らつないが、彼女は、銅版画家となって、主として、古典的な白黒の描線によって、きびしく、表現を抑制しながら、しかも、情念の深い艶麗なヴァンバイヤーたちを描きつづけている。
通常ならば、華美な色彩表現を以ってするこの主題を、彼女は極めて逆説的に扱っているのであるが、この造形の魔性のもたらす効果は強烈であり、その作品は、しばしば、文学的翻案に適しているとさえ見られている。曰く、ポー、ワイルド、上田秋成、堀口大學、辻邦生、小川国夫等々。
もちろん、それは事実であるが、造形的には、彼女の作品は、極度に禁欲的であり、一見すべては、単純な線に還元されている。だが、その線は、異様に深く、強く、作者の感性の戦慄を伝えており、それによって、色彩を不要とし、それを超える三次元的訴求に到達している。
非色の色というべき、彼女独特の造形的世界である。
一言断っておくと、彼女の作品には、若干、筆彩されたものがあるが、これは、右の基本性格に抵触するものではない。
その色彩は、白黒表現に当たって、つねに、作者が内示している色彩(フランス語ではトーンに色彩の意味がある)の視覚的仮象にすぎない。
花は隠れて見えないのが、優曇華の本質である。
「小林ドンゲ回顧展」(1976年 ギャラリー へっどあーと)パンフレットより